マンガびとの館
『帯をギュっとね!』
(C)河合克敏
(小学館)

河合克敏 +++『帯をギュっとね!』(小学館)+++ その7

その6

●his 投稿日 : 2000年8月31日<木>23時01分

キャラづけは作家のいのち?

>るっちょりさん
>>テーマを表現するための方法論は、それこそ無限にありますが、
>>「キャラ付けをはっきりする」というのが一番たいせつな方法論として
>>位置付ける物語というのは、
>>「その、立てようとしているキャラの言動や、それによって引き起こされた
>>出来事」のみがテーマである場合に限り、ではありませんか?
という問いかけは、
>キャラ付けをはっきりすると言うことと強烈なバックボーンを与えるというのは
>その「いかに」という点で最も近道だ

という発言に対してつけられたものであるので

>いかに周囲を引きつけ、いかに影響力のある存在なのか、
>読者にとって分かり易く描いてある方がよいと思います。
<中略>
>1本スジの通ったチョット他キャラの上をいく存在として
>アピールするのがやはり「近道」だと思います。

ではまったく解答になっていませんが、 それはさておき、 ようするにるっちょりさんも
>「マンガにとってキャラ付けをはっきりすることが一番大切だ」
と考えているということですね。

 で、その理由としてるっちょりさんは
「巧のキャラが薄いこと」⇒「言動がるっちょりさんの好みでない」
といったことを説明されていますが、 これがなぜ 「マンガにとってキャラ付けをはっきりすることが一番大切だ」という 根拠になるのでしょうか?

 なるほど、たしかに例をだされるとよくわかります。
 なにがわかるかといえば 「るっちょりさんが、巧の言動がすきではない」ということ。
 よくわかりました。

 そして 「なぜマンガにとってキャラ付けをはっきりすることが一番大切だといえるのか」 依然として謎のままであることもよくわかりました。

 ぼくの考えは「マンガにとってキャラ付けをはっきりすることが一番大切だ」とは 思わないということです。
 マンガにはさまざまな表現方法があります。
 また、読者にとって、さまざまな読み方も可能なわけです。
 このような多様性が、ぼくは今日の日本マンガを支えてきた土壌になっていると 考えています。

 なので、もう一度問いますが 多様な表現手法、あるいは解釈があるなかで、 「なぜ、マンガにとってキャラ付けをはっきりすることが一番大切だ」と いえるのでしょうか。
 その考えの根拠になっているのはなんですか?


●もぐたん 投稿日 : 2000年9月1日<金>01時06分

キャラづけは作家のいのち

まずその1。これはもうその通りですねー。
 僕の言いたいことは前もカキコで書いてるしhisさんの書いてあることそのまんま僕もそう思いますです。
 クリアーな絵で柔道漫画描くって今まであんまりなかったですよねー!意外に合ってるし(笑)。

次にその2。
 >>その「いかに」という点で最も近道だ
 >と、思うのはなぜでしょうか?
 これは一言で言うと「分かりやすい」から意外にはないですねー。
 明確な目的意識を持ってるキャラって読者にとってこの上なく分かりやすくないですか?
 で、ここまで書いて気付いたんですがこれは確かに
 >ストーリテリングの方法論と、テーマとを混同されているように
 >思うからです。
ですね(笑)。
 テーマ性で言うなら僕はキャラクターの強さとそれは関連性がそんなには強くないと思ってますよ。

 >もぐたんの考える「帯ギュ」のテーマは
 >「戦う理由」が明確でないと見えてこないものなのでしょうか?
 >また、それは何なんでしょう?

 これは何度も言っているように「どんなことでも楽しもう!」ですね。
 帯ギュで言うなら僕はテーマが「楽しむ柔道」なんだなぁというのに気付いたのが 斉藤と巧のあの会話のシーンがあってからでしたねー。
 それまではテーマ性ははっきりとは僕には伝わってきてませんでした。
 なんか楽しそうでいいなぁコイツラってなカンジでのほほんと読んでました。
 そこで斉藤と巧が会話してるのを聞いてみて初めて明確なテーマを感じました。
 これも僕の個人的意見なんですが、この作品はもちろん「強くなって勝ちたい!」というところを主としてえがいてますけど  河合さんが真に描きたいところは「そこ」じゃないと思うんですよ。「勝つ」事が目的じゃない。
 「どんなことでも楽しくやった方が楽しいよ!楽しまなくっちゃもったいないよ!」 っていうのが伝えたい事だと思うんですね、僕。
 そしてそこを伝えるために「柔道」という媒体を使っていると。
 僕が思うにこれ別に柔道じゃなくっても何でも出来ると思うんですよ。
 仮に同じキャラクターで別なスポーツやってたとしても彼らならたぶん同じように「ああ楽しそうだなぁ」って思えると思うんです。

 で、元に戻しますが、柔道という媒体を使っている以上その「どんなことをやってても」というところを表現するためには 「戦う」というところに収束していきますよね。当然。
 だから「戦う理由」というものが必ず必要になってくると思うんですよ。
 作者が描きたいものは「楽しもうよ!」なんですけど巧は「楽しんでも勝てる!」が「戦う理由」じゃないですか。
 河合さんは僕は「勝てなくてもいい」と思ってると思うんですね。
 楽しめばそこに何かが残っていくという風に思ってると思うんです(個人的意見ですよ(笑))。
 でも巧は「勝ちたい」とはっきり「作中で」言っている。これが僕は「物語にとって」一番大切なことなんだと思うんです。
 キャラ付けというのはやっぱり「作品にとって」命なんじゃないかと思います。

 >【なぜ、少年マンガにとって、キャラが立っていないことを理由に
 >「試行錯誤」「過渡期」などの「未完成」的な側面を強調されるのでしょうか?】
 これは僕はちょっと違いますね(笑)。未完成だとは全く思いません。
 長期連載の作品ってそういうものでしょう?最後まで読んだ後だと初めの方に違和感を感じるものだと思うんですが。
 で、それを試行錯誤と表現しただけで未完成だとは思ってませんです。
 初期の帯ギュも好きですよー(笑)。

 あとるっちょりさんのカキコを読んで気付いたんですが、 帯ギュって先輩がいないから特殊なカンジがするんでしょうねー。
 柔道物で先輩がいない作品って他にないんじゃ??これは重要かも。
 だから礼儀とか作法とか描かずに済んでるんだろうしー。
 るっちょりさんが好きじゃない理由の一つの要因かもですね(笑)。


●るっちょり 投稿日 : 2000年9月1日<金>01時33分

>で、その理由としてるっちょりさんは
>「巧のキャラが薄いこと」⇒「言動がるっちょりさんの好みでない」
>といったことを説明されていますが、
 え〜と、「好みではない」ということで説明しているつもりはなかったのですが、どうも最初の「巧を好きになれなくて苦労した」という発言が尾を引いているようですね。大変軽率な発言でした。申し訳ありません。
 しかし、その後の説明では、極力「巧のこういった言動からは特に(従来の主人公にあったような)主人公的魅力がない」ということを例を出して説明してきたつもりです。それは「個人的な好き嫌い」が先にあって言っている訳ではなく、そういった数々の「ちぐはぐな印象」があるからスンナリ巧に入っていけなかったということなのです。そこを一生懸命説明しようとしているのですが・・・。
 どうもすみません。

>「なぜ、マンガにとってキャラ付けをはっきりすることが一番大切だ」と
>いえるのでしょうか。
>その考えの根拠になっているのはなんですか?
に対しては
>物語のバリエーション、好感を与えるデフォルメなど、
>ありとあらゆるパターンが出尽くしているかに思える現在、
>同じテーマの他作品との差がもっとも顕著に表れるのは
>「キャラ」でなないでしょうか。
>それだけに「キャラの作りこみ」「キャラから受ける印象」は
>作品を大きく左右するものであると私は思います。
というレスをつけたと思います。これではきっと不充分だったのですね。
申し訳ありません。

 たとえば同じ野球をモチーフにメンバーぎりぎりながらも頑張って勝ち 進む、という話を描いても、水島新司と川原泉ではまったく別の作品世界が 出来あがりますよね。絵柄も違えばコマ割も違うだろうし、挿入されるエピ ソードにも違いはあるでしょうが、作品全体のトーンはやはり、その中で 息づくキャラによって決まるような気がするんです。なぜならストーリーを 進行させるにはキャラの行動なり発言なりが(不可欠ではなくとも)必要 だろうから。どんな時にどんな表情で何を語るか。そこに作者が言わんとする ことが(作品のメッセージとして)込められている事が少なくありません。

 もちろん全部が全部そうだとか、そうでなければならないとか言っている 訳ではないです。そういうことが「常套的手法」として使われていることが 多いというだけのことです。

>>いかに伝えるか、というのは色々な方法があると思うんですね。
>>そこで、キャラ付けをはっきりすると言うことと強烈なバックボーンを与えるというのは
>>その「いかに」という点で最も近道だ
>と、思うのはなぜでしょうか?

>また、テーマを表現するための方法論は、それこそ無限にありますが、
≪中略≫
>テーマである場合に限り、ではありませんか?


 えーと、ここで、私は後半部分に対してレスをつけた訳ですが、私自身は 「帯ギュ」のテーマが巧のいう「楽しくやろうぜ!」であるのならば、まさに
>その、立てようとしているキャラの言動や、
>それによって引き起こされた出来事」のみが
>テーマである場合に限り、

に当てはまると思ったので、いろいろと長々と説明(?)した次第です。
「帯ギュ」のテーマが実は巧の提唱しているものではなかったのだと したら、とんでもなく的外れな発言だったかも知れないですね。
 どうもすみませんでした。

 それではヒサナガさんの考える「帯ギュ」のテーマとは一体何だったのか、 教えて頂けますか?


>柔道物で先輩がいない作品って他にないんじゃ??これは重要かも。
>だから礼儀とか作法とか描かずに済んでるんだろうしー。
>るっちょりさんが好きじゃない理由の一つの要因かもですね(笑)。
後半で出てきてるじゃないですか、先輩後輩。そこではきちんと 敬語も使われてるし問題ないですよ。
別に私は「帯ギュ」きらいじゃないんだよ〜〜〜。
ただ作品としてみた場合、いろいろとちぐはぐな点があるので「漫画家河合 克敏」にとって作家として熟成してゆく過程にあった「過渡期」の作品と 言えるんじゃないかと言ってるだけで。


●もぐたん 投稿日 : 2000年9月1日<金>02時33分

 後半出てきてるんですよねー!だから重要なんですね!
 これは実はyangさんがもう既に言ってることなんですけど僕も書いちゃいますね(笑)。
 後半出てくるからある種「普通の」柔道物になってるって事はやっぱり前半は「特殊な」柔道物だと思いません?
 僕、そこを付いていくのが帯ギュを語ってくときに重要なのかもって思いました。突然(笑)。
 あと僕はるっちょりさんが帯ギュ嫌いだとは思ってないですよ。
って、僕のカキコが悪いのか(笑)。
 >るっちょりさんが好きじゃない理由の一つの要因かもですね(笑)。
って「巧を好きじゃない理由」ですね、正確に言うと。


●るっちょり 投稿日 : 2000年9月1日<金>09時24分

>後半出てくるからある種「普通の」柔道物になってるって事は
>やっぱり前半は「特殊な」柔道物だと思いません?
>僕、そこを付いていくのが帯ギュを語ってくときに重要なのか
>もって思いました。突然(笑)。

それなんですよ〜〜〜私の言いたいのは〜〜〜〜。
>しかし、人気がなければ打ち切りが宿命の連載で、
>主人公の魅力が出るのがかなり後半になってから、
>というのは最初から計算していたにしてはやや遅
>すぎなような気がするのですよね。後半で語られ
>るテーマを前半で語ることも出来たのですから。


とか

>最初は「主人公のキャラが弱い」ことを不満に思っていたのですが、
>それすら「従来の概念」の逆を行くということで確信犯的に描かれているのだ
>ということで、「わざとそうしてたのか〜」と。
>で、結局最後は普通の柔道漫画として帰結していく
>(「勝利」「達成」「上昇」など)訳で、いままで
>散々やってはみたが、結局は王道を行き始めてからの盛り
>上がりはやはり格別だし、


ということで、私は常にその「前半はアンチ従来」「後半は王道」 というところにひっかかりがあった訳です。

>●以前、お書きになられた「試行錯誤」「過渡期」発言ですが
>これは、今もそのようにお考えでしょうか?

だんだんとテーマが明確になっていった過程が、計算されての ことならばそれは「試行錯誤」などではないですよね。
立派だと思います。
そして
>「漫画家河合克敏」にとって作家として熟成してゆく
>過程にあった「過渡期」の作品と言えるんじゃないかと言ってるだけで。

という感想は変わりません。


●his 投稿日 : 2000年9月1日<金>10時49分

>もぐたん
>>>その「いかに」という点で最も近道だ
>>と、思うのはなぜでしょうか?
>これは一言で言うと「分かりやすい」から意外にはないですねー。
>明確な目的意識を持ってるキャラって読者にとってこの上なく分かりやすくないですか?


 わかりやすいですね。
 好まれるでしょう。
 今の少年マンガ(たぶん少女マンガや青年誌も含めて) 「キャラを立てろ!」は常套句でしょう。

>テーマ性で言うなら僕はキャラクターの強さとそれは関連性がそんなには強くないと思ってますよ。

 そうでもないんじゃないですかねぇ。
 テーマによってキャラの方向性が決まることもあるし、 その逆もあるし、また双方で影響しあっていくこともあるでしょうし。
 それを解釈するのは意味があると思いますよ。

>キャラ付けというのはやっぱり「作品にとって」命なんじゃないかと思います。

 えーと、たぶんマンガ家や編集者が「読者を楽しませよう」として 創るなら、そうでしょう。
 でも、マンガってそれだけですか?

 「ヒット」した理由として「キャラが命です」と答えるなら、それでもいいんですよ。
 ぼくの疑問は何度も何度も書きますが なんで「マンガとして」なんて冠をつけなくてはいけないのか?です。

 商業誌なら「キャラ命」の方針を立てることも、方向性のひとつとして アリだと思うし、今のマンガの現状として「キャラ優先」あるいは 「シナリオ優先」であることは、たぶんそのとおりでしょう。

 でも「マンガ」というメディアを定義するのは「商業誌」のみではありませんよ。
 「商業誌の制作方針」を基準に「マンガ」というメディアそのものを囲ってしまうのは いかがなものか?

 そういう疑念から発したものが、ぼくの質問のすべてです。
 なので、もぐたんやるっちょりさんの 「キャラがもっとも大切」等の発言が、ぼくには「編集者」とか「プロのマンガ家」とかが、「マンガを作る心構え」というか 「読者に喜ばれるマンガとは?」ということについて 語っているような、あるいは 「商業誌のマンガを消費するのみのいち読者」の発想に聞こえます。

 たぶん、これでわかってもらえたんじゃないか? と思いますが、「マンガとして」とくくりさえしなければ、 別に、感想なんだし文句はありません。

>るっちょりさん
>たとえば同じ野球をモチーフにメンバーぎりぎりながらも頑張って勝ち
>進む、という話を描いても、水島新司と川原泉ではまったく別の作品世界が
>出来あがりますよね。<中略>「常套的手法」として使われていることが
>多いというだけのことです。


 るっちょりさんは「作品の組み立て」を話そうとしてるんですね。
わかりますよ。
 テーマとキャラは、上述したとおり、なんらかの関係を結ぶと思います。

>「帯ギュ」のテーマが実は巧の提唱しているものではなかったのだと
>したらとんでもなく的外れな発言だったかも知れない


 るっちょりさんが言っているのは、大雑把にまとめるとこういうことでしょう?

【帯ギュのテーマとして「楽しい柔道」ということが、ひとつあげられる。
それはいろんな意味があるだろうけど、それにしても巧の言動には矛盾が多い】
 で、それと思われる指摘を延々していたわけですよね?
 ぼくが何度も書いているのは 「帯ギュ」のテーマが、巧の提唱している「楽しい柔道」であるかないかの問題ではなく 「るっちょりさんの指摘するような、物語(キャラ)上の矛盾があったとしても テーマを否定する指摘ではない。」ということです。
 「いや、わたしは否定していない」とおっしゃるかもしれませんね。
では、以下に続けます。
まず、
>「漫画家河合克敏」にとって作家として熟成してゆく
>過程にあった「過渡期」の作品と言えるんじゃないか


 それはそうでしょうね。
 まぁ、いろいろ言いましたが、この意見自体には問題ないでしょう。
 どうもぼくがこだわったのは「この2行だけ書けばいいのに」ってことかな。
 これなら別に、誰も異論はないでしょう?

 で、ぼくがずっと指摘しているところは >作品としてみた場合、いろいろとちぐはぐな点がある
ってところです。
 どういう「ちぐはぐ」かと聞いてみれば「るっちょりさんの生き方」あるいは 「るっちょりさんの考える一般的な社会通念や道徳観念」で考えれば、 矛盾といえる、という指摘でしたよね。
 それがなんで【作品としてちぐはぐ】と言えるのか?
という疑問ですね。

 ぼくの考えは上述のとおりです。
 るっちょりさんの意見は、ぼくにはこう思えるんですよ。
 「わたしだったら、こういう風に描くのに、河合克敏ってなってないわね」 と、飲み屋で一杯やりながら聞かされてるみたいで(笑)

 まぁ、それはともかく、 ぼくの言いたいことは「マンガとして」は、おかしい、ということです。


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