末代無智
蓮如上人の作られた
「末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは」
という『御文』は、
みなさんも聞かれたことがあると思います。
この末代無智といいますのは、
もう誰もさとりを開くことのできない時代で、
その時代の者は愚かで智恵が無いという意味です。
ところがそのように呼びかけられますと、
反発を感じる人がいるようです。
確かに蓮如さんの時代なら、
各地で戦乱の絶え間の無い時代で、
また当時の一般民衆などは学問を受けることもできなかったのだから、
末代無智かもしれんが、
現代という文明の進んだ時代に、
末代無智などと言われるのはピンとこんと。

なるほど蓮如上人の時代は、
大地が動いているという地動説などは誰も知らない時代ですから、
無智といえるかもしれません。
それに比べて現代人は教育を受けていますから、
その頃の人々よりは数段知識を持っているのは間違いありません。
今では、
地球が太陽の周りを回っているというのは誰でも知っています。
そのように近代文明は自然を観察し、
その法則を知ることによって数多くの知識をもたらしました。
今ではその文明の恩恵を受けなければ、
一日も暮らしていけないくらいに生活の隅々にまで浸透しています。
人々はその知識を活用して、
より便利でより快適な生活を作ってきました。
そしてそれは人類にとって地球が住みよい環境となるように、
工夫してきた歴史ともいえるのではないでしょうか。
そしてそのために自分に都合のよいことを求め、
都合の悪いことは排除して夢や希望をかなえようとしてきました。

ところが、
自分に都合の良いこととはどういうことでしょうか?
それはいつでも自分が中心で、
楽しいことばかりがあって、
いつまでも若くいられて、
病気もせずに、
死ぬのはいつも他人事というのではないでしょうか。
それにもかかわらず、
現実はなかなかそうはなってはくれません。
なぜなら、
わが身の事実は自分の力では、
自分の髪の毛一本さえも白くも黒くもすることはできないのです。
身を受けた時から、わが身の事実は、
病気になる身であり、
老いてゆく身であり、
やがては死する身ではないでしょうか。

そういう身の事実でありながら、
その事実から逃れることを夢や希望としている、
この私の智恵にこそ問題があるのではないでしょうか。
つまり私の本当の苦しみは、
自分に都合の良いことが大好きで都合の悪いことは大嫌いという、
その根性にこそ原因があるのです。
ですから、
わが身の事実と我が思いとがいつも矛盾してしまうということです。
そしてそういう我が思いの方を優先させていこうとするところに、
苦しみの原因があるのだということです。

私たちは自分こそが賢いのだとばかりに、
自分の智恵を頼りに物事の解決をはかってきました。
ところが私の智恵というものは、
いつでも自分の都合のよくなることを求める智恵ですから、
どこまでいっても解決が得られないのです。

法然上人は
「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」とおっしゃったと言われています。
つまり、自分の智恵を拠りどころとしていては、
わが身の解決は得られないということに目覚めさせられた上人は、
自分の思いを拠りどころとしないものとして、
即ち愚者となりて、
救われたとおっしゃっているのです。
ですから「末代無智の」という呼びかけは、
蓮如上人のお文の中の言葉でありながら、
実は弥陀からの呼びかけと受け取らなくてはなりません。
そしてそれはわたしの頼りにしている智恵が、
愚かなものであるという目覚めをうながす呼びかけだということです。
戻る