はだかの王様
この前、筆を使っていてうっかり顔に墨をつけたまま、
月忌参りにでかけようとしました。
家を出たとたんに、たまたま近所の人が通りかかり、
挨拶を交しましたら、
「失礼ですが、お顔に墨が付いていますよ」と教えられ、
恥ずかしい思いを致しました。
しかし、それから何軒も墨の付いたまま
月忌参りをしなければいけなかったかと思うと、
教えていただいて本当に良かったと思いました。
このように、
あなたの顔が汚れていますよと教えられたら感謝できるのですが、
もしこれがあなたの顔じゃなくて、
あなたのこころが汚れていますよと教えられたら、
果たして感謝できるでしょうか?

アンデルセンの童話に「はだかの王様」という話があります。
これはいつも素晴らしい衣装を着て、
街を練り歩くのが大好きなおしゃれな王様が、
贅沢な服を着るのにも飽きてしまい、
皆が驚くような服を着てみたいと思っているところに、
ある日、王様の前に洋服屋が見たこともない
珍しい洋服を作りましょうと言ってきます。
それは素晴らしい色合いで、
しかも、軽くて重さも感じない、
そして賢い者には見えるのですが、
バカには見えない衣装だと言われます。
その話を聞いた王様はその衣装が欲しくてたまらなくなり、
たくさんのお金を出して作らせます。

作っている最中に臣下の者が見に行くのですが、
バカと思われるために見えないということは言えませんでした。
王様も見たのですが、皆が見えるというので、
やはり見えないとは言えず、
最後にはその衣装を褒めちぎります。

そして王様はその衣装が出来上がると、
早速それを着て街中を練り歩きます。
街の人たちは王様が怖くて何も言えません。
ところが、その中の子供が
「王様が、はだかで歩いている」と笑いますと、
それがきっかけで街中の人々も王様を笑いました。
これがストーリーですが、
私たちのこころを良く分からされてくれる話ではないでしょうか?

人からは賢い人間と思われていたい。
ましてやバカなどと思われたくない。
見えるところは精一杯着飾って見映えだけは良いけれど、
自分の心の汚れなど全く気付いていないのが
私たちの姿ではないでしょうか?

近頃思うのですが、年を取れば取るほど、
人の言うことに耳を貸さなくなって、
かたくなになって行くように思います。
心に柔軟性が無くなっていくのでしょうか。
それ程わたしというのは、
自分のことはもう分かっているんだということで、
自明のものとしてしまっています。
しかし、他人の顔に墨が付いているのはよく気がつくように、
他人の欠点はよく気が付くのです。
ところが自分の顔に墨が付いて汚れていても、
自分では気がつかないように、
自分の心の汚れはなかなか気が付きません。

蓮如上人の仰った言葉を残された、
『蓮如上人御一代記聞書』という書物に
「わが前にて申しにくくは、
かげになりとも、わがうしろ事(かげ口)を申されよ。
聞きて心中をなおすべき」と申されたと書かれています。
仏法というのは自分ではなかなか気付かない
あさましい自分の姿に気付かせてくださり、
それを救ってくださる教えなのです。
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