聖人の師弟関係
どこかの新興宗教の教団では教祖に絶対服従しなければならないとかいわれています。
そのために悲惨な結果を招いたりしています。
教祖に絶対に服従しなければならないというような教えは、
およそ仏教教団とは言えないと思います。

それでは私たち浄土真宗の教団はどのような姿だったのでしょうか。
親鸞聖人の弟子に唯円という方がいました。
その方が親鸞聖人の語られた言葉を残された『歎異抄』という書物があります。
その中で唯円は親鸞聖人に尋ねます。
「念仏申すけれども、踊りだすほどの歓喜の心が起こりません。
また急いで浄土へ参りたい心が生じないのはどうしてでしょうか」
これは日ごろ念仏を勧めている師匠に向かって、
大変失礼な質問です。
お前の信心が足らんせいだと叱られてもしかたのない質問です。
ところが親鸞聖人は
「親鸞もこの疑問があったのに、
唯円も同じ心であったか。
よく考えてみれば、
天に踊り地に躍るほどに喜ぶべきことを喜べないのは、
いよいよ浄土往生は決定していると思うべきです。
喜ぶはずの心を抑えて喜ばせないのは煩悩のせいです。
しかし、
弥陀如来はかねてより煩悩の備わっている凡夫であると知っておられて、
他力の本願は、
このような私たちを救う為であると知られて、
いよいよ頼もしく思えます。
また急いで浄土へ参りたいどころか少しでも病気をすれば、
死ぬのではないかと心細く思われてくるのも煩悩のせいです。
永遠の昔より流転してきた苦悩の故郷は捨てがたく、
いまだ生まれたことがない浄土は恋しくないことは、
まことによく煩悩の盛んなためである」と答えられます。
このように無遠慮な質問もできるという、
ほのぼのとした師弟関係が浮かび上がってくるエピソードではないでしょうか。

また、蓮如上人の御文の中にも、
ある弟子が「我が浄土真宗は、門徒を自分の弟子と思うべきでしょうか。
それとも弥陀如来や親鸞聖人の御弟子と申すべきでしょうか」と質問します。
すると蓮如上人は
「故聖人のおおせには、親鸞は弟子一人ももたずとおおせられました。
そのわけは、如来の教法を、十方衆生に説き聞かせるときは、
ただ如来の代理をつとめさせていただくだけです。
さらに親鸞は特別な法を広めているわけではなく、
如来の教法を我も信じ、
ひとにも教え聞かせているだけです。
その他は何を教えて弟子というべきでしょうか」
とおおせられたということです。
ですから、弟子ではなく、
行を同じくする仲間というべきです。
これによって、聖人は御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)と
かしづいておおせられましたと御文に書かれています。
このことからも、
親鸞聖人は仏法を聞かせる人々を決して弟子とは考えずに、
むしろ兄弟のように大切に思われていたということが思われます。

わたし達はお経を聞く機会がよくありますが、
お経を聞くということは、
亡くなった人々に対してお経を聞かせて成仏させるということではありません。
残されたわたし達が亡くなった人をご縁として、
如来の教法を聞かせていただくということです。
そして教法を聞かせていただくことによって、
念仏のいわれを知り、
それを信ずる縁に恵まれたならば、
また人にも信ずるように教え聞かすのが、
自信教人信(じしんきょうにんしん)といわれる、
仏の恩に報いる真宗の念仏者の生活であるといわれています。
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