マンガびとの館
『イッキ!!』
(C)久寿川なるお
(講談社)

久寿川なるお +++『イッキ!!』(秋田書店)+++

動物が話すということ その1

 競馬マンガである。
 とはいえ、今回の話は競馬の話ではないので、どうかうんざりしないで聞いて欲しい。きっと、おもしろいから。

 さぁ、競馬ものである。この競馬ものと、ひとくちにいっても様々な視点からの表現が考えられるだろう。いや、それは競馬に限ったことではない。どんなジャンルを題材に選んでも、表現したいものによって切り口が変わるのは、至極当然のはなしであろう。競馬であっても、そうなのだ。
 そこでまず、競馬マンガの視点として、以下4点に分類してみた。

    1≪ファンもの≫
      競馬に携わるファンを主体としたもの。主に「ギャンブラー系」が主流である。他には「ルポ系」などがある。
      『パッパカパー』『優駿たちの軌跡』等。

    2≪業界もの≫
      競馬業界が主体となる。内訳には今のところ「生産者系」「馬主系」がある。今後「JRA職員系」「騎手会系」などが予想されよう。
      『じゃじゃ馬グルーミンUP』『魅惑の砂』等。

    3≪職能もの≫
      職業技術が主体のマンガ。今のところ「騎手系」のみだが、今後「調教師系」「厩務員系」「予想屋系」「記者系」「装蹄師系」などが予想される。
      『ありゃ馬こりゃ馬』等。

    4≪競走馬もの≫
      競走馬が主体となるもの。
      『みどりのマキバオー』『優駿の門』等。

 

 

(左上:)『パッパカパー』史村翔/水野トビオ
(右上:)『じゃじゃ馬グルーミンUP!』ゆうきまさみ
(左下:)『ありゃ馬こりゃ馬』田原成貴/土田世紀
(右下:)『優駿の門』やまさき拓味

 大雑把な分類だが、だいたいこんなものだろう。また、これらの名称が変わるだけで、4を除く3つの分類項は、他のジャンルでも転用できるものであろう。

 ところで『優駿の門』は騎手が主人公だろ!というツッコミがありそうだが、あのマンガは競走馬が主体であって、騎手という職業についてはオマケである。
 さて、なぜ『優駿の門』が競走馬ものであるか、その理由を念頭に置きながら、論を進めたい。

 本作「イッキ!!」は4≪競走馬もの≫である。この競走馬が主人公という分類は馬の主観で物語られているということを指している。それはなにを意味しているだろうか。
 そう、マキバオーのように馬の言葉で話すという擬人化が、前提条件になってしまうのだ。例外的に、ある特定の競走馬の生涯を描いた偉人伝のようなマンガがあげられるが、このような作品は「生涯を語る」という、きわめて俯瞰的な視点で描かれるため、擬人化する必要はないからである。

 ともかく、4の場合は得てして擬人化されるということは、強調しておきたい。そしてもちろん、ここで問題として提示したいのは、その擬人化のレベル、つまり「擬人化度」である。



動物が話すということ その2

 たとえばこれは、ジャンプのマキバオーから、サラブレの『うままんが日記』(の一部の作品)まで、ものすごくハバがあるものだ。もちろん、これらは方法論の問題であって、作品の優劣を図るものではないが、人間とコミュニケーションをとることで、物語の便宜を図る方法から、極力抑えた表現で、ことばのおもしろさを狙ったものまでと、ある意味での「極と極」に近いハバがあるのだ。

 しかし、どちらの極にしろ「馬が話す」ことには違いない、ということは共通している。この『イッキ!!』は、そのハバの位置を観点にするなら「中間」というほかないだろうが、しかし理由なく「馬がことばを話す」という手法などで人間とコミュニケーションをとるということに対して、久寿川は不自然さを感じたのか、その問題を設定段階で解決させてしまった。その点においては、単純に位置づけることは、したくない。

 たしかに馬が話せば、コミュニケーションは楽にとれるし、手法的にも通常のドラマツルギーで通用する。動物を主人公に立てた場合、言葉は必ずぶち当たる壁であることは、間違いないのだが、久寿川は競走馬というテーマを強調したいがために、その問題を避けてはいけなかったのである。

 マキバオーはなんの説明もなく、人語をべらべら話す。『優駿の門』では言葉は話さないが、その分表情が多彩である。どちらであっても、馬が対人間であるときと同等にコミュニケーションをとることについて、なんの説明もないことはかわらない。たしかに競走馬の主観を描かなくてはおもしろくないのだからじょうがないのだが、どこか不自然さもつきまとってしまう。いや、そう感じないひとのほうが大多数であるのだろうが、すくなくとも久寿川はそう考えなかった。マキバオーのように擬人化せず、かつ競走馬の視点で物語れないか・・・。その回答が『イッキ!!』だったのだ。

 主人公の競走馬「シンガリイッキ号」は、前世が人間で、さらにその前世の記憶を残したまま転生した、という設定である。こう書くとわりに凡庸に感じるかもしれないが、それは設定のめずらしさにおいてのことで、そのことよりも、久寿川には競走馬の立場で語らなければいけない、なにかがあった。もっと正確にいえば、人間の知能を持ちながら競走馬の視点を借りて言わなければ説得力を持たないなにかがあったのだ。それを達成するための設定だったわけだ。そしてそれが、みごとに生かされているのだから、絶妙だったと評価するほかないのだ。人の知恵と言葉を特権的に獲得したイッキは、競走馬と人間という関係を代弁していく。たとえチープともとれる設定であったとしても、久寿川の表現手法においての真摯な態度は、高く評価したい。クレバーなひとだなぁ、まったく。



動物が話すということ その3

 さすがに「動物もの」だけあって泣かせてくれる。とにかく競走馬というのは、はかなくて、まさに「ガラスのような繊細さ」が魅力としてまちがいなく機能してると思う。脚を骨折しただけで死亡してしまうという生き物としての弱さは、それだけで強烈なメッセージ性があるしな。競走馬もののマンガにはなくてはならないテーマとなりつつあるようだ。秀逸は『優駿の門』だけど、この『イッキ!!』も抑えた表現ながら、ものすごく泣くよ。

 あと、個人的には「岩手の怪物トウケイニセイ」をモデルにしたヤマビコオーのエピソードも好きだ。もちろん、一番好きなのはフェアリィクロスの最後と、JCのエピソード、とにかく全部が好きなんだ。ベタっていうな。

2000/04/09


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