マンガびとの館
『帯をギュっとね!』
(C)河合克敏
(小学館)

河合克敏 +++『帯をギュっとね!』(小学館)+++ その3

その3

●もぐたん 投稿日 : 2000年8月26日<土>00時46分

>ところでサンデーの連載方針ってどんなものなんでしょう?

 これは僕帯ギュを語るときにもの凄く重要なことだと思いますねー!
 僕が思うにサンデー、というか小学館の漫画には一つの方向性があって、 それは物語とは一つの大きな流れであるという考え方なんではないかと。
 つまりですね、物語というのは1シーン1シーンがその一部分のためだけにあるのではなくって 大局的に見てその各シ−ンがつながって初めて物語として成立するんですよね。
 それをよっく分かってると思うんです、小学館って。

 物語の作り方がすごく丁寧。少なくとも一時期のジャンプのような打ち切りという物がないから 作品も安心してイントロをじっくり創ることが出来ると思うんです。
 だから帯ギュも「ああいうイントロ」が成立していると思うんですね。
 ゆっくりしたイントロと言えばいいかな?
 それはイントロ部分だけを見たときに導入が速くないと言う弱点が在るんですが 完結した作品を観るとそこが「逆に良い」という事になってると思うんですよ。

 たぶん帯ギュは大まかなストーリー展開というのは河合さんの中には在ったと思います。
 ただそれを「いつだすか」ということだけで。
 そこがこの漫画がサンデーでやっていたということの有利な点ですね。
 もしジャンプでやっていたらもっと違った冒頭導入になっていたのは間違いないでしょうから。
 もちろんそれが良いとか悪いとかではなく今回の帯ギュでは作品作りに「合っていた」のではないかということですね。
 斉藤とみんなの意識の差というのはあそこで初めて出てきたんだけどそこには唐突さよりもある種の必然性が感じられませんか?
 こいつならこういうだろうな、という。
 それは何度も言っているようにそこまでの過程があるから僕らが読んだときに自然に感じるんであって そこに至るまでの「ゆっくりしたイントロ」があるから。
 そしてそれは河合さんが初めからある程度こういう展開を考えていてストーリーを進めてきたから感じると。
 さらにそういう風にストーリーを進めることが出来たのはサンデーという物語を丁寧に作ることの出来るという 「土壌」がきちんとあったから。そう思います。
 つまりは全部つながってるんですよ、要因が。
 だから僕は帯ギュにはすごいサンデーチックさを感じてしまうんですよねー。

 ところで「久留間先輩」。
 実は僕もhisさんに言われるまでほんとに鳴ってると思ってました(笑)。
 改めて読み返すと確かに効果音じゃなくって「そういうギャグ」ですね(笑)。


●wat 投稿日 : 2000年8月26日<土>00時54分

 るっちょりさんの、
>巧の場合は、自分が初対面の警察の人に向かって「サンキュー、おっさん」と
>発言しているにもかかわらず、機動隊の猛者たちから「こいつら」って
>呼ばれて「初対面でこいつらだって」と言っている。
>なんか不自然な感じしないですか?巧には、こういう「不自然さ」がつきまとって
>いるように思えてならない、と言っているのです。

と言う点。僕はおっしゃるとおりだと思います。具体的に指摘していただくまで まったく気づかなかった。
 そういう細かいミスは確かに巧に集中しているかも知れません。

>まあ「それが最近の高校生のリアリズム」って言われたらお終いですけど。
 そう、そういう解釈もあると思います。
 ただ、僕はそうはとらない。やっぱりるっちょりさんの云うように、はっきりした ミスだと思います。

 なるほど、「パロディ論」は面白いですね。
 ただ、僕は「オビ4コマ」を本編と関連づけるのは反対です。同様に河合先生の あとがきを必要以上に注目するのも反対。
 あくまで作品の批評をするにあたって、批評の対象となるのは作品自体であって 作家ではないはず。作品を読んで様々な解釈を考察するのは大切なことですが、 作家の過去や性格からその制作方法を考察するのは、「類推」ではなく「邪推」 ではないかと思います。
 なぜなら読み手は作家自身の情報を断片的にしかしらないから。全てを知らない のに全てを知っているかのように書かねばならぬ批評は、不遜であると。
 作品は、それ自体で完成品です。完成品でないとすれば、それは作家や出版社の 手抜きであるか、元々倫理観がないかのどちらかです。完全でないものを文化 作品として有償で提供しているわけですから。
 また、いわゆる「裏設定」というものがありますが、あれもナンセンスです。 作品の中で十分に表現しきってないのならば、それは作者の「いいわけ」に すぎない。

 というわけで、hisさんの意見は考え方としては面白いですが、僕は賛成は できません。同様にるっちょりさんの「作者の父親」を持ち出すのも反対。



●his 投稿日 : 2000年8月26日<土>02時27分

>ところで「久留間先輩」。
>実は僕もhisさんに言われるまでほんとに鳴ってると思ってました(笑)。
>改めて読み返すと確かに「効果音」じゃなくって「そういうギャグ」ですね(笑)。
>いやぁ気付かなかったわっ。えへへ。


 いや、ホントになってますよ。
 すれ違った人に聞こえてます。
 でも、たぶん久留間先輩はゲタをはいても「ピュポ」とか なるんでしょうね(笑)。

あと、一般的に
●サンデー「作家主義」
●マガジン「原作主義」
●ジャンプ「人気主義」
といわれてますね。


●るっちょり 投稿日 : 2000年8月26日<土>03時08分

>同様にるっちょりさんの「作者の父親」を持ち出すのも反対。
 私が持ち出しているのは巧の父親!!!
 なんか写真持ってお母さんが応援に来たでしょ?あれっす、アレ。
 そういえば後書きにもあったような気がしますが・・・。
 投稿が途切れてるので誤解させてしまったようですが、下のヤツと つなげて読んで頂ければ分かると思います。
 ごめんなさい〜〜〜〜。

 私はひとつの作品について言う時なるべく「その作品の中だけで」 考えるようにしているつもりです。他作家のの作品と比べたりとか あまりしたくないと思っている。同一作家の前後関係はありかも。


●aoyama 投稿日 : 2000年8月26日<土>04時38分

 主人公「粉川巧」の性格付けについて、 「こなれていない」といった批判が続出しています。
 確かに人格という点では、不整合な点が多々見受けられます。
しかし私の見るところ、主人公「粉川巧」は、 作者からの国技「柔道」というか、 日本的体育会系部活動に対する批判の擬人化、 という点で首尾一貫していると思います。

 例えば冒頭の「粗暴な少年」は、
「柔道は礼に始まり礼に終わる」という伝統認識に対する疑念

 途中の「楽しい柔道の探求」は、
「厳しい修行と勝利至上主義」に対するアンチテーゼ

 機動隊に「初対面でこいつらだって?」とムッとするのは、
「体育会系の先輩後輩ののり」に対する不快感

なわけです。
 「粉川巧」は、作者が「体育会系武道」に対して抱いているそうした諸々の不満を、作者に代わって一手に代弁しているわけです。現実の人間というのは、よほど明確な理念に基づいて厳しく律している人間以外は、その時々の気分で言うことや考えは変化するものです。「粉川巧」の不整合性は、一個の人間である作者自身の不整合を反映したものに過ぎません。

 主人公「粉川巧」というキャラクターは、個性的な脇役キャラと比較したとき、兎に角「たっていない」というか、「こなれていない」というか、「かきこまれていない」わけです。それについて、読者が感情移入しやすい「DQ」方式をとっているからという分析もありましたが、私は主人公「粉川巧」が、作者自身の写し身であるからだと思います。

 脇役キャラは作り込まれた被創造物であるがゆえに、個性的であり、整合性が保持されていますが、その分、現実感に乏しい如何にも「漫画的」なキャラです。しかし「粉川巧」は作者自身の投影であるために、曖昧であり、揺らぎが残っていますが、みょうにリアルです。

 それが後輩が出来て、後輩の視点から粉川巧が把握されるようになると、 作者と「粉川巧」の乖離が進み、結果、「巧」の性格がすっきり整理されて、キャラが立ち始めるような気がします。その成果が「モンキーターン」の主人公に集約されていくのでないでしょうか。


●もぐたん 投稿日 : 2000年8月26日<土>07時46分

 いやその通りだと思いますです。確かにそういえばほとんどのところで整合性が見られますね。
 その説で言うと巧は他のキャラとは違うところに立っていると言うことになりますね。
 物語の中にいる他のキャラとは「役目」が違うと。いや全くその通りだと思いますよー!
 僕は今まで何回も巧は読者の体現なんだと言っていましたが、その考え方の方が自然ですね。
 「読者の体現かつ作者の代弁者」か。なるほどぉ。

 確かに巧は破天荒な部分がありますよね。従来の柔道家ではない。というかなろうとしてない。
 それは作者が本当に魅せたいところが柔道の試合ではなく、そこを超えたところだからなんですよね。
 だから柔道漫画の様でいて微妙に「こりゃただの柔道物とは違うんじゃないか?」という感覚を受ける。

 しかし。そこがいい。
 それは巧が特殊なキャラであると共にみんなの理想の体現だからなんでしょうね。
 楽しくたって強くなれる!という理想。それはアスリートだけではなく生きていく全ての事での「理想」ですから。
 「楽しく生きてこうぜ!」「何をやるにしても楽しまなきゃ生きてて損だよ!」っていう作者のメッセージの代弁者。
 それが主人公である巧の役割なんですね。だから「特殊」であると。
 aoyamaさんのカキコは僕そう取れました。言いたいこと間違ったたらゴメンナサイね。

 あとwatさんやるっちょりさんから「整合性がないからこれはミス」と言う意見が出ていますがこれは僕はすこうし違いますね。
 整合性が無くっても一向に構わないと思います。漫画のキャラって。
 普通の人間が生きていたっていつも同じ人格でいられるわけではないと思うんですが。それは整合性がないですよね?
 でも僕らは「自分」として生きているじゃないですか?整合性がないことが「ミス」とは直結しないのでは?
 それが冒頭であったから「違和感を感じる」というのは僕も在るんですよ。
 でも「ミス」かというとちょっと違うんですね僕の場合。
 その違和感はキャラにとってそんなに大したことではないと思うんです。


●るっちょり 投稿日 : 2000年8月26日<土>10時27分

>楽しくたって強くなれる!という理想。
 それは分かるんだけれど、どうもそれが言葉だけで表現されているようで、 (「うへえ俺ならこんなふうに出来ないよ」くらいのことを 巧が嬉々としてやってるシーンとかがあまり描かれてない) 実感として「コイツ楽しんでる!」というふうに思えてこないところが ある・・・というのは私だけかも知れませんね。

>例えば冒頭の「粗暴な少年」は、
>「柔道は礼に始まり礼に終わる」という伝統認識に対する疑念、

 「礼」なんて無意味だ、いらない、ということじゃないですよね?
 「柔道やってるからってみんながみんなそんなに礼儀正しい訳じゃ ないよ〜」という意味ですよね?

>途中の「楽しい柔道の探求」は、
>「厳しい修行と勝利至上主義」に対するアンチテーゼ、

 これは分かる。

>「整合性がないからこれはミス」
と言っている訳ではなくて、それゆえに作者自身がこの連載のなかで 「試行錯誤」していたんではないかな、という印象を抱いたということ です。

>整合性が無くっても一向に構わないと思います。
>漫画のキャラって

 迷いながら成長して行く主人公、というのもあるし、それはそれで 充分読者の共感を得るものだと思います。
 みんながみんな強く理想をもって生きていける訳じゃない。
 でもこの作品の場合、巧は「周囲の意識を変える」ほどの確信犯な 訳だから、もうちょっとキャラが強くてもいいんじゃないかな、と。
 私が抱いている「違和感」とはようするにそういうことです。
 あと、「礼」についてなんですが、機動隊の穂とに対していつのまにか 敬語になってますよね。やっぱり読んでいてほっとしますね、こっちの 方が。自分にとっては目上の人には敬語というのが自然ですから。


●his 投稿日 : 2000年8月26日<土>11時40分

 たぶんね、リアリティって言葉は、まぁことわりもなく、フツウにつかいますが、 これって、実はそう汎用性のある言葉じゃないんだと思うんですよ。
 そもそもひとが「リアリティを感じる」というのは、まさに「感じる」ものであって 一般的ではない。
 あまり内容を正確に伝えにくい言葉なわけですよ。
 それを前提に書きますが、  まずマンガでも何でもいいんだけど、物語に接するとき、2通りの接し方があると思うんですね。

 まず【フィクションとして捉えて楽しむ】場合と、
 【現実に置き換えるなど、自分の過去経験、知識等と照らし合わせて読み解く】場合ですね。

 で「これはお話なんだ」と思えれば、たぶん、道徳的なことや倫理的なことって ぜんぜん気にならないんでしょう。
 るっちょりさんが「北斗」が好きだったりするようにね。
 でも、たぶん、なにかのスイッチがあるんだと思うんだけど、それがなにかわからないし、 それこそ、人それぞれにいろんなスイッチがあるだろうけど、まぁ、  どこかで「物語を自分の身に置き換えて読み解いてしまう」ことがあるんです。
 るっちょりさんの場合「帯ギュ」はまさにそれでね。
 「お話」として読んでいれば、べつに気にならないハズなんですよ。
 あの程度の矛盾とか非道徳的な言動とか。(余談:そういえばスラムダンクはどうでしょう?)
 でも、どっかでスイッチがはいっちゃったんですね、きっと。

 そうなると「自分のまわりにこんな高校生がいたら許せない」とか、 現実に置き換えてみてしまう。
 そのへんが、ぼくなんかとの意見が食い違った原因でしょうね。

 まぁ、なにが言いたいかといえば「リアリティ」という概念って 完全に「読み手の経験、知識」に支えられているものであって、 みんなにとって、同じではない、ということですね。
 でも、実際に「リアリティ」という言葉はあるし、フツウに使います。
 そういう時は正確にいえば「おそらくこの感覚は一般的だろう」という 「推論」にすぎないわけです。
 そういうときに使う。それをどうやって判断するかといえば やっぱり「個人の経験、知識等」で、ですがね(笑)

 最後に、まぁ、カミングアウトしておけば、実はぼくも第1話は気になりましたよ。
 「なに?コイツ」って(笑)おんなじようにね。
 でも、指摘しないのは、現実に置き換えた場合の個人的な違和感であって、 作品そのものには、関係ないな、と思ったから。
 「いや、その違和感は作品として致命的だ」という意見もアリかも しれませんが、それはぼくは賛成しない。
 例の完成度ということを、どうとらえるかの問題になりますが 「フィクションとしての矛盾や非整合性」でもって作品を総括しないから。
 まぁ「フィクションとして」だけの話なら、べつに事実の指摘だし それでかまいませんが「作品として」なら話は別です。
 マンガの魅力はシナリオだけが生み出すものではないから。


 ちょっとはなしがそれましたが、もぐたんがいう「サンデー」で掲載されたことの 意味、ということについて、
 一般的に
●サンデー「作家主義」
●マガジン「原作主義」
●ジャンプ「人気主義」


 と、ぼくは書きましたが、別の表現に変えるとこうなります。
●サンデー「トキワ荘系」
●マガジン「赤本劇画系」
●ジャンプ「新人発掘系」


 こっちのほうがわかりやすいですね。
 ようするにサンデーはトキワ荘系作家から始まっていて、いまもその伝統があるようです。 まぁ、イメージ的に、ですが。
 で、トキワ荘系って、基本的に「子どものため」の作品を意図的につくってきた 人たちなわけで、テーマの傾向として「比較的身近な問題」を扱っている、という感じかな?
 モチーフやジャンルはSFだったり、まぁ、いろいろあるでしょうが テーマはわりと子どもたちの経験、知識で置き換えやすいものを選んでいくという感じでしょう。
 そしてその傾向は少年誌3誌においての比較にすぎないですが、サンデーが一番強いんじゃないですかね。
 たぶん。

 もしそうだとすると、フィクションとして描かれていても自分の身に置き換えて 読みやすい作品傾向にある、という感じもしますね。

 もちろん、この傾向に今もあるかどうかは知りませんし、あくまでも「傾向として」の話なので 例外は多々ありますが。
 少なくとも「帯ギュ」は、この点からも「自分の身に置き換え系」の作品といえるかもしれない。
 で、そこからも読者の自己投影型の主人公だろう、とも言えそう。

 あと、
>日本的体育会系部活動に対する批判の擬人化、という点で首尾一貫していると思います。
 これは、なるほど〜。
 そういやそうですね。
 この指摘は気付きませんでした。おっしゃる通りですね(^^


●るっちょり 投稿日 : 2000年8月26日<土>14時50分

>(余談:そういえばスラムダンクはどうでしょう?)
 花道が安西先生に無礼な態度を取ると必ずミッチーが「やめんか」と言うから OK。そして安西先生は花道にどう言われようと自分は丁寧な言葉使いで接して いるのがいいですね。

>どこかで「物語を自分の身に置き換えて読み解いてしまう」ことがあるんです。
>るっちょりさんの場合「帯ギュ」はまさにそれでね。
>「お話」として読んでいれば、べつに気にならないハズなんですよ


 これはちょっと違いますね・・・。
 「お話」として読んだ場合、「作りこみが足りないような気がする」 と言っているつもりなんですが・・・。
 巧がどんな人間であっても、「巧としての存在感」が強ければいい訳 なんです。
 で、この点については、
>>「目的」というのは生きていく上で初めからあるもの
>>ではなくだんだんと「出来てくる」物なんだと思うんです。
>>帯ギュは「その過程」も楽しめる。
>こりゃ納得です。
>ではこの件に関しては以上ってことで。

ということで納得しています。

>日本的体育会系部活動に対する批判の擬人化、という点で
>首尾一貫していると思います。


 ところがそれを納得させるために描くべき「悪しき習慣」にはあまり触れて ないのですよね・・・。
 だから巧の言動が薄っぺらに見えてしまう。
 また「礼に始まり礼に終る」という伝統認識、これは何ら疑念を抱くべき ものではない、むしろこれからも守っていくべきものと思っていますが、 そのへんもやはり私個人の希望でしかないんでしょうかねえ。
 ちょっと寂しいことです。

 ですから私としては、麻理ちゃん入部を転機に「帯ギュ」の 作品世界が一気に盛り上がってきたように思います。
 天才・麻理ちゃんのスコーンと突きぬけたキャラで爽快感を得、 柔道初心者・桜子とともに「柔道の面白さ」を追体験を得ることが 出来ました。


●his 投稿日 : 2000年8月26日<土>19時36分

 巧に関しては 「個人的には巧の存在感が、もっとあるとよかったな〜。」って ことなんですね。
 で、たとえば、どういう話だったら 自分的に納得できるだろうか、と考えたら以下のようだった、と。

>ところがそれを納得させるために描くべき「悪しき習慣」には
>あまり触れてないのですよね・・・。
>だから巧の言動が薄っぺらに見えてしまう。

なので、
>また「礼に始まり礼に終る」という伝統認識、これは
>何ら疑念を抱くべきものではない、むしろこれからも
>守っていくべきものと思っています

 巧がこうだったら「薄っぺらくない」んですかねぇ。
そうじゃないんですよね。きっと。

 つまり、まとめると3つのことを言ってます。
@主人公のキャラクター性が強いマンガがいい
Aストーリに矛盾(違和感)を感じる
B武道は礼儀作法を重んじて欲しい


 このうち、Aはもぐたんの意見で納得した、と。
 で、ぼくは@、Bについて書いて見ましたが、まぁ、それは別に いいです。

 せっかく麻里ちゃんや桜子のはなしもでてきましたし ここらでそろそろキャラのファントークで、すこし リフレッシュしますか。


●るっちょり 投稿日 : 2000年8月26日<土>20時37分

 1は個人的な好みの問題でしょうね〜。

 3はその通りです。軽んじていい理由はないでしょう?

 でも、機動隊の人たちにはちゃんと敬語使ってたんで、 「今時の高校生ってあんなもんかな」で納得。
 (ただし指導者にくらいはもうちょっとケジメが欲しいですかねえ。 楽しくやることと馴れ合うことは違うので・・・)

 でも最近は本当にそういう教育されていないようですよね。
 ということはあれも教育現場の「等身大」ということなのでしょう。

 とりあえず今回は「まりちゃんはいい!」とだけ言っておきます♪


●his 投稿日 : 2000年8月27日<日>01時46分

 えーと、@〜Bはどれも別問題なのに、未整理のままごちゃまぜに 書かれているので、読んでる方としてはわかりづらいということと、 @、Bは感想ですね。

 ということです。おっしゃるとおり、
>1は個人的な好みの問題でしょうね〜。
 Bについても感想ですし、個人個人で重んじてたらそれでいいんじゃない でしょうかね?


●yang 投稿日 : 2000年8月27日<日>13時46分

 とりあえずマンガ論を受けて・・・
 「マンガ夜話」で『タッチ』の主人公がそれまでのスポ根路線を 「疲れる」で否定したのが、その後のスポーツマンガの主流を 決定づけた例がありますが、
    ジャンプ=電車の網棚
    マガジン=ラーメン屋
    サンデー=アニ研
と比較されるように「帯ギュ」の視点は体育会系より、 文化系部活のノリ、ぶっちゃけた話「あ〜る」の光画部と同じ。
 だから武道精神論はそんなに大事ではない。
 それと巧の存在が薄いのもゆうきまさみ〜踊る大捜査線に受け継がれる、 一歩引いた視点といえるのかな?熱血はいや〜んという(笑)
 ただヒーローは強くあるべき、というしがらみからは逃れられなかったよう。

 あまり作品が雑誌のモノという形は好ましくない・・・けど 『ベルセルク』や『陰陽師』の連載雑誌を知っている人の割合はどれくらい?
ということ。

 藤田くんがどんどん人間っぽくなるのがいいのさっ。


●his 投稿日 : 2000年8月28日<月>01時03分

>ジャンプ=電車の網棚
>マガジン=ラーメン屋
>サンデー=アニ研

 そういえば、その形容もありましたね。
 印象として、皆、
>一歩引いた視点
を感じるみたいですね。もちろん、ぼくもそうです。
 ハイソな感じとかね。

 ひょっとしたらyangさんも(年代が)近いのかもしれないけど 世代的な読み方の違いってのはあるし、 いままでの会議の流れをみても「帯ギュ」への 全体の印象として、世代間の感覚差が 出てきてるようにも思います。


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□オタヨリ:【 mangabito@anet.ne.jp
□書くのが面倒なひとはコチラで。
 簡単アンケートです。

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