| マンガびとの館 | ||||
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| ■佐々木倫子 +++『動物のお医者さん』(白泉社)+++ | ||||
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□能動的なディスアクション その1 佐々木倫子の絵はどうだろう? 『イッキ!!』のあとに「動物もの」とは、なにか関連があるのでは?と勘ぐられてしまいそうだが、ぜんぜん関係ないのであしからず。むしろ『Dreams』で論じたことのほうが、関連は深い。今回もマンガの運動表現のはなしである。 NHK、BS最大のヒット番組「BSマンガ夜話」は、ご存知だろうか?出演者が、ひとつのマンガ作品について1時間、生放送で語り合うというライブ感あふれる番組だ。そこで、いくつか気になる議論がなされていたのだが、ちょうどよいので、そのことを踏まえながら、佐々木マンガの運動表現の問題について、考えてみたいと思う。 さて、佐々木倫子の絵は上手いのだろうか?たぶん、8割以上のひとが「うまい!」というだろう。「BSマンガ夜話」では、この「上手いかヘタか?」という点で、出演者のマンガ家、いしかわじゅんと夏目房之介の間で、けっこう不毛な議論がなされていたことが目立っていた。大雑把に説明すると、いしかわは「みんな上手いっていうけど、マンガの絵としては完成度が低いよね」といったヘタ派で、夏目は「いや、けっこう動物はうまいよ、やっぱ」のウマイ派だったと、ひとまず言っておこう。みなさんは、はたしてどちらの意見を支持されるだろうか。もちろん、ぼくは両方指示しない。理由は簡単だ。 たまたまここでは、生番組というライブ性の、悪い側面がでてしまって「上手いかヘタか?」の議論になってしまったが、傍から見ていて、実は二人とも「そう意見が対立しているわけではない」と思った。論点がお互い違っているということである。もちろん、おふたりもそのことは充分理解しておいでのことなので、ある程度のところで切り上げていたが、争点がズレている議論ほど、不毛なものはないのである。どこまでいっても平行線をたどるしか、ないのだから。 では、いったい彼らは、なにを言わんとしていたかというと、それはまず、佐々木倫子の作画法について語らねばならない。その意味では、同番組内において岡田斗司夫が、佐々木倫子の絵を「フリーズ系の絵」と名づけていたのは、言いえて妙というもので、多分に示唆的である。というのも、佐々木倫子は、 写真を手本に描くという手法を基本としている。さらには写真資料のないポーズを描く必要があれば、その場でアシスタントにポーズを取ってもらって描く。そういう方法論であるのだが、この方法は他の作家もやっていることだし、なにも佐々木にだけ有効な手法ではない。 しかし通常、人物を描くにあたって、写真を手本にする場合、何を描こうとしているのか想像していただければ、よくわかると思うが、ほとんどが動作である。つまり、絵で人間の動作を描くには、写真でポーズを確認しながら、そのあとの動作にまつわる躍動感、動作感といったものは、作家の想像力で補うことが必要になってくる。それには、単純な絵の技術も必要だし、どのポーズを選択すれば、よりらしくなるか、というセンスも問題となってくるわけだ。ヘタな作家が描けば、動いているはずのシーンでも、止まっているように見えたりする。 □能動的なディスアクション その2 では、佐々木はどうか?極端なまでに 動かないのである。動いているはずのシーンでも、止まっている。その絵は、つねに静的な印象が漂っているのだ。 これが何を意味するかといえば「運動している」ということを描こうとしていないということなのだ。動かそうとして失敗した画面ではなく、はじめから静的な画面を意図した、 確信的な静止である。 先にも述べたように、写真で運動を表現することは可能である。ここ20年のマンガの歴史は写真素材から、いかに動きのある絵を描くかということに集約されているといってもよいだろう。それは対象のポージングの問題であったり、ペンタッチであったり、さまざまな方法論はあるが、それらの努力はすべて「生きた運動」を表現するため、運動の「特権的な瞬間」(Lessing)を描くことから、時間を獲得しようとする試みであることには違いない。 佐々木倫子は「にもかかわらず、佐々木倫子は静的な運動を描くことを選択している」。例えば、抑揚のない丸ペンの線も運動の躍動感を、きわめて無臭化するものであるし、陰影表現もほとんどなされていない。書き文字は明朝体のレタリングがなされているし、人物の表情は抑えた表現がとられている。 これらはつまり、運動の躍動感を表現するものでは、すでにないということを表している。写真や絵画は、あくまでも静止画であって、時間を内包していない。だからこその運動、ひいては時間の獲得を命題に掲げるわけだが、佐々木は、絵の宿命を受け入れたのだ。佐々木は運動する時間の獲得を、やめた。 また、ただ受け入れただけではなく、独自の温度を付け加えてる。たとえば、描き文字にただ写植を使用するのではなく、あくまでも手描きでおこなったし、また、さらにテクストにしても、やわらかさを演出するよう、独特の使いまわしで配慮されていることも見逃せない。 また佐々木倫子は、コマの分節とナレーションによって、運動する時間のかわりに重層的な時間を表そうとしている。佐々木は、コマの分節で運動を表すことはほとんどしない。「写真的な絵」に「写植的な手書き文字」でツッコミをしてみせるなどの手法は、あきらかな時間的異相を創りだしている。 それらの達成には、なめらかな運動表現は、むしろ邪魔にすらなるだろう。そこでは、絵はあくまでも挿絵的なものでなくてはならず、物語を進行せしめているのは言葉とコマなのだ。手塚以後、日本の現代マンガのコマ構成は、非連続的な絵をいかにして連続せしめるかという歴史であったが、佐々木はむしろこの非連続的な時間を強調するものだ。 これらはすべて、ディス・アクションに向かうものである。
2000/04/09 |