悪人正機
親鸞聖人の有名な説に悪人正機という説があります。
みなさんはお聞きになったことがあるのではないかと思いますが、
「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」
という一節が歎異抄に出てまいります。
つまり善人でさえ往生できるのだから、
悪人はいうにおよばないということです。
世間の常識からいえば、悪人でさえ往生できるのだから、
善人はいうにおよばないとなるところでしょうが、
親鸞聖人はあえて正反対のことを仰っているのです。

そのことに関しまして、この前、偶然ラジオを聞いていましたら、
ある有名なタレントさんが、こういうことを言っていました。
「ひとに親切にしなさい、いつかは返ってくるんですから」。
みなさんはこの言葉を聞いて、どう思われるでしょうか。
なるほどさすがにうまいことを言うもんだ、
ひとに親切にすればいつかは見返りがあるんだから、
ひとに親切にしておかなければならないと思われるでしょうか。

わたしは"おやっ"と思いました。
ひとに親切にするというのは、まさに善人であります。
ところが、その後の言葉にひっかかったのです。
いつかは返ってくるんですからというのでは、
これは下心があるぞと。
つまり、いつかは返ってくるという見返りを期待している
親切といえるのではないでしょうか。
とすれば、それが本当に相手を思っての親切なのかといえば、
自分の為にしている親切にすぎないないのではないかということで、
"おやっ"と思った次第です。

それでは本当の親切とはどういうものでしょうか?
真宗では信心の非常にあつい念仏行者を妙好人と言っていますが、
その妙好人といわれる人の中に「因幡の源左」という人がいました。
このひとの数あるエピソードのなかに次のようなものがあります。

ある時、この源左さんが自分の段々畑にこやしをやりに行きました。
自分の畑に着いてみると、
自分の畑より隣の畑がえらくやせているのに気が付きました。
そこで源左さんは「オーオー、こちらが先だけえの」と言って、
よその畑にこやしをかけて帰って来たということです。
人が聞いたらあきれるような話ですが、
こういう私のものも人のものもない、
無私無欲でするのが本当の善でありましょう。

しかしながら、
わたし達のしている善は何か下心があるのではないでしょうか。
先程も申しましたように、いつかは自分に返ってくるような善、
つまりは自己関心から離れることのできない善しか
なしてはいないのではないでしょうか。
ですから、他人にした親切に対して、
その見返りとしてのお礼の言葉が返って来なかったりすると、
腹をたてたり、また何か悪いことが起こると、
なんでわたしがこんな目に会わなきゃならんと恨んでみたり
ということになってしまいます。

親鸞聖人は、そういうわが身を振り返って、

「浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし」

というように和讃の中で、
清らかといえる心もまったく無いと嘆いておられます。

ですから「地獄は一定すみかぞかし」、
つまりは地獄に落ちるしか行きようのない身
なんだという自覚に立たれたわけです。
そして、そういう悪の身を自覚しているからこそ、
弥陀にすがろうという気持ちがおこるのです。
ですから、善をなしたと善に誇っている善人よりも、
深くわが身の悪を自覚した悪人こそが、
弥陀にすがるしかない身なんだと自覚できる人であり、
往生の正因なんだと親鸞聖人は仰っておられるのです。
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