絶対的喜び
先日、私の娘が近くの小学校の運動場から、
子猫を拾って来ました。
数年前にも犬を拾って来て家で飼っているのに、
内心困ったなと思いましたが仕方がありません。
見るとかわいそうな猫で、
片方の目が鳥にでもつつかれたのか塞がっていて、
もう一方の目も膜が張ったようになっていて、
よく見えないような様子でした。
それでも元気に走り回るわけですが、
なにせ目が不自由ですから、
柱にぶつかったり、
目の前の溝にはまったりしてしまいます。
普通だったら
それに懲りておとなしくしているのでしょうが、
なにせ子猫ですから懲りずにまた走り回って、
柱にぶつかったり、溝にはまったりして、
一向に苦にしている様子がありません。
これが人間だったら大変な苦になるのに、
人間と猫との違いは何処にあるのだろうと思いました。

そのことで先日の新聞記事に
『それは四十五年前のこと。
もし、あの出会いがなかったら、
今の私はどうなっていたでしょう。
私は二才の時小児マヒになり、
将来を案じた母親は、阿弥陀さまとお話できるようにと、
私を浄土真宗のお寺へ聴聞に連れて行ってくれました。
戦後も法座が再開されると、
あちこちのお寺へ出かけましたが、
二十四歳の時、
カリエスを病んで夢も希望も吹っ飛びました。
自分の人生の意義を初めて問うことになったのです。
考えれば考えるほど、
他人に迷惑をかけるだけの自分に突き当たり悩みました。
死にたくても動けない。
そんな人生のどん底にいる時、
不思議なご縁で我が師にお逢いできたのです。
師は当時、真宗大谷派の教務部長。
そんな方に、
自分の心境を便箋につづりお目にかけますと、
師は「あなたは身体が不自由だと言うが、
それは人と比べてのこと。
比較するところにさまざまな心の病気、
苦悩が出てくるのです」
それでも不満そうな私に
「そんなに寝ているのが嫌なら起きて歩きなさい」
と言われました。
必死の私は
「それができるならこんなに悩みません」と口答え。
すると今度はやさしい口調で
「それなら寝ていなさい。
そこが仏さまがあなたに与えてくださった唯一の場所、
仏さまのお手の真ん中なのです。
お念仏なさい。
お念仏がそうであることを教えてくださいます」
と仰ったのです。
私の苦悩は続きましたが、
我が師は何百通ものお便りをくださり、
時に厳しく、
時に優しく念仏の世界へと導いてくださいました。
お念仏を続けるうちに一切のもの、
個人的な生活そのものが、
大法界のお命の活動そのものであるということを、
教えていただきました。』

私たちは健康な時は、
病気の人と比べて自分の健康を喜び、
病気になれば、よりひどい病気の人を見て、
自分はまだましだと喜んでいるのではないでしょうか。
ところが比べているかぎりは、
今度は健康な人を見て、
なんで自分だけこんな目に遭わなければならないと
喜びはすぐに愚痴に変わってしまうということです。

それでは比較する必要のない
絶対的喜びとはどんな喜びでしょうか?
そのことでこの前のアトランタオリンピックの女子マラソンで
銅メダルを取った有森裕子選手を思いだしました。
彼女は走る前からニコニコと笑顔を見せ、
走り出してからも、
沿道の声援に笑顔で応えていました。
あんなにリラックスして走れるのかなと思っていましたら、
驚いたことにそのまま三位でゴールしてしまいました。
あとのインタビューでニコニコしていた訳が分かりました。
彼女はサインする色紙に
「喜びを力に」と書くそうで、
走れる喜び、応援される喜びが力となったということです。
そして「メダルの色は銅だったかもしれないけど、
自分で自分を誉めてあげたい」と言っていました。
金とか銀とか比較する必要の無い、
絶対的満足感からの言葉のようでした。

この言葉を聞いて
明治時代の宗教家の清沢満之師の言葉を思い出しました。
彼は「世間一般では、人事を尽して天命を待つと言うが、
天命に安んじて人事を尽すというのが
本当の生き方なのではないだろうか」と仰いました。
男に生まれたこと、女に生まれたこと、
若いこと、老いていること、いろいろな条件がありますが、
そのいろいろな条件に安んじて、
その中で精一杯を生きるというのが、
本当の生き方なのだと教えておられます。
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