無言の行
よく知られている僧侶の笑い話があります。
ある日、三人の僧侶が無言の行を始めたそうです。
最初のうちは話をせずにがんばっていたのですが、
日が暮れて来ると、
一人の僧侶が
「暗くなった。誰か燈を点けなさい」と言いました。
すると他の一人の僧侶が
「今は無言の行の最中だ。ものを言ってはならぬ」
と言ってしまいました。
無言の行に失敗してしまったのですが、
わたしたちもこのような失敗をしてしまいそうです。
最後の僧侶の言った
「ものを言わなかったのは、ワシだけじゃ」という言葉に、
自分こそが行をなしたという自分を誇る気持ちが表れています。

仏教ではよろこびには、
世間のよろこびと出世間のよろこびとがあると教えています。
世間のよろこびとは、煩悩のよろこびのことであって、
名聞(みょうもん)、利養、勝他が満足されたときのよろこびのことです。
名聞とは世間に於いて名声を得ることで、
利養とは利欲をむさぼって自分の身をこやすこと、
また勝他とは他人を打ち負かしたり、
他人より優れていることを誇ることです。
わたしたちのよろこびというのは
この三つの内のどれかに当てはまるのではないでしょうか。

この三番目の僧侶は
他の二人の僧侶に無言の行で勝ったという勝他のよろこびが
思わず口をついて出てきたということです。
出世間を目指していながら、
世間と同じこころしか持ち合わせていなかったという笑い話になっています。

名聞・利養・勝他の世間のよろこびは、
いわば浅いよろこびであって長くは続きません。
何故なら自分より名声のある人に出会ったり、
自分より金儲けのうまい人に会ったり
自分より優れた人を知ったりすると、
たちまちよろこびのこころが嫉妬のこころに変わってしまうようなことが
往々にして起こってしまうからです。
今日よろこんでいたものが、
明日は苦しみや腹立ちの種になってしまう。
そうやって一喜一憂しているのが、
わたしたちの日常の姿ではないでしょうか。

この世間のよろこびに対して、
出世間のよろこびは信心歓喜とか一念喜愛心というように呼ばれています。
決して変わることの無い、
また持続するよろこびのこころをいいます。
そしてそれは、煩悩を離れたよろこびなのですが、
煩悩を無くしてよろこぶことではありません。
名聞・利養・勝他のこころは
いつもわたしのこころから離れることは無いのですが、
それから脱却するには、
そのような世間のよろこびから離れ得ない自己を照らし出されて、
そのような者をこそ救うという
念仏の教えに出会うところにあるというのが浄土真宗の教えるところです。
戻る