常楽我浄
仏法では生老病死を四苦というように申します。
これらが何故苦しみとなるのかという理由は、
案外知られていないのではないでしょうか。
それは仏法の教えでは、
私たちの心は四つの満たしたい尺度を持っているからだといわれています。
その四つの尺度とは常・楽・我・浄といいます。
最初の「常」というのは、
常なることであり、
いつまでもいつまでもと願うことです。
いつまでも若くありたいとか、
いつまでも長生きしたいというのが私たちの心ではないでしょうか。
次の「楽」というのは、
字のとおり、楽しいことであり、
快適なことであり、不都合なことを嫌う心です。
三番目の「我」とは、
私がいつも中心であることを主張し、
無視されることを何よりも恐れることです。
最後の「浄」というのは、
自分や自分に属するものが善きことであり、
非難されるものは何も無いと主張することです。
これらの四つが私たちの理想とするところで、
この四つを満たそうと絶えずがんばっているのが私たちの姿ではないでしょうか。
ところがこれらは到底満たされることはありません。
何故なら、わが身の事実は、
老い、病み、やがては死する身だからです。
ですから私の心の尺度である常・楽・我・浄を実現させようとする限り、
身の事実と矛盾して、
苦しみが絶えることは無いというのが仏教の教えるところです。
それで、このような常・楽・我・浄という智恵は、
仏教の言葉では「四顛倒(してんどう)」といいます。
四つの道理に背く見解ということです。
ところが私たちはものごころついて以来、
常・楽・我・浄を満たそうという生き方しか知りませんから、
自分の思いどおりにならないことに、
しばしば遭遇してしまうということになってしまいます。
それというのも、
自分というものを中心にものを考えているためではないでしょうか。
自分を中心にものを見ると、
自分の身体でさえ自分が生き延びるための手段のように考えてしまいます。
ですから老いてゆく身を嫌い、
病いになる身を恨み、
やがては命終わってしまう身を恐れて生きるということになります。
仏法はそういう私たちに目覚めを促しているのです。
弥陀如来が浄土に往生せんと願って念仏せよと勧めてくださることによって、
自分自身の姿が明らかに照らし出され、
自分の姿に目覚めるということが起こります。
それが常・楽・我・浄という道理に背くことを追い求め続けて、
苦の絶えることの無い人生であったという目覚めです。
目覚めてみれば、
苦の原因ははっきりするのですから、
最早、苦に押しつぶされることは無くなるのです。
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