有量と無量
テレビでは、時々どっきりカメラという番組をしています。
この前も某テレビ局のどっきりカメラの番組を見ていますと、
あるトンカツ屋さんでどっきりカメラの
いたずらを仕掛けるという設定でした。

何も知らないお客さんがそのトンカツ屋に入ってきて、
トンカツを注文します。
すると、すかさず隣に仕掛け人が座って、
同じようにトンカツを注文します。
しばらくして揚げたてのトンカツが運んで来られて、
そのお客さんはおいしそうにトンカツを食べ始めます。
やがて隣の仕掛け人のところにもトンカツが運んで来られるのですが、
なんとその仕掛け人の方のトンカツは、
お客さんのトンカツの倍程の大きさもあるトンカツが運ばれて来ます。

そのあまりの大きさの違いに気が付いたお客さんは、
みるみる顔が曇って、ムッとした表情になっていきます。
恐らくは心の中で・・・同じお金を払っているのに、
なんでこんなに差をつけるんだ・・・という思いで、
おいしいトンカツもいっぺんにまずくなったことでしょう。
その様子を隠しカメラで撮って、
どのように表情が変化するかを見て喜ぶというものでした。

誰もがこんなことをされたら、ムッとするに違いありません。
何故なら、わたし達には比較するという心が備わっているからです。
比較する心というのは、ものごとを二つに分けて量る心です。
そしてその二つを天秤にかけて取捨選択をしているのが、
わたし達の生活ではないでしょうか。

そういう世界を仏法では"有量"といっています。
親鸞聖人も"有量"について
「せけんにあることはみなはかりあるによりてうりょうという」
と注釈しておられます。

そしてその比較して量るというところに"価値"というものが生まれます。
例えば宝石とか金・銀という貴金属類から、
地位や財産、学歴などが尊重されます。
それは誰でもが持つというわけにはいきませんから、
他との比較において出てくる値打ちです。
有量の世界ではそういう"価値"を尊重しています。

それに比べて、無量の世界から出てくるのを"意義"といいます。
これはわたし達に生まれつき備わったもの、
例えば、見ることのできる目、
聞くことのできる耳、話すことのできる口、
自由に動かせる手足、休まず働き続けてくれる臓器など。
そればかりではありません。
水、空気、太陽の光、ものを育む大地など、
そんなものは何処にでもある当たり前のものですから
値打ちは無いけれども、
かけがえのない大切な"意義"があります。
そこには老いも若きも無い、男も女も無い、
日本人も外国人も無い、
そして人間ばかりではなくあらゆる生きとし生けるものが、
自分の分限のまま、平等に生を受けています。

ところが有量の世界にとらわれているものは、
悲しいことに絶えず他と比較して、
不平不満を持ちながら生きていくということになります。
そういう生き方しか知らない者が、
無量の世界からの佛の教えに照らされて、
比較ばかりしていた有量の私であったと気付かされる。
そこに有量の世界を超えていく生き方をいただくことができる。

このことを和讃で親鸞聖人は

「智慧ノ光明ハカリナシ
有量ノ諸相コトゴトク
光暁カムラヌモノハナシ
真実明ニ帰命セヨ」

と説かれて、
佛の呼びかけに耳を傾けよと勧めてくださっています。

この和讃が真宗門徒にとって一番大事な行事である、
報恩講で勤められるニ首目の和讃なのです。
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