スーダラ節
皆さんはスーダラ節という歌を覚えているでしょうか?
「♪ チョイと一杯のつもりで飲んで、
いつの間にやらはしご酒、
気が付きゃホームのベンチでごろ寝、
これじゃ身体にいいわきゃないよ。
分かっちゃいるけど、止められない。
ほれスイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ ♪」
という歌詞でした。

この歌はクレイジーキャッツの植木等さんが歌った歌ですが、
実はこの歌にはエピソードがありました。
関係者の人が植木さんにこの歌を歌ってくれと依頼に行ったところ、
根が真面目な植木さんはこの歌詞を見て、
こんなふざけた歌が歌えるかと言って、
烈火のように怒ったそうです。
それでも関係者からも何度も説得されたり、
クレイジーキャッツの他のメンバーからも勧められたりして、
植木さんは悩んだあげくに、郷里の父に相談しました。

実は植木等さんの実家は浄土真宗のお寺で、
その住職である父親に相談したわけです。
父はその歌の歌詞を聞いて、
「この歌詞には浄土真宗の教えがある」と言ったそうです。
それを聞いた植木さんはようやく歌う決心がついて、
みなさんご存知の大ヒット曲になったのです。

それでは植木等さんの父である住職は、
この歌詞の何処に浄土真宗の教えがあると言われたのでしょうか。
それは最後の「分かっちゃいるけど、止められない」
というところに浄土真宗の教えがあると言われたのだと思います。

歎異抄(たんにしょう)の十六条に
「信心の行者、自然(じねん)にはらをもたて、
あしざまなる(悪い)ことをもおかし、
同朋同侶にもあいて口論をもしては、
かならず回心(えしん)すべしということ。
この条、断悪修善(悪業を断ち、善業を修めること)のここち(考え)か。
一向専修(せんじゅ)の人においては、
回心ということ、
ただひとたびあるべし」と書かれてあります。

わたし達は、腹がたったり、悪いことをしたり、
親しい人と口論したりするごとに、
ああいけなかったと反省してきているのですが、
反省すれば、
腹もたたず、悪い事もせず、口論もしない人間になれたでしょうか?
断悪修善を何度こころに誓っても、
それこそ「分かっちゃいるけど、止められない」で、
また腹がたち、悪い事もし、口論もしてしまうのが、
わたし達の姿なのではないでしょうか。

そういう人間を煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)といいます。
つまり煩悩が身に備わっていて、
離れることの無い人という意味です。
真宗では自分の力で悪を絶ち、
善を行っていくなど到底できない凡夫である身をこそ
そのまま救おうという他力の悲願の起こされたいわれをよく聞き開き、
本願をたのみにするしか往生できる道は無いと思い取ることを
回心というのだと教えておられます。
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