勿体無い
勿体(もったい)無い

最近はグルメブームとか申しまして、
テレビでも頻繁にごちそうを食べる番組が見られます。
先日もテレビを見ていましたら、
若い女性レポーターが新鮮な魚貝類を食べるという番組がありました。
そのレポーターがある港町へ行きまして、
いろいろな魚のおさしみを食べたあげくに、
最後に七輪の炭火の上に網がねを置いて、
その上に生きたアワビをひっくり返して乗せて、
それを焼いて食べるという場面がありました。

アワビは熱いものですから、
身をよじっている様子が映し出されました。
女性レポーターはそのアワビを見ながら
「少しかわいそうな気もしますが、
おいしくいただくためには仕方ありませんね」
と言っていました。
そのうちアワビも力尽きて動かなくなって、
そして焼けたアワビを美味しそうにほおばる
レポーターの口元が映し出されました。
その口紅を塗った赤い口元が
何か血がしたたっているような感じがして、
強い印象を受けたのを覚えています。
しかしながら、
何もその女性レポーターを残酷だと非難するつもりはありません。
その時、
自分もたくさんのいのちの犠牲の上にあるのだ
ということを実感させられたということです。

そのようにわたし達はたくさんのいのちの犠牲の上に
私のいのちが成り立っているのですが、
わたしのいのちを支えているのはそればかりではありません。
例えば、山登りをしてようやく頂上に辿り着いて、
持ってきた水筒の水を一杯飲んだりしますと、
身体中に滲み渡って「ああ、生き返った」となるのではないでしょうか。
この時、水にはいのちというものはありませんが、
わたしというものを生き返らせるようなはたらきがあります。
つまり水にはわたしをどうこうしようという
意思となる主体といえるものが無いにもかかわらず、
我々を元気にしてくれるというはたらきがある。
そういうはたらきに対して、
わたし達は「勿体無い」という言葉を使います。

また、昔は水道の水を出しっ放しにしたりしますと、
「勿体無いことをするな」といってしかられたものです。
それもそういうはたらきのあるものを
無駄にするなという教えだったのでしょう。
このように主人公となるものがないにもかかわらず、
あたかもいるようなはたらきをするものに対して、
「勿体無い」という言葉を使います。

皆さんは阿弥陀如来といいますとどういうお方だと思われるでしょうか。
浄土真宗の家の方は、
仏壇の中の掛け軸に描かれた絵像を思い浮かべる方が多いかと思います。
その掛け軸の裏側に
「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)」
と書かれてあるのをご存知でしょうか。
この方便は「嘘も方便」という言葉もありますが、
要するに真実に至る手だてということです。
つまり方便法身というのは法身(真実の仏)に至る仮の手だてという意味です。

それでは法身というのはどういうことでしょうか。
親鸞聖人は真実の仏は色も形も臭いさえも無いと仰っておられます。
ところがそれではわたし達には取りつく島もありませんから、
わたし達に分かる手だてとして、
仮りに形に現した姿を「方便法身尊形」という絵像で表現したのです。

そして真実の世界からわたし達の世界へ至り来てくだされた、
阿弥陀如来の御名を称えることによって、
親鸞聖人は自分も教化を受け、悟りにいたらしむるはたらきを受け、
目覚めることができたと仰っておられます。
つまり南無阿弥陀仏という言葉には主体となるものが無いにもかかわらず、
あたかも阿弥陀如来という主体のある方がおわしますが如く、
我々を教化し目覚めさせるはたらきがあるのです。
その意味で南無阿弥陀仏という言葉は仏様のはたらきそのものであり、
そのはたらきは水のはたらきと同じように
「勿体無い」というはたらきといえるのです。
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