堪忍する事
先日、僧侶をしている友人から
葬儀の諷経僧(ふぎんそう)をたのまれました。
諷経僧とは声をそろえてお経を読誦(どくじゅ)することで、
導師の横に立って一緒にお経をあげる役です。
葬儀は10時からだったのですが、忙しい日でしたので、
朝一番に郊外の門徒さんの家へお参りに行ってから、
葬儀に向かいました。
ところが市内の中心部に近付くと次第に車が渋滞し出して、
その最後部に並ぶはめになりました。

それでもまだ時間は充分あったので、
すこし我慢をすれば、
すぐ渋滞は解消されると思っていました。
しかし車は少し進んでは止まるといった状態で、
段々葬儀の時間に間に合うか心配になってきました。
気持ちもイライラしてきて、
そのうちなんでこんなラッシュアワーの
時間帯を過ぎているのに渋滞するんだとか、
先頭の車はモタモタしないでもっと速く走ってくれたらいいのにとか、
八つ当たりぎみの気持ちになってきました。
ようやく10時10分前頃に渋滞を抜け出すことができ、
葬儀の始まる時間と同時に葬儀場へ飛び込むことができました。

それからしばらくして、
ある本で妙好人の源左(げんざ)さんのエピソードを
読んでハッとさせられました。
あるとき源左さんは有名な西田天香氏が講演に来られるというので、
そのお話を聞こうと出かけました。
ところが途中に時間がかかり、
会場に着いた時には、もう講演は終わっていました。
せっかく来たのだからということで天香氏の控え室へ行き、
肩を揉みますから、
今日のお話のあらましをお聞かせ願えませんかと申し出ました。

天香氏は
「おじいさん、
年がよると気が短くなってよく腹がたつようになるものだが、
何でも堪忍して、こらえて暮らしなされや。
そのことを話たんだが」。
すると源左さんは
「オラは、まんだ人さんにカンニンしてあげたことはないんだがやぁ。
人さんにカンニンしてもらってばかりいますだいな」と言ったそうです。
天香氏はその意味がよく飲み込めず、
「おじいさん、なんと言われたか。いま一度言うてくれんかいな」。
すると源左さんは
「オラは、人さんにカンニンしてあげたことはないだいなぁ。
オラのほうが悪いけ、
人さんにカンニンしてもらってばかりいるだがやぁ」。
この源左さんの答えに、さすがの天香氏も
「真宗の同行(どうぎょう)には実にえらい人がおる」
と感心されたという話が載っていました。

わたしはこの話を読んでハッと気が付きました。
「オラはカンニンしてあげた事は無い」というのは、
わたしに当てはめてみれば、また渋滞の列に入ったら、
再び他の車に八つ当たりするのに違いありません。
「オラのほうが悪いケ、
人さんにカンニンしてもらってばかりいるだがやぁ」。
これはよく考えてみれば、
渋滞の列の中に入って、
わたし自身が渋滞の一因を作っているのです。
とすれば、他の車から見れば、
わたし自身が堪忍してもらっているのではないでしょうか。

わたし達は家庭生活においても、社会生活においても、
自分自身が一番堪忍しているんだと思いがちですが,
実際はわたし自身が他から堪忍してもらっているのではないでしょうか。
ところが、わたし達はいつも自分中心に物を考えるものですから、
一番堪忍しているのはわたしなんだという被害者意識で物を見がちです。

真宗では悪人正機(しょうき)ということを申します。
堪忍していると思っているうちは善人意識ですが、
堪忍してもらっているという
一生造悪の凡夫の姿に目覚めさせられた時、
そんな凡夫こそが弥陀の救済のお目当てなんだと
安心して過ごせる境地が開けているのが、
源左さんの言葉となったのではないでしょうか。
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