讃岐の庄松
先日聞いた話ですが、
ある若い女性が遠くへ嫁ぎました。
結婚当初は近くに知り合いの人もいなくて
寂しい思いをしていたそうです。
そんな時に私たちの集会に来ないかと
熱心に誘ってくれるおばさんがいたそうです。
あまり熱心に誘われるので断ってばかりも悪いと思い、
その人に付いていって集会に出席をしたそうです。
それはある宗教団体の集会で、
そこで話を聞きますととても分かり易い話だったそうです。
人の悪口を言ってはいけません。
愚痴をこぼしてはいけませんというような話だったそうで、
その通りだと納得して帰ってきたそうです。
しかしそれにもまして嬉しかったのは、
その集会に信者の人たちと何人かで連れ立って行く道すがら、
ぺちゃくちゃとおしゃべりができるように
なったことだったということです。
そうこうしているうちに、
その女性はある日ハッと気が付いたそうです。
その集会へ行って人の悪口を言ってはいかんとか、
愚痴をこぼしてはいかんというような話を毎日聞いていながら、
その集会へ行く道すがら信者の人たちと話をしている内容は
近所の人の悪口だったり、
自分の家族の愚痴だったということに気が付いて愕然としたそうです。

私たち浄土真宗でも同じような話があります。
讃岐の国に庄松という妙好人がいました。
妙好人といいますのは、
「妙好」とは「白蓮華」のことで、
白い蓮華のような浄らかな信心を持った人をたたえて呼ぶ言葉です。
その讃岐の庄松の手次の寺に
有名な高僧が来られて説教をされるというので
庄松は話を聞きに行きました。
説教が終わりますと感動した聴衆の一人が
「今日は実にありがたいお説教だった。
おかげで邪見(よこしまな考え)の角が落ちた」と言いました。
するとそばで聞いていた庄松は、
すかさず
「また生えにゃいいがのう。生えたまんまと聞えなんだか」
と言ったという話が伝わっています。

これはどういうことかといいますと、
私たちは生まれてこのかた何百回と反省を繰り返して来ました。
しかし、果たして人の悪口を言わない身になったでしょうか。
愚痴をこぼさない身になったでしょうか。
反省したにもかかわらず悪口も出、
愚痴もこぼれる身ではないでしょうか。
そのことを庄松は
「また、邪見の角が生えにゃいいがのう」
と皮肉ったのでした。
そして「生えたまんまと聞えなんだか」と言ったのは、
愚痴の出るまま、悪口の出るまま
救われる教えだと説教を聴聞しかなかったのかということです。

浄土真宗では他力ということを申します。
他力本願といいますと最近では悪い意味に使われることが多いのですが、
本来は他力というのは弥陀の力ということです。
このあさましい身そのままが救われるのは、
それこそ弥陀の力に拠るしか他に方法はないというのが、
他の宗派とは違う浄土真宗独自の教えるところです。
ですから庄松は邪見の角の生えたまんま救われるのでなければ、
到底我が身は救われないのだと言いたかったのです。
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