マンガびとの館
『ありがとう』
(C)山本直樹
(小学館)

山本直樹 +++『ありがとう』(小学館)+++ その1

はじめに

【カンチョ】  え〜、始まりました新企画「マンガミーティング(マンガ会議)」です。
 森山塔、塔山森は高校時代の裏スターでした、マンガびとの館、館長のカンチョです(笑)

 記念すべき第一回目は、 山本直樹『ありがとう』です。
 今回は、まぁ、第1回目ということで、ぼくとマンガびとの館、秘書ケイコロとで語ってみたいと思います。 どうぞよろしく。

 いきなり趣旨説明でなんだかテンションさがるような思いですが(笑)、ぼくは、山本直樹は得意ではない、つーかほとんど読みません。
 だけども、いろいろと語りたいことってのは、人並みにあってですね、でも、自分ひとりでは、ほとんどフォローできないし、不安でもある。
 そこで、いろんなヒトのお知恵を拝借して、つーか尻馬乗っかりでなら、なんとかやれるんじゃないか?

 そんなところの軟弱な精神から来た、イヤな企画です(笑)
 あと、一応ディスカッションといいますか、ヒトに触発されることで、なにか新しい発想が生まれたり、新鮮な視点でものを見ることができたり、などとアグレッシブな意味もありますので、今回ははりきっております。

 ということでケイコロさん、自己紹介をどうぞ。

【ケイコロ】  はじめまして、秘書のケイコロです。
 初めての試みで少し緊張してます。


【カンチョ】  ずいぶん、あっさりとしたご挨拶で(笑)
 まぁ、さっそくはじめますか。



テーマについて

【カンチョ】  基本的には家族愛ですか?ちょっとそのまんまか。
 まぁ、軽いジャブってことで(笑)
 どうですか?

【ケイコロ】  実は、改めてパラパラと読み直しました。
 そうですね。「家族」なんでしょうねぇ。
 急速な核家族化が始まり、そこからいろんなところで「家族」をテーマにしたものが表現されてますよね。
 80年代くらいから。

 それでこれは90年代初期の作品となりますが、その間に「女子高生コンクリート殺人事件」や「ヤマギシ」といった社会問題が起こり、本作品のストーリーの中に組み込んでいます。
 「家族」というのが、どういう形態なのか?
 社会の最小単位である「家族」は成立しないのか?
 旧来の理想の家族像(戦後生まれの)を父親に語らせています。


【カンチョ】  ふんふん、なるほど。

【ケイコロ】  なんだか偽・知識人みたいなことを言ってしまい、恥ずかしくなってきましたが、私はどちらかというと「家族愛」というよりも「隣人愛」に近いのでは?と思ってます。



絵について

【カンチョ】  じゃあ、そろそろ身体もあったまってきたことだし、さっそく絵の話にはいりたいんだけど。
 ウチは、絵の話ができるってことをウリにしたいんで(笑)

 まず山本直樹の絵って、けっこういろんな特徴があると思うんだけど、どうでしょう?

 たとえば、この人はいち早くPCで絵を描きはじめたってことが、ひとつあるでしょ。
 いまは、みんな画像取り込んで描くようになってるけど、この『ありがとう』のときは、そういうヒトはあまりいなかったから比較しようがなかったよね。
 でも、今になって、やっぱりあの頃思ってたことを、あらためて認識せざるを得ないような、そういう気がしてます。
 で、どういうことを思ったかというと、作者と作品の距離感というのかな?
 あるいは、作品にある読者と現実との距離感といってもいい。
 ようするに、このヒトのPCで描いた絵というのは、ドット絵のイメージを残していてひじょうにデジタルな感じがするんですよ。0か1かの。

 以前、ぼくは高橋しんの批評で「PCで描いたハーフトーンが、グラデーションを緻密にしていて、そのことが、やわらかさを演出している」と書いたんだけど、今のCGってこんな感じでしょ?とにかくハーフトーンがどんどん緻密になっていく。
 だけども、山本直樹の場合は、まったく逆だと思っていいでしょう。
ハーフトーンすらもドット絵のイメージに変換していることで、ある種、なんつーのかな?  硬さがあるっつーか、突き放して見ようとしているように感じるんだわ。

【ケイコロ】  うん。山本直樹の描くお話の現実感とデジタルとマッチングしてると思います。
 今の社会ってね、とても均質化されていますよね、とくに地方都市なんか。
 同じような町並みが続き、貧富の差はなくなり、食糧事情による美醜の格差がなくなってます。
 そうした均質化、薄められた平等と言い換えてもいいかもしれないけど、それが80年代くらいからのリアリティだと思います。このお話の家族は、同じ規格の住まいが立ち並ぶある住宅に住んでますが、この家はここにあるという決定的事実を覆い隠すように描いています。

 例えば、風景・町並みひとつとっても出てくるのは、デニーズであったり住宅街であったり、日本全国どこにでもある風景。
 高橋しんの「最終兵器・・」とは全く別の世界を描こうとしてないですか?
 高橋の方では、彼女と彼氏の半径3キロメートル以内のリアルを追求しようとしてますが、「ありがとう」の方では日本によくある街のどこか、という非常にあいまいな世界ですよね。


【カンチョ】  あぁ、なるほど。そういや建売住宅だわ。
 たしかに意図的に描いてるなぁ。
 この場合では、デジタル的な手法やイメージを「均質化」のアイロニーにしているわけですよね。  そう考えると、何から何まで、ずいぶん考えて創りこんでますね。
 すごい。

【ケイコロ】  ホントきっちり仕事してますね。こうしてみると。
 肉薄したタッチで描くのではなく、PCを通すことで現実感にフィルターをかけているのではないでしょうか?
 存在感のあいまいさを描くには、絵柄はぴったりだと思います。
 一歩引いた視点で、現実を捉えている様子ですね。
 エッチシーンもそんなにエロく感じさせないと思うんですけど。
 その視点が主人公である女の子のリアリティでもあると思います。


【カンチョ】  えぇと、その距離感というか、引いた視点でものをみる主人公の女の子ですが、その場合のリアリティっていうのは、ようするに傍観者なわけですよね。少なくともぼくら読者はそう認識している。彼女はあきらかに傍観者であって、家庭内でとんでもないデキゴトが(ほんと、とんでもなさすぎですが)起こっていても、どこか覚めたというか、他人事にしか感じとれないような浮遊した感覚があって、それはパニックのためにそうなったわけではなくて、とにかく世界は自分以外のところにあるといった、世間との距離感を問題にしている。

 それは特に、今の若い世代、すなわちぼくらの世代以降のこと(笑)だろうけど、共通する感覚といえますね、これは。

【ケイコロ】  いや〜(笑)、もう少し上の世代も引っかかってると思いますよ。
 今の30代から40代くらいまで広げましょう。
 ぼくらの世代移行と限定すると、ぼくらという言葉も恥ずかしいんですけど、軟弱世代ってことを声を大にしていってるみたいで。事実そうなんですけどね。


【カンチョ】  恥ずかしいっすか。
 すみません、ちょっと言ってみたかっただけです(笑)
 はなしを戻しますと、そういった傍観者的な世界の切りとり方のリアリティってことだ、というのはよくわかりますよ。うん。「ディス・リアリティのリアリティ」(そんな言葉ないけど)という感じ。  なるほど、わかった(笑)

 実はぼくは、ひとつ腑に落ちないシーンがあったんだけど、1巻で主人公の貴子ちゃんが、もう、家の中も外もわやくちゃになって、どうしようもなくなって、警察を呼ぶってところがあるんだけど、なんか、「らしくない」感じがしたんですよ。
 その理由がわかりました。、彼女はずっと我関せずの傍観者でいたわけでしょ?それこそ自分の身にふりかかっていてもなお。なのに、なんであのシーンだけは、社会的な行動にでたんだろう?という疑問だったんですね。

【ケイコロ】  宮崎勤の事件思い出して欲しいんですけど。
 これも説明した方がいいのかな? オタクが起こした80年代を代表する事件・幼女連続誘拐殺人事件のことです。
 逮捕され初公判の際の有名な供述があります。「全体を通してなんか夢の中でやったような感じがしている」というもの。これはオタク階級に非常なリアリティを感じさせた言葉だと思いますし、オタクでない人にも伝わるはずだと思ってます。

 話が飛びますが、この事件以降「多重人格」ブームが巻き起こりました。俗に言う「本当の私」探しが始まるわけです。そしてその後、兵庫の事件が起こりました。犯人の少年は自分のことを「透明な存在」と言います。

 なぜ、この二つの事件を言ったかと言いますと、現代の日本人が感じていると思われる現実との距離を語っていると考えたわけなんですけど。

 なんか堅苦しいこと書いてます? わたし?
 ついてきてもらってるんでしょうか。心配になってきました。
 というわけで、結論としては貴子ちゃんのキャラなんですけど、非常に現代の青少年を感じさせる設定になっていると思われます。


【カンチョ】  はは。そんなことないでしょ。
 かえってベタベタすぎて心配です(笑)
 よく文化人や学者なんかが、自分の専門領域からみるマンガ論なんか展開していて、ヒジョーに腹立たしく思ったりします。マンガメディア陵辱系の批評ですね。
 なんか、それになってないかが心配ですよ。
 あぁ、すみません。
 話を戻しましょう。

【ケイコロ】  いいですか?(笑)
 これは、深読みかもしれないんですけど、貴子ちゃんはその後不良グループに自らついていき、ロストバージンをするわけですが、自らというのがポイントなんではないでしょうか?
 さっきのカンチョの腑に落ちないシーンというのは、傍観者に火の粉が飛んできて思いっきり払ったということですよね。「やっぱり熱いんじゃないか!」と。

 次の展開では、貴子ちゃんも既に火の子をかぶっているという事実(=オナニーシーンの写真がばら撒かれる)という事態になります。どうせ熱いのなら飛び込んでしまえと、なんとも若者らしい行動ですが、不良少年について行きます。
傍観者から当事者に変化したことを貴子ちゃん自身が気づき、行動をおこしているところが現代の日本人を感じさせるキャラといっても、病んでいない精神の持ち主だなぁと感じさせます。


【カンチョ】  あぁ、それはちょっと違う。
 ぼくが言ったのは、「やっぱり熱いじゃない!」と火の粉を振り払ったように見えたので「おかしい」と思っていたってことで、ホントはそうじゃなかったのね、っていうことがわかったんですよ。ぼくがね。
 で、あれは何だったかというと、彼女ははじめから傍観者ではなかったわけです。

 つまり、危険だから遠巻きに眺めているんじゃなくて、距離を保ってはいるが、彼女もれっきとした当事者なんです。
 だから、不良少年についていった。それは当事者として自分の居場所はココではない、きっとどこかにあるはずだってことで。
 まぁ、今言ってて、そのへんの解釈はどうでもよくなってきましたけど。
 なんかなさけなくって(笑)

【ケイコロ】  そうですね。自分で書いておきながら、いやんなっちゃった。
 この辺でワイドショー的見地から、いいかげん離れましょう。


つづく
2000/06/20


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