幸福
幸せになりたいというのは、
誰しもの願いでありましょう。
しかしながら、
何をもって幸せというのかといえば、
人それぞれです。
ある人は富を得ることが幸せでありましょうし、
またある人は地位をうることが幸せと考える人もあります。
そのほか家庭が円満にいくことが幸せと考える人もれば、
健康であることが幸せと考えている人も多いようです。
もう少しお金があったら幸せなのに、
もう少し会社で地位が上がったら幸せになれるのに。
また家庭にあっては、
もう少しお舅さんが優しかったらとか、
もう少しお嫁さんが気の付く人だったら、
また子供がもう少し勉強ができたらなど、
思いはさまざまです。
しかしながら、
仏法が教えているのは、
お金が無いことが不幸にしていると思っているけれども、
お金を欲しがる心が苦しみを作っているんですよ。
また出世できないから苦しんでいるように思っているけれども、
そうではなくて出世したいと思う心が苦しみを作っているんですよ。
子供が勉強できないから苦しんでいるように思っていますが、
勉強できる子供が欲しいと思う心が不満を作っているんですよと教えています。
そのようにわたし達は外にいろいろな条件を作って、
それが実現した時に幸福になれると思っていますが、
求めても求めてもやまないという、
私自身にこそ問題があるんだと仏法は教えています。
求めても求めてもやまないのが私自身ですから、
いつまで経ってもどこまでいっても満たされるということがありません。
また満たされるということが無いから、
虚しく暗い気持ちななってしまう。
そしてその虚しさから逃れるために、
ますます求めて満たされようとしているのが、
わたし達一般の姿なのではないでしょうか?
そして一生は満たされることの無いまま、
虚しく過ぎてしまうということになってしまいます。
それでは、
その求めても求めてもやまない心を無くしてしまえば、
苦しみから逃れられるというので、
厳しい修行をしているのが、
いわゆる自力といわれる宗派です。
ところが自分の力で求める心を無くしようとすることは、
実は重大な矛盾を含んでいるのです。
つまり求めても求めてもやまぬ心を無くしようとするその心が、
やはり無くしようと求める心ですから、
どこまでいっても求める心は無くならないというジレンマに陥ってしまいます。
ですから、
自分でその求める心をなくすることは、
大変な困難を伴ってしまうということになってしまいます。
親鸞聖人はそういう自力の修行を捨てられて、
比叡山を降りて、
法然上人のもとへ行かれました。
そして法然上人を通じて阿弥陀如来に出会われました。
それがどういう出会いだったのかといえば、
阿弥陀如来のほうが、
そういう私達の求めても求めてもやまないという本質を見抜かれて、
救いを用意されていたということです。
それが弥陀の本願であり、
歎異抄にも
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
と書かれてあるように、
如来からの救いということで、
真宗の救いを他力といいます。
そのように、
弥陀如来のほうから救いの手を差し伸べられているにもかかわらず、
私達はなかなかすがろうという気持ちが起こりません。
何故なら、
私達はお金を貯めることや、出世することや、
勉強のできる子供を持つことが幸せなんだという考えを離れることができないからであり、
そのもととなっているのが求めても求めてもやまないという、
私自身の姿に気が付かないからではないでしょうか?
しかしながら、
その求めても求めてもやまないという自分自身が解決されない限りは、
満たされる日々は訪れないんだというのが仏法の教えるところです。
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