| マンガびとの館 | |||||||||||
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| ■河合克敏 +++『帯をギュっとね!』(小学館)+++ その1 | |||||||||||
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□ごあいさつ これは、2000年8月23日から同年9月11日までに、帯ギュ掲示板で書き込まれたログを、まとめたものです。 あまりに長い討論となったため、【前半】【前半まとめ】【後半】と3部構成にしました。 なお、ここでまとめるにあたって、以下の点、遵守いたしました。
また、変更部分として、
●重要と思われる発言個所のフォント指定を変更する。 ●文をなるべくみやすくするため、適宜改行を行う。 ●レスのタイトルは省略したが、一部本文と関連のあるものは本文冒頭に書き入れた。 ●あきらかな誤字、脱字を修正する。 ●文中の「」を適宜、削除する。 ●レスを時系列に沿って、上から下という流れで収録する。 ●一部、管理者が必要と判断したものには図版をつけた。 ●一部、管理者の注釈を挿入。 ●メールアドレス、URLを削除。 それではお楽しみください。 □会議参加者(敬称略・50音順)
□その1 ●もぐたん 投稿日 : 2000年8月23日<水>04時37分 帯ギュはかなり好きな作品ですね。 僕は柔道は人並みにしか解らなかったんですがそんなこと全く気にならなかったです。 なんというかこれ柔道モノだけど柔道を描きたいんじゃないと言うか他に描きたいものが実はあったというか。 その「描きたいもの」の題材というのの一つの選択として柔道を選んだというように僕には取れる漫画なんです。 で、その描きたいテーマというのが「楽しく行こうぜ!」っていう事。 辛い練習もみんなでやれば楽しいぜ!一緒に何でも楽しんじゃおうぜっ!っていう。 だから登場人物の楽しそうな描写には本当に共感して一緒に楽しんじゃったし 「そこ」がこの作品の狙いなんだったような気がするんです、僕。 ●るっちょり 投稿日 : 2000年8月23日<水>13時14分 私は巧が好きになれないで苦労したよ〜〜〜。 信号無視しておいて「怪我がなかっただけ有難いと思え」だの 会場まで送ってもらった人に「サンキューおっさん」だの、 およそ柔道=武道やってる人間の言動とは思えなかったもので。 で、そのキャラで通して次第に礼節を知っていくのかと思いきや いつのまにかなあなあで中心になってるし。
>柔道モノだけど柔道を描きたいんじゃないと言うか他に描きたい>ものが実はあったというか。 ・・・というより、連載当初に「俺はこういう話を描きたいんだ」っていう 明確なヴィジョンが無くて(楽しくやろう、というメッセージは分かるが、 それだけではドラマにならないということもあって)、次第に次第に 方向性が見えていった・・・ような印象でしたね。 試行錯誤というのか、過渡期というのか。全体を通すとちょっと 「ホテルカリフォルニア」なみにイントロ長いぜって感じ。 その分、後半はボルテージが高くて良かったと思います。 ●aoyama 投稿日 : 2000年8月23日<水>18時30分 > 私は巧が好きになれないで苦労したよ〜〜〜。 主人公が好きになれなくても、 他にお気に入りのキャラを見つけて、作品全体のファンになれるところが 「帯ギュ」の良いところですね。 「柔道部物語」「YAWARA」「花丸伝」といった他の柔道マンガでは、 こういった現象は起こらないように思います。 (サッカーやバスケといった集団競技なら兎も角) 他の柔道マンガを「ソロの歌手」とするなら、「帯ギュ」はいわば「モー娘。」。 個性的なキャラクターを山ほど出してきて、 これだけいりゃ、一人ぐらいはお気に入りが見付かるでしょ、 という印象があります。 他の柔道マンガに比べた時、 作中における主人公の比重が小さくなって、 代わりに脇役の動向が細かくかき込まれていますが、 それがあるから脇役にファンがついたのか、 脇役についたファンへのサービスとしてそうなったのか、 どっちなんでしょう? ●るっちょり 投稿日 : 2000年8月23日<水>20時38分 >他にお気に入りのキャラを見つけて 斉藤くんが好き♪ 斉藤くんとのカラミでようやく巧も主人公らしくなったしね。 ●wat 投稿日 : 2000年8月24日<木>00時19分 えー、るっちょりさん、ちょっと質問。 >・・・というより、連載当初に「俺はこういう話を描きたいんだ」 >っていう明確なヴィジョンが無くて(楽しくやろう、 >というメッセージは分かるが、それだけではドラマにならない >ということもあって)、次第に次第に方向性が見えていった・・・ >ような印象でしたね。 うーん、どんなところがそう感じました?
僕は、描きたい題材としての柔道と、書きたいテーマとしての仲間の
2つとも、最初から見えていた気がするので……まあ「柔道」は当然ですが、「仲間」の方は1巻P76で龍子先生が、「仲良し グループ一号」と云っていますよね? これは球技のように、「みんなで強くなっていくんだよ」っていうことを示唆して いると思うんです。 僕は後半ボルテージが高くなったように感じるのは、単純に「こなれてきた」 という事ではないかと思うんです。何せ初連載ですし。 ●もぐたん 投稿日 : 2000年8月24日<木>01時16分 >他の柔道マンガを「ソロの歌手」とするなら、 >「帯ギュ」はいわば「モー娘。」。 いやこれは言い得て妙な意見ですね! それはたぶん河合さんは「個人柔道」を描きたかったんじゃないからなんではないでしょうか? 河合さんが描きたかったのは「みんなでやる柔道」なんだと思うんですよ。 個人戦ではなく団体戦を描きたかったと。 何故かというとその集団で練習や試合を行うという行為に「楽しさ」を見いだせるから。 必要があって集団をえがいていたと思うんです。 モー娘の集団でいるときの雰囲気的長所もみんなでなんか楽しそうなところでしょう?(建前上(笑) それは必要に応じた集団構成なんだと思うんですよ。好きな人のニーズに応えたと言ったらよいかな? 確かに選ぶ事の出来るという利点もあるんですが漫画上で集団を描くことの最大の利点というのは 物語に複雑な関係を作り出し作者の伝えたいメッセージをより如実に現せるということがあると思うんです。 だから >他の柔道マンガに比べた時、 >作中における主人公の比重が小さくなって、 >代わりに脇役の動向が細かくかき込まれていますが、 >それがあるから脇役にファンがついたのか、 >脇役についたファンへのサービスとしてそうなったのか、 >どっちなんでしょう?。 これは「どちらも」といえるのでは? 物語として描きたいテーマが楽しさであったためより細かな脇役の設定 ・・・・言い換えればリアルな生活感が必要になりそれがさらにファンの心を掴み、 その結果もっと細やかな設定を、と要求してくるというニーズに答えていった結果だと思います。 ってなんかこの作品のテーマが「楽しさ」だと決めつけているようなカキコで申し訳ないですが(笑) あと僕は主人公の影が薄く感じると言うのにはちゃんと理由があると思うんですが・・・それはまた次の機会で(笑) ●るっちょり 投稿日 : 2000年8月24日<木>02時03分 >うーん、どんなところがそう感じました? 多分、その主人公のキャラ設定の不安定さ(ガラの悪い少年だったはずなのに いつのまにかニコニコちゃんになってる)が大きいと思います。主人公の登場 シーンっていうと、やっぱりその印象をいかにアピールするかっていうこと でもある(「つかみ」ということ)と思っているので・・・。 最初から「楽しい楽しい」だけならば何もあんな登場しなくてもいい訳で、 むしろ麻理ちゃんみたいな底抜けのキャラで出てきてくれれば分かり易い と思うんですよね。平ちゃんと対戦する時だって、負けられない理由 を全面に出して戦う相手に対して、「もっと楽しくやろうぜ」だけでは お客さんは納得しない(するかも?)。たとえばここで巧サイドの負けられ ない理由(亡くなった父親を超えたいとかなんとか)があってそれを保奈美 ちゃんが「巧くん、口には出さないけど○○なの」とか教えてくれたりすると 「巧ってこんなヤツなんだ」っていう印象が深くなると思うんですが・・・。 うまく言えないですが、バックボーンが感じられないまま「楽しくやろう」 って言ったってうすっぺらにしか感じられないということ。 なぜ楽しくやりたいのか。 これが描いてあれば、作品にもう少し奥行きが出たと思います。 ●his 投稿日 : 2000年8月24日<木>04時59分 >平ちゃんと対戦する時だって、「負けられない」理由 >を全面に出して戦う相手に対して、「もっと楽しくやろうぜ」 なるほど、実に示唆的な例ですね。 でも、これはこう見るといんじゃない? まずこの「帯ギュ」って80年代後半から90年代前半にかけて連載された作品ですよね。 単行本みると週刊少年サンデー平成元年1・2合併号で新連載が始まってます。 つまり、マンガ史的にみれば、ラブコメの終焉というか「ポスト・ラブコメ」時代の 先駆け的作品なわけですよ。 そろそろ、サンデーのラブコメ戦略も下火になってきて、ラブコメそのものではないもの、 ラブコメのテイストや地盤は受け継がれつつも、それだけに収まらないような作品なども、 ちらほら出てきた頃です。 それこそ『TO−Y』とか。 洗練されててオシャレな感じで、その意味ラブコメマンガの築いてきたものを、 一見周到してるように見えるかもしれないが、 実は、テーマそのものに関していえば「恋愛」の枠を越えたような作品がでてきた。 まさに「帯ギュ」もラブコメ後の作品ですよね。 まぁ、このあたりのことは、きっとwatさんがくわしいだろうし、間違ってれば後で フォローしてくれると信じて(笑)はしょりますが。 ともかく、なにが言いたいかといえば、70年代のスポ根モノの一方の極として、ある意味 アンチで登場したラブコメマンガが、まず「スポ根」の価値観とはまったく別の世界を 提示したわけです。 そのラブコメの役割というか、意味には実は「スポ根」の提示する価値観そのものに対しては 反論していないんですよ。ただ「こういうのもアリでしょ?」と、別の価値観を提示するのみに おわっている。もちろん、それが有効だったわけだけど。 結局「スポ根」モノのパブリックイメージそのものの価値観は論破されず、依然として残されていてね。 で、次になにをするかといえば、「スポ根」モノで提示された「スポーツへの取り組み」に対しての 提言でしょう。 「帯ギュ」は明らかにその路線だと思います。 たとえばえ〜と、まぁ、わざわざ書くのも恥ずかしいですが(^^; 「スポーツ」=「根性」=「苦労」=「尊い」=「強い」とかのステロタイプな価値観がまずあって、 その「スポーツへの価値観」の否定というかね。 河合克敏の考える、この時代の中学、高校生のスポーツへの取り組みとあきらかにギャップがあるわけですよ。 たとえ「スポーツ」=「根性」であっても=「楽しい」=「強い」ということだって ありうるし、むしろそっちのほうが、自然ではないか、と。
たとえば、「餃子耳は根性でなく、医学で治療しろ」とか「うさぎとびは疲労骨折をおこす」とか
かつての無知蒙昧なスポーツ科学へ批判を加えたりとかしてるわけだし、
その意味で、ご指摘の負けられない理由つまり「背負っているものの大きさが
大きいほど強い」とかの設定で描かれたマンガでも、それはそれでおもしろいかもしれないけども、
少なくとも河合克敏の考える「柔道」はそうではない、ということがよくわかるように
対比でみせているエピソードなわけです。それがついに花開くのは、例の評判の「斎藤と浜高柔道部の決裂」エピソードですよね。 ●もぐたん 投稿日 : 2000年8月24日<木>05時47分 漫画の主人公はたいていの場合何らかの「理由」があって「行動」に結びつけるんですよね。 それが「父親の敵」とか「友の復讐」とか。・・・イメージが貧相で申し訳ないんですが(笑)。 そこで「普通の現実の高校生」を考えてみる。 するとそこには部活を始めるバックボーンと言うものはそんなに強く存在しないと思うんですよ。 柔道をする理由も桜子がしはじめたときみたいに「しょうがなく」であったりとかミッタンみたいに「友達がやってたから」とか。 それは今の学生から見たら非常にリアルなんだと思うんです。 柔道をやっている理由が読者にとって明確でないというところがこの漫画の新しくかつ面白いところであると思います。 それはhisさんの言うとおり学生(読者)のリアルさの感じ方の変化という時代の流れに乗ったものだったんでしょう。 巧のキャラがあまり自己主張していないというのもここに理由があると思うんですよ。 読者の体現なんですね巧は。 読者を物語に入り込みやすくするために、あえてキャラを付けないという方式で漫画を描いている。 これは実に危険な試みであると言わざるをえない。 なぜならキャラ付けとバックボーンはきちんと在った方が漫画としては成立しやすいからなんです。 その一つの例が「はじめの一歩」。 一歩はその目的を「強さとは何か」というものを追い求めるということで固定し読者の共感を呼ぶという事に成功しています。 これは漫画というものが基本的に主人公の人生の追体験で成立しているということに起因しているのではと思います。 強烈なバックボーンを初めから与えることで読者の共感を得るという手法。これは漫画の王道ですね。 しかし帯ギュではそれとは別の試みを試す方を取った。これは勇気がいると思いますよー。 なぜなら読者が付いてくるかどうか分からない。理由付けがない分キャラが立ってないから。 そこで取ったのがあの過剰なまでの特殊ゲストの出演をギャグ的に演出するという手法なのではないかと。 とりあえず読者の興味はその実在キャラギャグを通じて作品世界に惹かれていきますから。そうしたらもう河合さんの狙いどおりであると。 確かに僕も帯ギュの導入部には河合さんの試行錯誤的なものは感じます。 しかしそれは漫画というものを描き出すときに今まで良く取られていた「手法」を一度ぶっ壊して、 全く新しい試みでえがくために起こったことだと感じています。 バックボーンのない漫画主人公。これが帯ギュキャラの魅力の一つだとそう思います。 そして漫画世界内部で少しずつ創られていくバックボーン。 それがhisさんのいう「斎藤と浜高柔道部の決裂エピソード」に結びついて行っている、と思います。 後半が盛り上がった理由、それは物語の進展と共に主人公達が自ら戦う理由を勝ち取っていったからではないでしょうか? ●his 投稿日 : 2000年8月24日<木>06時14分 >巧のキャラがあまり自己主張していないというのもここに >理由があると思うんですよ。 >「読者の体現」なんですね巧は。 >読者を物語に入り込みやすくするために「あえて」キャラを >付けないという「方式」で漫画を描いている。 >これは実に危険な試みであると言わざるをえない。 危険かどうかは置いといて(笑) ぼくもそう思いますね。 そもそも、この手の手法って、別にめずらしくもなんともなくって、 まぁ、よくある手法ですよ。 有名な話で『ドラゴンクエスト』(以下DQ)と『ファイナルファンタジー』(以下FF) どっちがいいかって話がありましてね。 「DQ」「FF」というのはファミコン時代から、日本のRPGゲームをリードしてきた 二本柱なんですが、どこが決定的にちがっているかというと、「DQ」は、主人公の名前が プレイヤーで、「FF」は名前は最初からきまているんですよ。 さらに「DQ」では主人公のセリフはいっさいでてこない。対して「FF」では主人公も ペラペラしゃべってしまう。「オレ生き方はこのままでいいのかぁー!」とか悩んだり(笑) これはちゃんと両作品の作者自身が、ずっと言っていることですが、「DQ」はプレイヤ ーが主人公なんだ、「FF」は映画のようなゲームなんだ、と。 マンガの「DQ型」だったら、まぁ、例えばなにがあるかな?『ナニワ金融道』とかがそうか。 灰原くんが「DQ」型の主人公ですよね。灰原の目を通して追体験するって感じの。 ともかく、強力に立ったキャラが物語を牽引する方法論か、主人公を読者に見立てて、 世界観を追体験させていくか、そういう手法の相違にすぎないでしょう。 ともかく、どちらも両立するし、またどちらが正しいかの問題でもないし、 どちらが一般的か、でもないでしょう。 でも、どっちかっていうと、「DQ型」のほうがはやりかもしれないなぁ。 インタラクティブってことで(笑) ●wat 投稿日 : 2000年8月24日<木>15時31分 もぐたんさんのいうリアルについてなんですけれど、全く同感です。 hisさんもおっしゃっているように、当時の『サンデー』はまさに「脱・ラブコメ」に躍起になっていた感じがします。そして、それはつい最近まで続いていた。 藤田和日郎・村枝賢一・久米田康二の諸先生など当時の「若手」が「純粋な ラブコメではない作品」を描いていましたよね。もちろん『TO−Y』や『パト レイバー』、『YAIBA』などもそうで、いずれも『ジャンプ』『マガジン』 との差異を出すために「スポ根色」は出さず、また従来の『サンデー』の イメージを払拭すべく「ラブコメ色」をうすめる、という非常にどっちつかずの 路線を模索していたような気がします。 しかし、ウリをなくしてしまったために、逆に内容をとにかく充実させた。 そのため、このころの『サンデー』には、結果的に名作が多くなったんじゃない かと思います。 現在はまた違っています。『DANDOH!』や『烈火の炎』などスポ根への 回帰を示唆しているものや『サラダデイズ』などこてこてのラブコメも登場 していますから。 そういう意味で、当時の『サンデー』からは実体験に即した一種独特のリア リズムが生まれたんじゃないかと思います。題材もキャラクターも派手さは全く ない。しかし、より読者に身近な体験を提供する。 確かに、夢はありません。だから少年誌としては適切ではなかったのかも しれませんね。むしろ、もう少し上の年代向けの作品が結果的に多くなって しまったわけです。 もちろん『帯ギュ』もそうです。ただ、僕はこの「ニュー・リアリズム」という 流れをもっと評価してもいいと思っているので、結果的に『帯ギュ』も評価が 高くなるのかもしれません。 ただ、るっちょりさんの指摘する、巧のキャラクターの整合性については、確かに 問題が多いと思います。もぐたんさん、hisさんがおっしゃっているように 確かに巧の情報量は少ない。それゆえに限られた「情報」は精巧であらねば ならないのに、ここにやや破綻が見られてしまっています。つまり、ミス自体は たいしたものではなくても、その箇所が重要な部分であっただけに目立って しまったということでしょう。
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