マンガびとの館
『いぬ』
(C)柏木ハルコ
(小学館)

柏木ハルコ +++『いぬ』(小学館)+++

フラットな人間関係 その1

 いきなり『いぬ』でおなじみ(なのか?)、柏木ハルコだ。
 こういうコーナーの第一回というのは、今後の方向性を決定づけてしまう、あるいは見られてしまうし、また作品のチョイスでもセンスが問われる大事な回なんだが、『いぬ』だ。つまり、ぼくはそういう人間で、ここはそういうコーナーだと思って欲しい(なにがだ?)。

 じつは、ぼくは『いぬ』ではなく『よいこの星』が好きだ。『いぬ』を読んだのはそのずっと後、『よいこの星』が終了してからのことである。たいした理由ではないが、ひとつにこの『いぬ』は「新人のマンガ家が、とりあえず編集部の注文によって人気取りにでた作品」そう思っていた。もちろん、そういうマンガが面白くない、という図式にあてはめたわけではない。それらは相関関係を結ばないことくらい、ぼくだって知っている。評判になっているのは聞いていたし、批評されたものも読んでいた。だけどもある理由から、あまり読む気になれなかったのだ。

 「作家の意にそぐわない」作品が悪いわけではない。そんな中から名作だっていくらでも生まれるし、作家の入魂の一作がとんでもない駄作だったことだって、いくらでもある。それも承知している。
 それは問題ではなく、ぼくの懸念は、読者に媚びたようなただのエロマンガ(もちろん、これは誤解だった。)を、評論家がかってな解釈でもちあげてるだけなんじゃないか?そんな批評家へのものだったのだ。
 大雑把にいうと柏木の『いぬ』は、こう評価されていた。

 「女の子にも性欲はある、ということを 女性の視点 から真正面から向き合った傑作」

 いかにもな、うさんくさい批評 だ。性表現がうさんくさいのではなく、ぼくは「女の性欲」とか「女性の視点」とかいった切り口が大嫌いである。ほんとにどうでもいいことかもしれないけど。

 とにかく、ぼくがここで言いたいのは、柏木が「女の性欲」とかを「女性の視点」なんかで描こうとしたわけでは、けしてないということだ。性表現において、女性性が発揮されていることは当然あるだろうが、当の柏木にとって、そんなことは意図して表現したことではないはずだ。
 いや、たしかに、作家が意図していないことを指摘することは別にかまわないけど。それよりも『いぬ』の場合は、女性の性の意識を解釈することは可能であるが、ヌルい、とでもいおうか。
 ヌルすぎるぞゴルァ!!
 いかにも男性の視点で真正面から向き合いすぎていて、作品のテーマからズレてんじゃないか?
 ぼくが読んでみて感じたのはそんなとこだ。



フラットな人間関係 その2

 ではぼくの意見をここで少し。
 まず柏木の絵を見て欲しい。

 均質な太めの線で主体の人物から客体の背景まで、等価に描かれている。これはある種のふしぎさがある。あまり抑揚のない線で描かれているにもかかわらず、軟質性を保持しているのだ。この秘密に、ぼくは ハーフトーンの問題が大きいと思う。
 ハーフトーンというのは中間調子のことで、つまりマンガは、基本的に白と黒の組み合わせで色彩を表現するわけだが、現代マンガでは、スクリーントーンを駆使した西洋的な美観による陰影表現が主流になっている。そのスクリーントーンの種類の豊富さや、それらを削る、あるいは重ね貼る技法などで、中間調子の幅(グラデーション)が飛躍的に増すことになったのだ。

 しかし柏木の色は、それらの陰影表現の歴史などなかったかのように、あくまでもフラット に保たれているのだ。表紙のイラストから、柏木がミュシャっぽいアールヌーボー様式の影響下にあることを隠さないが、様式的にアールヌーボーというよりも、さらに遡って、アールヌーボーに影響をあたえた浮世絵の色感覚が、良く出ているように感じてしまう。(ちなみに念を押しておくが、これはカラー原稿も含むがあくまでもモノクロ原稿のはなしである。もちろん。)柏木の画面は、ほぼ「手描き」である。
スクリーントーンですむ場面でも、あえて手描きで通しているのは、フリーハンドの線によるフラットな画面からくる暖色系のニュアンス を主眼として置いているからに他ならないのである。

 これらの等価に描かれた、フラットな画面が生み出すのはいったいなんだろうか?仮に「女の性欲」とかを「女性の視点」で描いたとしても、それらは結局のところ、等価値的な画面に収束されてしまうのではないだろうか?
たとえば、柏木の性表現のシーンは思いのほか少ない。物語のなかで延々と描かれているのは「恋愛と性欲は別感情であること」という考え方と「恋愛と性欲は同居する」という考え方の「相反する思想の対立」ではなかっただろうか。これらの思想的対立構造 は「よいこの星」でも再三描かれていることだったはずだ。

『Reverie』(MUCHA 1897年)部分
ミュシャ。ギャル絵の世界的巨匠。日本のマンガ界に与えた影響も大きい。
版画っぽい、丁寧なハッチングで描写された陰影表現。
引いた視点、つーかギャグでないシーンをギャグ的にみせている。
太いふちどりのタッチ。

 はたしてこれらの対立を、柏木はどう結論づけたか。それらも柏木の考え方に呼応するかのように、フラットな画面に収束されていったのではないか。たしかに、物語が後半にさしかかり、とってつけた感もあるが「相反する思想」が 同居 する結末を迎えた。それは、たがいに理解しあうわけでもなく、最後まで「相反する思想」同士のものが、ただ「対立しない」世界であるが、しかしそこには、深刻さのかけらも感じなかったはずだ。
 ぼくには柏木のその考え方が、等価に描かれた浮世絵的な 画面の温度に体現されている ように思う。その、フラットな世界に。

 巻末に収録されているエッセイマンガにただよう、ある種の暖かさをぼくは信用してもいいと思う。対立することに深刻さをもとめない、理解しあうことを至上としないフラットな世界観がある。柏木ハルコって、きっとそういう人なんだ。



フラットな人間関係 その3

 あとから気がついた。 全面的にごめんなさい
 上述で取り上げた、ある柏木の『いぬ』に対しての批評は、「このマンガがえらい!」(宝島社)に載っていたものだった。しかも、その批評を書いたひとは、「女性性による性描写」うんぬん、なんて言ってませんでした。

 では、なんと書いてあったか。その批評では「男女関係の風刺」と言い、『いぬ』の結末が、バタバタとステロタイプな展開に落ち着いたことを「惜しい! 」とむすぶ。これはようするに、男女の人間関係をもっと柏木なりに描けたという意味で、ほめているのだが、誉めるところがズレている。

 しつこいようだが、ぼくはかならず結末が「互いに理解を強要しあわず、おなじ地平に立つこと」にしているのが、柏木さんの結論だとおもっているし、オチがあわただしく、描写不足という点も「惜しい」というより、彼女が「結末よりその過程が描きたかった」ということがよく分かる、と言った方がいいと思っている。
 とにかく、これはこれで ナニな感想文レベル なことには違いないよ。わるいけど。

2000/04/03
2000/04/17(追記)
2001/03/07(改稿)


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