家壊しの親玉
みなさんは高光大船という方をご存知でしょうか?
あの有名な画家の高光一也氏の父親でお寺の住職でした。
その方が自坊で説教をしていた時、
村に住んでいるひとりの奥さんが
「私の家では、
私が言いたいことも言わずに我慢しとりますから、
家がまるく治まっております」と言ったそうです。
すると高光大船師は
「そんなら、お前が家壊しの親玉じゃないか」
とその奥さんに言ったそうです。
自分こそが家をまるく治めている原因だと思っていたその奥さんは
「なんで私が家壊しの親玉なんですか?」
と食ってかかったところ、
「お前が目一杯言いたいことを言えば家が壊れるんだろう。
だから、お前が家壊しの親玉じゃないか」
と言ったというエピソードが残っています。
まさしく私のことを言い当てられているような気がしましたが
みなさんはどうでしょうか?

私たちの家庭でも、
それぞれが自分こそが一番我慢している善人なのだ
という思いを抱いているのではないでしょうか。
私たちは自分こそが善人で悪いのは他なんだと思いがちです。
浄土真宗の中興の祖である蓮如上人は
「人のわろき事はよくよく見ゆるなり。
わが身のわろきことは、
おぼえざる(気が付かない)ものである。
わが身にしられてわろきことあれば、
よくよくわろければこそ、身に知られ候と思いて、
心中を改むべし。
ただ、人の云うことをば、よく信用すべし。
我がわろき事は、おぼえざるものなる(心当たりがないものだ)」
とおっしゃったということが伝えられています。

また親鸞聖人は「よしあしの文字を知らぬ
(善悪ということの意味も言葉も知らない)
ひとはみな、まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは(善悪の意味や言葉を心得ているような顔つき)
おおそらごとのかたち(大嘘つきの姿)なり」
と書き残されています。

この世に起こるいろいろな事件を見ても
我が家に起こるいさかいごとについても、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろずのこと(さまざまなこと)、みなもって、
そらごと(嘘の言葉)、たわごと(たわけた言葉)
まことあることなき(真実はない)」
という親鸞聖人の言葉にうなずかされる思いがします。
その後で聖人は
「ただ念仏のみぞまことにておわします」
とおっしゃっておられますのは、
まことの善など行ないえない私の為に、
仏の方から救いを用意されておられる、
それが念仏を申す道なのだということを
おっしゃりたかったのだと思われます。
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