マンガびとの館
『帯をギュっとね!』
(C)河合克敏
(小学館)

河合克敏 +++『帯をギュっとね!』(小学館)+++ その5

その4

●ケイコロ 投稿日 : 2000年8月28日<月>21時20分

 帯ギュの絵ってどうっすか? サンデーらしいといえばサンデーらしいし。最初はやはり、80年代らしい絵だったよね。
 オノマトベもそうだし、特に風景のコマなんか、その当時流行っていたイラストレーター・鈴木英人とかわたせせいぞうとかの描き方だったりするよね。巻が進むごとにそういった、風景描写がなくなっていくわけだけど、最初はそういう80年代の明るい雰囲気をだしたかったのかな?

 あと、巧意外の登場人物の描き方が大友系だったりして、でもどんどんいい意味でマンガの記号らしく変化してますよね。表現形式に迷いがないというか・・・。


●his 投稿日 : 2000年8月28日<月>21時21分

 なんか、いろんなモノを取り入れようとはしてるね。
 新人らしく(笑)
 そもそも上條淳士の弟子だったみたいだから、絵の系統はソッチ系だな。
はじめのころは、輪郭を縁取りしたりして、デザイン的に処理しようという意識が だいぶん高いでしょ。
 オノマトペに写植をつかってみたり、とか。
 まぁ、べつにどれも「独特」とは言わないけど、そういうものを選んだってことではあるからね。

 表紙の絵にしてもそうだけど「線」を非常に整理して描くよね。
 上條淳士とくらべてもしょうがないから、もうよすけど、 立体を立体らしく描く、というよりは、あきらかにデザイン系の切り取り方だなぁ。
 切り取り方ってのは、世界感とか、その作品全体のイメージのことなんだけど、 格闘技ものって、荒めのタッチが多いでしょ。

 「強さ」とか「勢い」とか、そういうイメージを出すのなら、「オリャー!」って感じで ガシガシ描いていった方が絶対有利なんだけど、この人の絵の努力の仕方って 明らかに従来の「スポ根」とかに代表される、格闘系の作品の手法を ぜんぜん使わないで、デザイン系の「静的な世界観」が売りのマンガの手法に どれだけ近づけていくかってやり方してる。
 これはけっこう異質だなぁ、と思った。
 『タッチ』は偉大だったか(笑)
 まぁ、『タッチ』よりもっとデザイン処理のイメージが強いけど。


●ケイコロ 投稿日 : 2000年8月28日<月>21時21分

 そうだよね。写植とか輪郭線をズラすとかやってますもんね。
 1巻の第3話では、写植が多用されている回なんですけど、その中で、動きのあるシーン(P69)では「ドドドドド」ってオノマトペを手描きではなくってわざわざ写植にしてますよね。
 あと、輪郭線をズラして運動を表現しているシーンはね、たとえば2巻の175P、4コマ目を見てください。ちょっとまだ、なれていない、というかたぶんはじめて使ったシーンなので、ちょっとわかりにくいかもしれないけど、「ドカ」っとタックルされた振動を動線ではなくって、輪郭線をわざわざ2重にズラして描いているんですよ。
 それでですね、これらのことから考えると、河合さんって、従来の格闘技マンガで使われるような、ペンや筆の筆致の勢いを利用した「激しさ」とか「強さ」の表現をあえて避けてるんだな〜と思うわけなんです。

 あとー、気付いたんですけど、1巻121Pの5コマ目。藤田に巧が道端で投げられるシーンとか、あと2巻60P、3コマ目で、佐鳴高校との合同練習の話のところ、とかなんですが、これ、どちらも「投げられた」ってことを表現しているシーン ですよね。
 手法としては、あえて「投げられた瞬間」を描かず、主体をそらして描いてる。
 1巻の方は、巧の視点で見た絵で、2巻は投げられたシーンを見ている人たちの絵。
 こういう手法自体はよくあるんですけど、ここで思ったのは、柔道で「投げる瞬間」のシーンって「激しい」わけじゃないですか?
 そのシーンを描かないんですよ。
 しかも、あえて意図して「ズドン!」とか激しい「音」を、手描きじゃなくて「写植」で見せてる。  これは河合さんが、いかに「激しさ」とかの、格闘技につき物のイメージを拒否しているかっていう姿勢が感じられるんですけど。

  



●his 投稿日 : 2000年8月28日<月>21時22分

 なるほどねー。
 そういえば、そう。

 河合克敏の初期の絵って、いろんな人の影響が読み取れるって書いたけど、たとえば師匠の上條淳士とか 大友とか、あと吉田秋生とかね。
 で、これは別に「似てるねー」ってだけの話じゃないんですよ。
 まぁ、大友の影響を受けたあとの吉田秋生なんかを含めて、ひとまとめにして、ここでは「大友系」と言うことにしますが、大友や上條がマンガ史において、何をした人か、といえばね「運動を動線をつかわずに、コマの分節で表現しはじめた」人たちなんですよね。
 もちろん、方法論を決定的に創り上げてしまったのは、大友が始祖で、上條はその手法を発展させていった人、という位置付けになりますけど。あと、あだち充とかも、そうかな。

 んで、河合克敏も、モロにその影響を受けているってことですよね。
 オノマトペを写植でやるとか、動線を描かないとか、動線の代わりに輪郭線をズラしてみせる、とかね。
 結果的にそれが成功したかどうかは別として、ぼくが一番びっくりしたのは、 「この手法をつかって、格闘技を描こうとした人が現われた」ってことなんですよ。
 大友はまだ描線の「手描き感」というか、フリーハンドの生のニュアンスって、残しているし、むしろ、それもちゃんと利用してるんですよね。
 だけども上條淳士はそれも拒否して、デザイン的に処理して「手」のにおいを消す方向にドンドン向かっていった人で。
 河合克敏もその直系なわけでしょ。
 その直系の人が、その手法で「格闘技」なんて、ある意味ドロくさいもん(笑)を描こうと思う時代になったんだなぁー、と。
 それが、なんかね。感慨深いというか。
 「マンガの進歩とは、実に偉大なものだなぁ」って思いましたよ(笑)

 特になにか目新しいことをやった人ではないけど、こういう手法でアベレージのものというか、スタンダートな作品と、言われるようなものを創ってしまった、ということに感動しましたねー。


●るっちょり 投稿日 : 2000年8月29日<火>02時11分

>明らかに従来の「スポ根」とかに代表される、格闘系の作品の手法を
>ぜんぜん使わないで


 ヒサナガさんのこの部分を読んで、私がストーリー面でずっと「違和感」 を抱いていた部分をどう表現したら良かったか分かりました。
(これはヒサナガさんが絵について述べてる部分だけど、ストーリーでも 同じことがいえるんですよね。aoyamaさんが指摘してくれた当時はうかつ にも気づかなかったんですが・・・申し訳ないですaoyamaさん。)
 「帯ギュ」全体が、作画にしろストーリーにしろ「従来の概念」の逆を いこうとした実験的作品だったんですね?(←今ごろ気づく)

 こういった数々の試みを自分は「試行錯誤」と思っていたんだなあ。 ほんとは確信犯だったんですね。


●his 投稿日 : 2000年8月29日<火>03時11分

 ところで
>「帯ギュ」全体が、作画にしろストーリーにしろ「従来の概念」の逆を
>いこうとした実験的作品だったんですね?


 これは「実験的」という言葉を、どうとらえるかによりますが ぼくは実験的作品ではないと思っています。
 これまで格闘技マンガに、あまり使われていないような表現が 利用、引用されてますので、この点で「実験」というなら そうかもしれませんが、おそらく、河合克敏にとっても 「実験」という意識はないように思われます。

 例としては、あまり具体的ではありませんが、
>「従来の概念」の逆をいこうとした実験的作品だった
のではない理由として
    ●オノマトペに写植を使う(図版左『TO-Y』)
    ●動線のかわりに輪郭線をズラす(図版右『AKIRA』)
などの表現は、河合以前にも、いくらでもあります。
大友にしろ、上條にしろ、やってます。



   で、話を戻しますと、むしろ、大友、上條あたりが発展させてきた 新しい手法が、いかに汎用性をもちうるか、という 話です。
 ちょっと語弊はありますが、わかりやすく言えば 「実験的だった手法が、河合克敏がデビューするころには もう、実験の域を越えて、汎用化してしまった」という 感じです。

 それが
>特になにか目新しいことをやった人ではないけど、こういう手法で
>アベレージのものというか、スタンダートな作品と、言われるような
>ものを創ってしまった

この部分です。

 なので、るっちょりさんが、なぜ「試行錯誤」と表現しているのかは これまでの文で、ぼくはちょっとよくわかりませんが、 比較的新しく開拓された手法(80年代後半)を ごく一般的なものとして利用している点については たしかに「確信犯」ではあります。
 しかしるっちょりさんのいう「確信犯」いうのは おそらくは、「河合克敏が、あまり一般的でない 手法をある種実験的に取り入れ、既成概念を自覚的に 砕こうとする試み」という意味ではないでしょうか?
 これについては上述したように、違うと思います。


●もぐたん 投稿日 : 2000年8月29日<火>06時35分

 僕は第一話が始まったときにパッと見て「ああサンデーちっくだなぁ」と思いましたね。
 hisさんとケイコロさんが言ってるとおり『TO-Y』の影響があったからでしょうね。
 ああいう絵と言えば僕は当時サンデーの専売だと思ってましたから(実際は違うんですが(笑))。

 僕が本格的に読み始めたのが暁泉が出てきたあたりからなんですが その時に「面白い書き方する人だなぁ」と思ったのを覚えてます。
 何が面白いかというとhisさんが言っているオノマトペや静による動表現もそうなんですが 一番すごいと思ったのが「どこが動いているかはっきりと解る」ことなんですね。僕の場合。
 「手」「腕」「脚」「身体」・・・・それら「部分」に”だけ”流線を付ける手法。
 これにより「今動いてるのはどこか」と言うのがはっきり分かるんですね。
 しかもそれが背景の流線と連動しているから「全体の動き」もきちんと分かる。
 これは動きを表すときに非常に上手く働くと思うんです。「無駄」がない。だから理に適っている。
 これは僕は河合さんが柔道経験者で「動きの流れ」を知っているが故に出来たことなんじゃないかと思っています。
 絵によるリアルな柔道動作の描写が本当に上手いと思いますねぇ。


●るっちょり 投稿日 : 2000年8月29日<火>12時13分

>●オノマトペに写植を使う
>●動線のかわりに輪郭線をズラす
>などの表現は、河合以前にも、いくらでもあります。


 そういう作品がいくらでもあるのは知っているので、絵に関して は本当になんとも思ってないのです。これはスゴイとか。
 「この人はこういう絵柄なんだな、こういう美意識なんだな」という ことくらいで・・・深く考えたことがありません。
 ですからお2人の説明で、「そういう意図で描かれてたのか〜!」と 感心した次第です。

 え〜と、「絵について説明されたことをストーリーに当てはめて 考えると、なるほどと思えるところがある」というのが前回の 投稿の主旨でしたが、テーマが「絵」なので、場違いだった かも知れません。すいませんでした。
 ちょっとだけ説明させて下さい。

>これまで格闘技マンガに、あまり使われていないような表現が
>利用、引用されてますので、この点で「実験」というなら
>そうかもしれませんが、おそらく、河合克敏にとっても
>「実験」という意識はないように思われます。


 たとえば従来のスポーツものによくある「熱血」「挫折」「葛藤」 「対立」(これはちょっと出て来た)など、読者が主人公に肩入れ しやすい手法をかなり意識的に排除していると思います。
 意識的に、というのは、教室で真剣に話そうとしている人物の後ろ で、走りまわるクラスメイトを描くことで「深刻」さを排除しよう としている部分などがあるのでそう感じました。
(何巻の何ページか探し出せなくてスミマセン。)

 「これで読者がどこまでついてくるか」といった空気を随所に 感じるので、これはそういう実験(もぐたんのいう「危険な賭け」) でもあるのかな、と感じました。

>絵によるリアルな柔道動作の描写が本当に上手いと思いますねぇ。 非常に「分かり易い」ですよね。
すーっと映像になって頭に入る感じです。


●yang 投稿日 : 2000年8月29日<火>13時04分

>こういう手法自体はよくあるんですけど、ここで思ったのは、
>柔道で「投げる瞬間」のシーンって「激しい」わけじゃないですか?
>そのシーンを描かないんですよ。
>しかも、あえて意図して「ズドン!」とか激しい「音」を、
>手描きじゃなくて「写植」で見せてる。

 手書きの飾り文字で効果音を表現するのは鳥山明が一般的にしたんだったと思う。
 一連の実験的というのも、商業漫画家河合克敏としての実験の中で、 やはりマンガ全体で見ると、絵の開拓者ではないのは確か。
 完成された記号化の絵が、読者に見やすいというイメージの人。
 逆に見やすくても、印象に残らないマンガって星の数だけあるから、 その中で見やすくても、印象に残るということは完成度の高さか、その他の部分か。
 絵に関しては素人だから、どこが違うと言えないのが残念・・・。
 絵の技法を中心にマンガ論を展開している夏目房之介さんあたり参考にできるかな?

 話が止まっているのを承知で・・・「武道としての礼の欠如」 メッチャ長くなりそうなので、サブタイトルだけ。
    1.顧問龍子先生と「ダ・ヴィンチ」
    2.講道館と高野連
    3.『ぼくらの七日間戦争』から『バトルロワイアル』
    4.創部は誰?

 4はすぐわかるだろうけど、1〜3はなんだか意味深(笑)
 「空気を読めよ〜」と言われそうなので(^^;
 リクエストがあれば続きを書かせてください♪


●his 投稿日 : 2000年8月29日<火>18時42分

>もぐたん
 なるほど。
>「どこが動いているかはっきりと解る」
というのは、例えば、6巻155Pの1コマ目のような感じですか。
 たまたま手元にあった巻を開いたら、たまたま目に入ったシーンですが、
これは、
>「部分」に”だけ”流線を付ける<中略>
>背景の流線と連動しているから
という2つの条件を満たしていると思います。
 ところで、これに相当するシーンって「帯ギュ」では簡単に見つけることが できますが、これが
>一番すごい
と思われた理由はなんでしょうか?
    ●まず、「無駄がない」あるいは「理にかなっている」というのは、 「リアルな柔道動作の描写」を獲得できている、という意味でしょうか?
    ●それらは、例えば他の作家の作品と比較して、得られた印象でしょうか?
    ●あるいは「帯ギュ」を読んでいるだけで、ぼくら読者は、それを実感できるということでしょうか?
 まずはこのあたりからご説明いただければ助かります。

 余談ですが、上記の質問については、ひょっとすると
るっちょりさんの
>すーっと映像になって頭に入る感じです
という指摘で示唆されているような効果を生み出している、と指摘できる シーンを見つけることで、ある側面でのひとつの解答らしきものが みつかるかもしれませんね。(単なるぼくの勘ですが)


>るっちょりさん
>走りまわるクラスメイトを描くことで「深刻」さを排除しよう
>としている部分

 なるほど。
 それは確かにぼくも「そのとおり」だと思います。
(だれか、このシーン見つけたら、教えてください(^^)

>「これで読者がどこまでついてくるか」といった空気を随所に
>感じるので、これはそういう実験(もぐたんのいう「危険な賭け」)
>でもあるのかな、と感じました。
了解しました。

 つまり、るっちょりさんが
>「帯ギュ」全体が、作画にしろストーリーにしろ「従来の概念」の逆を
>いこうとした実験的作品だった
と思ったのは、
もぐたんの
>あえてキャラを付けないという方式
という、レスとあわせての考えだったわけですね。

 もぐたんの意見というのは、 少々乱暴ですが、ぼくなりにまとめてみると以下のようになります。

【巧はキャラが弱いかもしれないが、それは読者が自己投影できるように仕組まれているからだといえる。
しかしその方法は、ある意味、リスキーなものである。
なぜなら「キャラ付けとバックボーンはきちんと在った方が漫画としては成立しやすい」し、 それが一般的な方法論でもある。
そのため、河合克敏のとった方法は、どこまで「読者が付いてくるかどうか分からない」ため、 実に危険な試みであると言わざるをえない」。】

 こういう論旨だったと理解しています。
 つまり、るっちょりさんの感想は、
【「帯ギュ」は、リスキーである「あえてキャラを付けないという方式」でつくられている上、 「明らかに従来の「スポ根」とかに代表される、格闘系の作品の手法を ぜんぜん使わないで」表現で描かれている。
すなわち、2つもの「掟破り」をやっているので、それは実験作品といえるだろうし、 そしてそのことが、自分には「試行錯誤」を繰り返す作品として印象づけられたのではないか。】
ということですね。

 では、ここで、すこし話題を変えたいと思います。
 まず、ぼくは「あえてキャラを付けないという方式」をリスキーなものだと考えていません。
もぐたんは
>「キャラ付けとバックボーンはきちんと在った方が漫画としては成立しやすい」
ということで、リスキーと表現しているわけですが、 そもそも「帯ギュ」が「あえてキャラを付けないという方式」であるというのも考え方の ひとつであって、それがすべての理由ではないし、また 「キャラ付けとバックボーンはきちんと在った方が漫画としては成立しやすい」というのは もぐたん個人の考え方であって、一般的な話ではないんです。
 もちろん、だからダメというわけではありません。
 単に、考え方の方向性のひとつを提示したにすぎない、ということです。
(とはいえ、ぼくも「あえてキャラを付けないという方式」には賛成していますが(^^;)

 で、ここでもぐたんに(また)質問です(すみません)。
>「キャラ付けとバックボーンはきちんと在った方が漫画としては成立しやすい」
のことについて、もうすこしくわしくご説明いただけますか?
 このままでは、ちょっと説明不足のようです。
    ●まず、「一般的にそう思われている」ということなのか、 それとも「自身がそう考えている」のか。
    ●『はじめの一歩』を例に出して、モチベーションの強固さから「読者の共感を呼ぶ」ことを 「キャラ付けとバックボーン」の関係性のように説明されていますが、 その他の例、たとえば「帯ギュ」で「キャラ付けとバックボーン」が きっちりとできているとおっしゃっている「脇役」についてなども、やはり同様に説明できるものなのでしょうか?
    ●本当に作家にとって「危険」といわざるを得ないほど、「あえてキャラを付けないという方式」は読者にとって レアケースだと考えているのでしょうか?
 と、まぁ、このあたりのことからで、いかがでしょうか?


>yangさん
>1.顧問龍子先生と「ダ・ヴィンチ」
>2.講道館と高野連
>3.『ぼくらの七日間戦争』から『バトルロワイアル』
>4.創部は誰?
について、教えてください(^^
 4は(たぶん)わかりました(笑)
 でも、是非お書きになってください。

 ということで、今後も、議論はさまざまなテーマに細分化していくことかと思います。
 みなさまには以下の点、ご注意いただけるよう、よろしくお願いいたします。
    ●いま、読んでいるレスが「どういう論旨のレスであるか」各々でご確認ください。
    ●いま、お書きになっているレスが「誰の、どういう論旨のレスに対してのものか」
 あるいは、「新たな問題提起であるのか」など、論旨を「明示」する必要はありませんが お忘れにならないよう、ご注意ください。
(読む分にはイッキに読むので、混乱しないでしょうが、書いているうちに、 忘れてしまったり、別のことを書いてしまうことがあるのは、 ぼくだけなら、余計なお世話ですが(^^;)

 では、レスにもどります。

>手書きの飾り文字で効果音を表現するのは鳥山明が一般的にした
というのは、単にオノマトペのデザインなどを工夫したりする、ということでは ないんですよね?
 もし、鳥山明の単行本をお手持ちのようなら、具体的な例を指摘してくださると わかりやすいのですが。。。

>完成された記号化の絵が、読者に見やすいというイメージの人。
 これは同感です。
 ぼくも、特に「記号化の絵」ということに集約されていると思います。



【BACK】     【NEXT】


□オタヨリ:【 mangabito@anet.ne.jp
□書くのが面倒なひとはコチラで。
 簡単アンケートです。

【TOP】