| マンガびとの館 | ||
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| ■河合克敏 +++『帯をギュっとね!』(小学館)+++ その9 | ||
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□その8 ●るっちょり 投稿日 : 2000年9月5日<火>09時25分 >そういう「人の人生変えちゃうようなマンガ」って >ホントにすごいと思いますねー。 競馬でも上村騎手(サイレンススズカに最初乗ってた人)が 「風のシルフィード」を読んで騎手に憧れたと言ってました。 何を隠そう(?)私も「エースをねらえ!」でテニスを始め ました。 ●aoyama 投稿日 : 2000年9月6日<水>00時44分 今は「絵」について話題になっているようなので、
みなさんにとって、
柔道シーンに一番迫力のある柔道マンガとは、何でしょう?私にとっては『柔道部物語』(小林まこと)です。 読んだ当時の年齢にもよるのでしょうが、 手に汗握る思いで読んだ記憶があります。 対して『帯ギュ』は、あまりというか、全然……。 しかしながら、 (「絵」を語る言葉を知らないので、上手く伝えられないのですが、) 『柔道部物語』と『帯ギュ』は、
b.「運動を動線をつかわずに、コマの分節で表現し」ている という点で共通しているように「感じ」ます。 特にhisさんの判断を仰ぎたいのですが、
2.『柔道部物語』と『帯ギュ』の「絵」は、a・bの点で共通する。 という私の印象は、妥当でしょうか?。 #感じ方は人それぞれだという相対主義的な賛同を期待しているわけでは ありません。客観性というか、普遍性というか、学問的な意味で 「妥当」といえるのか、判断してもらいたいのですが……。 ●るっちょり 投稿日 : 2000年9月6日<水>11時21分 小林まことって『1、2の三四郎』描いてた人ですよね? 『柔道部物語』っていがぐり頭に眉毛の太い主人公だった ですよね?「見た」だけで「読んだ」ことないので何とも 言えないのですが、「迫力ある!」というのはよく分かります。 しかしながらマイベストは『ああ一郎』。 こせきこうじ作品なのですが、主人公をほぼ完璧に客観描写 していて、黙々と努力する姿や試合での驚異的な粘りを見て 周囲が次第に一郎に一目置き、自らも奮い立っていくという 図式のはっきりした作品でした(これも団体戦中心です)。 主人公に対する「ガンバレ!負けるな、ガンバレ!」という 思い入れでもって試合のひとこまひとこまを追いかけたと いう意味でなら、これがナンバーワンです。絵はシンプル このうえないですが・・・そこがまた「味」。 私にとっては、「主人公にどこまで感情移入出来るか」が 大きなポイントになるみたいですね。 ところで柔道漫画って意外に少ないような・・・。他には 『新コータローまかりとおる!』くらいしか知らないです。 ●his 投稿日 : 2000年9月6日<水>17時34分 >aoyamaさん >柔道シーンに一番迫力のある柔道マンガとは、何でしょう?。 >私にとっては『柔道部物語』(小林まこと)です ぼくもそうです。 今のところ、自分のなかで「柔道部」をこえたモノはありません。 思えば、ぼくが生まれて初めてよんだ柔道マンガは、野部利雄『弥生の大空』でした。 これはちょっとお色気があったりして、なかなかよかったですね。お色気だけ。 次に読んだのは、いとこにもらった『柔道賛歌』です。 巴二段投げはすばらしくかっこよかった。 ぼくも正直にいいますと、柔道シーンそのものは >『帯ギュ』は、あまりというか、全然……。 まったく同感だったりします。 あんまり燃えない。 ぼくが思うに、aoyamaさんの指摘どおり、 >a.輪郭がすっきりしている(セル画にしやすい絵) >b.「運動を動線をつかわずに、コマの分節で表現し」ている ため、および、 >それよりも作者が、たとえば「投げる時はこのソデをつかんで、腰を >相手のこの位置にいれて・・・」など「情報の正確さ」っていえばいいのかな? >そのあたりに気を配ってるような感じですね。 ではないでしょうか。 感じ方は人それぞれでしょうが、すくなくとも河合克敏のしている工夫は 「柔道への距離感を拡大する」といいますか、読者どころか作者自身も あまりガーッとのめり込める手法ではないですね。一般的に。 あの手の手法は、作家と作品の距離感、引いた視点を感じさせるところにあって、 そこから、例えば「クール」とか「クレバー」とかの感覚を呼び起こすことにも なって、それが「かっこよさ」でもありました。 いわゆる「熱い」などの語感から、いかに距離をとるかが問題とされ、その上で 開発された手法だと思います。 で、『TO-Y』はその手法を利用しつつ、コンサートでの興奮、熱さも同時に 表現しえたことから、この手法が一般的なものとなってきた。 とくに「帯ギュ」がその一端を担ったのではないか、と思います。 ぼくの想像ですが、その意味で、河合克敏は、自分の手法にずいぶん苦しんでいるようにも 感じられます。 「柔道の臨場感」「興奮」は表現したい、「柔道の組み手合戦など」も表現したい。 その上で、距離を引いた感じも表現したい。 意図していたかどうかは不明ですが、結果として「動線」や「コマ構成」を限定していったため 巧の試合など、「1試合あたりのページ数が多く割かれているエピソード」などは、 ずいぶん辛そうです。定規で丁寧に描いた動線ばっかりで、観ているオレも辛かったです。 ぼくにはまずそういう感覚があったので、 女子柔道部編は、単に面白いというより、 >あとYAWARAとの比較は面白いですね。確かにその方がダイナミックにはなりますよねー。 >そこってマリちゃんの描き方に近いものがあるのかもしれないですね もぐたんの指摘するとおり「自分の考えていたことを 自分より上手にやっちゃった」浦沢直樹へのオマージュだと、考えています。 でも、その女子柔道部編での手法を男子柔道に当てはめなかったことに、 河合克敏の柔道への愛情は感じたりもします。 全体の印象として、 「帯ギュ」はやっぱり「ポスト・スポ根」「ポスト・ラブコメ」であるので、 おもしろいところを、あえてあげれば、ちゃかしたり、ギャグで落としたりなど どこかで、価値観をズラしていっているところを、ぼくは指摘したいし 一生懸命描いてるところ、たとえば、柔道の試合などは、それなりに好きだし感動もしますが、 ぼくは、基本的にはあんまり興味がないです。 その意味で、aoyamaさんの >柔道シーンは迫力に欠ける。 という印象は、ぼくも感じました。 で、ぼくの考える理由は上述のとおりです。 みんなはどういう印象だったんでしょうねぇ。 ●もぐたん 投稿日 : 2000年9月7日<木>07時30分 確かに帯ギュはそういった面の「絵の迫力」っていうのはあまり感じられませんね。 柔道部物語の方が迫力は確実にある。それは確かに「絵による迫力」なんですよねー。 僕的な意見を言わせてもらうとすれば帯ギュの絵と柔道部物語の絵とはちょっと違うと思うんですね。 セル画にしやすい絵というのはその通りなんですが、主線の描き方が違うと思うんですよ。 帯ギュは主線を描くときにメインの太さというものが明確にあると思うんですね。 で、「それ」に対して主線に強弱を「付けないように」心がけて描いているような気がするんです。 帯ギュの画面上がクリアーに見える理由というのはそこなんだと思うんですね。 対して柔道部物語の方は「主線の太さ」をある程度変えていく画法を取っていっている。 同じ画面内でも太いところは太く細いところは細く、強弱がはっきりしている描き方を心がけている様に感じるんです。 ここが迫力があると感じるゆえんなのではないかなぁと。 もちろんそこだけではないですけど。表情の描き方や吹き出しの形、オノマトペの使い方などなど色々と理由は考えられますよね。 思うに帯ギュと柔道部物語は「描きたいところが根本的には違う」んでしょうね。 柔道部物語は「熱血と迫力」帯ギュは「クリアーさと楽しさ」といったところなんではないでしょうか? どちらも柔道という格闘技を描いていますからどうしても「迫力」はなくてはいけないけど そこをメインとしたものとしなかったものの違いなのではないでしょうか? ストーリー面で言ったら僕は帯ギュも燃えましたよー! 最後の戦いに至るまでの過程とかかなり好きですねー。 とかいいながら僕も柔道部物語の方が燃えたけど(笑)。るっちょりさんこういうの好みかもですよ。 思うにストーリー面から言ったら「王道」であり、かつ「ストーリーのスピード感」が半端じゃないじゃないですか。 ほとんど帯ギュと同じ様なことをやってるのに柔道部物語の方は11巻で終わっちゃってる。 そこも「物語」としてみたときに評価できるところですよね。 圧倒的なストーリーのスピード感による読者の引っ張り方が上手い。 こうして比較してみると同じ柔道物とはいえホントに帯ギュとは正反対かもしれないですね。 あとhisさんの言う >読者どころか作者自身もあまりガーッとのめり込める手法ではないですね。一般的に。 というのは僕ももの凄く感じていました。 クレバーな絵って描くのにどうしても作者自身がクレバーにならないといけないんですよね。 それは言ってみると「純粋な作業」になっちゃうんですよねー。 定規で流線を「付ける」のと手で流線を「描く」のは同じ流線でも全く違う。 そして描いてて楽しいのは僕は「描く流線」ですねー。 だから帯ギュで巧とかが動いているシーンとかを見ると「大変だなぁこの作業」って僕もいっつも思ってました。 ●るっちょり 投稿日 : 2000年9月7日<木>10時26分 「帯ギュ」は絵にしろストーリーにしろ、ハッキリした陰影が感じられず「平板」という感じがします。それがいけないとかつまらないとかじゃなくて、 起伏や対比の少ない作品であるということは言えるだろう、ということ。 >おもしろいところを、あえてあげれば、ちゃかしたり、 >ギャグで落としたりなどどこかで、価値観をズラしていっている とhisさんがおっしゃってるように、重いものを持たない、持たせない ということで「等身大の高校生」を描ききってるとも思います。 お気に入りは20巻P175。 長谷「同じ階級のヤツで負けたのは、アンタが初めてだよ」 宮崎「長谷・・・てめえ・・・」 宮崎「前田日明のリングスのファンだな?」 と落とすとこ。 ●aoyama 投稿日 : 2000年9月7日<木>11時17分 hisさん、ご丁寧なレス、ありがとうございました。 じゃ、1.2を妥当というか、共通認識というか一般的な評価とした上で、 本題なんですが、 例えば、 >> 2.『柔道部物語』と『帯ギュ』の「絵」は、a・bの点で共通する。 >> a.輪郭がすっきりしている(セル画にしやすい絵)、 >> b.「運動を動線をつかわずに、コマの分節で表現し」ている にも関わらず、 >> 1.『柔道部物語』に比べて、『帯ギュ』の柔道シーンは迫力に欠ける。 のは何故か? それは、すでにhisさんが再三指摘されておられるように、『帯ギュ』が「柔道への距離感を拡大する」手法を取っているから、なのでしょう。 ところでhisさんのいう「距離感」とは心情的なもの、言い換えれば当事者感覚の希薄さという意味でしょうか。それとも物理的なもの、「カメラと対象の距離」「カメラを引いた画面構成」という意味でしょうか。 両方、でしょうね。 『帯ギュ』も『柔道部物語』も現在手元にないので、単なる印象批判に過ぎないのですが、『帯ギュ』の方がカメラの位置が遠いように思います。しばしば私は『帯ギュ』の柔道シーンから、柔道入門書の解説図面を連想するのですが、それは『帯ギュ』が技をかけている人間の動き全体を映しているからだと思います。 先に、『帯ギュ』は静的な絵の中で動いている部分にだけ動線を入れる、という解説がありましたが、その結果、動きの全体像が分かりやすい。つまり、入門書の解説図みたい、ということになるのでしょう。 『柔道部物語』なら動いている部分をアップにしていると思います(これも印象批判。あぁもどかしい)。 だから何?、といわれても困るのですが。 ●his 投稿日 : 2000年9月8日<金>00時22分 >aoyamaさん ちょっと難しい問題、というか、表現の仕方が難しくて、ぼくもどう書けば適切なのか判断しかねていますが、 すこし簡単にレスを。 >「距離感」とは心情的なもの、言い換えれば「当事者感覚の希薄さ」という意味でしょうか。 >それとも物理的なもの、「カメラと対象の距離」「カメラを引いた画面構成」という意味でしょうか。 >両方、でしょうね。 「当事者感覚の希薄さ」など、いろいろなニュアンスを内包するような、感覚でしょうか。 いろいろな意味で使われる言葉ですが、ここではもう少し広い意味で使いました。 もうすこしピントを合わせて言い換えれば、少なくとも柔道シーンに関しては、肉体感とか熱っぽさとか、そういう運動 にまつわる温度から、距離をとって見た感じ、といえるでしょう。 あと付け加えるなら、いわゆる「熱血」などといった、抽象的なイメージの問題とは少しレベルの違う意味でのことです。 そのことから考えていくと、「当事者感覚の希薄さ」や「カメラと対象の距離」両方という考えもあるでしょうが、 ぼくが考えるのは、aoyamaさんのこの指摘 >入門書の解説図 に近い感覚です。 これは、ものすごく的を得てるなぁ、と感心&笑わせていただきました(笑) ようするに、入門書の解説図というのはどういう格好でということのみを絵で表すためだけのものなので、その技か ら連想されるさまざまなニュアンスは全部割愛される。 実際に「帯ギュ」の柔道シーンは、実はちゃんと温度を伝えようとして、いろいろ構成の手順を踏んでいるのですが、 なぜか、ぼくら読者には「入門書の解説図」のように思えてしまうわけですよね。 これがずいぶん難しい問題だと思います。 ぼくの場合は、もぐたんの指摘する >帯ギュは主線を描くときに「メインの太さ」というものが明確にあると思うんですね。 >で、「それ」に対して主線に強弱を「付けないように」心がけて描いているような気がするんです。 >帯ギュの画面上がクリアーに見える理由というのはそこなんだと思うんですね。 この点が、問題だろうと睨んでますが、これを説明するのが難しい。 で、ここのところ、再三『柔道部物語』との比較が出てきているので、 るっちょりさんの >「重いものを持たない、持たせない」 >ということで「等身大の高校生」を描ききってる という意見も含めて、少し「柔道部」と「帯ギュ」の比較から答えてみようと思います。
まず、肝心の>入門書の解説図 という指摘から。 実は、こういう絵は「柔道部」にもあります。 2巻の68P(右図)などは、そのまんま入門書の解説図をトレースしたような絵です。 この、トレース法(と仮に名付けます)を利用したシーンは、2巻P238、239(下図左)などに もっとも顕著に表れているのではないでしょうか。 「柔道部」では、この手のシーンが、ホントに簡単に見つけられます。 ところが、逆に「帯ギュ」のほうには「それそのまま」といったシーンがみつかりません。 似たシーンとして、例えば2巻P182(下図右)などがありますが、トレース法ではありません。 少なくとも「トレースして描いた」ようには感じないのではないでしょうか。
>カメラを引いた画面構成 というのは、ここでは全景を捉えたようなシーンとここでは解釈しておきますが、 これも、「柔道部」では上記のシーンのように、頻繁に使われます。 もちろんこれは「帯ギュ」にもあります。
たとえば、「帯ギュ」2巻74Pなど、どうでしょうか。すこしギャグっぽいシーンですが、ギャグというのは、いろいろ手法もありますが 「視点を引く」ということがひとつあります。 主観で描くのではなく、客観で描く。 それはどういうことかというと、たとえばこのシーン、投げられた宮崎や、投げている石塚、 あるいは、観客など、誰でもいいけど「誰か」の視点に限定して、その対象となる人物の 感じ方、すなわち主観で描くとギャグにならないわけです。 宮崎が「ぐわぁっ、く、くやしい!!」でも、 宮崎の「あれ?おれって投げられたの?」でもなんでもいいんですけど、その 心情を感情移入できるように描く、すなわち照準をあわせたコマ構成をすれば、 ギャグにはならない。 別におかしみは感じないわけです。 なんか、こんなこと説明してバカバカしいとおもわれるかもしれませんが、念のため。 ところが、このシーンはあきらかに、見ているひと、観客や読者のなにも感情移入していない 視点で描かれている。だからギャグにみえる。 この点が「視点の距離感」にあたると思います。 では「柔道部」はどうでしょうか。 「柔道部」を読んだ方、あるいは『1・2の三四郎』などの小林作品を読んだことのある方は、もうおわかりでしょうが、 このようなギャグ、視点の距離感のとり方は、小林のお家芸ですね。 また、「帯ギュ」の特徴として、「ポスト・スポ根」「ポスト・ラブコメ」などの方針を はっきりと打ち出したわけではありませんが、スポ根がまだ滅んでいない時代に 『1・2の三四郎』で、スポ根やその代名詞の梶原一騎作品をチャカす方法論で笑いをとりはじめたのも 小林まことです。 この「柔道部」は、ある意味では「帯ギュ」以上に >「重いものを持たない、持たせない」 ことにこだわった作品でもありますね。 ところで、ここでいう「重いもの」のぼくなりの解釈をせつめいするなら、 例えば「BSマンガ夜話」という番組の、『北斗の拳』の回で、岡田斗司夫がこんな発言をしていました。 「北斗の世界観にある”強さ”というのは、もはや肉体的な強さではなく、 ”悲しみをより理解する、経験する”ということ。」 こういう人生訓というか哲学というか、そういう「人生の重さ」みたいなイメージや 「礼儀」「礼節」などや「責任」などの語感のもつイメージ的な重さ、としています。 一応、これも念のため。 ともかく、実は「柔道部」のほうが、この点に関しては徹底しているように感じます。 それを証明するのがむつかしいですが。 もしよかったら、誰か、1巻あたりの「”重さ”の価値観ズラし」系のギャグを%で出してみてください。 それで証明したことにはなりませんが、参考にはなるでしょう。 そして、たぶん「柔道部」のほうが割合は大きいように思います。 あと、もうひとつ指摘しておきます。 柔道シーンにおいて「柔道部」は熱気が伝わってきて、「帯ギュ」は比較的、熱気を感じない、という 印象がぼくら読者にはあります。 ぼくが思うには、全体的な印象として
「柔道部」=ギャグ という感じがします。 どう違うかといえば、コメディはなんとなくオシャレっぽい、ギャグは泥臭い、そんな語感の違いです。 実際にコメディかギャグかの意味の違いは、ここではこだわらないことにして、イメージの違いとしての 指摘です。 んで、そのような感覚はどこから生まれるのか。 そのひとつに絵の問題があると思います。 ここですね。 >帯ギュは主線を描くときに「メインの太さ」というものが明確にあると思うんですね。 >で、「それ」に対して主線に強弱を「付けないように」心がけて描いているような気がするんです。 この点から、すこし逆説的にひとつの結論を出してみましょう。 「線表現は、ぼくらの考えている以上にサマザマなニュアンスを与えている。」 ところで「柔道部」と「帯ギュ」で、ぼくにはもうひとつ感想がありますが、 全体的に、物語は軽いノリで進んでいくが、後半のクライマックスは妙にマジだったりして (それこそ胃もたれするような重さを感じたり) 軽いノリの好きだったぼくとしては、少々面食らったりします。 まぁ、それは置いといて、2作品の比較として、
「帯ギュ」の巧VS鳶嶋戦、 どう違うのか。 カメラワーク、コマ構成等の手法的側面からみて、ほとんど違いはありません。 動線表現に関しても、どちらもある意味オーソドックス。 それなりの表現をされていると思います。 唯一の違いをあげるとするなら「線を含めた強弱、抑揚」ではないでしょうか。 線の表情の違いによって、全体に流れる作品のトーンを印象付けてしまう、 ぼくにはそう感じられます。 「柔道部」と「帯ギュ」の比較から言えそうなことは、そのあたりの 線の表情の違いによって、どれだけニュアンスが変わってしまうか、ということでしょうか。 ●もぐたん 投稿日 : 2000年9月7日<木>07時30分 僕もaoyamaさんのカキコから昨日柔道部物語を読み返し始め、 そのまま一気に最後まで読んでしまいました(笑)。面白いわぁやっぱ。 そこで気付いたことがいくつかあったので書いてみます。お題は絵の効果による迫力表現の比較。 参考にしたのは帯ギュ・柔道部とも最大の盛り上がりであるラストバトルの箇所です。 1.オノマトペ 柔道部の方では実に様々な形のオノマトペを使っています。それは用途によって違う形を選択しているからでしょう。 「ワーワー」という観客の声援と「ガッ」とか「ババッ」とかいう柔道の音とではその形が全く違います。 三五が西野と戦っているシーンなどでは特に荒い書体を選んでいますね。 そして常に主線よりもかなり太い文字で手書きのような描き方をすることで「音の迫力」を出す効果を与えています。
対して帯ギュ。帯ギュのそれはほとんど全てが同じ書体を扱っています。 その書体とは太さの同じ均一な線による定規を使った書体です。ホントに全てこれです。 観客の声援も柔道によって出る音も全く一緒です。 これは明らかに「デザイン的な効果」を狙っている物でしょう。 そして徹底しているのがオノマトペの線の太さ。これがオノマトペ自体の大きさによって変えていないんですね。 つまりいつも同じ太さなんですよ。 従ってオノマトペが大きければ相対的に線が細く、小さければ線が太く「感じられ」ています。 そのため、コマが大きくなるという本来「迫力のあるシーン」に対するオノマトペが 「線が細くなり迫力が無くなる」という不思議な効果を作り出しています。 これは何故こういう効果を取っているのかは僕にはちょっと分かりかねますね。 たぶんデザイン的な効果を重視していると言うことでしょうが。
さらにいうと、柔道部の方はオノマトペが全て画面の「前部」に書かれています。人物の後ろに書かれていることは全くありません。 そしてオノマトペによくトーン処理を施しています。 そのためにオノマトペが画面上で非常に目立つ存在になっています。 対して帯ギュは全くトーン処理をしていません。真っ白です。 そして人物の後ろにオノマトペが隠れてしまっていることが多々あります。 さらにここが面白いと思うんですが帯ギュはオノマトペが「ワク外」に出ることはほとんどありません。 ほぼ必ずワク内に納められています。デザイン的な処理です。 柔道部では迫力のある大ゴマではほとんどワク外に出ています。 以上のことから帯ギュはオノマトペをデザイン的効果として使い画面上で前面に押し出していません。(管理者注釈:上図のようにありますが、言いたいことはわかります。) 柔道部物語では「迫力としての効果」としてオノマトペを使い画面の中でかなり主張させています。 ここがこの2つのマンガを比較するときに一番はっきりしていることだと思います。 2.動線 a・背景としての動線 柔道部物語と帯ギュではとにかく流線の数が圧倒的に違います。 これは本来の意味の線の数ということではなく「線の密度」といい変えても良いと思います。 とにかく流線が柔道部の方は「黒い」!帯ギュは「白い」! これは前述した「主線の太さ」によるものが大きいと思います。 帯ギュは主線が均一に書かれているためそれに流線も合わせて均一に書かれています。 特に集中線を見ると良く分かるのですが帯ギュの集中線は本数が明らかに少なく、 また「抜き」をほとんどやっていません。太さが均一です。 一方柔道部の方は大量の線を使い、抜きもきっちりやっています。 これは主線に強弱がある程度はっきりあるため流線をそうしても「主線が死なない」ためでしょう。 これも両者の迫力が違っている要因の一つですね。 b・人物の動線 これは最も早い動きであろう「背負い投げ」の表現について書いてみます。 柔道部では三五が西野を投げたときに西野の像が崩れてしまうほどの動線で西野の主線を構成しています。 最も早い動きをするつま先を見るとそれが顕著でつま先の形はほとんどありません。 それは投げている三五にも見られます。 荒い手書きの線で主線を構成することにより迫力主体の「絵」を作っています。 対して帯ギュでは決して「主線」が崩れることはありません。 主線が「ぶれる」ことはあってもほとんど主線として見て取ることが出来ます。 巧が鳶嶋を背負う最後のシーンですら鳶嶋のつま先どころか足の指まではっきり見て取れます。 そしてその描き方は「均一な細かい線による主線表現」を徹底しています。 決して「荒い手書き」のイメージではありません。意識してそう描いています。 これは「迫力」の面から言ったらあまり得策ではないですが 「見やすさ」の面から言ったら遙かに柔道部物語より上をいっていると言っていいと思います。
僕はこうしてまとめてみたらどちらも全く違うことをやろうとしているという印象を受けましたねぇ。 hisさんのいう >「線表現は、ぼくらの考えている以上にサマザマなニュアンスを与えている。 これは僕も全く同感です。 あともう一つ。トレース法を語るときに僕は9巻の「巧が藤田を投げるシーン」はもの凄く重要なシーンだと思うんです。 主人公がライバルを初めて投げ飛ばして勝つシーンであれほどはっきりとした「止め絵」を使うというのは僕は他に知りません。 初めて見たときには「なんでこんな効果なの??」と思ったもんです。 あとさらにもう一つ(笑)。 ストーリー的に言うと柔道部物語があんなに燃える理由というのが「西野」のキャラクターによるものが大きいと思うんですが。 なんというかなぁ・・・・・「悪者」?? とにかくやつを救ってやるには「三五が倒す」しかないじゃないですか。 だから読んでてあんなにもものすごく燃えてたんだと思うんです、僕。 ●his 投稿日 : 2000年9月9日<土>19時22分 ちなみに、オノマトペのデザインが1種類だけになったのは 後半ですね。 前半はいろいろとためしているようです。 と、いうことで、そろそろ「帯ギュ」掲示板も終わりという 感じですが、どうでしょう? ●もぐたん 投稿日 : 2000年9月11日<月>01時27分 あとは恋愛観についてもちょっとやりたかったかな。 帯ギュの特殊性の一番の証明だと思うんだけど。恋愛面って。 ●his 投稿日 : 2000年9月11日<月>03時22分 恋愛は、まぁ、いいじゃないですか(笑) 「脱・ラブコメ」だし。 本人、恋愛を描くのを嫌がってるってだけでしょ。
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