2004年の日記です
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2004年12月28日 (火) 仕事納め 今日で役所の仕事納め。日中も、それなりの慌しく過ごし、午後からは、会派の政調会。色々と、真摯な議論が出る。来年度予算に向けての真面目な勉強会。思いつきで物事を発言するのではなく、このような議論を経てからにすべきであろう。 夜、ちょっとした会合があり、その後は、新天地での挨拶回り。ビール一杯ずつとはいえ、さすがにしんどかった。明日からは、もういい。今日は、疲れないところばかし。私のことをご理解いただいている。本当は、もう少し回りたかったが、限界だった。来年に行こう。 今、これを書いている。 2004年12月27日 (月) 新しいプリンタ この年末に、プリンタを買い換えた。それまで使用していたものは、今から何年前に買ったものだろうか。四年前になろうか。その時には、パーソナルユーザーのものとしては、中々のグレードのものであった。実際、カラー印刷を見ても、優れものと感じていた。嬉しくなって、それなりの紙を買ってきて、子供をデジカメで撮ったものを、印刷していた。本当に、銀塩写真のようであった。しかし、もう既に、数段機能が勝っているものが出てきている。妻の年賀状にあわせて購入。 前回は、エプソンで、すっかり気に入っていた私は、次もエプソンのつもりだった。実は、ソフトバンク在職中にも、エプソンには良いイメージもあったことも、私のエプソン贔屓に大きく影響している。ところが、今年のパーソナルユース向けは、圧倒的にキヤノンの方が、評判が良い。私も、泣く泣く、キヤノンにした。 しかし、この業界の定めとはいえ、四年前よりも安く、しかも、性能が格段の向上したものが手に入る。 実は、私の手元に、私がソフトバンク在職中に購入した、キヤノンのモノクロのプリンタが一台ある。10年ちょっと前のものだ。A3まで印刷できるので、手元においてあるが、インクが高くなってしまっている。確か、値段も、今年買ったものとほぼ同じくらいであった。 おもしろい業界だ。その只中で、仕事をする経験をさせていただいた。そのときに学んだことを大事に活かしていきたい。 2004年12月26日 (日) 休日 この土日は久し振りに、用事が入っていなかった。家族で過ごす。 昨日は、久し振りに、家族で買い物に行く。家族で、外で昼食をとるなんて本当に久し振り。今日もゆったりと過ごす。 年末に出す予定の、活動レポートの準備を少しずつ始める。全部出せなくても、来年早々に出せればよいと思っている。 いくつかの資料整理と部屋の掃除。部屋も掃除して、新しいパソコンを入れなければ。このマシンもパワー不足と、最近はフリーズも多くなってきた。 2004年12月19日 (日) 発達障害者支援法の勉強会 午前10時より、会派の勉強会。 発達障害者支援法について、親の会の皆さんと共に学ぶ。 この法律は、超党派の国会議員により組織された、発達障害支援議員連盟の提案で成立したものだ。その議員連盟の幹事である馳浩代議士を講師として、今年二回目の勉強会。私たちの会派からは11名、公明党から2名、県会議員も2名来てくれた。 事前に親の会の方たちから、質問要望事項を提出してもらっていたので、それらに、馳代議士及び市教委の方が答える形で進めていった。大変実りのある会だったのではないだろうか。 講師の馳代議士はもちろん、私たち県市議員も、親の会の方たち、さらには、取材に来られていた新聞社の方たちも、大変勉強になったと思う。実際、皆、異口同音にそう述べていた。 新しくできた法律を、地方から、しっかりと、根付かせていきたい。 午後、仕事がてら、妻と子供たちを、21世紀美術館まで送る。駐車場も一杯で、美術館も盛況のようだ。新しい動きになっていってくれれば嬉しい。そう言えば、妻と子供たちは、美術館に二日連続だ。そんな家族が増えてくれればいい。 夕方から、日韓協会の皆さんと意見交換会及び忘年会。その後、もう一件の懇親会にお邪魔する。 これで、今週は、土日も含めて全て、お酒の会。何日続けてだろうか。しかし、かえって、飲み過ぎに気をつけて、二次会は、行かないようになった。 明日からは、少し、年末の整理にかかる。メルマガも書かなければ・・・。 2004年12月18日 (土) ライオンズクラブクリスマスパーティ 今日の午前中は、久し振りに用事が入ってなかったこともあり、朝はゆったりした。布団を出たのは、7時を少し過ぎていたかもしれない。それから新聞を、やはり、ゆっくり目を通し、朝食は8時頃。 その後、子供たちと美術館へ。妻が、子供たちと遊んでいる間は、私は美術館の図書館というのだろうか、いくつもの書籍がおいてあるところで、普段あまり手にすることのない雑誌を読み込む。 家族で昼食をとり、その後、一人でコーヒー専門店でコーヒーを飲む。そこで、日経MJを読む。日経MJの前身は日経流通新聞。ソフトバンクにいるときは、いつも読んでいた。隔日発行だが、大変おもしろい。議員になってからも、しばらく、自宅で取っていたが、大分前にやめてしまっていた。やはり、取ったほうがよいか。情報、特に流行に敏感になる。それが積み重なって感性を豊かにしてくれるのかもしれない。 家で、資料整理。 夕方からは、ライオンズクラブのクリスマスパーティ。家族で参加。 その後、JCの卒業式の後の二次会。慌しく、落ち着かなかったので、あっという間に失礼する。やはり、現役中に偉い人ならともかく、私のような兵隊のシニアが行くものではない。 2004年12月17日 (金) 議会最終日 本会議最終日。 私は今議会で質問に立たなかったので、会派の勉強会の準備に時間を割いた。 白山兼六園の世界遺産登録についての勉強会。金沢経済同友会の担当委員会である米谷委員長及び白石副委員長にお越しいただく。と書けば、何ともないように聞こえるが、米谷さんは北國銀行の副頭取、白石さんは北陸放送の社長と、すごい人たちだ。本来ならば、私なんかお会いできるような方たちではない。お二人とも大変謙虚な方で、しかも明るい。やはり、出世する方は、違う。お二人に少しでもあやかることができれば嬉しい。 19日には、発達障害支援法の勉強会。こちらの準備の抜かりなくしたい。 夜は、議会打ち上げ。久し振りに、すきやき。肉も美味しかったが、野菜もたくさんいただいた。連日、夜の会合が続いているので、二次会は遠慮して、そそくさと帰る。 2004年12月14日 (火) 美術館で本物のコンサート 議会質問二日目。 今議会は、会派内での質問希望者が多く、これまで一番質問回数の多い私は、遠慮した。こんなことを言ったら、市民の皆さんに怒られそうだが、質問をしない議会は、ちょっと寂しい。いや、どんな場合でも緊張して議会に臨まねば・・・。 こんな時にこそ、頭の中で貯まりまくっているメルマガを書き上げなければならないのだが、なかなか、先には進まない。12月中に、二本は出したい。 夜、金沢21世紀美術館で行われた、友の会メンバーだけを対象にした招待コンサート。アメリカからのすごいメンバーの四重奏。最初の演目はよく分らなかった。現代クラッシックは難しい。二部は、私たち素人にも親しみのある演奏で、豊潤な気分にさせていただいた。 家族で行ったが、子供たちも、最後まで我慢していた。子供たちには、環境さえ許せば、できるだけ本物に触れさせてあげたい。 しかし、雰囲気がよい。こじんまりした中で、あのような雰囲気は、地方都市ではなかなか経験できない。ここまで本格的なものでなくても、このようなイベントを頻繁にやっていくことが大切であろう。芸術センスの全くない私だが、これからの期待に胸膨らませ、わくわくする。 2004年12月10日 (金) 早朝会議 倫理法人会の臨時役員会。朝の6時から集まっての会議なんかそうもないであろう。それでもやる会である。早朝から予定が入っていたので、7時20分には途中で失礼する。申し訳ない。 その用件を片付けてから、9時30分から、会派の政調会。10時より、政令市移行特別委員会。 商工会議所の中島副会頭が、ちらりと「金沢ナンバー」のことを触れていただいた。その触れ方が良かった。私も、メルマガを少し直して、違う切り口で取り組んでいきたい。 青年会議所のプレゼンも合格点。あれに意見する人は、それ以上の勉強をしてからにしなければいけない。彼らに負けないように、私たちも勉強しなければいけない。そういうことを気付かせていただいただけでも大きな成果。 午後、経済同友会で、今度の勉強会の打ち合わせ。いただいた資料を熟読し、勉強会に臨みたい。 その後、時間が空いたので、私が真由子を迎えに行く。真由子を園に迎えに行くのは、本当に久し振り。私はすっかり面が割れているので、園の先生方もよくご理解いただいている。 真由子からすれば、思いがけなく私が迎えに行ったためか、おおはしゃぎ。私に荷物を全部持たせ、走り回りながら下駄箱に。 私は、この子たちのために、仕事をしている。 夜、以前からお世話になっていた方と食事会。和食のお店に、畳の部屋で、椅子席。最初は、何となく落ち着かないような気もしたが、そのうち、寛いできた。 新天地で何軒かはしごをし、帰って寝る。 2004年12月09日 (木) 勉強会の準備 倫理法人会の快走が続いている、と思っていたら、ちょっとしたトラブル発生。浮かれていてはいけないというサインであろう。 それにしても、相変わらずモーニングセミナーは多くの方が来ていただける。また、月曜日は小松市準倫理法人会の忘年会、昨日は、金沢市倫理法人会の忘年会。いずれも、活気に溢れた楽しいものであった。 会派の勉強会で、世界遺産についてのことを取り組む。今日は、経済同友会の担当委員長の方と打ち合わせ。このテーマに限らず、経済人の方たちと、継続的な勉強会をしていければいいと思う。 発達障害支援法がこの3日に成立。その議員連盟の幹事を務める馳代議士と連絡を取り合い、金沢にて、勉強会を行う。夏に一度行ったが、改めて、関係者の方たちを交えてやりたい。 今回の議会では、私は質問しないので、これくらいのお世話はしなくては。 今日の夜は、久し振りに、自宅で食事。子供たちも喜んでくれ、食事後も、しばらく一緒に遊んだ。 2004年12月01日 (水) モーニングセミナーの活況 昨日のモーニングセミナーは、何と156名。過去最高。南部陽さんの講話も良かった。 そのプレッシャーを受け、今日は、松任市のモーニングセミナーで50人目標動員。私が講師をさせていただいた。時間が足りなくなるであろうことは予想していたので、資料だけは、それなりに揃えていった。案の定、時間不足で、後半の多くの部分を割愛せざるを得なかった。もう少し、時間配分を考えた準備をすべきであった。それにしても、本当に50名を越す方に来ていただいた。 金沢も松任も、モーニングセミナー自体は、活気が出てきつつあるが、十分定着しているとはいえない。私もできる限りのサポートをしていきたい。 役所で、いくつもの打ち合わせ。ちょっと、重たいものもある。時間をかけてでも、解決していきたい。 スペシャルオリンピックスの関係で、打ち合わせ。それを終えた後、JC時代の仲間と懇親会。皆、二次会に行ったようだが、私はどうしても、しなければならない仕事もあり、一次会だけで帰宅。こういう習慣にしてしまおうか。その方が、身体にも、財布にも良い。 2004年11月27日 (土) 社団法人石川県サッカー協会設立 午前中は、お葬式を続けて二つ出た。お葬式をあまりでない私にしては珍しい。 お一人は、ライオンズクラブで大変お世話になったご当人。昨年身体を悪くされて、ライオンズを退会されたのだが、これほどまでとは知らなかった。昨年春の私の選挙には、事務所まで来てくれて激励してくれた。本当に残念だ。もうお一人は、これまた大変お世話になっている方のお父様。心より、ご冥福をお祈りしたい。 午後、世界連邦運動協会の講演会。意外な人を何人もお見かけした。私は誘われるまま出席したのだが、本当に、幅広くかかわりをもたれている会のようだ。パネルディスカッションも拝聴したかったが、次に会合があったため、講演のみで失礼する。 石川県サッカー協会の社団法人化を記念しての、講演会及び祝賀会。 講演は、アルビレックス新潟の設立の経緯や考え方をお聞きする。素晴らしい講演だった。色々と教えてもらうことも多く、大変、参考になった。 以前から知ってはいたが、Jリーグの百年構想とは、まちづくりそのものであるし、実は、私もそのことを議会質問にも取り上げたこともある。やっぱり、その発想は素晴らしい。企業の広告塔の役割を最重要に考えられるプロ野球とは、ますます、差が開いていくことだろう。 このような発想を持って、まちづくりも考えていかねば。 陸上自衛隊金沢駐屯地の高橋司令が、今月一杯で、習志野の方に行かれる。その送別会。司令は、大変、親しみの持てる方で、私も何度もご一緒させていただいた。今日ご出席された方も皆さん、心より、惜しんでおられた。次の勤務地においても、立派な実績を残されることだと思う。 その後、一人で、地元のお寿司屋さんへ。 2004年11月26日 (金) 長坂台小祭り 朝、「長坂台小祭り」と称して、長坂台小学校が開放されて、多くの保護者の方が、学校に足を運び、子供たちの様子を見ることができた。私も、朝一に出かけ、広貴の様子を遠巻きに見る。友達と関わっている様子を見ると、嬉しい。このまま、育って欲しい。 役所に行き、頼まれごとの対応。及び、来週の講演の準備で、資料をまとめる。短い時間であっても、緊張感を持って望むことが必要。 岡田事務所に約束の資料を届け、その後、まちなかをゆっくり歩く。ちょっとした変化が新鮮。 午後、相談事を受ける。聞けば聞くほど深刻なので、私の手だけには負えないので、すぐアポを取り、然るべき方に相談する。少し、方向性が見えてきた。来週、もう一度。 夕方、伝統産業関係の講演。私にとっても、いくつかのキーワードが印象に残る話であった。残念ながら、次の会合があったので、最後まで聞けなかった。そのキーワードを今度少し整理してみたい。 スペシャルオリンピックスの会合。早々に失礼して、環境教育推進会議。久し振り。多くの方たちが、積極的に、それぞれのお立場で、活動をされている。私もしっかりしなくては。 2004年11月25日 (木) 寝坊をしてしまった 昨晩、深夜2時近くまで遅くまで飲みすぎたせいもあり、今朝は目が覚めたのは7時過ぎであった。恥ずかしながら、子供に起こされ、慌てて起き上がる。ちょっと前までは、どんなに遅くまで飲んでも、自分で、もっと早くに、きちんと起きていたのだが、40を過ぎるとこうなってしまうのか。深酒で、朝、起きられないのは、いかにも拙過ぎる。 午前中、役所に行き、いくつか片付け。いく人もの課長と話をしていて、控え室に来てもらっているうちに、お一人を待たせたまま、忘れてしまい、外出してしまった。緊張感が抜けてしまっている証拠だ。お電話でひたすら謝る。明日また、謝りにいこう。調子に乗ってはいけない。 昼、お葬式。久し振りのお葬式。親戚の方なので、当然。 午後は、野暮用があり、ちょっと時間がとられてしまった。お手伝いいただいた方にも、大変なご迷惑をお掛けしてしまった。もう少し、準備をきちんとすべきであった。 夜、会合。会合に出かけるのに、妻も真由子のの日舞のお稽古に行っていたので、広貴だけを家に残して出かける。本人は、気丈に、大丈夫と言ってくれてはいたが、やはり、心配。しっかり鍵をかけて出かける。 家に帰る。広貴は、何もなかったように、眠っている。強く抱きしめる。 2004年11月21日 (日) 広貴と図書館へ 早朝より、SOデイ。スペシャルオリンピックスのお祭り。それほど派手ではないが、手作りで楽しくやっている。私は、次の会合もあったため、開会式だけで失礼した。 日中、「富樫政親と一向一揆」についてのシンポジウムに参加してきた。私も普通の人と同じように、一般的な知識しか持ち合わせていないテーマでもあったので、初めて聞く話がほとんどであった。ちょっと、深く勉強してみたいことも出てきた。近いうちに、小話をメルマガでまとめてみたい。 その後、広貴と図書館へ。いくつかの本を捜したり読んだりしながら、やはり、いくつかを借りてきた。子供たちにもっと本を読んであげたい。国語に対する感性を、もっと、磨いて欲しい。そのことが全ての基本になるからだ。 2004年11月19日 (金) 今週初めての日記。 月曜日から水曜日まで、視察で金沢を離れていた。東京新宿区と松山市。最近はすっかり松山づいている。他の議員さんもご存知の方も多く、私に色々と尋ねてくる。しかし、疲れた。 一般会計決算審査特別委員会及び経済企業常任委員会も開かれた週であった。決算審査では、競馬事業について色々と説明があった。前回、私が立て続けに質問したこともあり、執行部がいくつか返答に窮し、今回まで預かりになっていたこともいくつかあった。丁寧にお答えいただいた。 地方競馬事業は、ある先輩議員が、もう既に社会的役割を終えた、と述べられていたが、案外、当たらずしも遠からずといったところかもしれない。しかし、パートの方を含めてではあるが、約800名の方の雇用があるということを考えると、軽々しく、廃止を口に出すわけにもいかない。かといって、基金の残高を考えると、それほどゆっくりと議論もしていられない。来年度には、今後の方向性をはっきりさせるべきであろう。 議会の視察や委員会では、他会派の議員の皆さんと話しをする機会も多く、勉強にもなる。 2004年11月14日 (日) とかちゃん、結婚パーティ 昨日は、私の会で山出市長の話をしていただいた。予定時間を大幅に越えての、力のこもった話であった。 その後の、懇親会も和やかに終わり、楽しい会であった。次回に向けての、反省もいくつかあり、今後、謙虚に考えていきたい。それにしても、多くの方に助けていただいた。本当に、皆さんのおかげ。どれだけ感謝しても仕切れない。いい仕事で、そのご恩を返すしかないと思っているし、それしか出来ない。自分に新たな負荷をかけていきたい。 本日は、「脳を鍛える大人のドリル」云々シリーズで有名な、東北大学の川島隆太先生の講演を聞かせていただく。すごい刺激を受けた。あれだけ、科学的にしかもユーモア―にお話いただいたら、すっかりのめり込んで聞き入ってしまった。川島先生の著書をいくつも読んでみようという気になった。 教育の面からいっても、福祉の面からいっても、大変、教えていただくことの多い講演であった。ちょっと、真剣に勉強してみたくなった。 夜。新天地「とかちゃん」の結婚披露パーティ。極めて個性的なお二人の、めちゃくちゃ個性的なパーティ。素人さんには、ついてこれない。ついてこなくてもよいか・・・。楽しかった。 2004年11月12日 (金) JC同窓会 最近は、青年会議所時代の、その年々の委員会の同窓会が頻繁に開かれる。毎年、メンバーの何人かが、40歳になって、「卒業」を迎えるからだ。ある事業に真剣に取り組んだ仲間達と、久し振りに会い、酒を飲み交わすのも楽しい。 今日も、その会があった。私が初めてお伺いするお店であったが、思いがけず、そこで働いていらっしゃる方が、知り合いの方で、何となく、親近感を持った。今度機会があれば、寄らせていただきたい。 その後、一人で新天地へ。新天地の大御所が、今月、来月と続けて結婚される。正確に言うと、既に、籍を入れておられるということだが、披露パーティが行われる。私は、ともに声を掛けていただいている。喜んで出席したい。 午前中は、中心市街地活性化の特別委員会、常任委員会の枠を越えて、関係する課長さんが出席されての委員会で、色々な議論ができた。私たち議員も、改めて、しっかり勉強していかねばならない。 2004年11月09日 (火) 金沢美大と米百俵 先月10月29日に、加賀象嵌作家の高橋介州が亡くなられた。99歳であった。 実は、高橋介州の逝去によって、石川県における美術工芸界の一つの大きな時代が、ほとんど誰からも意識されることなく、静かに静かに幕を下ろした。 ――――― 昭和20年8月15日終戦。 信じられないことに、その直後から、県内の美術関係者の中おいて、金沢で戦後日本初の総合美術展を開催するという気宇壮大な事業の胎動がみられた。そして、なんとその後、二ヵ月も経たない10月12日には、石川県美術文化協会が設立され、その翌日10月13日から、旧北陸海軍館を借り受けて、第一回の現代美術展が、日本画、洋画、彫刻、工芸の四分野において開催されることになった。これは、まさに、美術関係者の中で語り継がれているとされる、「戦後60日の奇跡」以外のなにものでもない。 その美術文化協会設立に向けては、石川県が日本の美術界に誇る、錚々たる人材が奔走することになった。 高光一也(洋画)、長谷川八十(彫刻)、高橋介州(象嵌)、浅田二郎(洋画)、疎開中の宮本三郎(洋画)、畠山錦成(日本画)。 彼らは、ただ、北陸否日本の美術工芸文化再建を「坂の上の雲」として、懸命にその坂道を登っていった。おそらくは、芸術家である彼らにとって、それは、相当な困難を伴う作業であったことであろう。 当時、その中心メンバーであった宮本三郎は、新聞社のインタビューで次のように答えている。 「この美術の国日本を戦後の新しい現実の中にいかに再建設していくか、私はそこにいま思いをひそめているのです。(中略)日本国民全体の前に、いまこそ真の力を問う時代がきているのであると・・。」 彼らの努力が先ずは形となったのが、県美術文化協会設立であり、その初代理事長がこの度亡くなられた高橋介州、その人である。 高橋介州の逝去によって、当時の、空気を知る者は誰もいなくなった。戦後、日本で初めて行われた、あまりにも勇壮な試みの、その渦中にあった人間は、一人もいなくなったのである。 物話はまだ続く。 さて、県美術文化協会を設立し、現代美術展開催にこぎつけた、高橋介州をはじめとした面々は、その余勢を駆って、当時の武谷甚太郎金沢市長に、美術工芸分野の裾野拡大の意義を説き、とうとう、金沢市立の美術工芸専門学校設立を認めさせてしまった。いうまでもなく、現在の金沢美術工芸大学の前身である。 終戦の翌年の昭和21年2月に開かれた金沢市議会において、武谷市長は、金沢美専設置の意思表明をすると同時に、昭和21年度一般会計当初予算に設置準備費として10万円を計上した。さらに、その年7月には臨時議会を召集し、初年度経常費17万円に加え、第一期建設費54万円余を計上した。当時の一般会計予算規模は825万円余であったので、大学設置に要した予算額は、現在の予算規模で換算すると150億円にも相当する、とてつもない事業であった。 金沢21世紀美術館の建設費が約110億円であることを考えれば、その壮大さが窺い知れよう。否、想像もできないようなスケールの大きなプロジェクトであった。 金沢美専の設置が審議された議会において、武谷市長は金沢美専設置を決意された理由として次のように述べられている。 「今日はまさしく国を挙げて食糧危機の中にあります。何をおいても食糧問題の解決に向けて進まなければなりませぬが、食うことだけにとらわれていては国家の再建は非常におぼつかないのではなかろうか。特に金沢は爆撃を免れて全国に残った少数の都市であります。この焼け野原の日本で平和の息吹、新しい芽を少しでも出していかなければならないのではないか。そういう役割をこの地が帯びているということを痛感いたしているのであります。」 小泉首相が、就任して最初の国会の所信表明演説において取り上げられたことにより、長岡藩の米百俵の逸話が、一躍有名になったことは、まだ記憶に新しい所である。その全く同じ精神が、戦後間もない本市において発露されたその顕著な例が、現在の金沢美大の黎明といえる。先にあげた、宮本三郎の談話にも、それに繋がるものが感じられる。 時代は変わりながらも、その精神を現代に再確認するものとして、これからの美大を見つめていかなければならない。 ――――― 私は、高橋介州が今年亡くなったと聞いて、彼は、この年を待っていたのではなかったかという気がして仕方がない。 今年は、彼らがその成功に向けて尽力した、美術文化協会及び現代美術展開始60周年という区切りの年である。また、高橋介州の弟子である、象嵌作家中川衛氏が、56歳という若さにして人間国宝に認定された年でもある。そして、何といっても、高橋介州をはじめ、美文協設立、現美展開催に汗を流した先達たちの想いを、後世へと伝える新しい装置として、金沢21世紀美術館の開館がなされたのが、彼が息を引き取る、20日前であった。 高橋介州はそれらをすっかりと見届けて、一足先に、鬼籍に入られた仲間達に、想いを遂げた「戦友達」に、持参するお土産を待っていたのではないだろうか。 金沢21世紀美術館には、そういう「想い」も込められているのである。 2004年11月07日 (日) 久し振りの東京出張 先週の金、土と東京視察。金曜日の夜は、国会議員の先生方と懇談会。私のテーブルは禁煙席ということで、沓掛先生が腰掛けられ、色々と、ご指導をいただく。それにしても、本当に、謙虚な、腰の低い方である。私のような者にも、丁重に応対していただく。見習わなければいけない。 土曜日の飛行機までの時間で、駒場の前田家洋館及び和館を拝見させていただく。昭和の初めにこういうものが建てられたのか・・。それにしても、なぜ、終戦後、中島飛行機の中島家の手に一度渡ったのだろうか。現在は、東京都のものであるが、そこら辺を一度調べてみよう。何かおもしろい理由がありそうだ。 土曜日の夜は、田中副議長の就任パーティ。その後、JC時代の仲間との飲み会。二つあったが、まともに二つとも行ったら、倒れてしまう。他の会合とも重なっていたこともあって、ともに遅刻して顔を出してきた。それでも、十分飲まされた。 日曜日は、ハードスケジュール。早朝から、映画「ウィニング・パス」上映会の準備、その後、日本LD学会主催の勉強会。講演だけを聞いて、中抜け。里見町を語る会に出さしていただき、金沢の古文書を通しての歴史の勉強。再度、LD学会の会合に戻り、パネルディスカッションを拝聴。さらに、その後、鹿児島県との交流会に出席し、NHKの「その時、歴史が動いた」で有名な原口泉先生の講演を聞く。それも、ほどほどに、長坂台校下馳浩国政報告会。 終了後、どこにも寄らずに、自宅に帰って、いくつかの資料を整理して寝る。 2004年11月04日 (木) 久し振りのライオンズクラブ 2日のモーニングセミナーは102名の出席。すごいの一言。来週もたくさんの方に来ていただきたい。ただ、反省点もあった。次回以降に活かしていきたい。 昨日は、金沢市文化賞の式典。私は次の会合もあったので、議員席をご案内いただいたが、後に方に、座らせていただく。 その後、会合を終らせてから、金沢南の応援に行く。会場についたら、残念なことに、準決勝で敗れてしまっていた。本当に残念。それまでの試合から見れば、絶対にいけると思ったのに。現に、予選リーグで引き分けたチームが優勝したことからも、明らか。気落ちして、仕事に戻る。おはがきにてご意見をいただいていた何人かの方のところを、訪問。いろいろとご指導をいただく。 夜は、自宅で食事。 今日は、午前中から、伝統工芸の新しい試みについて打ち合せ。何とか上手くいって欲しい。昼に、鶴来の方に行き、環境関係についての、色々なご指導をいただく。これから間違いなく注目されてくる分野ではあるが、越えなければいけないハードルは多い。いや、高い。 その後、市内に戻り、福祉関係の要望。その方を迎えにあがり、市役所までお連れして、担当部署と話してもらう。極めてプライベートな話でもあったので、ご紹介だけして席をはずす。その方のお体の状態もあったので、本当は、ご自宅までお送りしたかったのだが、福祉の担当部署との話が長引き、一方、私は、どうしても次の会合に行かねばならず、失礼した。気になったので、後から、電話で確認。 議員の研修会の後、ライオンズクラブ。久し振りのライオンズクラブ。二次会も行きたかったが、明日からの東京出張の件もあり、自宅に帰り、原稿整理。間に合わないので、諦めた。否、時間はあるが、気持ちが追いついていかない。なかなか、まとまらない。金沢に戻ってからだ。 ちょっと、一つ困り事。来週まで持ち越しか・・・。 2004年11月01日 (月) いくつかの表彰 昨日の日曜日は、朝から富樫公民館へ。スペシャルオリンピックスをボランティアで手伝ってくれている小学生が、善行賞ということで、表彰されるという。関係者の一人として嬉しい。私が行ったところで、何ができるわけではないが、表彰式の末席にて見届ける。 午後、少年サッカーの試合会場へ。残念ながら、富樫サッカーは敗れてしまったが、金沢南は、順調に勝ち進み、まずは、準決勝に進出。 実は、昨日は、広貴が、今度新しくできる野田のトンネルの中を、学校行事の一環として歩いてきた。私も妻もどうしてもついていくことができなかったのだが、周りの大人の方たちに助けてもらいながら、楽しんできたようだ。親の目が届かなくても、他の大人の人の中で、自分なりに考えながら、成長していってほしい。 今日は、議員総会。様々な議題を、会派内で揉む。 その後、日本を美しくする会「金沢 掃除に学ぶ会」が、これまでの活動に対して、市長から感謝状をいただく。こちらも、世話人の一人として、末席に座らせていただく。他のスケジュールもあったので、目立たないように、そっと失礼する。 2004年10月30日 (土) トーチラン実行委員会終了 昨日は、トーチラン実行委員会の最後の会合及び懇親会。 この二年間は、スペシャルオリンピックスのPR、特に、このトーチランに大変な時間と気持ちを割いていたような気がする。実務的なことは、ほとんど周りの方にやっていただいたが、本当に、多くの方のお世話になった。羽咋でのトーチランなんかは、本当に短期間での仕事だったが、市役所の方たちや、JCの方たちをはじめとした、やはり、多くの方たちのお力でできた。 懇親会とそれに続く二次会でもそんなに飲んだわけでもなかったが、大層酔っ払ってしまい、家に帰ると、すぐに眠ってしまった。 今日は、真由子の誕生会ということで、日中は、真由子の園のお友達に来てもらった。私は出かけていたが、妻や真由子に聞くと、大変楽しかったということだ。良かった。多くの方たちとのふれあいの中で、成長していってほしい。 2004年10月27日 (水) 韓国の教科書問題 先般、朝日新聞を読んでいると、「らしからぬ」記事を見かけて、一瞬、目を疑った。 その記事は、お隣、韓国の教科書問題を取り上げていた。昨年から、韓国の高校で使われている「近現代史」の教科書が、あまりに、親北朝鮮に偏向し、韓国に対しては政治・経済とも独裁と不正腐敗を強調し、自虐的過ぎるという声が多いということであった。 この教科書の記述に際し、韓国の野党やいくつかのマスコミが、批判を加え、また、その教科書が多くの高校で採用されていることに対して、強い危惧の念を露にしているという。 ----- ここで、韓国の教科書の制度について、当日(2004年10月5日朝刊)の朝日新聞のキーワード『韓国の高校の近現代史』を以下、引用しておく。 韓国では、国定教科書による必須科目「国史」のほかに、選択科目として、当局の検定を経た教科書を使った「近現代史」を学校ごとに教えることができる。全国2095校の7割近い1415校が近現代史を科目に取り入れ、教科書は6社から計32万冊が発行。金星社(今回問題になった教科書)の教科書は2002年7月に検定を通り、2003年の新学期から使用されている(49.5%にあたる、701校で採択)。(但し、()内は私の注釈。) ----- 朝日新聞には、その教科書の内容で、野党などが問題視する主な点として、次のような箇所があげられている。 南北分断について。「南に駐在していた米軍は、自分に都合のよい人物を官僚に充てたが、ソ連軍は、北の住民による建国準備委員会を大筋で認め、金日成が実権を掌握できるよう積極的に後押しした」 北朝鮮体制について。「北朝鮮は社会主義と朝鮮民族第一主義を唱え、世界平和に対応する一方、部分的な開放策で経済的困窮から脱出しようとしている」 新聞記事には、その他いくつかもあげられていたが、なるほど、この二つだけでも十分、その偏向度はうかがえる。 さらには、韓国の朴正煕政権のセマウル運動(1970年から始まった国民的地域社会開発運動。いわゆる、「漢江の奇跡」を生み出すことになった。)は、「自分の長期政権を正当化するための手段」と決め付けているのに対して、2000万人の中国国民を飢えさせた毛沢東の代表的な失敗作「大躍進運動」を真似、今ではやはり大失政の評価が固まっている、金日成の千里馬運動を、「社会主義の経済建設に大きな役割を果たした」と評価している。 実は、この金星社の教科書の次に採択率の高い斗山社の教科書は、この箇所では、まったく相反する記述をしているという。(朝鮮日報(2004年10月4日)より) 他国のことではあるが、これはまた、大変なことである。 日本の新聞でさえ、大きく報道していたので、私はこの前後の、韓国の新聞を確認してみた。私の調べた範囲でも、先にあげた朝鮮日報、そして中央日報、ともに10月5日の社説をはじめとして、この話題を大きく取り上げていた。いずれの記事も、この教科書を問題の多い教科書であるとし、その改定を要求したものであった。 さらに、問題の箇所をいくつか引用しながら、歴史を学ぶに際してのあるべき姿が述べられている。私も、その多くの部分に、強く頷きながら、目を通していた。 中央日報では、「歴史書」ではなく、「歴史教科書」という点を重視し、次のように述べている。 「学生が対象の歴史教科書の内容は、客観的で価値中立的でなければならない。過度に進歩的な色彩を帯びていたり、保守一色であってもならず、画一的な認識を強要してもいけない。特に、歴史学界でも論議となっている事案を、定説であるかのように教科書に掲載することがあってはならない。特定理念に基づいた歴史教育は、国家のアイデンティティーを混乱させるだけだ。客観的に歴史を見る目がまだ形成されていない学生に、特定理念の歴史を教えることは、教育ではなく政治的洗脳である。」 極めて正論。私も完全に同意できる。特に、「歴史学界でも論議となっている事案を、定説であるかのように教科書に掲載することがあってはならない」とは、日本の教育関係者にとっても、真摯に素直に聞いていただければ、耳が痛いはずだ。 さらに続く。 「歴史を非支配層の観点で見る民衆史観、韓半島の分断責任を米国に転嫁する修正主義史観など、特定史観が支配する教科書は教科書になりえない。こうした史観は学者間の討論の対象であり、国民のアイデンティティーの根幹を形成する中学校(高校の間違い?)の歴史教科書にはならない。」 もちろん、韓国を代表する新聞であるので、法治国家としての秩序にも、きちんと触れている。 同日付けの記事中に、教科書の検定業務管理の責任者である韓国教育課程評価院長の鄭剛正氏の話を載せている。 「鄭院長は『教科書検定を通過した、とのことは「教科用図書審議会」が設けた審査観点をみたした、との意味』とし『教科書の具体的な内容については言及できないが、検定を通過しただけに何ら問題がない、と考えている』と話した。」 色々と意見はあろうが、こちらも、手続論としては、正論である。 政権与党と対立しているといわれる、朝鮮日報はさらに過激である。 10月5日付けの朝刊社説で、「歴史教科書の偏向を正さずして何を正すのか」と見出しを掲げている。その内容は推して知るべし。 朝鮮日報は、その前日にも、この教科書問題についての記事を載せている。 このような教科書の採択率があがったのは、左派色の強い教職員労組の働きかけが影響しているとみられる(韓国メディアによると、としながらも、何と、朝日新聞がそのようなことを書いていた!朝日新聞の良識が、やはりバランスをとろうとしているのか。)とし、次のような趣旨の記事が見られる。 「全国教職員労働組合を中心に活動する教師らは、従来の歴史教育と北朝鮮に対する教科内容は冷戦時代の産物だとし非難してきた。」と前置きがあり、「そのような認識の結果が、大韓民国を否定」し、さらには、「偏った教育内容の形で現われたとしたら、これは歴史に反する政治教育であり、思想改造作業に過ぎない。」締めはこうである。「歴史教育を生徒の頭の中に左派傾向の理念を植え込む政治闘争、理念闘争の道具にするのは容認できない。」 少し視点を変えてみる。 これは、お隣の韓国の教科書についての、韓国内の大手新聞社の記事であるが、大韓民国を日本に置き換えて、読み直してみたい。そうしてみる方が身につまされて、分りやすい。 《そのような認識の結果が、日本(大韓民国)を否定し、偏った教育内容の形で現われたとしたら、これは歴史に反する政治教育であり、思想改造作業に過ぎない。歴史教育を生徒の頭の中に左派傾向の理念を植え込む政治闘争、理念闘争の道具にするのは容認できない。》 私はここで、まさに「思想改造作業」をすることを目的としているのではない。よって、「全国教職員労働組合」とか「左派傾向」とかいう朝鮮日報の記事に見られる個別の表記には、全く興味はない。あくまでも、「歴史教育を政治闘争、理念闘争の道具にするのは容認できない」という考え方は、どの国においても大切なことであると強調したいだけである。 さらに、朝鮮日報の同じ記事に、次のような記述もある。少々長くなるが、大事なところなので、全て引用したい。 「歴史を見る視点は多様であるべきだ。しかし、成長期の世代に教える歴史は、普遍性やバランス感覚を失ってはならない。歴史を見る目が確立される前の段階にある生徒たちに史実よりは歴史観、しかも理念的にバランスを失った偏向的な歴史観を植え付けるべきではない。」 全くもって、100%同感である。 ところが、何と、信じられないことに、普遍的な正論を、これだけ冷静に述べている朝鮮日報が、対日本ということになると、いきなり、激情的、扇情的になってしまう。 先の100%同感であると述べた文章の後、しばらくして、次のような文章に出くわす。 「われわれが日本の歴史教科書歪曲を批判するのも、日本の極右勢力の歴史教科書編纂と採択が、このような共通の原則から外れているからだ。」 ・・・・・。大きなため息をついてしまった。 それまでの、理性的、論理的な議論から、いきなり、「普遍性やバランス感覚」を棄却し、「理念的にバランスを失った偏向的な歴史観」で押し込んでくる。「政治闘争、理念闘争の道具」として、他国(日本)の歴史教育を制御しようとする。「教育ではなく政治的洗脳」を助長しようとしている。 なぜ、このようなことになってしまうのか。 実は、皮肉なことに、その理由は、先に私が100%同感であると述べた、その社説の文章の直後に、朝鮮日報自らが、逆説的に著している。 「このような原則は、共産主義国家を除く世界中の国の教科書編修と採択においての常識である。」 この場合の「世界中の国」には、当然、韓国はもちろん日本も含まれているはずなのだが、なぜか、日本という固有の国名があがった瞬間、その「常識」は、朝鮮日報の中からは霧消してしまうようである。総論賛成、各論反対というやつか。 最後に、やはり、朝鮮日報の社説から、一行だけ引用して終りたい。 「はっきり言えば、現在の教育がどんな国民を作ろうとしているのかが重大な問題だ。」 私たちにも、訴えかけている。 以上 ※大変、デリケートなテーマでもあるので、変な誤解を避けるためにも、私は具体的な事例や固有名詞は使わずに、ほとんどを、日韓両国の新聞記事の引用でまとめている。しかし、問題提起はしっかりとできたつもりだ。 ※私が文中に書いているように、韓国の国内においても、あれだけ冷静な教科書観が述べられているのに、こと日本に対してだけは、例外的になってしまっている。当然、韓国だけではなく、私たち日本の対応にも問題があると考えるべきであろう。私たち日本としては、つい先般、中国と韓国・北朝鮮との間で紛糾した、「高句麗帰属問題」での双方の対応が、ひとつの参考になるのではないだろうか。 2004年10月25日 (月) 二つの講演 この土曜日曜と、いくつかのスケジュールの合間をぬって、講演を二つ聞かせていただいた。 一つは、兵庫県の保育所の先生の講演。思想家哲学家である森信三先生との出会いや、学んだことを中心に話していただいた。普通の、保母さんのお話ではあったが、強く感じるものがあった。惜しむらくは、あまりにも人が少なすぎたことだ。 もう一つ。金沢エルデの会という、学習障害児を持った親御さんたちの会が主催した勉強会。専門家の先生をお呼びしての講演会。 私は、発達障害の勉強のつもりでお伺いしたが、子育て一般論としても、十分聞き応えのある内容で、身につまされることも多かった。終始、背筋を伸ばして聞かせていただいた。 お二人とも、決して若いとはいえない女性で、また、一部の人にしか知られていないような方たちであったが、ともに素晴らしい内容の講演であった。 市井には、人物がいるものである。 昨日、金沢南の試合を見てきた。時間的に、観戦は難しいと思ったが、他のスケジュールが、早めに片付いたため、一試合応援。その試合は、引き分けであったが、子供たちは他の試合で頑張り、リーグトップで予選通過。自分が、曲がりなりにも関わっているチームが勝つと、やはり、嬉しい。 午前中、決算委員会。午後、打ち合せ等々。 夜、自宅で食事。 2004年10月22日 (金) 自動車「金沢ナンバー」の可能性 行政視察とはおもしろいもので、私にとって、さして関心事でないテーマであっても、その課題の先進地にお伺いし、様々な先行事例を、それに直接携わった、強い思い入れをもった方たちから説明を受けていると、自然、興味が沸き起こってくることが多い。 今回、経済企業常任委員会の行政視察もそうであった。 初日にお伺いした宇都宮市では、平成13年度をもって、宇都宮市主催の競馬事業を廃止した。存続か否かが議論されている金沢競馬を抱える本市にとっても、参考にしたいテーマである。 既に、谷本知事と山出市長との間で、ある程度の話をしているようで、今後、その議論の推移を見ていきながら、発言をしていきたい。 三日目は、仙台市に行き、特区についてと、自動車の「ご当地ナンバー」の動きについて勉強させていただいた。 実は、私は、自動車の「金沢ナンバー」に、さして関心も持ってはいなかったのだが、色々とお話をお聞きしていると、おもしろいテーマだと感じるようになった。さらに結論からいうと、「金沢ナンバー」実現には、大きなハードルが待ち構えているということも分ってきた。 少し、整理したい。 恥ずかしながら、今回初めて知ったことだが、自動車のナンバープレートに記されている地域名は、国土交通省の運輸支局や、自動車検査登録事務所の所在地の地域名が表示されることになっている。 お伺いした仙台市の場合、宮城運輸支局が、宮城県内唯一の自動車登録・検査施設であるため、宮城県内で登録された自動車は、現在全て「宮城ナンバー」となっている。そう言えば、自動車登録台数の増大で自動車検査登録事務所が開設され、その結果、「湘南ナンバー」なるものができ、大騒ぎされたのは、まだ、記憶に新しいところである。 ご想像の通り、石川県は、石川運輸支局であるため、全て、「石川ナンバー」。 ご当地ナンバー実現に向けて、仙台市は、何と平成6年から、「仙台ナンバー」要望の動きをしてきているという。仙台市内では既に自動車の登録台数も多くなってきていたため、新たに自動車検査登録事務所を新設し、「仙台ナンバー」を創設してほしいという活動を続けてきた。 では、一体、仙台市は、「仙台ナンバー」によって、どういうメリットを期待しているのか。いただいた資料によると、それには、大きく、次の四つを挙げている。 1. 仙台市の都市イメージを向上させる、シティセールスの効果が期待できる。 2.仙台の知名度向上が図られることから、観光振興の効果が期待できる。 3.街を元気づけ、地域振興に寄与することができる。 4.仙台市民の「わが街・仙台」への愛着を高めることができる。 それと、資料には、「何よりも、自分の自動車のナンバープレートに、自分の住む街が表示されるというのは、やっぱりちょっと嬉しい(ような気がします)。」とも書かれている。 外部の目から、ちょっと冷静に考えると、実際に意味がありそうなのは、メリットの四番目と、おまけに書かれたものくらいであろうか。しかし、それが大切。私が、「金沢ナンバー」興味を持った所以である。 ところが、私のそのにわか問題意識は、すぐに、大きな壁にぶち当たった。 ---------- 国土交通省は、折からの規制緩和の中、自動車検査登録事務所新設がなくても、地域名表示いわゆる「ご当地ナンバー」を認める方向で議論を重ねてきた。 詳細な経緯は割愛するが、平成18年度から、「ご当地ナンバー」を認めていくことになりそうだという。さしあたり、「会津ナンバー」と「仙台ナンバー」あたりが、その有力候補といわれている。このことも初めて知った。 国土交通省は、「ご当地ナンバー」を認めるにあたり、いくつかの基準を出している。大きくいって、次の四つである。 1.一定のまとまりある地域(同一経済圏) 2.広く認知されている地域 3.登録自動車10万台超 4.人口等県内のバランスを考慮 本市の場合、2、3、4は全く問題ない。問題は1である。1は、単独の自治体では、原則、認めないということを含んでいる。つまり、金沢市だけではなく、近隣自治体(一つでも良い)も、「金沢ナンバー」で了解しなければいけないということになる。 現在の状態で、野々市町や内灘町、津幡町が、「金沢ナンバー」に対して、理解を示してくれるかどうかは、難しいところだ。仙台市の場合においても、全ての近隣自治体は、拒絶しているという。 当然、私たちは、そのことに対して、仙台市としてどう対応していかれるのかを尋ねた。さらに、なぜ、仙台市は単一自治体であるのに、ご当地ナンバーが認められるのか、と。 仙台市のご担当者は、自信満々で、以下のような趣旨のお答えをされた。 国土交通省は、単一自治体であっても、合併市町村(合併によって一つの市になる場合のこと)や政令指定都市の扱いについては、次のように述べている。 「それぞれの地域が、『一定のまとまりのある地域であり、広く認知されている地域』等の要件に該当するか否かで判断することにします。」 実は、この国土交通省の見解は、「合併市町村や政令指定都市及び中核市においては、ご当地ナンバーを認めてほしい」という、パブリックコメントにおいて出された要望に対する答弁である。要望には、中核市も含まれていたのだが、答弁では、それは無視され、合併市町村と政令指定都市についてのみ答えられている。 現在、政令指定都市において、その都市名を冠したナンバープレートがないのは、平成15年に政令指定都市になったばかりの、さいたま市だけである。さいたま市にしても、その前身市の「大宮」ナンバーは存在している。京都、大阪、静岡、福岡、広島は府県名か、都市名かはともかく、存在はしている。 つまり、この「ご当地ナンバー」は、合併市町村の場合は、議論があるにしても、少なくとも、政令指定都市においては当確であるということである。中核市単独では、問題外と考えられているようである。余談ではあるが、「さいたま市」ナンバーは難しそうだ。国土交通省は、「ご当地ナンバー」については、原則、漢字二文字としているからだ。 仙台市は、手ごたえとして、平成18年度からの実施について、相当自信を持っているようであった。 「金沢ナンバー」に話を戻す。 このテーマこそ、経済界の方たちが中心になって、声をあげて欲しい課題である。ある自治体が突出して声を上げると、いらぬ誤解が生じかねないが、ちょっと、冷静になれば、自治体合併と違って、感情的な問題も、実はさほどありはしないことに気付く。なぜなら、少なくとも、金沢市及び金沢市近郊の自治体、さらにはその住民にとって、全くもって何のデメリットもないからだ。電話番号の市外局番が、金沢市だけでなく、野々市町や内灘町、津幡町が同じ番号076で、何か不都合があるだろうか。 民間においては、金沢工業大学、金沢医科大学、さらには○×会社金沢支店、金沢営業所等々をはじめ、金沢市近郊自治体にありながら、「金沢」という地名を利活用している例も数多い。それは、対外的には、そのブランドを利用するほうが、色々な意味で都合がよいからであろう。 そういう考え方だけでよい。その発想で、経済界の方たちが、その気風を起こしてもらうことにより、従来の自治体域を越えた考え方というものもしやすくなってくるのではないだろうか。 たかが、自動車のナンバープレートかもしれない。多くの人が特に気にすることもなく、何人かの方が、ほんのちょっと気分がいいだけなものかもしれない。しかし、案外、そういうところから、これからのまちづくりに対する、新たな展開というものが生れてくるのではないだろうか。 2004年10月20日 (水) 行政視察 今日までの三日間、行政視察で北関東・東北の方に行ってきた。 栃木の宇都宮市では、競馬事業の撤退の話を色々とお聞きしてきた。中央競馬に近いという地理的な問題や、市単独で競輪事業を抱えているという事情を考えると、一概に、金沢市の状況を当てはめるものでもないが、色々と参考になった。 仙台市では、いくつかお聞きした中で、いわゆる自動車の「ご当地ナンバー」がおもしろかった。確かに、宮城ナンバーよりも仙台ナンバーの方が、ピントくる。仙台では何とか実現できそうではあるが、話をお聞きしていると、金沢ナンバーは極めてむつかいしいということが分った。結局、政令指定都市でないと、ダメだということだ。 大変な台風到来。帰りの飛行機を、列車に変更して、無事、金沢に戻ってくる。 夜、谷口吉郎展における、フォーラム。大荒れの天候であったため、会場の人も少なかった。仕方がない。慶應関係は、私だけのようであった。 家に帰り、久し振りに、自宅で食事。子供たちは、既に、食事を終えた後だったが、ずっと、横にいてくれた。 2004年10月16日 (土) 長坂神社のお祭り 昨日は、一泉同窓会。 今年は、私たち32期が準幹事期ということで、動員に大変だったが、私の同期もたくさん来てくれた。 ホテルでの懇親会の後、同期で二件寄ったが、それほど飲んでいないつもりだったが、したたか酔っ払ってしまった。楽しいお酒はついつい進んでしまうが、気を付けよう。 毎年、10月15日に高校の同窓会である一泉会総会。春と秋には、大学の同窓会の三田会が開かれる。実は、結構、重なっているメンバーも多い。落ち着ける会であるし、楽しいお酒が飲める会でもある。毎年、楽しみにしている。 今日の午前中は、原稿整理。午後に、長坂町会に新しい子供神輿が入った、そのお披露目。その後、新しいレポートの印刷。時間がかかった。 夜、地元神社のお祭り。その後、地元の方たちと飲む。昨晩のこともあったので、控えめに飲む。九時前に、帰宅。 2004年10月12日 (火) モーニングセミナーでのちょっとした変化 早朝よりモーニングセミナー。 地域通貨のお話。地域通貨の目的は、自己完結型の経済云々とか言われているが、私は、コミュニティの再生のきっかけ作りと思っている。 最近、モーニングセミナーの出席者が減ってきている。一時の、バブルが終りつつあるのか。私たち役員とすれば、バブルの終わりというよりも、その原因を明確にして対応策をとらなければならない。朝食で色々と話を聞かせていただき、ヒントを与えていただいたような気がする。少し真剣にしたい。 一般会計決算審査。大きな財政の流れよりも、細かい所を何点か尋ねる。事前にもう少し勉強しなければ。 自宅で夕食。夕食前に、子供たちと遊ぶ。楽しい一時。 しなければいけないことに取り掛かる。 2004年10月10日 (日) 美術館オープン 昨日は、金沢21世紀美術館の開館。ほぼ、私が議員になってから、ずっと議論されてきたものだ。当初は、私も含めて、懐疑的な意見が圧倒的であったが、蓑館長が決まったくらいから、明らかに空気が変わってきた。市民体験型というフレーズが、単なる言葉遊びではなく、具体的なイメージになってきたからだ。これは、やはり、蓑館長自らが、様々な場に出て行って、積極的に説明にエネルギーを費やしたことが大きい。 また、山出市長にしても、終始一貫、子供中心、市民主体といってきたことがぶれなかった。 昨日、今日と私は二日続けて行ってきた。日を置いて、少し人が少なくなってからでも良かったが、やはり、オープンの空気にあたっていたかった。良かった。 今日は、広貴も連れていったが、大変喜んでいた。家に帰ってから、妻に、一所懸命説明をしていた。私も嬉しい。 同時に行われた、ファイブタウンフェスティバル及び、柿木畠商店街のお祭り、いづれも、美術館と連動していて良かった。商店街の方たちとも話をしたが、皆さん、前向きだ。まちなかが変わる期待を感じた。 2004年10月08日 (金) 谷口吉郎生誕100周年 表題で、答えが出てしまっているようで恐縮ではあるが、慶應義塾、東宮御所、東京国立近代美術館、この三者の共通点をあげるということは、本当は、必ずしも容易ではないことなのかもしれない。しかし、これに、藤村記念堂、明治村とくれば、ぐっと、解答に近づく。さらに、格別に金沢人にとって、観光会館、玉川図書館、商工会議所と出揃うと、「谷口吉郎」というキーワードに到達する。 谷口吉郎は、明治37年金沢市に生まれ、東京帝国大学建築科を卒業。その後、東京工業大学の教授となり、建築家としては、近代性と伝統との調和の実現を目指し、「清らかな意匠」と彼自身が述べているように、清潔で叙情豊かな作品が多く、その幅は文学碑から工場建築まで多岐に渡っている。また、名文家としても知られ、昭和36年には日本芸術院賞、昭和48年に文化勲章を受賞している。間違いなく、日本の建築界において指導的な役割を果たしてきたといえる。 先にあげた作品の中、私たち金沢市民にとって、特に印象深いものは、何といっても玉川図書館であろう。玉川図書館は谷口吉郎が総合監修を務め、ご子息の谷口吉生が設計するという、ともに世界的な建築家である親子による、最初で最後の共同作業による作品として名高い。 さらに、谷口吉郎の作品群を語るにおいてはずせないのは、一連の慶応義塾の建築物である。幼稚舎、普通部、中等部、女子高、大学、病院等々、塾に関するほとんど全ての様々なステージにまで、その仕事の範囲は及んでいる。中でも、一般に最も知られているのは、三田キャンパスを左手に入った所に見られた、「新萬来舎」(第二研究室)であろう。それは、塾卒業生にとっても同様である。(実は、個人的には、いわゆる「山食」の方が、親しみを感じるような気もしているが、ここでは、触れない。) その理由の一つは、「新萬来舎」という呼称に見られる。 多くは語らない。次にあげる、谷口吉郎自らの述懐が全てであろう。 「新しい第二研究室が建つ場所は、明治の初年、福澤諭吉がそこに『萬来舎』を開設した跡だった。それは名称のごとく千客萬来、来る者はこばまず、去る者は追わず、今の言葉で一言えば、広く識見を求めようとする対話の場所であった。それが戦災で壊滅したのである。だから新しく建てられる『新萬来舎』は福澤精神の新しい継承を必要とする。従って建築もそれに応じて開国的な新しい意匠でいいはずだと、私は考えた。」 くらくらするような一文である。 もう一点、この空間は、谷口吉郎とイサム・ノグチとによるコラボレーションであるということも忘れてはならない。 私は、イサム・ノグチという人は、20世紀を代表する偉大な彫刻家だと思っていたが(もちろん、そうだが)、それだけではなく、優れたプロダクトデザイナーでもあり、もっと言えば、それらを包含した空間全体に意匠をこらすことを得意とした、いわば空間デザイナーともいえる存在でもあったようだ。 イサム・ノグチについては、私の受け売りの説明よりも、こちら( http://media.excite.co.jp/ism/043/ )をご覧いただいたほうが、良いかもしれない。 イサム・ノグチは、自分の父が慶応義塾で教鞭をとっていたこともあり、その縁で、当時の潮田塾長から谷口吉郎を紹介され、谷口の新萬来舎に対する構想に共鳴し、そのインテリアデザイン、空間造形を担当することになった。 新萬来舎に隣接する彫刻作品「無」、「若い人」、「学生」も有名であるが、ホール内の談話室の室内デザインは、イサム・ノグチの最高傑作として知られ、「ノグチルーム」と呼ばれるようになった。 しかし、戦後間もない日本において、現代美術の最高峰の融合が見られたということは、慶応義塾にとっても、日本の芸術界にとっても、まさに、特筆すべきことではないだろうか。 もちろん、私が学生時代は、そんなことはほとんど全く考えもしなかった。皮肉なことに、おそらくは、私を含めた多くの方が、このことに気付いたのは、慶応義塾が新校舎建築にあたり、この新萬来舎の解体、そして一部移転を決定してからではないだろうか。いくつかのマスコミにも、このことが取り上げられることにより、改めて、谷口吉郎やイサム・ノグチの共同作品に光が当てられた。当然、その決定に異議を唱える声が多く聞かれた。だからこそ、マスコミに表れることも多かったのであろう。 そう言えば、数年前に、私のところにも、何人もの方から、新萬来舎の解体反対の声を上げてほしい、さらには、反対の署名をしてほしいというメールがきた。それも、全く知らない方からもだ。余談だが、私は、このとき初めて、チェーンメールなるものを受け取った。 しかし、それらの声もむなしく、残念ながら、2003年6月に新校舎建設にあわせて、解体されたようである。それに先立つ、その年の3月に行われた二日間の一般公開では、2,500人を超える方が、見学に訪れたという。 ( http://www.keio.ac.jp/news/030314.html 参照 ) 実は、今年は、谷口吉郎生誕100年にあたる年である。そして、イサム・ノグチも谷口吉郎と同じ明治37(1904)年生まれ、やはり、生誕100年である。 私はご縁があり、この春に谷口吉郎のご令嬢と一緒に、食事をする機会を得た。そこで、実は、谷口吉郎 イサム・ノグチ生誕100周年記念として、今は解体されてしまった萬来舎の写真展を、谷口吉郎の故郷である金沢で行うことができないだろうかと相談を受けた。私は、それでは、金沢21世紀美術館が開館する10月9日にかかった方が良いのではないか、また、場所も、美術館から歩いていける、「ふるさと偉人館」もしくは、谷口吉郎が設計した「観光会館」でいかがかと思い、市執行部にも提案させていただいた。結果、『〜谷口吉郎 イサム・ノグチ生誕100周年記念〜萬来舎写真展「美の鼓動、永遠に」』が、ふるさと偉人館において、先月18日から今月24日の予定で行なわれることになった。もっとも、実務的なことは、すべて谷口吉郎に繋がる人脈で対応されたことではあるが、私としては、一人、静かな思い入れを持った気持ちでいる。 特に、10月20日(水)の午後6時30分からは、「萬来舎の歴史的・芸術的価値と谷口吉郎、イサム・ノグチとの思い出」と題して、金沢21世紀美術館館長である蓑豊氏、また、先程申し上げた谷口吉郎のご令嬢の杉山真紀子氏、そして、慶應義塾大学教授の河合正朝氏との鼎談が行われる。塾、建築関係者はもちろん、芸術全般やまちづくりに関心のある方にとっても、興味を持ってもらえる内容ではないかと期待している。 お時間のご都合のつく方は、ぜひ、お出かけいただきたい。できれば、美術館に来ていただき、そのまま、ふるさと偉人館にまで足を伸ばしていただければいかがだろうか。 詳細は、こちら( http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/ijin/kikaku/index.htm )から。 余談。 私は、杉山氏のご好意で、寺町にある、谷口吉郎が育った家にご案内いただいた。谷口吉郎の生誕の地は、今の、片町のど真ん中あたりのようであるが、その後、寺町にて過ごしていたという。 落ち着いた雰囲気の中で、お茶をいただく。しっとりとした気分にさせていただいた。 2004年10月07日 (木) 企業局防災訓練 午前中は、企業局の防災訓練。 ありがちなものではなく、本格的に、防災対策本部を立ち上げ、想定され得る災害状況及びその対策を念頭においたものであった。午前中終了後、局長も話されていたが、実際にこのような災害が起きた場合は、本日の訓練で行われたものが同時進行的に起き、しかも、より大規模な被害も考えられるが、少なくとも、現在考えられ得る、被害及び対策を想定することが大切だという。最低限確認すべき点をしっかりとやっておくことが、初動動作において大切だ。 多くの職員の方たちが、緊張感を持って取り組んでおられる姿に接し、一市民として、自分自身の行うべきことを再確認しなければいけないと思った。と同時に、できるだけ多くの方に、このことも伝えていかなければいけない。 午後、伝統工芸に関することで、色々と打ち合わせ。大変スケールの大きな話で、横で聞かせていただいているだけで、わくわくしてきた。 みやげ物売り場、物産展的な伝統工芸品販売という手法を、必ずしも否定するものではないが、結果として、自分たち自身の価値を下げていくことになりかねないのだろうか。 お話を聞かせていただいた方たちの試みに、大きく期待をしたいし、私もそのお手伝いができれば嬉しい。 その後、ある中心商店街の飲食関係の方たちの勉強会に参加。数年前に、あるご縁があって以来のお付き合い。必ずしも多くの方が出席されていたわけではなかったが、このような静かな取り組みが、大きな実を結んでいく。前回は、色々と意見を述べさせていただいたが、今回は、ひたすら聞き役。こんな方たちがいるのだ。 2004年10月05日 (火) 倫理法人会懇談会 日中は、いくつかの頼まれごとの対応。市企業局に立ち寄り、話を聞いていただく。親しい職員の方でもあったので、陳情事以外にも色々と教えていただく。 夜、倫理法人会の役員の懇談会。ほんの数年前には考えられなかったほどの、多くの方たちが積極的に携わっていただく。前会長と現会長のリーダーシップを強く感じる。楽しいお酒だったので、久し振りに遅くまでお付き合いさせていただいた。 2004年10月04日 (月) 松山市視察 ちょっと、日が開いてしまったが、先月末に松山市に行ってきた。金沢経済同友会の皆さんが企画した視察に、同行させていただいた。大阪から、飛行機に乗る前にちょっとしたトラブルに巻き込まれたが、それ以外は、大変楽しい視察だった。大先輩の皆さんばかりで、緊張しっぱなしだったが、逆に、気を遣っていただくことが多く、恐縮しきりの場面が多かった。 松山空港に市の職員の方が出迎えに来ていただき、予約しておいたレンタカーを運転して、市内を案内してくれた。しかも、運転しながら、「坂の上の雲」のまちづくりの話や、様々な施策の説明をしていただいた。果たして、金沢市職員で、レンタカーの運転を進んでしてくれ、あそこまで、よどみなく市の施策の説明をしてくれる人は、何人いるだろうか。行政は究極のサービス業という一端を再認識させられたような気がする。 さて、久し振りの、中村市長との懇談。当初は、夜の会食の予定であったが、急遽、東京出張が入られたということで、昼に一時間ばかりの懇談をさせていただいた。私は既に何回かお会いしているのだが、初めての方たちは、そのオーラに感じ入ったようだ。私と大して歳が変わらないのだが、全くかなわない。少しでも学んでいきたい。 議会で行く行政視察も良いが、経済人の皆さんとお伺いするのも、別な意味での刺激になり、貴重な体験をさせていただいた。これからも、お声掛けをしていただければ、色々な機会を経験していきたい。 2004年09月20日 (月) 敬老の日とゴールデンウィーク 今日は、敬老の日。 昨年から、いわゆるハッピィ・マンディ法なる悪法により、海の日が7月20日から7月の第三月曜日に、敬老の日が9月15日から9月の第三月曜日に変更になった。 そのことに対する私の思いは、これまでもさんざん述べてきているので、ここでは繰り返さない。(メルマガ「祝日のあり方」、「海の日」参照) ただ、一点。敬老の日を9月の第三月曜日とすることによって、実は、秋にとんでもないゴールデンウィークが誕生しかねないことは、ほとんど全く知られていない。 昭和60(1985)年に「国民の祝日に関する法律」いわゆる祝日法が改正されて、次の一文が付け加えられた。 『その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(日曜日にあたる日及び前項に規定する休日にあたる日を除く。)は、休日とする。』 なんのことはない、5月3日の憲法記念日、5月5日のこどもの日に挟まれた5月4日を休日にするために改正されたものである。 まさか、この段階で、体育の日や成人の日、海の日、敬老の日を移動させるハッピィ・マンディ法なんていう発想は、全くなかったであろう。海の日は存在さえしていなかった。 ところが、敬老の日を9月の第三月曜日にすることによって、いわゆる「秋分の日」とあまりに近すぎる為に、とんでもない連休ができてしまう可能性が生まれてきたのである。 今年の例を見てみる。 本日9月20日が第三月曜日で、敬老の日。21、22日と二日を挟んで23日が秋分の日。二日を挟んでいるために、まさにカレンダー通りであったが、これが、もう一日ずれていれば、どうなるのか。つまり、9月21日が第三月曜日で敬老の日。22日の一日だけを挟んで、23日は、秋分の日。そうなると、昭和60年の祝日法改正に則って、22日も休日となる。5月4日が祝日法により休日とされているのと同じである。 ここで、一つ、疑問を持たれる方がいるかもしれない。 秋分の日は何も、9月23日に固定されているわけではないので、そのような安易な発想はいかがか、というふうに。 確かに、春分の日と秋分の日とは、固定された日ではない。国立天文台が、毎年2月に翌年の「春分日」、「秋分日」(暦要項)を官報で公表することによって決められる。 しかし、国立天文台は、「地球の運行状態などが現在と変わらないと仮定すると」として、長期の春分の日、秋分の日の予想を発表している。それによると、秋分の日は、2012年に9月22日となるまでは、ずっと9月23日となっている。ところが、春分の日は、9月20日と21日が入り乱れている。ここでは、このテーマを取り上げることが主眼ではないので、このことはこれ以上触れない。ご関心のある方は、国立天文台のホームページをご覧いただきたい。 以上のことを踏まえて、調べてみると、2009年に9月21日が第三月曜日で敬老の日。23日は秋分の日。つまり、22日の火曜日も、祝日法に則り、「休日」となる。会社によっては、19日の土曜日から23日まで5連休になる。もっと言えば、24、25日をうまく有休休暇として利用(?)できれば、次の26、27日の土日と繋がって9連休だ。すさまじい、黄金週間の誕生。 きちんと数えてはいないが、このようなめぐり合わせは、おそらくは、十数年に一度のことであろうので、さして、騒ぎ立てることではない。しかし、このような事例が発生するなんてことは、ハッピィ・マンディ法を決定した故小渕総理大臣は考えもしなかったであろう。 蛇足。 春分の日、秋分の日は固定された日でないことは知ってはいたが、先にあげたように、秋分の日は、ほとんど変更しないのに、春分の日がころころ変わるということは知らなかった。もっとも、国立天文台の予想によると、2012年からは、4年に一度、9月22日が秋分の日になるという。もちろん、それも知らなかった。 もう一つ、知らなかったこと。 祝日法によると、春分の日(春分日)とは、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日で、秋分の日(秋分日)は、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日だという。 全然違う意味のような気もするが、全く同じ事を言っているような気もする。 2004年09月16日 (木) 明日で議会は終了 すいません。久し振りの日記です。 9月議会も明日が、最終日。今日は、常任委員会。意見書の調整。 意見書の件で、各方面に連絡をとる。普段からのコミュニケーションが大切なことだと、再認識。これからは、気をつけていきたい。 夜、トーチランの打ち合わせ。ほぼ、最終の確認。やっぱ、多くの方の知恵とパワーが集まったらすごい。私たちスペシャルオリックスメンバーだけだったら、絶対に、ここまでできなかった。本当にありがたい。皆さんからのご好意に、きちんと応えていきたい。 2004年09月14日 (火) 議会質問を終えて いつもありがとうございます。 昨日、議会質問を無事終えることができました。ご助言いただいた皆さんに、心より御礼申し上げます。 さて、本日の朝刊に私の記事もいくらか掲載されています。北國、北陸中日と地元紙2紙とも、教育問題を中心に取り上げていました。その中で、残念ながら、北陸中日新聞では、誤解された形で記事掲載をされておりますので、以下、訂正させていただきます(私が訂正するのも変ですが・・・)。 質問原稿にもありますように、今回、私が取り上げた「学校運営協議会」とは、地域住民グループ、学校長、意欲的な教員グループなどが、学校運営協議会の指定を望んでいるとき、当該区市町村教育委員会はその意思を尊重するということが前提となっています。そのことは、この法律が議論された衆議院において、河村文科大臣は「そうあるべきものだと考えて法案を作っている」と明確に答弁していますことからも明らかです。 また、県教委との関係で言えば、これも、衆議院文部科学委員会での議事録によると、文部科学省初等中等教育局長は、「同意を得るということを求めていない」「事前協議がととのわない場合も設置できる」と述べており、このテーマに関しては、あくまでも、行政ヒエラルキーの枠外での話といえます。 私が質問で、「県教委との間に、制度についての共通の理解を進めていくべきと考えます」と言っているのは、衆議院文部科学委員会で文部科学省初等中等教育局長が答弁された、「学校運営協議会は、指定学校の教職員人事に関して意見を述べることができ、任命権者である都道府県教育委員会は、当該意見を尊重して職員の任用を行う、こういうことになっていることでございますから、あらかじめ都道府県教育委員会としては、指定が行われる学校について知っておく必要があるであろう、こういうことで、都道府県教育委員会に事前協議を行うというふうにしておるわけでございます。」を念頭においたものです。つまり、県費負担教職員の人事権に関わってくる課題があるだけに、県教委と、きちんと共通認識をもっておきなさいと指摘したわけです。もっとも、こんなことを質問したのは、人事権を触られる県教委に共通認識を持ってもらうのは、難しいと思うからです。 この部分は、市教委も、当初は理解されていないようでしたが、質問前に私が、国会の議事録を引用しながら説明したことにより、ご理解いただいたと思っています。(もっとも、市教委が理解しても、県教委は納得しないでしょう。県教委が面妖なことを言えば、市教委も逡巡するでしょうし、学校長は萎縮してしまうでしょう。私立が多い都会ならともかく、地方都市では、壁は厚い。) ところが、北陸中日は、小見出しで、「県の動向を注視、設置へ慎重姿勢」と、既に、ピント外れなことを書いています。学校運営協議会も、「県教委−市教委」という行政ヒエラルキーの枠内の機関と認識されていたようです。別の言い方で言えば、多くの情報に敏感な新聞記者でさえ、学校運営協議会のことを、ほとんど全く理解していないということであり、やはり、先ずは、正しい理解浸透に努めていくべきなのでしょう。 ちなみに、本日、記者の方に説明し、ご理解いただきました。 中学校区域外通学については、市教委はやりたそうです。私は、機会をとらえて、説明を求めながら、ブレーキをかけていきます。 2004年09月05日 (日) 質問作成 9月1日から3日まで、会派の行政視察。 昨日は、日中は、議会質問の為の資料整理及び質問作成。ちょっと書いては、関係のない本を読んだりして、だらだら過ごす。 夜、代表を務める、FCサザンの打ち上げ。サザンに関しては、私も今回はあまり携われることができず、保護者の方たちにご迷惑をお掛けしてしまった。これからは、もう少し、タッチしていかねばいけない。 今日は、大荒れの天気ということもあり、日中出かけることなく、勉強。 三位一体について、膨らみすぎて、大幅に削らなければならない。しかし、議会質問を書いていると気に、いつも思うのだが、これだけの内容のことを、少なくとも月に1回、できれば毎週やっていれば、すごい勉強になる。そうは言っても、日の目を見ることがなければ、あまり続かない。メルマガという手もあるが、こんな専門的なことをお送りしても、誰も読みはしない。しかも、私のメルマガを期待している人たちは、そんなものは待ち望んではいないだろう。 もう少し考えて、何かしていきたい。 2004年08月31日 (火) 夏休み最後の日 昨日は、午前中にお葬式に出てから、ある方とお会いした後、議員総会。ちょっと遅刻してしまった。 午後、トーチラン石川大会の実行委員会。金沢会場、羽咋会場ともに、しっかりとした内容になっている。金沢、羽咋それぞれのJCの力である。 夜、台風接近のニュースの中、飲み屋さんで会合。色々と教えていただいた。やはり、色々な立場の方のお話をお聞きすることが大切だ。目から鱗という内容もある。 もう一軒、地元で飲んで帰る。 早朝、厳密に言えば、深夜に風と雨の音で目が覚める。しかしこの程度の音では、金沢は大した被害はないであろう。朝、テレビニュースで九州、四国の大変な状況を見る。明日からの九州視察はどうなるのかと気になった。結果的には、予定通りだという。 議会質問の原稿が、なかなか固まらない。視察中に、じっくり考えてみよう。 広貴の夏休み最後の日なので、少しかまってやりたかったが、時間が取れなかった。しかし、夜ご飯は、久し振りに自宅。ご飯前に、家の中で一緒に遊ぶ。ご飯も一緒に食べる。これから、既に寝静まっている子供たちの横で、一緒に寝る。 2004年08月28日 (土) 広貴の成長 昨晩は、久し振りに、鍵山秀三郎氏の講演を聞いた。イエローハットの相談役だ。徹底的に掃除をすることを信条にしている方だ。「凡事徹底」「一つ拾えば一つきれいになる」など、何気ない言葉だが、心に染み入る言葉だ。 今朝は、その鍵山相談役を迎えての、小将町中学校でのトイレ掃除。200名以上の方が参加してのイベント。私もサブリーダーとして参加させていただく。リーダーの方に色々と教えていただきながら、トイレ掃除に励む。二時間かけたトイレ掃除で、身も心もきれいになったような気がする。時々、こんな機会があれば嬉しい。 夜、新天地の地蔵祭り。何年も前から呼んでいいただいている。私が最も落ち着く場所でもある。ちょうど同じ時間に、JCのフォーラムがあったため、一度中抜けしたが、再度、新天地に行き、寛ぐ。 実は、今日は、広貴のピアノの発表会。私は、本番にはどうしても行けなかったのだが、リハーサルの様子を見た。自宅での練習では、どうなるかと思ったが、リハーサルでは、本当に立派にできていた。後で妻に聞くと、本番でもきちんとできたようだ。リハーサルの後、広貴と話をしていると、リハーサルではあったが、大変緊張したという。この緊張が大切。一つ成長してもらえたなら嬉しい。 トイレ掃除には、何人もの小さな子どもたちも参加していた。次回、広貴や真由子も連れて、参加したい。 2004年08月26日 (木) 資料整理 昨晩はそんなに遅くなかったのだが、朝、ラジオ体操に行けなかった。この夏休み最後のラジオ体操であっただけに、残念だ。と思っているのは父親の私だけのようで、長男は何とも思っている様子もない。 今日は、午前中に、お客さんをお一人お迎えして、その後は、部屋の掃除。九月議会質問作成に向け、部屋の中で埋まっている資料を探すということも目的であった。整理をしている最中に、思わず、出てきた多くの資料を読みふけってしまい、時間が経ってしまう。結局、十分にはできなかった。明日もか・・・。 途中で、役所で執行部との打ち合わせが会ったため、出かける。その後、役所の机周りでの資料整理。思いのほか時間がかかった。 夜、人生の大先輩の方たちばかりの会合に出させていただき、色々と学ばせていただく。毎月、定期的に行われる会だ。来月も楽しみだ。 その後、地元の飲み屋さんに一軒だけ行く。 2004年08月25日 (水) お世話になった方のパーティ いよいよ8月も終わりに近づく。9月議会も近い。 今回は、会派内で議会質問希望者が多そうで、私が質問できるかどうか微妙だったが、今日の打ち合わせで、概ね、させていただけることになりそうだ。会派の最初の質問者になりそうだ。ということで、一番目の質問者として取り上げなければならないであろうテーマを少し整理する。市長答弁も想定しながら、論点を整理する。6月議会では、自分で言うのもなんだが、相当レベルの高い内容で取り組んだので、今回は、自分自身で勝手にプレッシャーを感じている。一般市民からすれば関係ないことであろうが、やはり、会派の最初の質問者というのは、いくらかの緊張感を覚える。会派として触れなければならないテーマというものがあるからだ。今回で言えば、新潟、福井での豪雨及び災害を受けての、本市としての対応策、及び、三位一体改革についてだ。ここで、間抜けな切り口にしないようにしなければいけない。ここは、慎重に考えたい。後は、自分の思いを・・・・。 夜、お世話になった方のパーティ。偉い人たちばかりが裏方をされていたので、こちらが緊張した。金沢の経済界で現在、若手のリーダーといっても過言でない方たちがたくさんいた。色々とお声を掛けていただき、恐縮しきりであった。 その後、一人で、倫理法人会メンバーの寿司屋に行く。妻と子供たちがクルマで迎えに来てくれる。妻の運転のもと、後部座席で、子供たちと遊びながら帰宅。で、今、パソコン。 2004年08月23日 (月) 羽咋のトーチラン実行委員会 昨日は、朝からスペシャルオリンピックスの水泳記録会。次のスケジュールがあったため、挨拶だけをして失礼する。その後、お昼より、トーチランの説明会があったため、とんぼ返りで、会場に向う。 昼食は、天一屋で天ぷら蕎麦。その後、特にスケジュールは入っていなかったので、自宅にてオリンピック観戦。柔道が終ったので、少しトーンダウンしたが、女子レスリングの応援。 夜は、キャンプから帰ってきた子供たちと夕食。 今日は、朝から、お世話になった方のお葬式。お年は召されてはいたが、あんなに元気そうだったので、訃報を聞いて驚いた。日中、野暮用で走り回る。その後、資料整理。 夜、羽咋トーチランの実行委員会。皆さん、本当に頑張っていただいて、大分見えてきた。後もう少しだ。私も気合を入れ直そう。しかし、やっぱり、ちょっと遠いな。 2004年08月13日 (金) 世の中は、夏休みモード 昨日、今日と昼間の予定は何もなかったので、自分の仕事を片付けた。 明日は伯父さんの33回忌の法要。私が小さい頃、羽咋に遊びに行った時に、色々と可愛がってくれた。その伯父が事故で亡くなってから、早三十年以上たった。私もその時の伯父の年齢を超えてしまった。自分が同じような年齢、同じような父、夫となって、改めて、伯父の無念な気持ちが分るような気がする。明日は、厳粛な気持ちで迎えたい。 伯父の法要があるからというわけではないが、お盆の時期でもあるので、家族で早朝よりお墓参りにいく。大事にしたい習慣だ。 2004年08月11日 (水) まとめて日記 8日(日)。この日も朝起き会の演談から始まる。 伯母の法要のため、羽咋に行く。前日の本吉市長の事務所開きに続いての羽咋入り。ちょっと早めに着いたので、本吉事務所に顔を出す。 夜、山谷えり子参議院議員のお祝いの会。なるほど、こういう人たちが応援されていたのか、と納得。私も、周りの人たちからそう思われていたであろう。そう思われて良い、という集まりであった。この人は、本物だと改めて感じ入った。 9日(月)。午後から、ある業界の方たちと勉強会。というより、私が一方的に教えてもらうような機械を与えていただいた。初めてお聞きすることも多く、十分に理解ができたとはいえなかったが、これからもきちんと取り組んでいきたい。 夜、トーチランの打ち合わせ及び懇親会。資金面、内容面等々、大分目途が立ってきた。このタイミングで懇親会を入れる、米井実行委員長のマネージメントセンスに恐れ入った。抜群のタイミングであり、センス。私にはそんなセンスはない。 10日(火)。午前中にお葬式が一つ。次のスケジュールの時間が迫っていたので、焼香だけをさせていただいて失礼した。とつもりだったが、駐車場に行ってビックリ。多くの方がお参りにいらっしゃったので、駐車場が満杯になり、途中からいわゆるすし詰め状態。私のクルマが、他のクルマ何台もに囲まれて身動き取れない。結局、葬式が終るまで待つ。お約束の先方にあわてて電話をして、事情説明。 夜、お世話になっている若い方たちと懇親会。途中で、トーチランの説明も入り、皆さんにご協力いただく。久し振りに、締めにラーメン。翌日に響く。 11日(水)。ビラ発送準備。夜、スペシャルオリンピックスの会合。 2004年08月07日 (土) 本吉市長事務所開き 今週は、新しい議会活動レポートの発送準備で大きく時間をとられる。妻はもちろん、広貴も真由子も手伝ってくれる。三歳の真由子がタックシールをきれいに貼る様子を見て、思わず抱きしめる。広貴は、大人と同じだけの仕事をしてくれる。子供たちに支えられての活動だと再認識する。 今日は、羽咋市の本吉市長の後援会事務所開き。本吉市長には、私のこれまでの選挙でも本当にお世話になっている。選挙だけではない。私の議会質問でも、大所高所から、色々とご助言をいただいている。誇示的なお付き合いはともかく、これまでの様々な、市長としての活動からしても、なぜ、対立候補が出るのか不思議なくらいだ。全国的にも、大変評価の高い市長。本吉市長自身は、政策を訴える良い機会と、前向きにとらえているようだ。遠く金沢からではあるが、心よりご支援申し上げたい。また、その選挙手法をじっくりと拝見させていただきたい。 2004年08月04日 (水) 中田新一監督を囲む会 昨日は、モーニングセミナー。60人を越すようになってきた。しかも、若い方たちが多い。嬉しい。新しい方たちが、色々なことを感じていただければいい。私も伝えられるような人間になりたい。 今日、広貴とラジオ体操に行く。長男と一緒にラジオ体操行けるのが嬉しい。最近は、ずっと自転車で行く。これからもずっと行く。 午前中、お世話になっている方の葬儀の後、ひたすら、新しいレポートの準備。論文を仕上げなければいけないのだが、ちょっと、滞りがち。まずい。気合を入れ直そう。昼間に涼しい所に行って、仕上げないと、できそうにない。構想は頭の中にあるのだが、まとめきれない。 夕方、広貴をピアノに送る。中に入ってレッスンの様子を見学しようかと思ったが、嫌がるかもしれないので、我慢した。 夜、「ピッピとべないホタル」の映画監督の中田新一氏を囲んでの食事会。中田監督から色々なお話を聞かせていただく。文化としての映画の重要性を再認識。実は、今回は、「ピッピ」の方ではなく、車椅子バスケットの「ウィニング・パス」の映画に関しての話が中心。この秋に、上映会を行う。私も、積極的に関わっていきたい。 2004年08月02日 (月) 長男のキャンプ 一昨日、昨日と地元での行事。盆踊りは、イベントそのものも大変だが、その準備及び後片付けも大変だ。皆さんがボランティアで、汗を流されて、初めてイベントも成り立つ。心より敬服する。 昨日のお祭り、「てんこ祭り」も楽しかった。私もすっかり寛いでしまい、途中で、JC主催の「水遣り」で中抜けしたが、また、合流した。子供たちも大喜びで、来年も参加したい。こちらもお世話されている方たちのお陰。暑い日中の行事ということもあり、スタッフの皆さんは、本当に大変だったと思う。お疲れ様でした。 今日は、トーチラン石川大会実行委員会の第二回目の会合。こちらも全てボランティアだけで成り立っている運営。私もその一員として、しっかりと役割を果たしていきたい。普段、お世話になっている社会に対してのいくらかでもの、ご恩返しだと思っている。 今朝から、長男がキャンプで出かける。親元を離れて、ご指導いただく大人の方たちがいるとはいえ、子供たちだけで、寝泊りするのは、よい経験になると思う。長男なりに成長して、帰ってきて欲しい。私は、祈っているだけ。 2004年07月26日 (月) 久し振りの日記 丸々一週間、日記をサボってしまった。先週は、選挙も終えたこともあり、しばらくぶりで子供たちと遊びに出かけた。特に、地引網は大変楽しかった。いつもお声を掛けていただく皆さんには、本当に感謝である。我が家にとって、ここ数年、楽しい夏の行事になっている。今年は、子供たちの従兄弟の子も一緒に連れて行ったので、特に広貴は、大喜び。年々、成長していく様子を見て、私も嬉しくなる。真由子は恐いもの知らずで、ズンズン、海に入って行きたがる。抱きしめて、入る。 本日。朝から、新しいレポートの準備。クーラーもない部屋で、汗だくになりながらの仕事。 午後、トーチランの打ち合わせ。他の用事もあり、一時間くらいで失礼する。 夜、福井まで往復。 2004年07月19日 (月) 三連休 三連休。朝から晩までではないが、毎日、いくつもの予定が入っていた。 いつも思うことだが、それらの予定をきちんと対応していると、それなりに忙しく、それなりに仕事をしたような気分になってしまう。時には、思わず、そういうようなことを口走ってしまったり、態度に出てしまったりする。しかし、実は、ほとんど意味がない。もちろん、対外的には十分意味のあることではあるが、自分自身の成長にとっては必ずしもプラスになることばかりとはいえない。 そんな時にこそ、自分の中に新たな負荷を加えなければいけない。そうでないと、ほとんど成長はありえない。時間に追われ、慌しくしている姿を見て、周りの方は、恐縮してくれたり、仕事をしていると思ってくれたりしているようだが、実はそうではない。少なくとも、私自身はそうは思っていない。 もっと、知的にも時間的にも追い込まなけば。もっと、成長しなければ。仕事をしている意味がなくなってしまう。 2004年07月16日 (金) 熱いそば 現在、選挙中に、支援者カードをご返送いただいた方たちのところに、お礼にお伺いしている。事前に、支援者カードに、私のはんこを押してもらっていたので、できることだ。 私の選挙のときは、どうしても金沢市の方たちが中心になるのは分るが、岡田氏の選挙においては、もう少し、市外からのはがきが多いかと思ったが、やはり、ほとんどが市内からのものであった。実際に、お会いした方からのものが多いのは当然か・・。 ちょっとお休みしていたが、六月議会の活動レポートを作成。分りやすくと心がけてはいるが、読み直すと、こ難しい。この繰り返しだ。 ちょっと時間があったので、大きな本屋さんで、色々な本を見る。衝動的に買ってみたくなる本はたくさんあるが、自宅にもその類が山積みされているため、今日は、じっと我慢。 昼は、久し振りに、高校柔道部の後輩の蕎麦屋に行く。暑い日は、熱い蕎麦に限る。こんな暑い日に、熱いそばを食べるのは、山野さん以外は80歳以上のお年寄りだけです、とのこと。美味しかった。また来よう。 夜、会合の場所を間違えてしまい、お伺いできなかった。失礼なことをしてしまった。以後、気を付けなければ。 その後、私が代表を務める、中学サッカークラブチームの保護者会。ちょっと、離れてしまっていたので、今一度、運営を立て直したい。大事なお子さんをお預かりしているのだから。 今日は、早く寝れそうだ。 2004年07月12日 (月) 参議院選挙、ありがとうございました 岡田直樹当選。お世話になった全ての皆さんに感謝したい。 今年の新年早々に、年賀状の代わりにお送りした議会活動レポートに、岡田氏のリーフレットを同封させていただいてから、ひたすら、選挙活動をしてきたような気がする。この四月からは、アルバイトの運転手の方についてもらい、コマ目に、岡田氏の支援依頼に回らせていただいた。そのことは、岡田氏の支援要請だけでなく、私自身にとっても、大変勉強になった。本当に、色々なことを学ばせていただいた。 また、この間、三月議会も六月議会も質問する機会を得ることができたが、ともに、決して低いレベルのものではなかったであろうと自負もしている。これは、より多くの方たちと接して、色々とご意見をお聞きしたということが一つ。しかし、これは、決して、まちの声を、そのまま議会質問として反映したという意味ではなく、そのことにより、知識のバックボーンが、いくらかは多様になったという意味である。もう一つは、自分の中で、他人の選挙をしていて、自分の本当の仕事が疎かになったと言われたくないと、強く意識していたからだと思っている。特に、六月議会の質問は、最後まで、テーマも絞りきれず、また、実際に原稿を頭の中で練り始めても、中々、十分に昇華しき切れなかった。少々焦りも感じたが、何とか、選挙活動とあわせて、しっかりと上手くできた。 今回の選挙の評論は、他の人たちに任せるとして、私自身にとっては、大変良い結果であった。岡田氏のみならず、私が色々な形で携わった、比例区の竹中平蔵氏、山谷えり子氏、ともに立派な成績で当選された。特に、山谷氏はあれほどの上位で当選できるとは思わなかった。お三方とも、品があまりにも良すぎる点が、ちょっと心配だが、だからこそ、私は自信をもって推薦させていただいた。これからも、小さい立場からではあるが、精一杯の支援をさせていただきたい。 改めて、多くの皆さんに、お礼の言葉を申し上げたい。 本当にありがとうございました。 2004年07月09日 (金) 羽咋トーチラン第二回実行委員会 暑い中、ひたすら岡田氏の支援依頼で、後援会関係者のところを回る。昨日で、金沢市内の犀川以南と金石方面での、名簿を回り終えた。正式には数えていないが、5000件は優に超えているはずだ。 色々なことを学ばせていただいた。力強い支援者のお宅ではあったが、ご家族には全く、ご理解いただいていなかったことが分ったり、また、思いがけず、温かいお言葉を掛けていただいたり、さらには、新たに、何人もの方をご紹介いただいたりと、色々であった。惜しむらくは、岡田氏の選挙にあわせて、市内全域を直接回り終えたかったが、時間の関係でできそうにない。郵便での支援依頼になってしまったところに対しては、これからきちんと対応していきたい。 夜、羽咋でのスペシャルオリンピックストーチランの実行委員会。羽咋JCの理事長さんはじめ、多くのボランティアの方たちが、頑張っていただき、大分形が見えてきた。あと少し、ご迷惑をお掛けするが、何としても成功させたい。そして、一回こっきりのイベントで終ることのないようにしていきたい。 2004年07月07日 (水) 法律と条例との関係 暑い。とにかく暑い。ひたすら支援依頼で回っていると、途中から、神経が麻痺してくるのか、それほどの苦痛もなく回ることができるようになってくる。ソフトバンク時代も経験していたが、営業のリズムというやつに上手く波長が合ってくるのだろう。昼食等で、休憩が入ってしまうと、再開後のしばらくは、また、重たい。 今朝、新聞を見て思わず、声を上げてしまった。山出市長が、全国市長会の会で、法律と条例のあり方についての意見を述べられた。先の6月議会で、私が、ぜひ、山出市長が全国市長会会長の間に、問題提起していただきたいと提案したことだ。しかも、私が、具体例としてあげた、景観条例の事例をそのまま引用してくれたようだ。6月20日の日記及びメルマガにも書いているが、まるで、自分がその場で発言しているような気さえしてきた。 こういう活動をもっとしていきたい。 今日は、夜、自宅で食事。食事の後、七夕ということもあり、家族で、星空を見に、山間部にドライブ。星を見ながら興奮する広貴を見ていて、親が喜んでいる。このまま、まっすぐ育っていって欲しい。 2004年07月05日 (月) いくらかはアカデミックな空気に浸る 久し振りに、議員総会。選挙戦終盤の打ち合わせ。 その前と後も、選挙の支援で回る。新聞報道で、小泉総理に対して厳しい評価が多いせいか、こちらにも直接影響がありそうで恐い。心なしか、お会いする方たちの表情が硬いような気がしてきた。私のことをご理解いただいている方たち、もしくはそのご家族の方たちばかりなので、私に対してストレートにはこないが、それだけに、なおさら謙虚でいなければならない。 今日も、金沢大学に行って、色々と資料をもらう。アカデミックな雰囲気(といっても、あまりしないが)をいくらかでも感じられる所で、勉強できたら楽しそうだ。以前からお付き合いのある教授の部屋に、ふらっと入っていったら、温かく迎え入れてくれて、色々とご指導いただいた。また、ある勉強会で知り合った、若い職員の方の部屋にも行き、話をしているうちに、公開講座のご案内もしていただいた。今度は、工学部の親しい先生方のところに、お伺いしよう。 2004年07月01日 (木) 倫理法人会300社達成 昨日はハードな一日だった。 早朝より、選挙の支援依頼で回り、その後、学校図書館についての講演会。講演の途中に馳代議士が顔を見せたのには驚いた。 学校図書館ボランティアについてのお話を聞かせていただいた。一人の母親が、子供たちのために、学校図書館を活性化させるため、色々と活動をされてきた、その話だ。聴講されている方たちの真摯な姿勢も感じられた。私は議員に初当選した時からこの課題に取り組んできた。それなりの発言をしてきたという自負もあるが、どれだけ実績に繋がってきたのかという不安もある。こういう勉強会に参加させていただいて、より実りのある活動をしていきたい。聴講者は、私とほぼ同世代の母親が多く感じた。テーマがテーマなだけに、比較的、インテリジェンスの高い方たちが多いのだろう。もう少し上から、私たちの世代に学校教育を受けた者たちには、実は、ある種の「弱さ」がある。比較的、インテリジェンスの高い方たちなだけに、なおさら、その弱さが目に付く。社会に出ていく中で、相当部分払拭されてきているとは思うが、私の中にもあるものだ。しかし、さらにその上の世代に見られる、ある種のコンプレックスに基づくものでないだけに、擦りこまれたそれではない。きちんと大人の会話が成立する。 その後、ライオンズクラブの例会。理事会には出席できなかった。すいません。 午後、スペシャルオリンピックスのトーチランの第一回目の実行委員会。概ね、スムーズにいったが、改めて課題も見えてきた。多くの皆さんのご協力のもと、この課題を一つ一つ解決していきたい。羽咋にも、今まで以上に足を運ばなければいけないだろう。 夕方から、和倉温泉あえの風にて、倫理法人会の会合。七尾市準倫理法人会の発足、石川県倫理法人会15周年及び300社達成記念のイベント。私もこの会に入れていただいて、10年ちょっとになるが、本当に、すごいことになってきた。 七尾市の山口会長及び関軒専任幹事が、まさに感無量の表情をしていたのが印象的だった。近いうちに、講演講師として呼ばれることもあるだろうが、その際は、これまでこの会で学ばさせていただいたものを、自分の言葉でしっかりと伝えてきたい。私にできることは、それくらいだろうか。 夜、11時過ぎに、何人かで蕎麦屋に行く。疲れきったが、満腹で中々寝付けなかった。 2004年06月30日 (水) リーダーの姿勢 午前中、一つ用事を片付けてから、北陸コカ・コーラボトリングに行く。スペシャルオリンピックスへの協賛のお願い。たまたま、玄関先で、中学の同級生に会う。この会社にいることは知ってはいたが、グッドタイミングで会う。そのまま、金沢支店長とともに同席してくれた。 同級生が同席してくれていたからではないだろうが、気持ち良く話を聞いていただいた。それよりも何よりも、支店長の謙虚な姿勢には恐れ入った。終始、低姿勢で、穏やかな表情で応対してくれた。お辞儀の際の頭の下げ方も、心のこもったものであった。リーダーたるものこうあらねばと、教えられたような気がした。 選挙の熱気はあまり伝わらないが、私がやることは同じ。愚直にご支援のお願いに回る。投票日までに、自分で課したノルマはなんとしても達成したい。 2004年06月29日 (火) 竹中大臣来沢 今月22日に議会が終了してから本日まで、大変慌しく過ごしてきた。 24日に参議院議員選挙の公示があり、その日の午後一番に、私の地元の金沢市南部地区で、選挙カーを走らせ、夜は夜で、個人演説会がいくつも続いた。 26日には、伯母が亡くなった。明治生まれで、私の亡くなった母と、親子ほど年齢の離れた伯母であった。いくつか入っていたスケジュールの多くをキャンセルし、伯母をお見送りする。 今日、29日は、竹中大臣が金沢入り。二年程前に、大臣が金沢に来られた際に、知人の紹介で、色々と段取りさせていただいた関係で、早い段階からご連絡をいただく。何人もの方に、ビラ配布のお手伝いや動員をお願いする。自民党の安倍幹事長も同時に来沢されるということで、大変な人出であった。 大臣の話は分り易く聞かせていただいた。ただ、あれだけ、強烈な物言いをされるとは思わなかった。やっぱり、選挙に出ると決意を固めた方は、強い意志が出てくるのだろう。特に、参議院議員選挙で、比例区となるとなおさらだ。しかも、竹中大臣のように組織を持たない候補者となると、自分しか売り込むものがない。これまで、抑えていた「自分」を、意識的に表に出すしかない。もっとも、それが望ましい選挙、候補者のあり方なのかもしれない。組織に媚びを売らない戦いができるからだ。 昨晩は遅くまで、スペシャルオリンピックストーチランの件で打ち合わせ。それを受けて、今日29日の午前中は、羽咋まで足を運び、トーチランの下打ち合わせ。 伯母の通夜、葬儀も羽咋であったので、三日続けて羽咋入り。 今日は、結婚記念日。夜、家族で、食事に出る。広貴がふざけていて、割り箸で口の中を傷つけてしまい、大泣き。デザートのアイスクリームで復活。 2004年06月23日 (水) 発達障害児(者)支援施策の充実を求める意見書 昨日をもって、6月議会が終了した。私たちの会派の先輩議長が、新たに議長になられた。私も微力ではあるが、会派の一員として、ご協力できればと思っている。 さて、この議会において、私たちの会派から、国に対する要望書として、「発達障害児(者)支援施策の充実を求める意見書」を提出し、全会一致で可決された。 発達障害支援施策に関しては、私もこれまでも、平成14年9月議会と15年3月議会の二回に渡って取り上げてきている。 また、先般も、意見書内に書かせていただいた、超党派の国会議員による「発達障害支援を考える議員連盟」に所属し、幹事を務められている馳浩代議士に来ていただいての勉強会も行ったばかりだ。現在、法律作成に向け、鋭意研究されている旨、承っている。その活動を側面支援するため、また、現場の声を反映した法律にしてもらうためにも、地方議会からこのような意見を提出する意義は、ささやかながらも、決して小さいものではないと思っている。 いくつもの資料を参考にしながら、原案を私が作成し、各会派の政調会で議論してもらい、今回の全会派一致での可決となった。 この全会派一致の意見書を携えて、地元の国会議員の方にはこれからも努力していって欲しい。 ――――― (参考) 発達障害児(者)支援施策の充実を求める意見書 広汎性発達障害(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群等)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)を総称する発達障害は、脳の器質的または機能的な障害によるとされているが、発達障害を有する児童は児童人口の5%程度ないしはそれ以上と推定され頻度が高い障害である。 こうした障害そのものを取り除くことは困難な場合が多いが、早期発見と適切な診断を行い、適切な療育と教育や環境調整を行うことにより、社会的機能を高め、改善することが期待できる。 しかしながら、発達障害児(者)に対する保健福祉施策は、現状では知的障害者施策の一部として部分的に行われているにとどまり、知的障害を伴わない場合(例えば高機能自閉症)には、既存の様々な施策の対象とならないという問題があり、知的障害を有する場合でも、知的障害と自閉症等では障害像も支援ニーズも異なるため、必ずしも適切な支援が行われているわけではない。 また、早期発見・早期療育等の取り組みは、地方自治体によってその取り組みに格差があり、また、福祉的施策と教育施策との連携が重要であるが、こうした連携も地域によっては必ずしも十分とはいえない。また、自閉症等においては、就労に際してもいくつかの課題があるが、発達障害を有するものの就労の継続や地域での自立した生活についての支援も十分ではない。 このような状況の中、発達障害を有する児童の保護者は、多くの困難を経験しており、平成14年から自閉症発達障害支援センターの整備が進められてきているが、地域における包括的な取り組みの推進、諸施策の連携強化など多面的な取り組みが求められている。また、こうした取り組みを通して、国民の適切な理解を求めることも不可欠である。 この度、超党派の国会議員による「発達障害支援を考える議員連盟」が設立されたこともあり、国におかれては一日も早く、これらの状態を改善すべく、法整備を含めた諸施策の実施を強く要望する。 ここに、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。 2004年06月20日 (日) 議会質問再質問 17日、おかげ様で、議会質問も無事終えることができた。 事前にお送りした質問原稿のほかに、挙手を持って再質問の機会を求め、再度取り上げた点について、少し触れてみたい。 骨太の方針第四段における「法律と条例との関係」と、景観施策に関しての光害(ひかりがい)対策との二点である。 平成11年の地方分権推進一括法の成立により、国と地方とは上下関係から、対等になったといわれている。しかしながら、税源移譲がなされなかったことと、各省庁の抵抗により、当初の議論より自治事務が減らされ、法定受託事務が多くなったことに表わされるように、国の強い関与が残され、決して十分なものとはいえなかった。 色々な経過はあったが、今般の骨太の方針では、「税源移譲三兆円」と明記されたことは大きな前進といえる。 さて、実際には、税源移譲が行われても、それで真の地方分権が進んだとはいえない。骨太の方針にもあるように、「必置規制や義務付け等、国による地方公共団体への規制の廃止や大幅な緩和を図る」ことによって、「地方の裁量度を高め、自主性を大幅に拡大する改革を実施する。」ことが、絶対必要条件である。 その代表的なものが、「法律と条例との関係」の見直しである。 例えば、今回私が取り上げた景観施策のような、地方固有の自然や伝統に裏付けられた政策は、その地方で定められた条例に大きな権限を与えるべきである。景観緑三法が成立して初めて、条例に法的根拠が与えられるというのは歪(いびつ)である。金沢市なんか、国に先駆けて、三十数年前から取り組んでいる。 外交、防衛、通商といった分野は国が責任を持って対応すべきだが、それ以外の多くは、もっと地方に権限を委ねるべきである。 質問原稿にもあるように、今回の骨太の方針では、「条例で定めることができる範囲の大幅な拡大」と明記されていることは、昨年の骨太の方針第三弾において、「国の関与の縮小」とだけ記述されているに過ぎなかったことに比べれば、規制や基準など、国のコントロールの解消という点において、相当な思い切った表記をとったものといえる。 税源移譲に、一つの方向性が見えた今、ぜひ、これからは、この「法律と条例との関係」の見直しを、議論の俎上にのせて欲しい。そのことこそが、真の地方分権、地域主権へ向けた、具体的な動きに繋がっていく。 山出市長の得意とするジャンルでもある。また、山出市長が全国市長会会長の間に、本格的な議論を始めないと、なかなか進まない課題でもあると思う。強く期待したい。 光害対策について。 最近、夜の店舗の広告効果を狙って、自店舗に対してではなく、天空に向って、ビーム光線のような光が発せられている光景に出くわすことがある。中には、舞台のスポットライトのように、ぐるぐる回転させているところさえもある。これでは、静かに星空をみることもできない。鳥も、おちおち寝てもいられない。広告効果といっても、やや、度が過ぎているのではないか。夜間景観という点から、大いに問題があるだけではなく、光害という環境保全の面からも問題がある。規制を考えることがあってもよいのではないだろうか。 2004年06月19日 (土) 学生時代の友人結婚披露宴 大学時代の友人の結婚披露宴のため、名古屋に行く。少々長すぎた春であったが、本当にきれいで、しっかりしたお嫁さんを見つけた。彼は、税理士だが、奥様は、税理士事務所で使われる会計ソフトのインストラクターであったという。まさに、公私に渡る、力強いサポーターになってくれることだろう。 奥様のご出身が石川県鹿西町ということもあり、ご親族で金沢在住の方もおられるようだ。披露宴には、私の高校時代の同級生のご両親も、新婦側のご親族として出席されていた。私の顔を見て、もしやと思い、席表で名前を確認して、声を掛けていただいた。ありがたいことだ。また、金沢青年会議所の先輩で、青年会議所を卒業された後、転勤で名古屋に来られ、新婦の上司として、披露宴にご出席されていた方もいた。やはり、先方から声を掛けていただき、私も大変驚いた。遠く名古屋の結婚披露宴で、こんなに、知り合いの方にお会いするとは思いもしなかった。 また、大学時代の友人とも久し振りの再会し、楽しいひとときを過ごさせてもらった。昼間から、したたか飲み過ぎてしまったようで、また、名古屋日帰りということもあり、家に着くと、どっと疲れが出てしまった。 2004年06月17日 (木) 質問登壇 一般質問二日目。午後に私の出番。疲れた。 いくつか反省。三位一体改革の質問では、私の言葉足らず、もしくは、プレゼン力不足もあってか、私の思いが十分伝わらなかったようだ。再質問をさせていただいた際、いくらか説明を加えさせてもらった。 質問自体は、やや専門的なものにこだわったため、勉強時間に多く時間をとられた。おかげで、三位一体改革についてはよく理解できたし、誰と議論してもついていけないことはない。特に、再質問までして、市長とやりあった「法律と条例との関係」は、市長の言葉を借りれば、「これまで、ほとんど注目されることのなかった課題」であるが、これからは、絶対、議論の中心になってくるであろう。全国で、その先鞭をつける市長であって欲しい。 夜、スペシャルオリンピックスのトーチランの関係で、羽咋市へ。活発な議論で、九時半ころまでかかってしまった。羽咋青年会議所はじめ多くの方たちのお力をお借りすることになる。しかし、羽咋市はそれほど大きな町ではないが、ボランティアに対する意識は、大変レベルが高い。こちらが教えてもらうことの方が多い。ありがたいし嬉しい。 2004年06月14日 (月) 許文龍氏講演『八田與一技師に寄せる私の想い』 本日、台湾財界の重鎮であり、大変な親日家である許文龍氏の講演が、金沢市ふるさと偉人館で行なわれた。 ふるさと偉人館1階には、八田與一技師の胸像が5月29日に設置されたばかりであるが、それは、八田技師を尊敬する許氏から寄贈されたものである。この度、その胸像寄贈を機に、許氏は初めて、敬愛する八田技師の出身地である本市を訪れ、「八田與一技師に寄せる私の想い」と題して、講演を行った。 それほど広くはない会場であったが、多くの方が来ていただいた。会場外には、モニターテレビが置かれ、入場できなかった方たちも、それを通して、講演に聴き入っていた。 八田技師に関しては、私もこれまで、平成11年9月議会と平成12年12月議会の2度に渡って取り上げ、また、メルマガにおいても「八田與一」という題で一文認めている。 私はこれまでも、人物を通して歴史を学ぶことの大切さを、機会あるごとに力説しているが、その際、最も多く引用させていただくのが、八田與一技師と佐久間勉艇長(メルマガ「佐久間艇長の遺書」参照)、そして、大文豪夏目漱石である。 近いうちに、今回の講演に関したメルマガを送らせていただければと思っている。しかし、惜しむらくは、皆さんに、今回の講演のご案内をすることを忘れてしまったことだ。選挙や議会の慌しさに紛れてしまい、当日まで、すっかり失念してしまった。幸い、新聞で、事前に案内されていたため、多くの方にお越しいただいたが、私がメルマガをお送りしている方の中にも、ご関心を持っていただけそうな方が多かったと思われ、本当に、残念で申し訳ない気持ちである。 2004年06月11日 (金) アポ前のドトールコーヒー 急遽、予定変更。都市宣言に絡んだ質問は、やはり、会派の政調会長さんがされるということになり、私はしないことになった。その分の時間を、他の項目に回すことができる。とは言っても、昨晩はほとんど、このテーマの勉強及び原稿作成に時間を費やしたこともあり、そのささやかな成果は、政調会長さんの質問原稿に反映してもらうよう、打ち合わせる。とりあえず、私自身の原稿ができてから。 三位一体改革については、深く勉強するほど、おもしろい。資料の一つ一つに読み入ってしまい、原稿の方はなかなか進まない。このようなことを、能書きだけでなく、実現に向けて行動に移すことができる、全国市長会会長の山出市長は、楽しいだろうな。 明朝には、このテーマの原稿は仕上げたい。 午前中、スペシャルオリンピックスの件で、北國銀行さんにお伺いする。お願いばかりで恐縮だ。 銀行に行く前に時間に少し余裕があったので、ドトールコーヒーでコーヒーを飲む。サラリーマンの営業時代によくあった光景だ。懐かしくなった。 2004年06月10日 (木) 6月議会開会 今日から、6月議会開会。一般質問で、急遽、新しいテーマを取り上げることになった。都市宣言のことだ。ちょっと、手続き的に問題があるとは思うが、そこは、教条的にならずに考えたい。色々資料を集めて、勉強。一般質問のテーマは大体固まった。内容はもう少し精査しなければならないが、二三日中には、一気に書き上げたい。 午後より、蓑金沢21世紀美術館館長の講演。何回かお聞きしているが、期待したいし、私たちも最大限の協力をしていきた。大学の先輩ということもあり、何となく親近感も沸く。蓑館長からも、三田会の皆さんによろしくと声を掛けていただく。 夜、弥生校下の岡田直樹後援会の発足式に出席。何人か見知った方もいらっしゃる。 スペシャルオリンピックスのトーチランは、何とか羽咋市のほうでも上手く立ち上がりそうだ。来週中にもう一度羽咋に行かなければいけない。それまでに、もう少し電話等で話を詰めていきたい。羽咋青年会議所の方たちに期待だ。 会長からご指摘いただいた、自分たちは良い事をしている、という安易で、ちっぽけな満足感、優越感は、わずかであっても持たないようにしなければ。ほんとちょっとの、そうした思いが、知らず知らずのうちに、思い上がりに繋がっていくのかもしれない。 2004年06月08日 (火) お世話になった方のお通夜 今朝は、モーニングセミナーを休んでしまった。起きていたのだが、新聞を読み、パソコンに向って仕事をしていたら、いつの間にか6時30分を過ぎていた。しまった。 午前中から、役所に行き、議会質問の資料整理。及び陳情を受ける。 午後、金沢選対に顔を出し、しばらく時間をつぶす。 今日は、お世話になった方のお通夜。あんなにお元気だったのに、本当に驚いた。私が選挙に出る前から色々とご指導もいただいた。議員になってからも、公私ともに色色なことにご相談に乗っていただき、本当に感謝の気持ちで一杯であったのに。奥様にも、大変お世話になり、どうご恩返しをすれば良いかと思っていたくらいであった。 ご子息が、自営業の跡を継がれているという。ご縁があれば、今度は、私がお世話になったお返しの真似事でもできればと思っている。 2004年06月07日 (月) 発達障害者支援法の勉強会 いよいよ今日から梅雨入りだそうだ。暑い日が続いていたから、少しくらいの湿り気も悪くない。しかし、少しだけ。 5日の土曜日に、馳浩代議士を招いての、「発達障害者支援法」の勉強会を行う。 アスペルガー症候群、高機能自閉症、学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)といった、軽度発達障害は、これまでは、どちらかというと福祉の範疇外であった。障害というよりは、心の病、親の躾の問題ととらえられがちであった。正直に言えば、私自身も十分な理解ができていなかった。ここ何年かで、それらは、心の問題ではなく、脳機能の障害であるということが、分ってきた。と同時に、社会の理解も変わっていかなければならないのだが、そうはなっていない。そのことが、あらたな弊害を生むことになりかねない。いや、残念ながら、なっているようだ。 その状況を改善しようと、先月の19日に、「発達障害者支援法を考える議員連盟」が、超党派の国会議員有志によって作られ、秋の国会において、その法律作成を行いたいという。幸いなことに、金沢を選挙地盤とする馳浩代議士も、その議員連盟に所属し、しかも、幹事を務められていると聞いて、今回の勉強会になった。 保護者の方たちだけでなく、何人もの議員さんも出席してくれた。多くの方たちに関心を持ってもらい、少しでも、良い方向にもっていきたい。今後も、何回とはいかなくとも、少なくとも、法律制定前にもう一回は行いたい。 6日の日曜日は午前中は、地元での太鼓みこし行列。午後から、漢字文化研究会による、シンポジウム。面白くないわけではなかったが、少々期待はずれのような気がした。もっとも、私が勝手に、思い込みを持っていたに過ぎないのだが。 2004年06月04日 (金) 早朝の会議は良い 久し振りに朝起き会。その後、6時より、モーニングセミナーの役員会。7時より、金沢選対会議。朝7時の時点で、三件もの用事を対応。朝が弱い人も多いが、私にとっては都合が良い。意外に思われる方もいるが、私は極めて低血圧。上が100あるかないか。学生時代はもっと低く、医者から、不都合がなければ気にしなくて良いが、そうでない場合は気をつけるように言われたくらいだ。 低血圧の人は朝が弱いというのは、3時や4時に起きる人の話であり、5時や6時の起床は、単なる根性の問題だ。と以前、知人の医者から言われたことがあるが、本当にそうなのだと思う。 午前中は、暑い中、支援者にご挨拶回り。午後、役所に及びその近辺にて、用件を片付ける。 夕方は、ある方と打ち合わせ。その後、国際ホテルにて、慶應大学のOB会。受付のお手伝いだけをして、他の会合に駆けつける。大学の先輩で、ご挨拶をすべき人も沢山いたが、時間の都合で、ほとんどできなかった。残念。秋のOB会では、じっくりお話したい。 夕方以降は、大変慌しかったので、帰りに地元のお寿司屋さんで、ようやく一息つき、お寿司をつまむ。知り合いの方と地域の話を色々とする。なるほど。 2004年06月02日 (水) 岡田直樹氏同行 今日の午前中は、岡田直樹氏と同行。早い時間は、私と親しくお付き合いいただいている経営者の方の会社を訪問。時間の関係で、南部地区の十数社だけ。11時くらいからは、私の地元商店街にご挨拶。 しかし、まずいことに、私の体調が最悪。商店街では、本来は、最初から最後まで走り通すつもりだったのだが、そうもいかず、思ったほどは回りきれなかった。申し訳なかった。 まだまだ、緊張感が足りない証拠。 昼、岡田氏を、午後から担当される先輩議員にお渡しし、私は午後の予定を急遽変更して、自宅へ。移動の自動車の中で、何度も、吐きそうになる。自宅に着くやいなや、さらなる激しい吐き気と寒気がし、ダウン。夕方、起きだし、かかりつけのご近所の医者に行くも、「休診」。その後も、自宅で休み。夕食の頃には、いくらか楽になった。こんなことは、本当に久し振りだ。 岡田氏に申し訳ないことをした。深く反省。 2004年05月29日 (土) 広貴の運動会 今日は、広貴の小学校の運動会。 かけっこで一等賞になり、本人もホッとしたようだが、それ以上に、親が緊張していた。もっとも、そんなことよりも、その時その時に真剣にやってくれることが嬉しい。また、友達と楽しそうに関わっている様子を見て、安心した。 午後から、講演会。フェアトレードクラブの主催による、田中優氏のお話。後半部分は特におもしろく、身を乗り出して聞いてしまった。 いくつかの事例を出し、数字のマジックについて話された。 大企業や行政が発表する数字は、先ず最初に、持っていくべき結論があり、それに沿ったものを提示しがちである。 そう言えば、ある自治体の議員さんが、おもしろいことを言っていたことがある。その自治体の合併問題について、その議員さんが、役場職員の方と話している時、どうしますか、合併に賛成でも反対でも、どっちにでも都合の良い数字あわせをして、資料を出すことはできますよ、と言われたそうである。もちろん、いずれの場合も、正しい数字を基にしたものであることは言うまでもない。これこそ、数字のマジックというやつである。 だからこそ、「市民の声」、「住民合意」とは、大切なことではあるが、それを金科玉条としてあらゆることを進めいくことには、慎重であることも必要。 色んなことを、遠まわしに書いている。 今日の夜は、久し振りに何もなし。子供たちと晩ご飯を食べる。 2004年05月27日 (木) 気になる投票率 午前中、役所にて打ち合わせ。議員間で勉強会を恒常的に行いたい。上手くいけば嬉しい。 昼、地元でお世話になった方のお葬式。私の最初の選挙に際して、優しい言葉を掛けてくれた。忘れられない人だ。まだ、お若いのに、本当に残念だ。 ライオンズクラブの次年度委員長会議。私にとても務まるとは思えないが、多くの皆さんが助けて下さるので、なんとか、ご迷惑をお掛けせずに、やり遂げたい。色々とご指導をいただく。 その後、南部地区の続きを行う。参議院選挙の盛り上がりは感じられないが、少しずつ、岡田氏の名前は浸透してきていると思う。しかし、対立候補も出ず、これから出てきたとしても、あまり戦いになりそうもない状況が予想されるだけに、投票率も寂しいものになりそうだ。 私は、自分で決めたことをやり通す。 議会質問の内容を、頭の中で整理しだす。原稿に書き上げるのはもう少し先になるが、問題意識だけは明確にしておきたい。テーマが未だ絞りきれてもいない。 2004年05月25日 (火) 南部地区の挨拶回り 今朝もモーニングセミナー。多くの方が来られた。知らない人が多く、かえって落ち着かない。贅沢な台詞か。 午前中、役所にていくつかの陳情対応。百万石まつりにの運営について、色々とお話をお伺いする。 昼、図書館へ。 午後より、ちょっとした片付けをしてから、南部地区に挨拶回り。 夜、自宅で食事を取ってから、地元の会合。例によって、出掛けに子供たちを抱きしめる。 その後、片町に出ての会合。もう一軒を誘われたが、そっと失礼する。で、今、これを書いている。 2004年05月23日 (日) 小泉訪朝 小泉訪朝でもちきりの二日間だった。 私としてもいくつかの思いはあるが、所詮、そんなことは、様様なマスコミで報道されていることをまとめたようなものにしか過ぎない。一億総評論家になって騒ぎ立てても、ワイドショー政治劇の演出にしかならない。 不幸な方たちの不幸な出来事として、ワイドショー政治劇を演出するのではなく、国家主権が侵された深刻な問題として、日本人の一人として、当事者の課題として、慎重に考えていきたい。 何人かの方のところにお伺いしても、小泉訪朝について、意見を述べられる方もいた。私はじっと聞く。 今朝も広貴と走ろう会に参加。中央公園から、犀川大橋まで走る。広貴が、疲れた、帰りたいと言ったため、Uターンして帰る。これからも、できるだけ、参加したい。 夕方、倫理法人会の件について、簡単な打ち合わせ。7月1日のイベントに向けて、いよいよ追い込み。私もできるだけのことはしたい。 2004年05月21日 (金) 特別委員会 午前中、後援者のお宅に岡田氏の支援要請。ひたすら、回りながら、話しをする。時として、話し込むこともあるが、色々な情報を教えてもらい、それはそれで勉強になる。 午後から、特別委員会。二時間かかったが、委員長さんが工夫されて、新しい試みの委員会になりそう。従来と違った観点からの勉強になりそうで楽しみだ。 その後、頼まれていた資料を揃えて、ある方のところにお伺いする。来月上旬にまとまった形での勉強会を行う。全体のコーディネータをすることになる私は、それまでに、もっと勉強しなければ。来週早々に、そのジャンルを専門とする大学の先生との打ち合わせもある。大袈裟なものでなくても、この手のものを沢山企画していきたい。 2004年05月20日 (木) いくつかの久し振り すっかりご無沙汰してしまった。真面目にしなければ。 先週の土曜日に久し振りに東京に行ってきた。教育問題に関してのシンポジウムに参加してきた。その後、大学時代の友人達と、これまた久し振りに会い、色々と話をしてきた。これからも、定期的に東京に行き、勉強してきたい。 本日の日中、企業局に行って、いくつかの調べごとを対応してきた。陳情や調べものを自分で直接対応することが、知識に繋がる。勉強になった。 最近、また、夜の会合及びその後の飲み会が続いていたが、今日は、羽咋市での会合ということもあり、お酒は入らなかった。 羽咋において、スペシャルオリンピックスに就いての説明会。羽咋はボランティアの方たちの意識が高い。素晴らしい。この方たちのエネルギーを見習って、金沢でもしっかりしていきたい。何とか、羽咋においても、スペシャルオリンピックスのトーチランを実現させたい。もう少し、足を運ばねばならないだろうが、良い空気は感じる。 2004年05月14日 (金) 今後の反省 今週は、天候に恵まれなかったせいもあり、内勤が多くなってしまった。 しかし、いくつかのことで、市執行部とぶつかってしまった。決して、高飛車にならないよう、常に敬語を使いながら、丁重に話しているつもりであるが、先方(市側)が、どう思っているか気になることもある。ご機嫌伺いをするつもりはないが、あまり、強いことも言えない。理路整然と説明を求めるのだが、そういう経験がない方たちからすれば、言いがかりに思われてしまうのか。これから、錯綜する話し合いの場合は、一度、文章にして、問題点を提示し、回答を求めるようにしてみようか。 福祉関係の打ち合わせ。連絡が不十分で、何人もの方にご迷惑をお掛けする。デリケートなテーマなだけに、より一層の慎重さが求められる。反省した。安っぽい正義感は、人に見透かされる前に、自分の良心に引っかかってしまう。 本日は、昨日に続いて、スペシャルオリンピックスの会合。その後、お酒が入ったこともあり、現在、翌日になってしまった。 2004年05月11日 (火) 障碍者と障害者―文化としての日本語その7― 前回(「交ぜ書き−文化としての日本語その6−」)、1850字に使用が制限された当用漢字表なるものが登場したことにより、我が国語に甚大な弊害が与えられた事を述べた。 特に、この当用漢字表の前文にあった、「この表の漢字で書きあらわせないことばは、別のことばにかえる」という指針が示されたことにより、発音が同じということを主たる理由として、当用漢字表に掲載されていない漢字(表外字)は書き換えられ、そのことによって、漢字文化に大きな悪影響を及ぼすようになったということも、いくつか例をあげて、既に述べた。(「濫」を「乱」に、「捐」を「援」になど) 昭和56年に、「目安」としての1945字の常用漢字が制定されても、事態は全く変わることはなかった。 先に述べた、「濫」を「乱」に、「捐」を「援」に書き換えたことによる弊害、それは、それぞれの文字が持つ意味合いについての、いわば文化的齟齬といっても良いものかもしれない。しかし、私は漢字の書き換えによる、人間的齟齬といっても過言でない例を一つあげたい。(人権的齟齬と書こうかとも思ったが、やめた。安直な人権主義者と同一視されたくなかったからだ。) それは、「碍(がい)」を「害」に書き換えたことである。 現在、私たちが日常的に使用している、「障害者」という言葉は、当用漢字表公布以前は、「障碍者」と書かれていた。「碍」という字は当用漢字表に記載されていないため、その前文に従って、「別のことばにかえる」ことが行われたのである。 「碍」のかわりに「害」が使われるようになった。 「害」という字が使われたのは、発音が同じということを主たる理由としてなされたであろうことは、間違いない。 「碍」は「礙(がい)」の俗字であり、電柱の「碍子(がいし)」(陶製の電気絶縁物)という語から見てわかるように、本字である「礙」も「碍」も、「妨げる」という意味を持つ言葉である。誰かを傷つける、害するという意味はない。あくまでも自分自身にとって、妨げになるという意味であり、「障碍」という意味も、文字通り、自分自身にとって「障り」があり、「妨げ」になるという意味である。 融通無碍(ゆうずうむげ)『一定の考え方にとらわれることなく、 どのような事態にも滞りなく対応できること』(「広辞苑」)。この四字熟語を一つ見るだけで十分であろう。 では、「害」はどうか。 やや、長くなるが、白川静氏の著作を引用し「害」を説明する。(こういう時は、白川氏の著作に限る) 『もとの字は把手(とって)のついた大きな針と口とを組み合わせた形。口は「くち」ではなく、もとの形は「さい(ここには本当は、甲骨文字がくるのだが、どうしてもテキストとしてパソコン上で表記はできない)」で、神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形である。大きな針で「さい」を突き破り、その祈りの効果を傷つけて失わせ、祈りが実現することをじゃまするのが害であるから、害には「きずつける、じゃまする、そこなう」の意味があり、そこなうことによって「わざわい」が生まれるのである。』(白川静著「常用字解」(平凡社)より) 「害」という字は、ある対象があり、その対象に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせることを企図した意味を持っているのである。「害悪」「公害」「有害」「危害」等々、いずれも誰かに、「わざわい」も生じさせるものである。「害虫」は、その虫自身に害があるわけではなく、人間の都合で、害があるとされているだけである。自分自身に「わざわい」をもたらす際は、「自害」とする。 前述したように、「碍」は、「妨げる」という意味であり、「障碍」とは、本人が「妨げ」をもってはいるが、他人を「害」する「障害」とは、全く意味が違うのである。 ちなみに、「碍」の本字の「礙」は、「石」と「疑」とからなる。この「疑」という字は、「もとは、進もうかどうしようかと自分で迷うという意味」(「常用字解」)であったという。そのことからしても、「礙」も、その俗字である「碍」も、あくまでも自分自身における「妨げ」と理解されるものといえる。 「障碍者」とは、「障り」があり、自分自身にとって「妨げ」になるという特性を持った人のことをいい、その特性によって他の人との関係が云々されるというものではない。しかし、「障害者」としてしまうことは、「障り」があり、他の人に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせる人という意味になってしまう。全く違う意味になってしまった。つまり、「障害」というような造語は、「障碍」の書き換えにはなり得ないものである。それとも、「障碍」とは、他者に危害を加えるものという意味を有しているとでも言うのであろうか。それこそ、差別以外の何ものでもない。 そう言えば、最近、一部の学校や地域の運動会では、「障害物競走」なる名称が少なくなってきているという。そのかわり、「山あり谷あり競争」「チャンス競争」(ちょっと違うような気がするが・・)など、別の名前を付けることもあるという。 「障害物競走」なる名称は、「障害者」に対して、失礼だからという考え方かららしいが、これも、乱暴な漢字の書き換えのせいでもある。 この競技の場合は、進路に置いてある飛び箱や平均台は、明らかに、競走者への邪魔をし、スピードを損なわせることを目的とするものであるので、「障害」物競争という漢字は当てはまるのかもしれない。但し、それは、あくまでも人間側の価値観で、「障害」物となっているだけで、そこにおいてある飛び箱や平均台そのものは、決して、「障害」物ではない。 いずれにしても、その名称は、「障碍者」にとっては、何ら関係ないことである。 「障害者」という間違った表記にするから、的外れな気遣いもしなければならない。他の人に、害を及ぼすわけではない「障碍者」からすれば、そのような気遣いは、痛くもない腹を掻き回されたような気分ではないだろうか。 また、時として、「障害」という字を、わざわざ、「障がい」と交ぜ書きにしてある文章に出会うことがある。前回に記したように、ようやく、少しずつではあるが、交ぜ書きを修正していこうという気風が出てきているときに、全くナンセンスである。要らぬ気遣いをするくらいなら、すっきりと、「障碍」と正していくべきである。 最後に、最近、ノーマライゼーションという言葉を耳にする機会が多い。 「障害者に、すべての人がもつ通常の生活を送る権利を可能な限り保障することを目標に社会福祉をすすめること。」(大辞林(三省堂)より)を表わすという。 他者への「わざわい」を生じさせることを意味する「障害者」と名付けることは、既に、その方が、「すべての人がもつ通常の生活を送る権利」を奪われていることに、なりはしないだろうか。当用漢字が公布される以前の、「障碍者」と戻すことこそが、ノーマライゼーションの第一歩といえる。 「ノーマライゼーションな社会を」と唱える方たちの善意を疑うものでは、決してないが、安易にスローガンを口にするよりは、先にしなければならないことがある。 2004年05月09日 (日) 広貴と走ろう会。楽しかった。嬉しかった。 早朝から、久し振りに、朝起き会。 その後、広貴と一緒に、こちらも久し振りに走ろう会に参加。子供を連れて行くのは、初めてのこと。多くの方から、声を掛けていただく。ありがたい。 広貴は、金沢城に向かう坂道は、元気一杯で、私よりもはるかに速くに、走り抜ける。途中で、私と一緒になり、時には走り、時には歩きながら、皆さんと一緒にとりあえずは走る。 JCの主催するゴミ拾いに、顔だけを出し、帰路につく。 その後、内勤。原稿に取り組む。激しい睡魔に襲われ、うつらうつら。時々、テレビを見る。 夜、JCの後輩の結婚披露パーティ。お幸せに。 2004年05月07日 (金) 連休明け 昨日、ようやく連休明け。 連休といっても、いわゆる家族サービス的な事をしたのは、一日だけ。しかも、天気が悪かったので、急遽、予定を変更したから、時間が取れたようなもの。それでも、子供たちと触れあう時間がじっくり取れ、良かった。 連休中も、岡田氏の支援を求め、私の支援者の所をこまめに回った。毎日、スーツを着て出かける私を見て、広貴が、「大人って大変だな、休みなのに仕事なんて」と生意気なことを言っていた。ぎゅっと抱きしめて、出かける。 改めて、多くの方にお会いすると、思いがけないことに出会う。私は全く知らなかったが、私の中学時代の同級生がいたり、前回の選挙で、ある方からご紹介いただいたのだが、お伺いしてみると、岡田直樹の親戚の家だったり、山科のあるお宅では、ちょうど取りたての筍をいただいたり、また、ある方のお宅では、その方が書いてまとめられた冊子をいただいたりと、色々だ。 中でも、あるレストランに、時間をずらしてお伺いしたところ、ある先輩議員が奥様とご一緒にいらっしゃったのには、驚いた。コーヒーだけで失礼しようと思ったが、その先輩議員から、そのお店のおすすめメニューを、まさにお薦めいただき、空腹でもなかったが、美味しくいただいてきた。その先輩議員も、ここは、岡田直樹で間違いない、心配するなと言っていただいた。 連休中に、ご相談いただいていた頼み事を、いくつか対応する。なるほど、そういう金沢市の施策があったのかと、私自身の勉強にもなる。もっと、歩こう。 2004年05月05日 (水) 交ぜ書き−文化としての日本語その6− 〔交ぜ書きとは〕 今年の1月14日、「これからの時代に求められる日本語力」について審議していた文化審議会国語分科会は、その最終報告をまとめた。その最大の眼目は、小学校の教科書で、「成長」を「せい長」、「骨折」を「こっ折」などと表記する交ぜ書きをやめ、ルビを活用するなどして、早い段階から、漢字表記のまま児童生徒の目に触れさせる大切さを強調したことである。 小学生が学ぶ漢字は1006字で、常用漢字1945字全体の半分程度にとどまっており、小学校卒業までに常用漢字の大半を読めるよう提言もされている。そして、2月の文化審総会で、河村建夫文科相に答申として提出された。 私は、この答申に対して、両手をあげて賛成する。私のこれまでのメルマガ、特に直近の「子供−文化としての日本語その5−」や、「白川文字学への誘い」の中でも述べてきているように、私たち日本の先人は、我が国語の中に、大陸文化の粋を極めた「漢字」というものの持つ表意性を最大限活かし、漢字かな混じり文という、洗練された、独自の国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。 この答申は、その漢字が持つ表意性を、改めて認識し、活かしていこうというものだ。 しかし、残念なことに、先般発表された、平成17年度から使用される小学校教科書検定では、この答申は完全に無視された。文部科学省は、「ルビをつけるのは、当該年度で学ぶ漢字数の3分の1以内」という上限を決め、常用漢字のルビ付けを、基本的には認めるということをしなかった。 私は、行政が審議会の言うがままに従うことが、必ずしも望ましいとは思わない。しかしながら、今回の件は、審議会の答申内容が賛同できるものであっただけに、非常に残念だ。 なぜ、文部科学省は、常用漢字のルビ付けを認めなかったのか。 文部科学省は、たとえルビ付きであっても、新しい漢字があれば、教師はそれを教えなけれならず、大きな負担になるとその理由を説明している。しかし、本当の所の理由、それは、以下の鈴木孝夫の言葉に尽きるのではないだろうか。 『文部省、いや、文部科学省っていうのか、あそこがやたらに漢字制限をするでしょう。あれは、読める漢字と書ける漢字とが一致するものだという誤解から生まれたものですよ。読める字は、書ける字の百倍くらいある。いや、千倍くらいかな。』(「日本・日本語・日本人」(新潮選書)より) 読める字は、書ける字の千倍はともかく、やはり、百倍くらいはあるのではないだろうか。というより、そうでなければならない。「薔薇」なんていう漢字を書ける人は、ほとんどいないであろうが、多くの人は「ばら」と読めるのではないだろうか。そんな例は、どれだけでもある。 しかし、もっと根源的なことを考えれば、一体、「常用漢字」というものは何かということであり、本当に、必要なものなのかどうか、もしくは、その必要性は認めるとして、果たして現在の基準で適正なものなのかということに対して、もう少し疑問を持ってもよいのではないだろうか。 〔当用漢字と常用漢字の成り立ち〕 昭和22年、敗戦後の混乱期に公布された「当用漢字表」は、漢字の使用を僅か1850字に制限するというものであった。しかも、どうやら、その1850字という数字に何ら合理的な根拠があったわけではなさそうである。この不合理極まりない漢字制限が、我が国語に与えた弊害は捨てて置けないものがある。 特に、影響が大きかったのは、この当用漢字表の前文にあった次の記述である。 「この表の漢字で書きあらわせないことばは、別のことばにかえるか、または、かな書きにする。ふりがなは、原則として使わない。」 つまり、当用漢字とは、広く社会一般に対し強い拘束力をもつものであり、これまで使われていた漢字であっても、それが、当用漢字表にない場合(表外字)は、他の語への置き換え、他の字への書き換えを行う。また、そのことがどうしても叶わない場合は、ふりがなも使えないので、漢字とかなを混在させた「交ぜ書き」で対処するしかなかったのである。 それが、「交ぜ書き」が定着(?)した理由である。 その後、昭和47年の当用漢字表の改定を経て、無理な漢字制限を緩和し、漢字使用実態に近づけようと、昭和56年、制限的な意味合いを持つ当用漢字に代わり、「目安」としての常用漢字1945字が制定された。しかし、いくら「目安」といわれても、中央集権国家である我が日本では、所詮、制限幅がいくらか緩やかになっただけで、その枠を越えてはいけないという意識は変わりはしなかった。 では、なぜ、根拠のない1850字なんていう当用漢字なんかが決められたのか。 当時、進駐軍アメリカからすれば、漢字なんていう分りにくい文字よりも、ローマ字で統一した方が良いという考え方があったことは間違いない。実際、アメリカは、その前段として占領費から予算を計上して、日本人の識字率を調べるという作業を行っている。結果、あの難解な漢字を含めた日本語に対する日本人の識字率が、アメリカ国内の識字率よりも高いということが分り、アメリカも方針を転換したということである。しかし、一度決めた占領軍の方針に信奉する識者も多く、当時の国語審議会でもローマ字論者が幅を利かせ、漢字抑制に動いたそうである。 以上は、当時、一時的に国語審議会の委員(しかし、当時、そんなものがあったのかな?名称はともかく、そのような役割を担った会のことだと思う)を務め、日本語の大切さを諄諄と説いたため、お払い箱になったという大野晋の談によるものである。(「日本・日本語・日本人」(新潮選書)より) なにしろ、あの志賀直哉(ご存知、小説の神様と言われている人なのに)でさえ漢字廃止をとなえ、梅棹忠夫(文化勲章及び勲一等瑞宝章を受章しているような人なのに)なんて、今でもローマ字を国語にすべきと言っている状況を考えると、それだけで、あの時代における敗戦の大きさというものが窺い知れるというものだ。 〔当用漢字、常用漢字の弊害〕 さて、当用漢字、常用漢字ができたことにより、前述したように、表外字に対する、他の字への書き換えも行なわれ、その結果、その言葉の意味すること自体が曖昧に、時には、違う意味合いに変わってしまう例も少なくない。 三つだけ例を挙げる。 一つ目。「濫」と「乱」。 「濫」は当用漢字でなかったがために、「濫用(乱用)」「濫読(乱読)」「濫発(乱発)」と、それぞれ「乱」に書き換えられて使われるようになった。しかし、「濫」は、もとは水があふれ拡がることをいい、「はびこる、みなぎる、あふれる」の意味、ひいては「みだれる」意に用いられるようになった。糸のほぐれを意味する「乱」では、度を過ぎてあふれ出るという意味が伝わってこない。「乱読」は無目的に乱れ読むことであるが、「濫読」は、ある目的にそって、あふれんばかりの分量の書物を読み込むという意である。「乱用」は、何の脈略もなく、みだりに使用するという意味だが、「濫用」は、幅広い用途があるという意味を含んでいる。微妙に、いや、大きく違ってはいないだろうか。 二つ目。「義捐(ぎえん)」と「義援」。 「捐」という字が当用漢字表にないという理由から、それと音が同じ「援」で書き換え、「義援」と表記されるようになり、既にその字が一般的になっている。「捐」という漢字は、「すてる」「放棄する」さらには、「えぐりとる」という意味を持つ。つまり、「義捐」とは、非常に大切なもの(例えばお金)を、大変惜しいけれども義のためとあるならば投げ打つ、自分も決して楽ではないが、義のために、自分自身から「えぐりとる」という、非常に葛藤に満ちた言葉である。しかし、「義援」と書いてしまうと、虎の子をえぐりとるという葛藤に満ちた行為を、余裕のある人が行う、非常にビューティフルな慈善事業にしてしまう。また、受けとる側にとっても、えぐりとられた人の葛藤を察しにくくなってはいないだろうか。 「義捐」を受けるとは、温かい気持ちを受けとるという意味だけではないのである。相手の葛藤を感じとらなければならない。大きな大きな負荷をも併せて受けとめなくてはいけない。 三つ目。「疏」と「疎」。 「疎」の本字である「疏」は、よどみなく流れる、よく通るという意味と同時に、「うとい、あらい」という意も有する。一方、「疎」には、結束のゆるやかなことをいう意味、つまり、「うとい、あらい」という意味があるが、よく通るという意味を持ち合わせてはいない。そのため、「疏遠(疎遠)」「疏略(疎略)」等、「うとい、あらい」を意味する場合は、「疏」と「疎」、ともに使われるが、「お互いの意見がよく通じ合って、誤解などのないこと」を表わす「疏通」の場合、「疎通」という字は当たらない。「疎」には、よく通るという意味はないからだ。 しかしながら、「疏」は当用漢字にないがために、「疎」という字をかわりにあて、「疏通」を「疎通」と書き換えてしまっている。とんでもないことである。全く逆の意味になってしまっている。「疏通」という字はありえても、「疎通」は意味をなさない。あえて言えば、「意見が通じ合わない、誤解があること」ということになる・・・。全く正反対。「疏通」を「疎通」に書き換えることは、安直にも程がある。 他にも、「燻」と「薫」、「碍」と「害」など、説明していくと、それだけで一つの大論文になってしまう事例も多い。次回、もう少し詳しくまとめたい。 さて、常用漢字表と、現実に社会で使用されている漢字の間には、まだまだズレがあり、一般には何の問題もなく使用されている表記であるのに、新聞や官公庁などだけが交ぜ書きとなっているケースがよくある。「真し」「痴ほう」「啓もう」「安ど」「払しょく」などである。 また、特定の事件が繰り返し報道されることで、いつの間にか表外字が定着してしまうことがある。同時多発テロ後にばらまかれた生物兵器は、当初は「炭そ菌」と書かれていたが、一ヶ月もしないうちに「炭疽菌」という純粋な漢字表記に変わった。北朝鮮による「拉致」問題も、当初は、「ら致」と報道されていたが、いつも間にか、漢字で統一された。 このように、現実が常用漢字表を通り越すような事例も増えてきている。「迂回」「卑怯」なども、最近は漢字表記が多くなってきているような気がする。(「迂」も「怯」も常用漢字でない!) 常用漢字表の基準に、疑問を感じる例をもう一つあげる。 それは、常用漢字で書けない県名が沢山あるということだ。それもさほど難しい漢字ではない。埼玉の「埼」、岡山、福岡の「岡」、岐阜「阜」、茨城の「茨」、栃木の「栃」、山梨の「梨」、奈良の「奈」、大阪の「阪」、愛媛の「媛」、熊本の「熊」、鹿児島の「鹿」、全て表外字である。このことは、私も知らなかった。今回、調べて初めて知った。ただし新聞では使用されている。「岡」や「鹿」なんて、習っていなくても、小学生でも書けるのではないか。 また、日本文化を代表する歌舞伎の「伎」、浄瑠璃では「瑠璃」、長唄の「唄」、箏曲の「筝」がないのも残念だ。 その一方で、一体誰が使うのかと思うような字も常用漢字表に入っている。特に驚いたのは「朕」「勅」「璽」の三字。皇室関係であることは明らかだ。私でも書けない。「璽」なんて、読めない人も多いのでは。 さらに大きな問題なのは、熟字訓である。 熟字訓とは、二文字以上になって、初めて読み方が確定する訓読みをいう。「玄人(くろうと)」「息子(むすこ)」「百日紅(さるすべり)」などである。無論、これは、当て字の極みではあるが、醸成された日本文化の賜物でもある。そんな価値観などは関係なく、こちらも常用漢字音訓表なるものによって定められている。しかし、「息子」「伯父、叔父」「乳母」などがあるのに、「大人」も「子供」も入っていない。「凸凹(でこぼこ)」はあるのに「凹凸(おうとつ)」はない。「五月(さつき)晴れ」はあるのに「弥生(やよい)」はない。「煙管(きせる)」も「狼煙(のろし)」もない。 後段のいくつかの事例はともかく、「大人」「子供」くらいは入れておいても良いのではないだろうか。いや、これこそ、熟字訓の常用漢字音訓表なんてなくしてしまえば良い。本当に、いらない。混乱、誤解を招きかねないだけである。 〔最近の新聞の傾向〕 最近の日本語ブームのおかげか、はたまた、幼少期から学校教育の中で、安易に英語をカリキュラム化していこうという流れの反作用からか、新聞各紙において、正しい日本語を志向しようという動き、ひいては、交ぜ書きに対する見直しがみられるようになってきた。 いくつかの新聞において、コーナーとしてルビをつけるページも出てきた。そんな中、地元紙北國新聞では、この4月から、通常記事の中でも、交ぜ書きをなくするようにし、少々、難しい漢字には、臆することなくルビを付けていくようにしているようだ。私のこれまでのメルマガを読んでくれていたのかな・・・。 〔問題意識を持ちたい〕 小学校2年生の教科書に、次のような記述が見られるそうだ。 「近じょのえらい人ぶつにせつ明する用いがあると言う」 「子どもがじゅん番にかん字を書しゃする」 「原こうれい」 その意味するところの正解は、パズルを解くように、じっくり考えてもらうこととして、なぜ、こういうような表記が出てくるのか。それは、冒頭でも述べたように、習っていない漢字は、子供たちに見せないという、文部科学省の基本方針があるからである。 常用漢字のあり方の議論はさておいて、まずは、漢字の表意性を意識させ、国語力・想像力を養っていくためにも、その常用漢字くらいは、未だ習っていなくても漢字表記とし、ルビをつけていくべきである。少なくとも、学年によって、もう少し積極的な基準を作って対応し、交ぜ書きくらいはなくしていくべきではないだろうか。 上記のような文例を見て、発展途上、教育途上だから仕方がないと割り切るのか、それとも、たとえいくらかであっても、なんらかの違和感を覚えるのか。 私が提起したいのはそれだけである。 2004年05月01日 (土) せっせと原稿書き 今日から5月。 朝、倫理法人会の役員会。私は少し片付け仕事をしてから参加。 最近のモーニングセミナーの出席者が多いことを受け、今後の展開を話す。来週、もう一度、広く人を集めて話し合うことになる。 午前中は、原稿作成。概ね、完成。一晩二晩寝かせて、もう一度点検しよう。不思議なもので、一つの原稿を仕上げると、その作業の中で、次のテーマが浮かび上がってくる。それを早いうちに、まとめ切ってしまうことが大切だ。結局、日常の習慣にしてしまうことなのだろう。 午後、ライオンズクラブの会合。連休の合い間に、よく集まったものだ。来年度の骨子がまとまる。私がやりたいと思っていたものは、予算の関係でちょっと難しい。次の機会にやらせていただきたい。 夕方、竹薮に子供と出かけていた妻が帰ってくる。沢山の筍。ご近所に配って歩く。 夜、飲み会。 2004年04月29日 (木) 再び筍掘り 今日は久し振りに、朝起き会。 朝はいつも早く起きているのだが、大体、新聞を読んで過ごしてしまう。これからは時々、出席させていただこう。 午前中は筍掘り。掘るのは良いが、運ぶのが大変。また、それを配るのも大変。結局、午後2時過ぎまでかかってしまった。 3時過ぎから、挨拶回り。今日も意外な人から、意外なお言葉を掛けていただく。私が全く気付いていなかったが、中学の同級生という方から、言葉を掛けられた。どうにも、昔のことを知っている方にお会いすると、いきなり、縮こまってしまう。ろくな者でなかったからだ。 柔道の全日本選手権の決勝くらいは見ようと、帰宅したが、既に、終了していた。残念。インターネットのニュースで結果は見たが、フルに見たかった。 2004年04月27日 (火) 本吉羽咋市長 朝6時からのモーニングセミナー。梶谷会長の講話ということもあってか、50人を超える多くの方が参加された。 午前中、羽咋市に行き、本吉市長にお会いする。スペシャルオリンピックスの件で、話をし、その後、知的発達障害者の施設に、市長自らご案内いただく。話がトントン拍子で進み、ひとまず、ホッとした。 それにしても、本吉市長の決断は早い。どうできるか、どうするかというよりも、まずは、やるということを決めてから、それらを考えていく。行政マン及び議会人には、絶対できない発想だ。二期八年、市長をされているが、そういう意味では染まらない方だ。 私自身を振り返る。 2004年04月26日 (月) 校長先生との会話 早朝から、新しい活動レポートの作成。 午前中は役所に足を運び、打ち合わせ及び陳情を対応する。昼は、久し振りに市職員の方と食事をしながら情報交換。 午後、ある学校に行き、校長先生と話をする。この先生は、以前市教委におられた時に、私も大変お世話になった。あの頃も色々と教えていただいたが、これからも、学校現場の声を聞かせていただくという形で、お付き合いをいただきたい。 その後、ライオンズクラブの関係で打ち合わせ。 少々遅い時間になったが、岡田直樹の選挙のお願いに、回る。自分の選挙と同じような形で、回りだす。とは言っても、私の支援者の所を、私の活動報告をしながらの訪問であるので、少しばかり時間はかかる。ただ、それだけに、岡田氏に対して、固いご支援を約束していただける。ずっと、続けたい。 明日は、久し振りに本吉羽咋市長にお会いする。時々、マスコミ等で拝見するが、就任当時のパワーは全く衰えてはいないようだ。現実に流されがちな私は、刺激をいただきに行くようなものだ。 2004年04月25日 (日) 子供と参加。クリーン大作戦 昨日の土曜日の午前中は、ずっと内勤。新しいレポートの準備でつぶれてしまった。 昼の最初に、市内のホテルで、人と会う。テニスに関しての話を色々とお聞きする。ご当人がおっしゃっていたが、石川県では、硬式テニスはマイナーがスポーツで、お世話する方も大変だという。確かに、軟式テニスについてはよくお話をお聞きするが、硬式テニスについては、その通りのような気がする。ちょっと、調べてみよう。 その後、石川の教育を考える会の総会及び講演会。 日本の歴史教育についての話をお聞きする。初めてお聞きすることもあり、興味深く聞かせていただく。 しかし、いつも思うのだが、日本のことを悪し様に記述する側の方たちは、一方的に記述はするが、なぜ、議論の場にほとんど出てこないのか。たまに、マスコミでその発言に触れることがあっても、極めて感情的な議論ばかりだ。 理路整然と、時には、資料を提示しながらの議論に参加することを避けているのはなぜなのだろうか。 言い放しが得をするような風潮は、あまり良くはない。 本日は、朝6時前に起床し、長男と二人で、走ろう会に参加。久しぶりであったが、今日は、金沢城リレーマラソンのせいか、中央公園には人もいず、子供と二人で走ってきた。 その後、帰宅し、朝食をとってから、家族全員で、金沢市のクリーン大作戦に参加。犀川河川敷のゴミ拾い。 折角、汚れても良い格好で外出してきたので、そのまま、内川のスポーツ広場で、子供たちと遊ぶ。子供らしい遊びで、昼過ぎまで、過ごす。私はくたくただ。 夕方から、支援者の方と約束があったため、いくつか資料を整理して、お会いする。私のメルマガをよく読んでいただいている方なので、私の価値観を十分ご理解いただいている。本当にありがたい。 話の中で、児童クラブ(学童保育)のことがひとしきり話題になる。いくつか状況をご説明する。 児童クラブの話題は、私が議会で取り上げるまでは、ほとんど、共産党の独擅場であったようだ。最近は、共産党や私以外の何人もの議員さんも興味を持ってくれている。切実は課題でもあるので、これからもきちんと勉強していきたい。 2004年04月23日 (金) スペシャルオリンピックス日本細川佳代子理事長来択 今週は、スペシャルオリンピックス(SO)三昧であったような気がする。 19日の月曜日にSO日本の細川佳代子理事長が、金沢青年会議所の例会講師として、来択された。SO日本・石川の副会長として、私は小松空港まで迎えにあがった。その後、昼食を挟んで、石川県知事、県警本部長、金沢市長はじめ、いくつかのマスコミにも表敬訪問をさせていただいた。 その後、細川理事長の講演を、金沢青年会議所のご好意で、私たちSOにもお声を掛けていただき、聴かせていただく。講演終了後、理事長を囲んでの、関係者による懇親会。 さらには、翌早朝から、やはり何件もの表敬訪問。 私は、ずっとつき合わせていただいた。細川理事長のお人柄にすっかり魅せられてしまった。 純粋な思い、パワフルな行動力、卓越したプレゼン力、周囲の人を引き付ける明るさ、それに、何といっても自然な謙虚さがいい。元総理夫人及び、世が世なら肥後藩主ご令室ということで、私たち周りの人間の方が、勝手に構えてしまっていたようだ。私は直接、お会いするのはこれで三回目なので、さすがに必要以上に緊張することはなくなったが、それでも、お会いするたびに、より一層、惹かれていく。10年ちょっとという短期間で、官の力に頼ることなく、ここまでスペシャルオリンピックスが日本で普及してきた、理由の全てが、彼女の存在に帰せられると思う。 細川理事長は、その後、富山に向かわれた。当然、この活動だ。 私もできる限りの力を注ぎ、この活動に取り組んでいきたい。 2004年04月17日 (土) 初筍堀 早朝に今年初めての筍堀。 一昨年の山科のがけ崩れのため、竹薮に行くための道が遮断され、はるか離れた所から、歩いての仕事だ。歩いたり、筍を掘ること自体は苦痛ではないが、掘ったばかりの筍をかついで山道を歩くのが、ちょっとしんどい。 午前中に、観光関係のお仕事をされている方と懇談。県、市との関係、市施設に関して、議員のあり方等々ご意見をいただく。金沢の第一線で活躍されてこられた方だけに、話の内容に説得力がある。神妙に聞き入る。 午後、「養心の会金沢」の発足記念講演会。神渡良平氏の講演をお聞きする。恥ずかしながら、氏の著作を一冊も読んだことがなかったので(手にしたことはあるが)、これを機に、いくつか読んでみたい。 夜、岡田直樹の泉野校下後援会の発足。本人が結婚するまでの間住んでいて、現在もご両親がお住まいの地域なので、しっかりしてあげなくては。やや、反省。岡田事務所と相談して、もう一度何かをしたい。 その後、馳浩を囲む若手の会。「馳浩を総理大臣にする会」の二回目の懇親会。途中で、岡田直樹も合流して、楽しむ。 私は、何人かの若い人と二次会に行き、明朝も早いので、早々に失礼した。 2004年04月16日 (金) イラクで人質解放 早朝、以前から約束していた原稿を書き上げる。しかし、この程度の内容では申し訳ないような気もするが、これくらいなら、もっと早くにお送りすればよかった。すいません。 イラクで人質にとられていた日本人三名が解放された。朝から、そのことが報道された新聞を読み比べていた。この手の報道は、テレビはあまりにも感情に走った報道をしがちなので、見ない方がよい。新聞はどの新聞も、三人に対しての厳しい内容だったようだ。これまでは、安否に関わりかねないということで控えめだった論調が、どんどん出てくるであろう。当然のことだ。しかし、あの家族もどうかしている。同情の気持ちが、すっかり、冷え切ってしまった。 午前中に、お世話になっている方とお会いし、色々なお話をさせていただく。私が知らないことも多く、また、私の質問にも丁重にお答えいただいた。 こういう機会を持てることに感謝したい。私も、能書きばかりではなく、もっと、現場の声を聞いていきたい。そして、それを市政の中で反映していきたい。 昼を挟んで、岡田直樹のお願いに回る。対立候補がいないから大丈夫という声が多い。それが一番恐い。現職の方が出てくれれば良かったのに、という思いは、皆一緒か・・。めげずに、頑張ろう。 夜、自宅で食事。広貴の学校の話を聞くのが楽しみだ。一生懸命話してくれる。一生懸命、相槌を打ちながら聞く。 2004年04月13日 (火) 図々しくは、なかなかなれない 朝、モーニングセミナー。今日は、会長が出張で、お休みということで、副会長の私に挨拶をということで回ってきた。今日も、50名を越える方が集まった。朝の6時から、多くの若い方たちが、勉強のためにお越しになる。不思議だ。日本も捨てたものでもないと思ってしまう。 午前中に、ある方の所に寄らせていただいたところ、もっと図々しくならなければならないと諭された。その点に関してだけは、共産党を見習え、とも言われた。もう少し生々しい例を上げられて言われたが、ここでは触れない。私のことを、気に掛けていただいている方のお言葉だ。「図々しく」という表現はともかく、もっと、しっかりしろという意味と受け止めて、神妙に聞き入る。 途中から、教育プラザ富樫において、スペシャルオリンピックスの説明。私は、隅っこにいて補則及び、関連した話をさせていただく。私の勉強不足や説明力不足もあり、聞いていただいた方たちに、どれだけお伝えすることができたか自信がない。もっと、説得力のある話をできるようにならねば。 昼に役所に一度行くも、ちょっと会合に顔だけを出して、すぐ出かける。 その後、寺町にて、珍しいものを見せていただく。いわゆる金沢らしさを、強く感じた。今一度、調べ直したい。 その後、もう一度役所に行き、打つ会わせ及び、談笑。 夕方から、地元でお酒を飲みながら、お話。疲れていたこともあり、一軒だけで、帰らせていただく。 2004年04月12日 (月) 少々、慌しい一日 午前中、役所にて、所用をいくつも片付ける。ちょっと長引いてしまった。午後に出かけるも、市のある部長から、午前中の用件について、より詳しい内容の連絡が入り、どうしても今日中に整理しておきたいこともあり、出先から急遽、市役所に戻る。移動時間が損をしたような気もしたが、それ以上に、勉強になった。自分の中で、再整理し直したい。 午後、ご無沙汰している、ある方のところに訪問させていただくと、ありがたいことに、家に上げていただき、しばらく談笑。ちょっと、おもしろいことも聞かせていただいた。役得。近いうちに、再度ご連絡し、改めて、寄らせていただきたい。やっぱり、はがきだけではダメである。直接お会いすることが大切だ。 夜、慶應関係の方とお会いし、色々とお話を聞かせていただく。在学中は、全く、意識していなかったが、大学の先輩・後輩というものは、本当にありがたいものだ。 この話は、どこかの段階で、詳細にご報告したい。 2004年04月10日 (土) 広貴の誕生日 今日は広貴の誕生日。7歳。と同時に、広貴のピアノの発表会。 私は今日は、午前中に一つ約束があっただけで、後は、午後からの発表会に行く。広貴の演奏を聴き終えると早々に会場を後にし、真由子のお守。真由子と二人でドライブ。 夜は、妻の実家で、ごちそうになる。 昨日は、岡田直樹の選挙の関係で、私の支援者の方と打ち合わせ。その後、金沢の端から端まで移動し、用事を片付ける。 その間、アメリカのポートランド市に今度行かれる予定の方に、色々教えて欲しいと連絡を受け、お会いする。 私たちがポートランド視察をしたことを思い出す以上に、そのことから敷衍した、交通施策のことを整理し直す、良い機会だと思った。人様のお話を聞かせていただくことも、大変な勉強だが、人様に、秩序だって施策を説明することも、知識の再整理として、大いに意味があると思う。そういう場面をもっと作っていけるようになりたい。 2004年04月08日 (木) 広貴の入学式 昨日は、広貴の小学校入学式。私は来賓席に、一人の父親という気持ちで座っていた。先生方や、地域の方たちに本当に感謝の気持ちで一杯である。 幼少の頃からから、地域の様様な行事に連れて行っていたこともあって、地域の多くの方に覚えていただいている。私も、多くの方から声を掛けていただいた。改めて、一人の親として、子供というものは、皆様に育てていただいているものだし、将来は、社会に返していかなければいけない存在であるということ痛感した。 その後、一緒にいくつかご挨拶に回らせていただく。 午後からは、野田中の入学式。新入生の歓迎に行われた、ブラスバンド部が演奏を感心して聞いていた。 夜、慌しく過ごす。 本日は、朝からいくつかの約束をこなす。昼に、スペシャルオリンピックスの関係で、ソニー生命に。その後、ライオンズクラブの会合。眠たかった。 県庁で用事を済ませてから、これまでお手紙をいただいていた方たちのところにお伺いする。ゆっくり話し込むこともあまりなかったが、直接、言葉を交わすと言うことが大切だと思う。 夜、後援会の集まりで、今後のことを相談。 遅くなってしまった。 2004年04月05日 (月) 真由子の入園式 今日は、真由子の入園式。制服を着ると、つい最近まで、赤ん坊のように思っていた真由子も、いきなり、お姉ちゃんになったような気がする。玄関先で、何枚も写真をとる。 二日後に、小学校の入学式を控えている長男広貴に少し留守番をしてもらい、私はいくつかの用事を片付ける。用事を早々に片付けてからは、自宅で仕事。その間、広貴は、一人で遊んでいる。 昼食を家族でとってから、再び仕事で役所に行く。 役所に着く早々に、先日の開所式を終えたばかりの、福祉作業所の方が、お礼にお越しいただいた。私はスペシャルオリンピックスの話などをさせていただき、今後のご協力を約束させていただいた。 夜、倫理法人会の関係者と打ち合わせ、。その後、飲みに行く。明日はモーニングセミナーなので、早々に帰った。 2004年04月03日 (土) 自衛隊観桜会 ここしばらくは、プライベートな部分を含めて、慌しい日程が続き、睡眠も不規則になりがちであったので、今日は、家族で寝坊。私も7時少し前くらいに起きだし、新聞に目を通す。・・・・。やっぱり、これでは、あまり上手くない。楽なことは楽だが、人生、損をしたような気がする。 午前中、地元の福祉作業所の竣工式。知的障害者の社会参加の一環だ。改めて、ゆっくりお話をさせていただきたい。 昼、自衛隊の観桜会。生憎の雨のため、お客さんも少なく、残念。かくいう私も、早々に失礼する。 夜、安倍晋三代議士が金沢にいらっしゃて、岡田直樹氏の応援演説。すごい人気。こちらも早々に失礼し、倫理法人会の仲間のお寿司屋さんに顔を出す。ご当人はいなかったが、ご両親とお話をしながら、お寿司をいただく。美味しかった。 最近、寿司が特に好きになってきた。歳をとったのかもしれないが、金沢の寿司は本当に美味しいと思う。そう言えば、マネックス証券の松本大社長も寿司が好きで、一日、何軒か、寿司屋のはしごをすることもあるそうだ。私は、その話を何かで読んで、笑ってしまったが、最近の私はそんな心境もよく理解できる。 しかし、この日は、寿司屋のはしごはせずに、帰り際に、地元の焼き鳥屋さんに行く。いつものように、お持ち帰りの焼き鳥をいくつか買って帰る。それでも、まだ、10時。健全な生活だ。 2004年04月02日 (金) 新年度 昨日から新年度。心新たに、一年間を過ごしたい。 朝六時から倫理法人会の役員会。金沢市倫理法人会の伸び方が著しい。毎週火曜日の朝六時からの勉強会に、こんなにたくさんの方が出席していること自体が不思議な感じがする。私は入会して10年目になるが、90%以上は出席していると思う。本当に多くのことを学ばせていただいているし、豊富な人脈を築かせてもいただいた。感謝の一言。 今日の議員総会で、役員任期切れにあたり、一部交代。こちらも心新たに、やっていきたい。 たまっている新聞整理。整理がへたなので、たまる一方。 2004年03月27日 (土) 広貴の卒園式 今日は、長男広貴の保育所の卒園式。 私も早朝から、保護者の一人として式会場の隅にいた。広貴が園長先生から卒園証書をいただく場面では思わず、胸が詰まった。 長い園生活だったが、本当に喜んで通ってくれた。園長先生始め園の先生方や、お世話になった方たちに心から感謝の気持ちで一杯だ。仲の良い友達もたくさんでき、本当に、親子共々成長させていただいた。 自宅に帰ってきた広貴も、楽しい園生活だったと言ってくれた。今日の卒園式もその後の謝恩会も、すっごく楽しかったそうだ。 午後、私はいくつかの会合を終え、また、夜の会も早々に失礼して、自宅で家族でささやかなお祝いの食事会。 長男を抱きしめて、早々に寝る。 2004年03月24日 (水) 三月議会終了 本日、3月議会が終了。議会開会が遅れてしまったこともあり、当然、閉会時間も遅くなってしまった。議会の度に、会派の打ち上げが行われるのだが、今回は日を改めることにして、三々五々で解散。 私は今回、連合審査会で質問に立ったが、不完全燃焼。近いうちに、ここらへんをまとめてみたい。前から分っていたことだが、金沢市教育委員会と私との価値観が、必ずしも一致していないようだ。次の議会でその確認をし、これからの展開を考えていきたい。もっとも、全ての価値観が一致していれば、議員及び議会の必要性はなくなってしまうのだが・・・。 2004年03月21日 (日) 有森裕子さんにお会いした 昨日は、スペシャルオリンピックスの関係で、マラソンの有森裕子さんにお会いする。 本当にきれいな方で、優しさが伝わってくる素敵な人だった。一緒に同行した障害を持った子供たちに、本当に旧知の間柄のように接してくれる。いっぺんにファンになった。 スペシャルオリンピックス石川が予定している、秋のトーチランにぜひ、お越しいただきたい。 地元で、除雪に関した打合せ。皆さん真剣に、討議される。できる限りの協力をさせていただくのは当然のことだ。 日中もいくつかの会合が重なる。良い天気で、それらに回るのも気持ち良い。 しかし、昨日の朝から、竹薮の手入れに行っていたが、ちょっと、あの地崩れは深刻だ。改めて、役所に行って調べてもらおう。 明日は連合審査会。一般質問に比べて緊張が足りないような気がする。もう少し気を張らなくては。 2004年03月19日 (金) 連合審査会の勉強 この3日間ほどは、連合審査会に関しての勉強及び打合せで多くの時間がとられた。普段から勉強しておくことは当然ではあるが、受験勉強ではないが、やはり、議会で発言するということが一番勉強になる。実際に、原稿に出てくるのは、ほんの一部だけだが、その過程がおもしろい。あまり詳しくは書けないが、市執行部とのやり取りの中で、色々なことを勉強させていただく。やはり、詳しくは書けないが、その担当者の力量というものも見極めることができる。何のことはない、私自身も市執行部に見極められているのだろう。 議会中ということで、周りの方も気を使っていただけるのか、夜の会合が、普段より少なめだ。二日続けて自宅で夕食を食べた。子供たちも喜んでくれている。 広貴の保育所生活もそろそろ終わりだ。今日も、一つの区切りがあったようだ。本人も、小学校入学を楽しみにしながらも、今の友達と離れることを寂しがってもいる。妻もそうだが、私も同じような気持ちだ。子供と一緒に、親も成長していけるのだろうか。 2004年03月16日 (火) 白川文字学への誘(いざな)い 「字統」「字訓」「字通」のいわゆる「字書三部作」で有名な白川静氏が、昨年末に「常用字解」という白川文字学の入門編ともいえる著作を新たに出版した。 年末年始をいつも慌しく過ごしている私は、1月の中頃に買い求め、それ以来、常に手の届く所に置いておき、時折、拾い読みをしている。 白川文字学とは、漢字成立期の資料である甲骨文字や、殷・周時代の青銅器の銘文、いわゆる金文などから、漢字の成立の過程を含めた、字様の成立・変化の状態を系統的にまとめたものである。漢字の表意性というものを強く意識させてくれるものだ。しかし、前述した三部作はあまりにもボリュームがあり過ぎるし、価格面からもなかなか手が出ない。私は、気になって仕方がない調べものがある時に、本屋さん(しかも、普通の本屋さんにはあまり置いていない)で立ち読み(調べ)するか、図書館に行った時に読み込むくらいであった。この度出された「常用字解」は、いわゆる常用漢字に絞って、「主として中・高生を対象として解説することを試みた」(「常用字解の編集について」より)もので、前述したように、まさに漢字の成り立ちを知る入門編といえるものだ。 しかし、常用漢字に絞ったといっても、その漢字の成り立ちそのものが、常用漢字以外の漢字がその要素になっていることも多いので、そこから解説することが必要となってくる。常用漢字というものの曖昧さがあぶり出されてくる。 白川氏の著作を読んでいると、漢字本来の持つ意味に触れることができ、巷で溢れている通俗的解釈の愛想らしさ、時には、胡散臭さというものに微笑ましく感じることもある。 その愛想らしい例と胡散臭い例を各々一つだけとりあげる。 ――――― まず、愛想らしい方、「親」。 「親」という字は、子供が心配で、木の上に立って、その様子を見ている姿を表わしているものだと、私はよく聞かされてきた。漢字の持つ表意性という点からいっても、妙に説得力があるように感じていた。自分が子を持つ親になり、なおさら切実に感じるようにもなった。しかし、それでは、同じ「へん」を持つ新や薪が説明できない。木の上に立って、その木を斤(おの)で切ったら、自分が落ちて怪我をしてしまう。落ちた先が草むらの中で、自分と一緒に落ちてきた木が薪(たきぎ)か・・・。乱暴な解釈だ。 そこで、「常用字解」。 「親」という字は、立と木と見とを組み合わせたものに見えるが、この「立」は、元々は「辛」であり、辛とは取っ手のついた大きな針のことである。自分の親が亡くなり、その位牌を作る際、この針を投げて、その木を選ぶ。その新しく作られた位牌をじっと見て拝む形が「親」である。そして、その木を斤(おの)で新しく切り出すことが「新」であり、位牌を作って残った切れ端の木を「薪」といい、祭りの時に「たきぎ」として利用されたという。 金文の中には「?(親にウ冠)」の字も見られ、「宀」とは、祖先の霊をまつる廟の屋根の形で、まさに廟そのものを表わす。廟の中で新しい位牌を拝んでくれるのは「親しい」間柄であり、「親族」である。 次、胡散臭い方、「婦」 一時期、ある強い思い込みを持った方たちが、「婦人」という字は、箒(ほうき)を持って掃除するのは女性だと決め付けるものであるから、使用すべきでないと大騒ぎし、世の「婦人」とついた名をことごとく否定して回ったことがあった。婦人センターを女性センターに、婦人部を女性部に、婦人用を女性用に、等々。 「常用字解」では、以下の様にきちんと説明されている。 「帚(そう)は木の先端を細かく裂いた箒(ほうき)の形をしたもので、これに香をつけた酒をふりかけ、祖先の霊を祭る廟の中を清めるために使用した。」「婦は廟の中を祓い清め、祖先に仕えるという、家にあっては重要な職分を担当したのである。」とし、「服従するもの」「掃除をする(ごみやほこりを取り除いてきれいにする)者であるとする」という理解は、「婦のもともとの意味とははなはだ間違った解釈である。」と静かに諭している。 その他にも、漢字の成り立ちから、その字本来が持つ意味を知っていくこともおもしろいが、さらに、読み込んでいく中で、違う観点から漢字を見ていくことも、知の営みとしては興味深い。 「訓読み」を切り口として横断的に調べていくという遊び方だ。 一つだけ例をあげる。「おもう」。 「おもう」は元々は、おも(面、顔)が動詞化したもので、顔の表情が変わることを指すということは、容易に理解できるところであろう。 ところが、漢字の「思う」が当てられることによって、その意味が進化していく。「田」は元は、「?(ひよめき)」つまり、頭脳の形で、それに「心」を加えて、現代の私たちが一般的に使う意味で、「思う」が定着してくる。 別の漢字「想う」は、「生い茂った木の姿を見ることによって、見る者の生命力を盛んにする魂振りの儀式」をいい、「遠く思いを馳せる、思いやるの意味」を表わす。(想像、回想、愛想等)。 もう一つ「念う」は、「今」は詮のついている蓋(ふた)の形で、その蓋で心を閉じ込める。心中に深く思うことを「念う」と表わす。(執念、念願、一念等)。 他にも、「おもう」を表わす漢字がいくつもある。そのうち三つをあげただけだが、顔の表情が変わるという単純な言葉であった「おもう」が、漢字に触れることによって、深みを増していったことが分る。それが日本語、国語の文化そのものである。 ―――――― 前回のメルマガ「子供―文化としての日本語その5改訂版―」でも述べたが、私たち日本の先人は、漢字の持つ表意性を最大限活かし、漢字かな混じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。 人間の思考は、例え頭脳の中だけであったとしても、言葉でその行為をする以上、その人の所有する語彙の範囲を超えられるものではない。これまで触れてきたように、私たち日本の先人は、かなに漢字の持つ表意性を最大限活かし、言葉に文化的深みを与えてきた。どのレベルをもって、必要十分なものといえるかは、個々によるものであろうが、一つだけ忘れてはならないことがある。 人前で話す技術、すなわち文字通り「話術」は、数をこなすことによって、慣れによって、それなりに上達することはできる。しかし、話しの内容は、いくら場数を踏んでも、容易に、その深みを増すことはできない。話術の向上の中で、ごまかせる部分もあるかもしれないが、薄っぺらいものだ(自分自身の経験)。慣れは、技術的な進化はもたらすことはあっても、質的な深化に繋がることは、ほとんどあり得ない。知的に刺激的で豊潤な内容の話しをするには、文化としての国語に触れていくしかないと私は思っている。しかも、数多く触れていくしかないのではないだろうか。 特に、私のような必ずしも十分な経験を積んでいるとはいえない者は、もっと多くの方の話を聞き、もっと多くの本を通して、もっと多くのことを学んでいかなければいけないと覚悟を決めている。 2004年03月15日 (月) 日本オラクル本社へ 一昨日の土曜日はいくつかの会合が重なってしまい、失礼したものもあった。折角お声掛けいただいたのに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 昨日は、早朝6時過ぎに自宅を出、東京へ。スペシャルオリンピックスの総会、及び来年2月の冬季世界大会に向けての説明会。夜、遅くに金沢に戻ってくるという、ちょっとハードなスケジュールであった。 スペシャルオリンピックスの会合の会場が日本オラクルの本社であった。 オラクルという会社は、私はソフトバンク在職中から知ってはいたが、その日本法人のオフィスのお伺いするのは、初めてであった。実は、以前から一度行ってみたいと思っていた。社内には、いたるところに観葉植物がおいてあり、また、いたるところに鳥かごに入った鳥が飼われていると聞いていたからだ。また、会議室も全て半透明であるということも、興味をそそられていた。 当たり前だが、その通りであった。前の社長(名前を失念してしまった)の強い思いであったそうだ。そう言えば、社員犬というのもいた。要するに、それだけ心に余裕を持ち、遊び心が必要だということだろう。その社長は、私の記憶違いでなければ、60歳になったかならなかったかで引退して、地域活動に没頭しているはずではなかったか。すごい人もいたものだ。 そもそもオラクルという会社が、ラリー・エリソンという極めつけに強烈な個性の持ち主が創った会社で、その日本法人の社長も負けないくらい強烈な方であったはずではなかったか。私は、ソフトバンク在職中に、お名前だけはよく聞いていた。そんな会社だ。 今回、そんな会社にいけただけでも良かった。 そんなことで、わくわくする私は、まだ、ソフトバンクの人間なのかもしれない。しかも、古き良き時代の。 2004年03月12日 (金) まちづくりの原点 本会議質問最終日。 質問初日は代表質問ということで、財政関係のものが多かったが、二日目からは一般質問で、その議員さん個人の関心事が取り上げられることが多い。市長答弁としては、財政関係の方が、個人的には面白いが、一般質問はその議員個人の問題意識が出て、これまたおもしろい。一期の方はともかく、三期以上になると、完全にその方の色が出ている。私は結構広いジャンルを取り上げているつもりであるが、やはり、聞く人からすれば、私の色が感じられているのかもしれない。 昨日、久しぶりに、青年会議所時代に勉強した様々な資料を読み直す機会があった。 1998年に私たちは、アメリカのポートランド市に行き、土地利用と交通政策のことを勉強してきた。この度、やはり、ポートランド市に行き、同じようなことを勉強してこようという方たちと、昨晩打合せ。 改めて、その時に私が書いた、ポートランド視察の総論を読み直した。自分で言うのもなんだが、稚拙な文章の中にも、かなりのレベルのものを書きあげていた。6年前からぶれていないという確信をもてたと同時に、やはり、あの時期に学んだことが、私のまちづくりに対する目を開いてくれたものだと再確認できた。そのときの環境を作っていただいた方たちに心から感謝申し上げたい。 2004年03月10日 (水) 本会議代表質問 今日から、本会議の質問戦。各会派代表質問。 今回の議会から、市長答弁の要点をノートに取るようにした。これまでは、直感的に大事なことであり、すぐに憶えきれないと感じたことは、メモに取る程度だった。これからは、きちんとノートに整理していきたい。といっても、基本的には走り書き程度のことであるが、少なくとも、自分自身が集中して聞いていたことなので、走り書きだけでも、それを見ることによって、詳細な内容を、あらかた思い出すことができる。いつまで続くことやら・・。 夜、スペシャルオリンピックスの会合。先日のナショナルゲーム(全国大会)の反省事項等を確認。 夕方、些細なことで長男を強く叱る。いたく反省。叱られなければいけないのは、親として未熟な自分の方だ。そんな父親にでも、仕事で出がけに、玄関まで見送りにきてくれる。叱ってしまった以上に強く抱きしめて仕事に行く。 2004年03月09日 (火) 後輩の独立 資料整理をしていると、ちょっとした資料を読みふけってしまう。今日も、それで午前中がつぶれる。しかしながら、それらを再読することにより、少しずつ見えてくるものがある。それもまた良い勉強かもしれない。 午後、読みかけの本を読む。私の仕事は、それらを読むだけではなく、何らかの形で吐露していかなければいけない。いつもいつも行動で表わせられるというわけではない。であれば、文章で発露していかなければいけない。焦る。でもしていかなければ。 夜、青年会議所の後輩が独立した、その激励会。私より年下の者が、私よりも大きなチャレンジをしている。 守られた立場の中で、騒いでいても、お笑い種だ。もっと、しっかりしなくては。 2004年03月08日 (月) 久しぶりの日記 しばらくぶりの日記。根が怠惰なものでいけない。 午前中、お世話になっている方からの相談事。すぐにご返事をしたかったのだが、調整がつかず、明日以降になる。申し訳ない。 いくつかのたまってしまっていたことを、対応する。遅れるのは上手くない。 合間を見て、本をずっと読んでいた。もっと、知識と教養を、しっかりと自分のものとして身に付けて、社会参加に役立てていきたい。もっと色んな方にお会いして、もっと多くの書物を読んで、もっと勉強していきたい。 2004年03月04日 (木) 本会議開会 今日から本会議。来年度予算について色々と議論がなされていく。私は今回は連合審査会での質問になる。代表質問及び一般質問を聞かせていただき、勉強していきたい。 一昨日、昨日と二日続けて早朝からの会が続いたため、妙に眠たい。日中は平気だったが、夕方からは特にしんどくなった。 次のメルマガは題名も既にお送りしているので、来週中にはお送りしなければと思っている。頭の中でまとめているが、どうにも重厚感が出ない。もっと、勉強しなければ。期待されている方はあまりいないかもしれないが、自分で納得できるようにはしたい。 2004年03月02日 (火) 子供−文化としての日本語その5改訂版− 一昨年末、私にとっての二冊目の本を刊行した。多くの方から色々なご意見をいただいた。 本の内容はともかく、本を刊行したこと自体に対してご評価をしていただくことが多い。直接私に話されることであるから、概ね耳あたりのよいお言葉が多い中、ある方から次のようなご指摘を受けた。 「『平仮名』が多すぎる。読み易いように意識したのかもしれないが、漢字で書いた方が自然な場合は、平仮名記述にすると、かえって読みづらいことも多い。」 確かに、私も迷った末、「言う」はすべて「いう」にしたり、「分る」を「わかる」としたりした。ご指摘の通り、かえって読みづらかったかもしれないと反省している。 ただ、平仮名記述にこだわりたい表記もある。 「ありがとうございます」という言い回しだ。時々、「有り難う御座います」と書かれているものも見かけるが、やはり、温かみやぬくもり、優しさがあまり感じられないような気がする。事務的、機械的な感が強い。「ありがとうございます」の方がお気に入りだ。 一方、平仮名ではなく、漢字にこだわりたい表記もある。 「子供」である。「子ども」は使わない。私も三年ほども前までは、「子ども」を使うこともあったが、一昨年あたりからは、「子供」しか使わないようにした。平仮名を使用する場合は、すべて平仮名。「こども」と表記する。 以下、その理由を文法的、文化的に述べていく。 もっとも、浅学非才な私が新説を披露できるわけではなく(特に文法的な部分)、ほとんどが受け売りに近いものかもしれないが、それほど関心持たれないテーマを、私なりの価値観で整理し、できる限り分り易くまとめたものとご理解いただきたい。 ―――――――――― 一般的に、文字の発生、普及は文化・文明の熟度に比例すると思われがちであるが、歴史を紐解いてみると、必ずしもそうではないことが分る。 世界最古の文字とされる、紀元前3000年頃のシュメール文明の言語は、商売における契約から必然的に生まれたものである。 つまり、社会階層の出現と文字の発生、普及は密接に関連しているということだ。主従関係や契約の概念等が、当事者同士で確認するだけであれば文字の必要性はない。口承だけで、信頼関係を打ち立てることができる。しかし、主従関係や契約の概念を第三者に提示し、そのことの拘束力を高めていく為には、文字をもって広く内外にアピールする必要が出てくる。 文字の発生である。 そのことと文化・文明の発達状況とは、必ずしも一致するものではない。支配、被支配の関係がまだまだ薄く、口承で多くのことがすまされた縄文、弥生時代の文化の高さを見るだけで、その説明は要らないであろう。このテーマだけでも大論文になってしまうので、後日に委ねる。 さて、日本語(以下、国語と記す。その方が、正しい認識であると思われる。)である。 言わずもがなではあるが、律令国家形成の為には、文字が必要とされるようになった。法律を書き上げなければならない。また、仏教、儒教などを吸収する為には、漢語を読まなければならない。 一般的に、7世紀くらいには既に口語としての国語が確立されており、そこに漢字という圧倒的な先進文化が用いている文字が入ってきた。 しかし、私たちの祖先はその文化の中に呑み込まれることなく、わが国語の中に漢字を取り入れる工夫をして、漢字仮名交じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。 お隣の朝鮮半島各国との決定的な違いである。これは優劣の問題ではなく、文化や価値観の問題である。こちらも後日、詳細にまとめたい。今回は、割愛。 漢字を取り入れてきたわが国語の特徴の最大のものは、「仮名」の発明であることは、誰もが認めるところであろう。よって、詳しくは述べない。 また、「仮名」と並んで、わが国の言葉を豊潤なものにしたものとして、「訓読み」の発明があげられる。そのことによって、漢字の持つ表意性をそのまま国語に反映させることができた。 国語の「ち」という音節が表わす、「地」や「知」、「血」、「稚」、さらには「恥」等は、そうした漢字を用いることによって語としての分節を安定的にすることができた。「訓読み」と言えば聞こえは良いが、要するに「当て字」の活用である。しかし、その工夫がどれだけ国語に力を与えてくれたことか。文化を作っていってくれたことか。 一般に、どのような言語であれ、その成立、普及の裏側には、その言語独自の文化が隠されている。否、独自の文化が内包されてこそ、言語というものが成立し、それらが豊潤になっていく過程が、言語の普及そのものであると言っても過言ではない。私が「文化としての日本語」にこだわる所以でもある。 さて、「子供」。 ここまでお読みいただいた方にはご理解いただけると思うが、「供」は「ども」の当て字である。さらに言えば、「子供」という漢字は「こども」の当て字なのである。つまり、「子供」とは熟字訓といえるものなのであって、「子供」と書かれることによって、初めて国語としての言葉が成立しているのである。 「弥生」という字をもってはじめて「やよい」と読めるのであり、「十六夜」という漢字をもってのみ、「いざよい」と発音するのである。それらは、漢字一文字一文字にふりがなをつけることはできない。「やよ生」とも「いざ夜」とも書かない。間違っている。 全く同じように、「こども」を漢字表記するには、「子供」と書くことによってのみ成立するのである。「子」と「供」とに分けて、ふりがなをつけることはできない。「子供」という表記でもって、「こども」の漢字が成るのである。 ついでに、「大人」は「おとな」の当て字であることは容易に理解できるところであろう。「子ども」と表わすことは、「大とな」「おと人」と表記することと全く同じことなのである。前述したように、「弥生」を「やよ生」、「十六夜」を「いざ夜」と書くようなものである。わが国語の歴史が、そのことを物語っている。 余談。この漢字の「大人」が一人歩きして、対になる語として「小人」という漢字を見かけることもある。中国の古典では、「小人」と書いて、「つまらない人間」を意味することが多いため(『小人閑居して不善をなす』が有名)か、違和感を持つことではあるが、長い目で見れば、このような営みが国語の厚みを作っていくのかもしれない。ちなみに、この場合の「小人」は、「大人」との対比の中で造語されたものであるから、やはり「こども」と発音することが自然だと思われる。しかし、さすがに、「小人」はまだ、市民権を獲得した言葉とは思えないが、いかがだろうか。 では、なぜ、「子ども」表記がこれほど流布するようになったのか。 それは、どうやら日本共産党(以下、共産党)が流布させたようである。 共産党は既に70年代から「しんぶん赤旗」において、「子ども」表記に統一していたという。その理由として、共産党は、「民主主義と人権の運動のなかで子どもは、戦前のように、おとなの「お供」でも、神仏の「お供え」でもない、人権を持った人間だという考えにもとづいています。」と述べている。 ここまで、私の駄文にお付き合いいただいた方には、共産党の解釈は、完全な間違いであることに気付かれたことでしょう。 共産党は、私たちの先人が作ってきた国語の最大の特徴でもある、「訓読み」というものを知らないのか。認めたくないのか。「子供」の「供」は、『おとなの「お供」でも、神仏の「お供え」でもな』く、字訓を当てたものであり、前述したように「熟字訓」そのものである。 もう一点付け加える。 「字統」「字訓」「字通」のいわゆる「字書三部作」で有名な白川静氏が、昨年末に「常用字解」という白川文字学の入門編ともいえる著作を新たに出版した。その中に、「供」の解説として以下のように書かれている。 『供は両手で物を「そなえる、もうける(用意する)」の意味に使う。国語では「とも」とよみ、お供(付きそって行くこと。また、その人)のように用いるのは、供を伴(とも、つれ)の意味に誤って使用したものである。』 つまり、共産党のいう『おとなの「お供」でもない』とする主張は、その前提である、『おとなの「お供」』という考え方自体が、漢字の使い方として間違っているのである。『供を伴(とも、つれ)の意味に誤って使用したもの』であることに気づいていない。 一見、耳あたりの良い言葉を並べ立てて、国民をある意図した方向性にもっていこうというのは、共産党の常套手段である。また、いわゆる紙爆弾(特に選挙が近づくと、毎日のように、共産党のビラが郵便受けの中に入れられている。)で少しずつ、自分たちの思い込みを、善良なる市民にすり込んでいこうとする。 私は、その手法を批判しているのではない。自分たちの思想を広めていく一つの手段として認めてはいるが、間違ったことを喧伝するのは良くない。 私は以前は、「子ども」という表記も使用していたことも既に述べた。実際、旧文部省でも昭和56年の内閣告示「常用漢字表」以降は、文化庁発行「言葉に関する問答集」の中で、「公用文関係などでは、やはり、「子供」の表記を採っておいてよいと思われる。」と「子供」表記が正しいとしながらも、それほど強い口調で述べているわけでもない。その影響もあったのかもしれない。 また、『おとなの「お供」でも』ないと聞くに及んでも、違和感を持ちながらも、やはり、強く抗うこともなかった。しかし、私は文化としての国語についての勉強も重ねていくにつれ、また、間違った国語観に触れるに及び、憤然と「子供」に統一するようにした。 共産党絡みで、余談を一つ。15年3月金沢市議会で共産党から出された意見書には、内容は忘れたが、「子供」と書かれたものがあった。何のことはない。赤旗にあれだけ仰々しく掲げている共産党でさえ、考え方が統一されていないのだ。 共産党云々はともかくとして、やはり、意識するとしないとに関わらず、文化的営みとして言葉を使用する以上、ある程度の知識人としては節度を持った対応をすべきであろう。 そして、その知識の粋を一般的にしてくれるはずのものが新聞であるが、その新聞はどうか。 驚いた。 ほとんどの新聞は、何の問題意識も持ってはいない。歴史観や教育観が比較的似通っていると思われる読売新聞や地元紙北國新聞、また、その対比にあるといわれる、朝日新聞、毎日新聞、さらにはもう一つの地元紙北陸中日新聞。全て、「子供」、「子ども」両方の表記が入り乱れている。何の統一的な基準もないのであろうか。日経もそうであった。専門紙や業界紙は改めて調べてはいないが、似たようなものだろう。そんな中、産経新聞だけは、「子供」でほぼ統一しているようだ。 おかしな話だ。 新聞は、基本的には常用漢字を使用して、記事を書いているはずである。固有名詞は別にして、ほんの一部を除いては常用漢字以外は使用しないということなので、「真し」「痴ほう」「啓もう」「安ど」「払しょく」などという、意味不明の言葉を羅列することも出てくる。 しかし、常用漢字として、「子」という漢字は小学校1年生で習い、「供」は6年生で習得するという。であるならば、中学生以上の年齢では、「子供」と書くべきであり、ましてや新聞の記述としては、そうするのが当たり前のことである。それとも「子ども」という固有名詞が存在しているとでもいうのであろうか。 すっかり長くなった。 最後に一点だけ。 私は、子供は大人の「お供」であって(間違った表記ではあるが)、どこが悪いと言いたい。 子供とはもちろん、日本国憲法で言うところの「基本的人権」を有していることは当然ではあるが、社会生活を送っていく上での、権利や資格、義務、理性などは、全く有していない存在である。私は、それらを学んでいくことことが、まさに教育であると思っている。 その為には、大人は、それら権利、資格のみならず、それらを裏付ける義務や責任を背負っていなければならない。少なくともその為に最大限の努力をしている姿勢を、子供たちに見せなければならない。そういう大人に指導されることによって、初めて、子供は成長していくのではないだろうか。そのことこそが教育であると信じている。 大人と子供とは同じではない。違うのである。その違いによって差別や抑圧を感じさせることは絶対あってはならないが、その違いを認識、尊重することが大切である。 もう一つだけ。 ここまで書いてきてなんだが、私は、「子供」と「子ども」との表記にそれほど、目くじらを立ててはいない。しかし、これまで述べてきたことを全て分った上で呑み込むことと、何も知らないまま、流されていくということとは、やはり、違うのである。 2004年03月01日 (月) スペシャルオリンピックス長野大会 先週の金曜日の早朝から、昨日の夜遅くまで丸々2泊3日で長野におけるスペシャルオリンピックス三昧だった。 知的障害を持った方たちの、スポーツの祭典。その冬季ナショナルゲーム、全国大会だ。正確な人数はよくわからないが、ボランティアだけで約5,000名、選手団は700名以上、大変な数の人であった。 石川チームの団長として参加させていただいたが、私が一番多くのことを教えていただいたような気がする。石川チームの障害を持った人たちとも、親しくなれた。何人ものアスリート(選手)たちから、「団長」「山野さん」と声もかけていただいた。彼らが色々なスポーツで、短い時間でも成長していく姿がはっきり見てとれる。 何といっても、若いコーチの皆さんには、心から感心した。まだ、20代そこそこの方たちが、ボランティアとして、アスリートたちと接している姿に、同時代の自分と比較し、自己嫌悪に陥ってしまった。この大会だけではない、普段の練習の時から彼らは、アスリートたちと人間関係を作っている。本当に、すごいと思う。 地元長野の方たちも献身的に助けてくれた。私たち石川チームを担当していただいた方たちには、どれだけお礼を言っても足りないくらいだ。地理にもチーム引率にも不慣れな私を、終始助けてくれた。 お陰で、ほとんどトラブルらしいものはなく、無事、石川に戻ってこれた。 私のこれからの仕事は、もっと、スペシャルオリンピックスの理解者を増やしていくことだ。そして、来年は、同じ長野で、日本で初めての冬季世界大会。大会規模も今回の倍以上だという。ボランティアだけで10,000人が必要なのだそうだ。長野県にとっても経済効果は、莫大なものがあるであろう。長野オリンピックの施設及びノウハウがあってこそだ。 私は今回で疲れきってしまったので、来年は、違う立場で参加できたら嬉しい。 2004年02月26日 (木) 予算内示 金沢市16年度予算案の内示。 改めてじっくり読み込んで、対応していきたい。 昼から議員総会。本会議のこと、岡田氏の参議員選挙のこと、その他、色々と議論が出る。 前回のメルマガから、ほぼ2週間。そろそろ次のものを出さないといけない。書きたいネタはたくさんあり、その都度、頭の中で整理しているのだが、如何せん、根が怠惰な性格のため、実際、書き上げることが億劫になってしまう。文章にして多くの方にお送りするとなると、そんなに好い加減な内容ではいけない。(好い加減なものもたくさん送ってしまっているが・・・)簡単な事実確認だけはしておくという作業も経なければいけない。 ということで、夕方からは、その作業を少し始める。いったん取り掛かると、次から次と頭の中で、文章が回転し出すから不思議だ。 明日から3日間、スペシャルオリンピックスの全国大会で長野に行く。帰り次第、原稿をまとめよう。 2004年02月24日 (火) 陳情の対応 午前中、用事を片付けてから市役所へ。 頼まれ事があったため、昼から、あっちこっちにと行く。ちょっと疲れたが、大変お世話になっている方に安心していただいたので良かった。 色々な方からの陳情や要請をお聞きしていると、それらを全て上手く解決するというよりも、きちんと、誠意をもって、皆さんの声をお聞きし、私ができる範囲の中で行動するということが求められているような気がする。今回の件にしても、然りであった。決して充分なお力になれたわけではなかったが、直接足を運んで、お話をお聞きし、すぐにできることを対応したことによって、ご安心いただいたようだ。それに、よく考えたら、私にはそんなようなことしかできないのかもしれない。 午後、金沢市の定住促進策についての勉強会。 夜、ある業界の皆さんと懇親会。ちょっと疲れていたこともあって、夜遅くならないうちに、家に帰る。 2004年02月20日 (金) 読書時間を増やそう 県庁に行く。県職員の仕事ぶりに、振り回される。これでは、県民不在と言われても仕方がない。 以前、県外でのことだが、県議を務められてから、市長になられた方と話しをする機会があった。その方曰く、県職員は、普段、住民と接する機会がない職場なだけに、いきおい、全ての視線が内部に向けられてしまう傾向が強い、そのことが市職員との決定的な違いだということだった。実態は分らないが、少なくとも、今回はそのことを実感した。もっとも、あくまでも個人の資質の問題なのであろうが。 昼食は、お世話になっている方と、とる。ちょっとした要望を聞かせていただく。その日のうちに、対応できることをしてしまい、報告だけする。私も、ホッとしたし、その人も、感心してくれた。 昨晩、新聞記者の方と話をしていて、文章の書き方のことについて少し考えさせられた。もっと、勉強しなくては。といっても、文章作成力はどこかに習いに行くのならともかく、そうでない場合は、良質な文章をたくさん読みこなすしかないのかもしれない。とりあえず、読書の時間を増やそう。それがそのまま、日常の挙措に表れてくる。 2004年02月19日 (木) 無題 午前中に一つ約束を対応してから、お葬式。つい最近までお元気な様子をお見かけしていた方。昨日、新聞の死亡欄を見て、本当に驚いた。残念だ。 昼前から、会合。昼食を挟んで、大体まとまる。後は、任せる。 その後、用事を片付けているうちに時間が経過してしまう。しかし、県庁ほどではないが、市役所もいわゆる「役所仕事」が多く、市民感覚からは遠く乖離してしまっている。どうすればいいのだろうか。話していると、私が悪者のような気がしてきてしまうから不思議だ。もっと、民間会社の然るべき立場の方たちを役所に入れることはできないものか。と、こんなことを書くと、また怒られる。 夜は、三件の会合が重なり、いずれもお酒がつく席。やめとけばいいのに、三件目の会合の二次会も行ってしまう。その後、一人でも、もう一軒行ってしまった。 2004年02月18日 (水) 交通政策の勉強会 午前中は出ずっぱり。 午後は交通問題の勉強会。行政も経済界も金沢の議員も完全に手詰まり状態。新しい展開を考えていかないと、閉塞感が充満し、不満ばかりがたまってしまう。今日は、そんな中で、ちょっとヒントらしいものが見えてきたような気がする。もう少し研究し、私ができること含めて、具体的な動きをしていきたい。 夜、スペシャルオリンピックスの役員会。いつもながら、皆さんの熱意に関心しきり。冬季大会も近い。 2004年02月17日 (火) 講演に学ぶ 15日の日曜日は、1月に亡くなった伯父の法要。羽咋まで行ってきた。 私が本当に好きな伯父だっただけに、本当に寂しい。10年前に亡くなった母の兄で、母の実家にずっとおられたので、何となく、母も遠くに行ってしまったような気もする。 これからもお墓参りはきちんと続けていきたい。 昨日午前中は、お礼のご挨拶。午後は、いくつかの会合の合間を縫って、少々、お礼に。 今日は、午前中は、お客様が来られたので、昼少し前から、妻の運転のもと、ご挨拶。 皆さん、中村市長の講演が良かったと言ってくれる。立派な方の講演を聴き慣れている方からも、そうお言葉を掛けていただけると、本当に嬉しい。私自身も、感銘を受けて聴いていた。学ばせていただいたことを、これからの活動に活かしていきたい。 2004年02月14日 (土) 中村市長の講演 昨日は、松山市の中村時広市長の講演を聞かせていただいた。 一昨日の夜に来沢され、一緒にお酒を飲ませていただいた。私より一つだけ年上の市長。一緒に酒を飲んでいると、市長というより、まさに同世代の仲間という感じだ。 昨日は、昼食を東山の兎夢で、山出市長も交えていただく。両市長のまちづくり談義を聞かせていただくだけで、大変な勉強になった。 中村市長の講演に関しては、改めて、報告をさせていただくつもりだ。 今日は、昨日の会を迎えるにあたって、お世話になった方たちのところへお礼に回る。妻が運転し、子供たちを乗せての移動。子供たちに負担をかけ過ぎないようしなければいけない。 2004年02月10日 (火) 「坂の上の雲」の役割」 今年は日露戦争開戦からちょうど100年目にあたる。そして、本日2月10日が、宣戦布告したまさにその日である。 多くの新聞紙上においても、連載物や社説、コラム等々で取り上げられているので、ここでは、日露戦争の意義について、その詳細には触れない。 ただ、この日露戦争及びその2年前に結ばれた日英同盟が、近現代日本史において、最も大きな転換点であったということは、改めて確認しておかなければならない。私の考えは、私のメルマガ「日英同盟締結100周年」の中で、述べさせていただいているが、一点付け加えるならば、日露戦争は、近現代日本史においてだけではなく、近現代欧州史においても、結果的にではあるが、大きな転機をもたらすことになった。 日本とイギリスは日英同盟を結んだが、一方では、既にロシアはフランスと同盟関係(露仏同盟)にあった。日露戦争により、間接的とはいえ英国と仏国とが敵対関係になることは、英仏両国にとって、対ドイツ戦略上、好ましいことではない。よって、1904年には、英仏協商が結ばれることになる。敵の敵は味方というやつである。もちろん、それらは日本が企図したものではないが、その対立軸の中から、第一次世界大戦に繋がっていくことになる。 もう一つ、あまり触れられないことではあるが、私は日露戦争の遠因は、アヘン戦争にあると思っている。これも詳細は割愛するが、アヘン戦争により、アジアという後進地域は、欧州帝国主義のもとに、何の大義もなく、容易に、不条理に搾取され続け得るということが、明白になった。そのことが、欧州帝国主義、特にロシアの領土膨張主義と相俟って、当時の日本の危機感を形作ることになっていった。明治維新において、その視点は欠かすことはできない。さらに、1895年の三国干渉に出くわすにあたっては、その危機感は、はるかに現実味を帯びたものとなってきた。 世界史的な観点からみれば、ボーア戦争も、日露戦争に並ぶ大きな転換点であったが、今回は触れない。機会があれば、まとめてみたい。 さて、上記のような近現代日本史及び欧州史、世界史における日露戦争の分析はもちろん、これも、日本自身が企図していたものではなかったであろうが、日露戦争後、アジアやアフリカの民族独立運動に大きな希望を与え、その後の、欧米列強の植民地支配からの打破に繋がっていったという歴史的事実さえ、長く、語られることはタブー視されていた。 それは、第二次世界大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策のもと、日本の過去の多くが間違ったものであると、決め付けられたことの影響が大きい。占領が終わり、日本が主権を回復した後も、その風潮が根強く残った。 その暗く陰鬱とした風潮に風穴を開けたのは、司馬遼太郎の大作「坂の上の雲」である。 戦争を語ることさえタブー視されていた中、困難な戦争に、英知を絞って立ち向かっていった明治の群像を生き生きと描いている。正岡子規、夏目漱石、秋山好古、真之兄弟等々。 この小説は、私の最も好きな小説の一つであるし、日本人としての、静かな矜持を感じさせてくれるものである。 厚めの文庫本で8巻にわたる大作でもあるので、私は、人に勧める際には、全て読まなくても、「あとがき」だけは読んでみてはどうかと言っている。 特に、以下の部分が、この小説の全てでさえあると思っている。 「この長い物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがて彼らは日露戦争という途方もない大仕事に無我夢中で首を突っ込んでゆく。最終的にはこのつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっとも古い大国の1つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうと思っている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう」 やはり、小説を読み終えてからでないと、この言わんとするところは伝わらないかもしれない。しかし、このあとがきが、どれだけ多くの私たち日本人の目を開いてくれたことか。客観的な歴史的事実を正視できるものさしを与えてくれたことか。現在でも、丸の内のビジネスマンに最も読まれている作品であるということを考えると、その影響力の大きさは、計り知れないものがある。 さて、その「坂の上の雲」を基軸としたまちづくりに取り組んでいるのが、先に挙げた正岡子規、秋山好古、真之兄弟の出生地である松山市の市長である中村時広氏だ。詳細は、中村市長のホームページをご覧いただければと思うが、この度、私の会にお越しいただき、その思いを語っていただけることになった。2月13日の午後6時から金沢市内のホテルで予定している。 この時期に、「『坂の上の雲』のまちづくり」と題した中村市長の講演を聞き、今一度、現在の日本を見つめ直してみたい。 2004年02月06日 (金) 再び雪すかし 昨日の午前中は、総務常任委員会。泉鏡花賞について何点か確認した。新しい美術館の入館料金についても。この件は、いつかまとめて整理したい。 昼食は岡田直樹氏と打合せをしながらとる。相当疲れているよう。分っていたこととはいえ、やはり現職が立候補されないことを発表されて、ちょっと気が抜けると同時に、改めて危機感を感じているのであろう。私たちが一番望んでいたようには、なかなかならない。 夜、若い方たちと飲み会。いつも助けていただいている。久しぶりに、夜中の1時に蕎麦屋に行く。 と、以上は全て、昨日の出来事。 今日は、早朝から雪すかし。朝食を終えて玄関に出ると、また、積もっている。午前中は、資料整理をし、昼に、少し雪すかしをしてから出かける。 夜、飲み会の予定が入っていたが、疲れきっていたので、遠慮させていただいた。 2004年02月04日 (水) 豆まき 昨日は、豆まき。お世話になっている地元の神社で、毎年恒例の豆まきに、今年もお伺いした。ここ数年、ずっと、豆をまかせていただいている。家族にとって、楽しい年中行事だ。長男は、すっかり、自分の神社のような感じで寛いでいる。必死に豆を拾っている子供たちを見ていると、何としても続けて欲しい行事であると再認識する。 豆まきの後、神主さんをはじめ、こちらも毎年恒例の顔ぶれで、お食事。その後、男性陣だけで、またまた恒例の、片町に出かけての二次会。お店も同じ。それが楽しく、落ち着く。 本日、午後より、小中学校少人数学級の勉強会。会派での勉強。本会議や常任委員会ではないので、執行部側も、時間も気にせず、面白い話もしていただける。それらを膨らませて、バランスのとれた様々な提案をしていくのが私たちの仕事だ。 このような勉強会をこれからも継続してできればと思う。おもしろかった。 夜、倫理法人会の役員会。小松。役員会終了後、小松で美味しいと評判の餃子屋さんに、皆で行く。・・・・・・。 2004年02月01日 (日) 披露宴で教えていただいたこと 本日は、お世話になっている方の、ご子息の結婚披露宴にお招きを受け、出席させていただいた。 立派な披露宴で驚いたが、それ以上に、しっかりした立派な新郎に感嘆した。新郎のお父様は、私が心から尊敬するお一人で、しっかりした信念を持たれて、企業経営をし、社会活動に参加されている。やはり、子育ての最大の要諦は、親であると再認識させられた。 新郎が最後のご挨拶で、ご両親のことを心より尊敬していると言い、自分たちの子供たちに、同じように尊敬していると言ってもらえるようになりたい、という趣旨のことを話されていた。 私は、子供たちが誇りを持ってもらえる父親たり得ているであろうか。そのための努力をしてこそ初めて、議員としての仕事ができるのであろう。私よりもはるかに若い方に教えていただいた。 2004年01月26日 (月) 加賀屋小田会長のご講演 朝から、県外へ。雪も一段落で助かった。高速道路も全く問題なく進む。 倫理法人会主催の経営倫理講演会。 24年間連続日本一の加賀屋の小田会長のご講演。初めて聞かせていただいた。大変謙虚な方で、さすが、日本一の旅館経営者という感じがした。若い頃の、JCでの経験及びそのネットワークが経営に大きく寄与されたと話されていた。あそこまで明言される方も少ないのではないか。 また、ご自分の価値観としてのサービス論を詳細に話されていた。まずは、社員さんに徹底的に、その定義を暗誦させるという。どのようなことも、マネから始まり、それが、慣れになり、最後は己(おのれ)になる、「まね、なれ、おのれ」とまとめられていた。 その他、色々と学ばせていただくことが多い講演であった。 改めて、背筋を伸ばされる思いがした。 2004年01月25日 (日) 除雪 雪も一段落したのだろうか。 今日は、朝から除雪。家族総出で行う。子供たちなりに手伝ってくれた。 私の自宅の通り沿いのご家庭は、皆さん、本当に真面目に除雪をされている。以前、長坂町会の町会長さんと話をしていたら、長坂は昔から、そういう傾向が強いということであった。本当にそう思う。 硬くなった雪を筍掘り用の鍬で、叩き割り、邪魔にならないところに捨てる。しかし、十分できたところとそうでないところで、高さに差ができてしまう。かえって危ないような気もして、筍鍬はやめた。 昨晩は、教育問題について色々と議論を交わす会に出席した。皆さん、現在の、教育委員会制度について疑問を持たれているようであった。私の考えも聞いていただいた。また、色々な情報も教えていただいた。こういうところから問題意識が研ぎ澄まされていくと思う。やはり、多くの人の話を聞かなければいけない。 実は、今日は妻の誕生日。夜は、家族で外食。妻というよりは、長男の行きたい焼肉屋さんに行った。それでいいと思っている。 2004年01月23日 (金) 雪 一昨日の夜からの大雪で全てがストップ。昨日、夜の会合で、国際ホテルに行ったのだが、タクシーが全く来ず、閉口した。 本日も、昼に約束があり、大変な思いをして自宅から車を出す。 しかし、よく言われることだが、チョッと前の金沢では当たり前の降雪量だろう。私を含めて、無事、雪が降ってホッとしている人も少なくはないようだ。地球温暖化云々の問題もあり、自分の子供や孫たちの時代になったらどうなるのか。やはり心配だ。もっとも、雪も程度問題で、これ以上は勘弁して欲しい。 明日も昼、夜と会合がある。足の問題もあるが、それ以上に、気持ちが萎えてしまう。気を持ち直して、頑張ろう。 2004年01月21日 (水) 昼食はいらない 午前中、自宅で資料作成をし、一段落してから役所へ。少し片付けをして、その足で、知人の会社で打合せと資料作成。気づいたら、昼食時を逃してしまい、午後2時より駅西での約束に出かける。ポンポン人と会う約束を入れてしまえば、昼飯なんか取らなくても何ともない。タイミング悪く時間が空いてしまうと、義務感で昼食を取る感じだ。 夜、思いがけなく急に予定が変わってしまい、妻の実家で食事をいただく。いつもお世話になっている。 昨日、数人の方からメルマガを楽しみにしていると言われる。今年はまだ一回しか出していない。書きたいことはたくさんあるし、頭の中で少しずつ整理はしているのだが、根が怠惰な私はなかなか実際の文章にできない。今月中にあと一回は出したい。 2004年01月20日 (火) きんどん会新年会 朝、約40分間の講演。人数も40人少々とそんなに多くはなかったが、久し振りということで、いくらかは緊張した。といっても、話しているうちに気分良くなってきて、あっという間に終ってしまった。もう少し時間が欲しかったが、それくらいがちょうど良いのだろう。 午前中は議員総会及び、来年度予算に対する会派の要望書提出。政調会の皆さんが中心になり精力的にご努力をされて、まとめられた。大変、レベルの高いものになっていると思う。 午後、国際ホテルで会合に出てから、再び、役所近くにて打合せ。しかし、国際ホテルでのケーキバイキングの人気はすごい。お昼から、私がホテルを出る午後3時頃まで、行列が途切れることがない。ケーキをほとんど食べない私だが、一度、行ってみたいという気にさせられる。 夜、きんどん会の12周年の新年会。形式ばらない、和やかな会。昨年から仲間に入れていただいたが、もともとの知り合いの方も多く、寛がせていただく。「てらおか風舎」のお食事も美味しくいただいた。 2004年01月19日 (月) 久し振りの講演準備 一昨日、昨日と続けて新天地の同じお店で食事。紫錦飯店。この一ヶ月で5回、会合で利用させていただいた。自宅で食事をした回数より多いくらいだ。そう言えば、その前の日も、新天地に来ていた。新天地と木倉町は、私にとって、繁華街の中でで一番落ち着く町だ。 本日は、何人もの方たちに自宅に来ていただいて、いろいろとお手伝いをしていただく。こういう時に、改めて、皆さんのおかげで活動ができているということを痛感させられる。本当に、感謝の一言である。 明日、久し振りの講演。その準備で資料を整理する。本当に久し振りなので、実は、緊張している。この適度の緊張が大切なのだと思っている。緊張感のない講演は、大体、失敗もしくは不完全燃焼している。時間は約40分間なので、布団に入って、頭の中で、一度整理してみよう。 2004年01月15日 (木) スペシャルオリンピックス新年会 午前中、あるトラブルがあったので、ご迷惑をお掛けした方に謝りに行く。先方はよく存じている方たちであったので、ご寛大に対応していただいた。そのことに甘えることなく、今後は充分気をつけていかなければと反省。 年末に借りていた本を返却しに、市立図書館及び県立図書館に行く。市立図書館で、また何冊かお借りする。 昨年末、たまたま図書館で聖徳太子に関した面白い本を見つけ、今回もその本を再貸し出しすると同時に、やはり、聖徳太子関係の本を新たに三冊お借りした。 近いうちに聖徳太子についての簡単な一文を書いてみたい。もっとも、通常の解釈の聖徳太子では面白くも何ともないし、専門家の方たちに及ぶはずもない。例によって、私の想像力を逞しくしての大使像だ。 夜、スペシャルオリンピックスの打合会及び新年会。 遅くなってしまった。 2004年01月13日 (火) 高砂茶寮 午前中は、私用で半日が全部つぶれてしまう。何となく損をした気分。 午後、久し振りに市役所に行き、たまった郵便物や資料を整理する。また、いくつか頼まれ事もあったため、担当部署に相談に上がる。こういうことを通じて、市職員の皆さんと親しくなり、信頼関係ができてくると思う。 夜、倫理法人会の役員会及び新年会。 松任の高砂茶寮で行う。私は二回目だ。慶應の先輩がされていることもあり、楽しみにしていた。酒蔵を改良して、趣のある雰囲気で、安く美味しい料理を提供していただく。お客様の95%が女性だという。分るような気がする。若い女性もご年配の方も落ち着いてお食事ができる感じだ。また、お食事をされた方たちが、商店街を少しでも歩いていただければという思いが、今のところ上手くいっているということであった。 こういう積み重ねが、まちづくりなのだと思う。 2004年01月12日 (月) さしたる仔細はない 昨年末に、NHK大河ドラマ「武蔵」の総集編を見た。と言っても、ほんの30分ほどであったが、年間を通じての低視聴率であったという、その理由の一端が分ったような気がした。 一体、私たちが、歴史上の人物に対して持つイメージというものは、その人物を取り上げた作家の力量によるところが大きい。否、正確に言うと、作家たちが作品上に作り上げてきた、その歴史上の人物のイメージを、私たちは、一方的に信じ込んでしまうということが多い。さらに、その思い込みの深度は、それら作品の売れ行きに正比例しているとも言える。 信長、秀吉、家康くらいになれば、その印象は一人の作家の影響下にあるものではないが、多くの場合、それは否定できないことである。 例えば、坂本竜馬。 多くの日本人は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によって、竜馬のほとんどの印象が作られているといっても過言ではない。その作品の前半部分は、何とかというよく分らない泥棒などが幅をきかせているなど、司馬遼太郎の創作の部分が多いが、書き進められていくにつれ、だんだんと硬質な作品となっていく。いわば、司馬遼太郎の中で、「時代小説」から「歴史小説」へと意識が転じてきたものと思われる。しかし、私たち一般の読者は、その「時代小説」的な部分も含めて、坂本竜馬のイメージを持ってしまっている。 もっと顕著なのは、宮本武蔵である。宮本武蔵に対して持つ、私たち日本人のイメージは、ほぼ100%、吉川英治の「宮本武蔵」によるものと言える。漫画の影響を言う方もいるが、その漫画も既に、吉川「武蔵」の影響下にあるものである。 宮本武蔵のイメージを、一口に言えば、修行僧的に剣の道の本髄を求め、ついには、人間としての生き方そのものを問うといったようなものであろうか。少なくとも、私はそう思っているし、武蔵について書かれたものは全てそのことを前提に書かれているようだ。 武蔵は、江戸時代初期の人物であるが、意外にその資料が少なく、有名な「五輪書」でさえ、本人が書いたものかどうか怪しいという。おそらく後世の作家か弟子が書き上げたものであろう。 最初に、大作として仕上げられた吉川「武蔵」が、あまりにも偉大すぎたがために、その印象が一人歩きしてしまっている。 そんな中、全く違う武蔵像を描き、成功を治めていると思われる、ほとんど唯一と言ってもよい作品がある。 山本周五郎の「よじょう」である。 ―――――――――― 物語は、宮本武蔵に、ある包丁人が切られたところから始まる。そんなことは、「さしたる仔細はない」として始まっている。 その切り殺された包丁人には、どうにもならない、ぐれた息子岩太がいた。彼の兄は、父の死を機に、岩太に勘当を言い渡す。 ここに、岩太はついに決心をして、乞食になることにした。そこで、掘っ建て小屋を建てて、乞食を始めた。と、ここで異変が起こる。何を勘違いしたのか、人々が集まってきて、金やら食べ物やらを持ってくるようになった。さらには、岩太を捨てたはずの女たちさえが戻ってきた。 何があったのか。 実は、人々は、岩太が父の仇を討とうとしていると勘違いしていたのだ。 『「こいつは大笑いだ」岩太は笑い出した。「ばかなやつらだ、みんな底抜けだ」 彼はげらげら笑った。笑えば笑うほど可笑しくなって。しまいには腹の皮が痛くなった。』 さらには、宮本武蔵自身までが、朝夕の二回、わざわざ、小屋の前に来て、挑発するわけではないが、突っ立っていくのである。 『「かかるんならかかれというわけさ、おもしれえの何の、そうやってる格好はまるで見栄の固まりよ、わざわざ控え家へ移ったのも、きっかけを呉れてやろうという見栄だろう、へっへ」』 岩太は、貰った金はすべて貯め込み、さらには貰ったもののうち売れるものは、やはり金に換えて貯め込んだ。そして、逃げ出す日を待っていた。 そうこうしていたある朝早く、岩太は武蔵の従者の訪問を受けた。かねて病気療養中の武蔵が亡くなったというのである。そこで、武蔵が言うには、「さぞ無念のことと思う。そこで、晋の予譲(よじょう)の故事にならって、身につけた着物を与える」ということであった。 『「よじょうたあなんでえ、よじょうたあ、わけのわからねえ、いかさまみてえこと云いやがって」』 よくできた話で、それには、見廻り組支配の役人が答えてくれる。 『「故事とは予譲の斬衣、かの晋の予譲は、知伯という旧主君の仇を打つことができず、ついにかたき襄子の着物を斬って、その恨みを晴らしたという、かの高名な出来ごとをさすのです」』 その役人の説明を聞いた後の、岩太がいい。 『 岩太は小屋の中にとび込んだ。とび込んで、帷地を放り出し、ひっくり返って笑いだした。 「あのじじいめ、あの見栄っ張りのじじいめ、死ぬまで見栄を張りやがった、死ぬまで」彼は笑って咳きこんだ。(中略) 岩太は悲鳴をあげた。それでも笑いは止まらなかった、彼は小屋の中を転げまわった。』 さて、しばらくして、隈本城下に、「よじょう」という旅館が出来た。そこには、宮本武蔵の帷子があった。それには、三カ所切り裂いたところがあって、これは宿の主人が予譲の故事に倣って、父親の仇を報じたものだった。それ故、この旅館は繁昌したが、「さしたる仔細はない」と、この小説は結ばれている。 ―――――――――― 山本周五郎の作品には、「樅の木は残った」、「さぶ」、「ながい坂」等、どちらかと言えば長編ものに代表作が多い(「青べか物語」、「赤ひげ」も有名だが、私は読んでいないので・・・)。しかし、この「よじょう」は短編ではあるが、私は、周五郎作品の中で、最も好きなものの一つである。実際、周五郎本人も、「後半期の道をひらいてくれた」と大切な作品と思っていたようだ。周五郎作品の入口としても良いかもしれない。 さて、この作品で山本周五郎は、岩太の言葉を通して、厳格な武家及びそれを尊ぶ風潮を痛烈に皮肉っている。 仇討ちを尊いものとする世間の了見を、「腹の皮が痛くなった」程、嘲笑している。岩太の小屋の前で、朝夕黙って突っ立つ武蔵を、「見栄の固まり」と喝破する。武蔵が、晋の予譲の故事にならってとった行為を、「死ぬまで見栄を張りやがった、死ぬまで」と見抜いている。求道者、吉川「武蔵」のたどり着いた先を、「見栄っ張りのじじい」と言い切っている。 吉川「武蔵」のイメージが強すぎたがために、NHKとしては、その部分を表わすわけにはいかなかったのかもしれないが、実は、この作品の主題は、高級官僚や一流企業の破綻や失態が相次いでいる現代にとっては、極めて身近なテーマでもあった。彼らの、プライドなんて所詮、「見栄の固まり」に過ぎないということを、「よじょう」は教えてくれるからだ。 誤解を恐れずに言えば、私自身は、武家社会の「見栄」や「やせ我慢」は、必要悪とまではいわないが、大切なものだと思っている。むしろ、それらがあるからこそ、社会のバランスがかろうじて保たれてもいるとも感じている。だからこそ、この「よじょう」という作品が爽快に思えてくるのかもしれない。また、これは、直木賞をはじめ、あらゆる文学書を辞退してきた山本周五郎だからこそ、説得力を持って読まれる作品とも言える。 すっかり長くなったので、大河ドラマ「武蔵」が国民に受け入れられなかった、もう一つの理由を簡単に述べたい。 それは、「お通」の位置付けである。 私たち日本の男性には、吉川英治「宮本武蔵」の「お通」と木下順二「夕鶴」の「つう」、二人の「つう」に対して、遺伝子的な畏敬の念が植え付けられている、と私は勝手に思い込んでいる。それを、あの大河ドラマはぶち壊そうとした。建設的な意味での破壊ではなく、迎合的な破棄を試みたのではないかとさえ思っている。そして、見事に作品として失敗してしまった。 詳細は、長くなるので述べないが、「利家とまつ」でいくらか成功したかのように見えた手法を、安易に敷衍してしまったような気がして仕方がない。 もっとも、そんなことは、「さしたる仔細はない」ことではある。 2004年01月09日 (金) ご挨拶回り 新年のご挨拶回りは、今日で一応、終了。ご挨拶すべきところは全てしたという意味ではなく、さすがに、来週以降に、「あけましておめでとうございます」はないだろうとの考えからだ。 1月15日が成人の日であった時は、まさに、小正月のこの日に左議長も行われていたので、この日をもって、名実ともにお正月を終えたという気がしていた。 私はいつも言っていることだが、ハッピィマンディ法なる天下の悪法のおかげで、そういう感慨もなくなってしまった。 今日は、夜に特に会合もなかったので、自宅で食事。昨日、遅くまで飲みすぎたので、早くに布団に入った。 子供たちと一緒に食事をし、一緒にお風呂に入り、一緒に寝る。良い父親をした。 2004年01月07日 (水) 大好きだった伯父の葬儀 私が小さい頃から大変お世話になっていた伯父さんが亡くなられた。母の兄だ。 本日は葬儀で、羽咋まで行ってきた。 私が小学校の中学年くらいまでは、夏休みには何日も母の里である羽咋で過ごしていた。今から思うと、あんなに何日も泊まって、大変なご迷惑であったと思う。温かく迎えていてくれて、今となっては感謝の気持ちと同時に、申し訳ないことをしたという気持ちとで一杯だ。 伯父は、私の最初の選挙の時も、羽咋から何度も足を運んでくれた。お知り合いをご紹介いただき、今では、有力な支援者になっていただいている方も多い。 優しい、本当に大好きな伯父さんだった。 母が亡くなって10年経ち、母の実家を守ってこられた伯父も亡くなってしまい、私と羽咋との関係が急に薄れてしまったような気がする。 年に数回行かせていただく、お墓参りだけは、きちんと続けていきたい。 夜、会合が二つ。 一つの約束を終えた後、一度自宅に戻り、子供たちと食事。食事をしている最中の子供たちを残して、再び出かける。短い時間でも、子供たちと一緒に食事をできることが励みになる。 2004年01月05日 (月) 仕事始め 今日がいわゆる仕事始め。 お世話になっている方たちにご挨拶にお伺いする。 昼に、議会互例会及び会派での食事会。今年もお世話になる方たちばかりだ。 いくらかお酒が入ったこともあり、妻が運転して引き続き新年のご挨拶。 年末から年始のご挨拶の中でよく聞かされるご意見は、私のメルマガを楽しみにしておられるということだ。本当に多い。 内容を精査して、今後は、もっと質の高いものを書いていきたい。 石原慎太郎がその著書の中で、「日本の政治において"言葉"は孤独だ」と述べていた。私のそれはそんなレベルの高い議論のものではないが、多くの方からのご意見、ご叱責を糧に、"言葉"で行動する議員になっていきたい。また、そのことでいくらかでも評価していただくことができれば嬉しい。 2004年01月02日 (金) あけましておめでとうございます 新年を迎えた。 昨日、今日と新年の挨拶回り。天候にも恵まれ、気持ち良くさせていただいた。 公にしなくとも、今年の目標をたてて、そのことに真剣に取り組んでいきたい。昨年は、自分の選挙を終えてから、色々と回りの声を気にし過ぎていたような気がする。年末に、ご支援をいただいているある方から、そのことを指摘され、目が覚めたような気がした。 文章にしてまとめてみたいこともたくさんある。自分の中で十分精査されていなくても、その時点での、自分の意見を披瀝していきたい。もっとも、表現には気をつけることは言うまでもない。
ゆきよし日記
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