好きなチームガンバ大阪


http://yumo1219.exblog.jp/3907532/

 
観戦仲間とミニゲーフラ

↑MAKIサン
にお世話になりダビングしてもらった
優勝DVD

ヤットのところへ連れて行ってもらったベア
DVDの御礼に送ったベアを生観戦に
連れて行ってもらい
なんとヤットに渡してくださった、、、
感謝
優勝祈願
スノウマン








・・・・・2007年までの画像・・・・・
http://www.gamba-osaka.net/game/result2008.html

平井選手プロ初ゴールナビスコマリノス戦 観戦

肝炎再発でヤットさんには会えず・・・
キョンキョンに写真許可もらって撮りました。
グッズの売れ行きを気にかけておられました。
クオリティがいまいちなガチャポンフィギア




 

 

ACL優勝!!!


 

ACLも重なる過密日程
まさかの選手途中離脱、バンとヤットの病による離脱
ガンバはリーグでなかなか調子を上げられません

これは参戦するしかない!
初のホームです、万博浦和戦
ガンバブロガーやちよちさん、ちいまゆさん、
金沢で観戦してお友達になったテッシ父に助けていただき
万博デビュ〜〜〜〜

ヤットがルーカスにデイシャ!ヘディングで得点!勝利!!!!
帰りの駅で試合直後、味方とけんか腰になってしまった生都築をみました〜〜〜

 


ACL優勝杯の前には人だかりが、、、



 



尊敬するヤットさん
淡々と、、飄々と、エロく、エグく、ツンデレで
陰番な遠藤選手

この人なしでも勝てるチームが理想です。
が・・・この人の操る戦いっぷりを堪能させてもらいたい。

両方見たい、、、この人なしとこの人ありとで勝つガンバ・・・
と言うかありなし両方使い分けないと
リーグ優勝とACL2連覇はは不可能です。

 

 


 



 
CWC,マンU戦…ガンバらしい戦い方でした。

 




2009年1月1日天皇杯決勝…柏と

感動でした
選手たちははACL、CWCを戦い抜いてぼろぼろの状態です。

それまで得点から遠ざかっていたバンのゴールで
新たなシーズンを待つことになります。
2008年はガンバファンにとって忘れられない年になるでしょう。


・・・・・2007年までの画像・・・・・










遠藤 保仁
年月日:  1980年 1月 28日
身長:  177 cm
体重:  75 kg
ポジション:  ミッドフィルダー
現所属クラブ:  ガンバ大阪 (JPN)

肝炎からの復活 天皇杯広島戦に感動。












加地 亮
生年月日:  1980年 1月 13日
身長:  175 cm
体重:  67 kg
ポジション:  ディフェンダー
現所属クラブ:  ガンバ大阪 (JPN)
オススメサイト カジオログ



二川 孝弘





















Jリーグ対戦通算成績(2006年シーズン終了時まで)

勝  ち 引き分け 負  け
鹿島アントラーズ 10 4 20
浦和レッズ 12 5 15
大宮アルジャージ 2 0 2
ジェフ千葉 15 3 16
FC東京 7 0 7
川崎フロンターレ 4 1 1
横浜F・マリノス 12 2 20
ヴァンフォーレ甲府 1 0 1
アルビレックス新潟 3 1 2
清水エスパルス 16 2 16
ジュビロ磐田 10 2 18
名古屋グランパスエイト 19 2 13
京都サンガF.C 9 0 7
セレッソ大阪 16 0 8
サンフレッチェ広島 14 2 16
アビスパ福岡 7 2 5
大分トリニータ 4 0 4
合計 161 26 170

歴史

1980年、前身の松下電器産業サッカー部として、
奈良県社会人リーグ2部に加盟登録し、
活動を開始。Jリーグ創設時からの加盟チームの一つであり、
当初は関西で唯一のJリーグクラブだった。

リーグのお荷物と呼ばれた時代

かつての名選手釜本邦茂を監督に据え、
礒貝洋光・本並健治といった人気プレイヤーも抱えていたが、
最下位争いの常連で成績は芳しくなかった。
当時、ガンバは名古屋グランパスエイト・浦和レッドダイヤモンズとともに
リーグのお荷物扱いであり、
ハンス・オフトが日本代表監督を務めていた際には、
Jリーグで唯一代表選手を輩出していなかった。
1994年のナビスコカップでは準決勝で
当時の天敵・ヴェルディ川崎に1-7の記録的大敗を喫し、
川淵三郎Jリーグチェアマンに「ガンバは消えてなくなれ」とまで罵倒された。
更に第2ステージで7連敗を喫すると、
フロントは同年限りで釜本の解雇を決定。

1995年は釜本の後を継いだヘルト監督の下、
第1ステージ序盤には初の首位争いを展開したが、
その後失速して負け続け、8連敗も喫した。
終わってみれば前年以上に悲惨な成績であり、
第2ステージの更なる低迷もあって結局ヘルトは1年で解任となった。

ヨジップ・クゼ監督の初年度となった1996年も、
ヴェルディに4年目で初めて勝利したこと
(この試合は前半にヴェルディに2点先制されたものの、
後半に3点を返し、3-2で大逆転勝ちを納めたという試合だった)
以外ファンを興奮させる出来事はなく、全体的に見ればチーム力は低いままであった。
初の1ステージ制という状況の中、年間成績は初年度から参加の10チームの中で唯一、
4年連続負け越していた(同じくお荷物として扱われていた名古屋グランパスエイトは21勝9敗。
浦和レッズは19勝11敗で勝ち越しており、前年にはすでに躍進していた)。

初の優勝争い、その後の低迷

1997年、カメルーン代表のパトリック・エムボマを獲得。
チームを一人で引っ張り同年得点王に輝いている。
第2ステージにはチームとして当時最高の2位の成績も残し、
初めて年間成績勝ち越しを達成したが、
エムボマに頼りきった戦術は関係者やマスコミから多くの批判を受け、
「エムボマがいないとガンバれない」と揶揄されることも多かった。
事実エムボマがチームを離れるとあっという間に
下位チームに逆戻りとなり、再び暗黒の時代を迎えた。

そんな状況の中、1990年代後半以降上野山信行育成・普及部長らが指導した、
宮本恒靖、稲本潤一、大黒将志などユース出身の選手がトップチームに相次いで昇格していた。
これらが2000年代のガンバの躍進にとって重要な戦力となる。

再び上位チームへ、しかし…

2000年、ガンバは第1ステージにおいて、
低迷するが、
第2ステージでは鹿島アントラーズと久々に優勝争いを繰り広げた。
しかしアントラーズとの天王山で敗れて
優勝の可能性を失うと、最終節ではジュビロ磐田に大敗。

2001年には第1ステージは上位に食い込んだが、
今度は第2ステージで低迷。
2002年シーズンは第1・第2ステージ共に優勝争いに絡むが、
どちらもジュビロとの天王山でことごとく勝てず、
優勝を逃している。
特に第1ステージの対戦では、
一時は2点差を付けながらロスタイムに追いつかれ、
延長で敗北を喫するという結果だった。

延長を廃止した初年度の2003年には、
後半ロスタイムに幾度となく失点する姿が目立ち、
終盤の集中力が幾度となく批判された。
この年は、一時は降格の危機に立たされる羽目に陥ることとなった。
2004年には上位チームに返り咲き、優勝争いに加わるが、
やはり終了間際での失点癖や肝心な試合での黒星が目立ち、
優勝することは出来なかった。

このようにほぼ毎年上位争いに絡むようになったものの、
「終了間際に失点する」「天王山で勝てない」「終盤に失速する」
「調子に波がある」を繰り返し、成長が見られない様子でファン苛立たせていた。
優勝争いに加わったシーズンでも、どちらかのステージでは躍進するが、
もう片方では低迷することが多く、調子に波があることの証明とも言われた。

また、2002年のコンサドーレ札幌や2003年のベガルタ仙台に対してのように、
連敗記録を作っていたチームに久々の白星を与えるパターンも目立った。

13年目の悲願

2005年もリーグ戦、カップ戦とも快進撃を見せるが、
宮本の負傷以後は調子がやや下降。
11月5日に開催されたジェフユナイテッド市原・千葉とのナビスコカップ決勝では、
PK戦に持ち込むがPK職人と言われていた遠藤保仁が外したのが痛く、
4-5で敗れ準優勝に終わる。

リーグ戦でも10月22日の大分トリニータ戦に敗れると、
この試合以降1勝5敗と急激に失速。
下位に低迷していた柏レイソルや大宮アルディージャにも黒星を喫し、
11月26日には、ナビスコ杯で敗れたばかりの千葉に再び1-2で敗れ、
残り1試合の時点でセレッソ大阪に抜かれ2位に後退。
例年通りの結果を思い起こさせる展開で、
多くのファンを失望させた。
しかし最終節の川崎フロンターレ戦に4-2で勝利
勝点1差の首位だったC大阪がFC東京と引き分けたため、
再逆転で悲願の初優勝を勝ち取った。
後半ロスタイム突入直前にC大阪が同点に追いつかれ、
その直後にガンバが駄目押しの4点目を追加、
試合終了前の5分間で形勢が大きく逆転しての劇的な優勝だった
(2005年J1最終節を参照)。

2005年は終わってみると、ガンバが勝点60で優勝。
2位から5位までが勝点59で並ぶというJリーグ史上稀に見る混戦だった。
この結果1993年のJリーグ発足当時の10チーム
1994年までにJリーグに参戦した12チーム)がすべて
何らかの主要タイトル(リーグ戦〔ステージ優勝を含む〕、
ナビスコ杯、天皇杯)を獲得したことになる。
また2位は浦和であり、
Jリーグ創設時は最下位争いをしていた2チームが上位を占め、
逆に創設期に黄金時代を築いたヴェルディのJ2降格が決定するという、
13年前には想像もつかなかった事態が起きた。
それは、ある意味Jリーグが大きく発展したと考えられる出来事でもあった。

優勝決定後、得点王となったアラウージョが2005年限りでの退団を発表、
またチームでアラウージョに次ぐ得点を挙げた大黒将志もフランスへの移籍が決定した。

リーグ戦連覇を目指す2006年は攻撃力の低下が懸念されていたが、
FWでマグノ・アウベス(前大分トリニータ)、播戸竜二(前ヴィッセル神戸)を獲得。
更にMFで元日本代表の明神智和(前柏レイソル)を、
DFでは現日本代表の加地亮(前FC東京)といった
各チームの有力選手の獲得に成功。
マグノ・アウベス、播戸の2人で第33節の時点で
合計41点を叩き出したこともあって
首位・浦和に勝ち点3差の2位につけていたが、
最終節の浦和との直接対決では
マグノ・アウベスの先制弾もむなしく2-3で敗れ、
2連覇は達成できなかった。
さらに2位の川崎フロンターレが勝ったため、3位に転落。
来季のACLの出場権も逃した。
今期は終盤チームの心臓と言ってもおかしくない遠藤の病気欠場が響いた。
遠藤がいれば間違いなく連覇していただろうという意見は多々ある。
遠藤が復帰した天皇杯ではJリーグ加入後初
(前身の松下電器時代を含めると16年ぶり)の決勝進出を果たし、
決勝で再び浦和と対戦も0-1で返り討ちに遭う。
なお2007年春のゼロックス・スーパーカップは、
浦和が決勝に進出した時点で2年連続の対戦が確定している。

意外なようだが、草創期に最下位争いの常連だったにも関わらず、
実際に最下位で終わったことは1度もない
(ただしこれは各ステージでの話であり、
1995年は年間総合成績が最下位だった)。
また現在Jリーグに加入している関西のチームの中では、
1度も降格を経験していない唯一のチームでもある



ガンバ以外で好きな海外選手



リベリイさん
フランク・リベリーFranck Ribery, )は、
フランス出身のサッカー選手
ポジションはミッドフィルダー



ドログバさん
ディディエ・イヴ・ドログバ・テビリー
Didier Yves Drogba Tebily
コートジボワールアビジャン出身の同国代表
FAプレミアリーグチェルシー所属のサッカー選手FW)。
愛称はティト


2006年のガンバアルバム

2007年のガンバアルバム


2008年のガンバアルバム