マンガびとの館
『AKIRA』
(C)大友克洋
(講談社)

大友克洋 +++『AKIRA』(講談社)+++

老人から子供への円環

 たまには、すこしだけストーリの解釈でもしてみようかと、思ってみた。
 『AKIRA』である。大友克洋については、もう鼻血もでないほど、語られ尽くしている。マンガの表現手法に関する考察から、さまざまな専門分野から解釈された、ストーリー論(メディア論、都市論、社会学などうんざりするほど)まで、大友という土地はすでに蟻の徘徊するほどのすき間すらない。

 で今回は、もっと単純なところで『AKIRA』を考えてみようというわけだ。そもそも『AKIRA』のストーリーは正直、むずかしくないだろうか? ビジュアルショックに惹きこまれて最後まで読んでしまうが、たとえば他人にこの作品をおすすめするとき、なんと説明したらよいだろうか?結局、どういうはなしだったっけ? と、そんなふうに困惑された方もいるんじゃないだろうか。すくなくともぼくはそうだった。基本的に大友のセンスが苦手なのだ。

 そうではない人は、きっとこの先を読まなくても大丈夫だと思うので、この後の『ゼロ動線』に進んで欲しい。そっちでいつものマンガ手法の話をやってるから。
 ともかく今回はそんなどーでもいいはなしである。

 クライマックスで鉄夫が、赤ん坊の形態を模した肉のかたまりになったり、なにやら覚醒したりと、 よくわからないけどなにかありそうな思わせぶったシーンが続出する。あれはなんだったんだろう?そのへんで、ちょっと思いついたことがある。

 その前にヤングマガジンというメジャー誌が、大友克洋という、一部の熱心なマンガファンには好評でも、一般的とはとてもいえない作家に『AKIRA』を描かせたきっかけとなった『童夢』に遡りたい。

 『童夢』では、 チョウさんという「ボケ老人」が出てくる。実は、このチョウさんが主人公だ。中半で占い師の「子供に気をつけろ」というセリフがあるが、ここでいう「子供」とは、エッちゃんという少女のことのように示唆しておきながら、実は「老人」チョウさんだったわけだ。これは、乱暴にいってしまうと、老人と子供が同一視されているということでもある。
 ぼくが思うに、老人がボケていく、あるいは歳をかさねる事において、脳が萎縮していくことで、その過程で失われるものがあるのは必然だ。その状態と、未発達段階にある子供の、未獲得なものの類似性のことを言ってるんじゃないだろうか。すくなくとも大友はそう考えてるのではないだろうか。ぼくには、そんな気がする。

 そのことを念頭に置きながら『AKIRA』を見ていくと、『童夢』の段階では、素直すぎて味気のないメッセージがテーマの進展という点において洗練されていることに気づく。「子供」と「老人」という、ある意味での両極を、同時に兼ね備えるアンビンバレンツなビジュアル「タカシ」らのデザインがそうだ。絵面の面白さにまで展開させている。これは、テーマを進展させることによっていきついた、成功例だと思う。

 その一方で『童夢』で示したテーマ性を突き進めた結果が、クライマックスのシーンだろう。鉄夫が覚醒した場面では、脳と関連づけるデザインの球体を描き、さらに主人公の金田が過去を遡ってみたり、その過程でDNAの塩基配列の図が描かれたりと、多分に示唆的なビジュアルがつづく。

子供と老人の融合体”タカシ”

赤ん坊へと回帰する鉄男

こりゃ、脳だろ?! DNAのデザイン

【AKIRA】老人・子供・脳



エラい目にあうチョウさん
【童夢】(双葉社/1983)


 この一連のシーンが、ぼくにははじめ、なんのメタファーなのかよくわからなかったのだが、今はそう思う。「人は赤ん坊にうまれて、歳をとって赤ん坊に還っていく」という、動物生命の進化の過程を垣間見るような、そんなテーマではないだろうか。


2000/06/13

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