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2006年04月19日 (水) 女たちの「2.26事件」
今年2月、ある方から講演会のお誘いをいただいた。あいにくその日は、他の用事が既に入っていたが、講師の先生がノートルダム清心学園の渡辺和子理事長とお聞きし、理事長の79歳という年齢を考えると、もしかしたら金沢という地方都市で、直接お声を聞けるのはこれが最後かもしれないと思い、日程を調整し出席することにした。
その返事をした一週間後くらいであったろうか。私は、何気なく手にした週刊誌において、「2.26事件重臣たちの惨殺写真」としたグラビア記事を見かけた。事件で殺害された斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監、各々が、まさにその惨殺現場そのままの写真が掲載されていた。これほどの写真が公になったのは初めてだという。凄惨なものであった。「むごい」の一言であった。
その犠牲者となった渡辺錠太郎教育総監こそが、先のノートルダム清心学園渡辺和子理事長の実父である。当時九歳の彼女は、手を伸ばせばすぐ届きそうな距離で、自分の父親が、青年将校たちに軍刀でとどめをさされる場面を目にすることになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「男が子供を産むのならおかしいが、女が産むのに何がおかしいことがあるものか」
和子の母は、43歳という年齢と、政府高官の妻という立場を考え、身ごもった、後の和子を堕胎しようと考え、既に医師として独立していた長男にも相談していたという。そんな時、父親になる錠太郎は、先のなんだかよく分からない理屈をもって、「産んでおけ」と述べたという。和子が「私は『望まれないで産まれた子』でした」と述べる所以である。
既に52歳であった錠太郎は、和子を孫のように可愛がったという。実際、事件の半年前に写された二人並んでの写真を見ると、その可愛がりようが伝わってくるものである。和子自身も、「この9年間に私は一生涯分の愛を父から受けたように思っています」と述べている。
2.26事件。その時、錠太郎61歳、和子9歳。
2.26事件については、既に膨大な書物や研究資料が出されているので、ここでは、その詳細には触れない。
安田優、高橋太郎両少尉率いる約30名の青年将校は、荻窪の渡辺邸を襲撃。錠太郎は布団を盾に拳銃で応戦。錠太郎は一緒に寝ていた和子を、一端は、部屋から出した。しかし、恐かったのか、父親が心配になったのか、その幼子は父親の元に戻ってきてしまう。
「戻ってきた私を見た父は、そばにあった座卓を立てかけて、私を隠してくれました。父は、もう自分が助かることは考えずに、私を守るために応戦したのだと思います」
動かなくなった父を、青年将校たちの軍刀が襲う。その父親に溺愛された娘のすぐ目の前の出来事である。
「私はたまたま父の死を1メートルのところで見届ける唯一の者となってしまったのですが、今思うと父を敵の最中でたった一人さびしく死なせないために、私は産まれてきたのかもしれないと思うようになりました」
出生時のいきさつやそれまでの可愛がりようを思い起こすと、このように思い至るのかもしれない、否、そうでも思わないと今日まで生きていけなかったのかもしれない。
和子は、父を殺害した将校たちに対して、怨みや憎しみを抱いたことはなかったという。むしろ、この時期でなければ、より悲惨な最期を迎えていたかもしれないと考えることさえあった。宗教人のなせるわざであろうか。そもそも、宗教に帰依したのも、この事件とは全く関係なく、母親との確執が原因であったという。
自分には、2.26事件のわだかまりは何もない。そう信じて生きてきた。
しかし、事件から40年以上経ったある日のこと。2.26事件の特集番組収録のため、あるテレビ局に出向いた際、スタッフから、一人の年配の男性を紹介された。「反乱軍にいた方です」
簡単な挨拶の後、目の前にあったコーヒーに手を伸ばす。しかし、そのときまで、平穏なはずと思い込んでいた気持ちとは裏腹に、知らぬ間に体が硬直してしまい、大好きなはずのコーヒーにどうしても口をつけることが出来ない。動かない。初めての経験である。「心の奥底で、私は父を殺した人々を許してはいないのかもしれない」
青年将校たちは、事件の年の7月12日に処刑にされ、元麻布の賢崇寺に分骨埋葬。遺族らによって毎年法要が営まれている。
事件から50年経った1986年7月12日、節目の年だからと自分に言い聞かせ、和子は、初めてその法要に参列した。墓前で静かに手を合わせ、もと来た方へと向き直ると、二人の男性が深々と頭を下げ、涙を流して立っていた。「ありがとうございました」。父の命を奪った将校二人の弟たちであった。
つらいのは自分たちだけではない。反乱軍の汚名を受け、処刑にされた将校たちの遺族の苦しみは、いかばかりであったろうか。宗教人、教育人として何十年と過してきたが、初めて気づかされたことである。
その二ヵ月後、今度は、その青年将校の弟がお彼岸に合わせて、錠太郎のお墓参りをした。
以来、和子と彼らとの、年一回の交流が続いているという。わだかまりが消えたとはお互いに思ってはいない。穏やかな時間を過すだけだという。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
渡辺和子理事長の講演では、2.26事件について全く触れられることはなかった。聴き終えてしまえば、それは当然のことである。宗教人としても教育人としても、既に立派な実績をあげられている方である。今さら、「2.26」でもあるまい。実際、私は主催者側の何人かの方にお聞きしたが、どなたも、渡辺理事長と2.26事件との関係はご存知なかった。
じっとお聴きする。
渡辺理事長のその容姿、お声、身振り、話し振り、全ての挙措が、お人柄をそのまま表しておられる。静かでたおやかな感じが漂っておられる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2.26事件に関して一つだけ触れておきたい。事件で惨殺された高官の夫人たちのことである。
斉藤実内大臣の春子夫人は、二階夫婦寝室の前で、乱入してきた青年将校たちの前に立ちふさがった。夫人越しに内大臣に銃撃が放たれる。夫人は倒れた内大臣をかばいながらも、火を噴く機銃を掴み、「撃つなら私を撃ちなさい」と言い、その結果、腕に貫通銃創を負う。夫は、40数発の弾丸を受け即死した。邸内で寝ていた孫である当時8歳の岡百子は、邸内の大きな声で目を覚ます。静かになった頃に祖父の部屋に行くと、母が出てきて、「帰りなさい。後でお辞儀をさせてあげるから」と涙を流しながらもしっかりと話したことを覚えているという。
高橋是清蔵相は銃で撃たれた上、左腕を切られている。その写真を見た遺族が、「これほどまで恨まれていたのか」と絞り出すように言った後、絶句する程のさまであった。志な夫人は、来訪した新聞記者に向って、「青年将校は卑怯に存じます」と毅然として言い放った。
渡辺錠太郎教育総監のすず夫人は、いきなり邸内に入ってきた将校たちに対して、「どこの部隊ですか。見れば歩三(麻布歩兵第三連隊)ですね。それが軍部の命令ですか。他に方法がないのですか」と銃剣の前に立ちふさがった。将校たちは、それに答えることなく、夫人をつき退け、進んでいった。
鈴木貫太郎侍従長の孝子夫人は、銃撃の末倒れた夫の横で、いつの間にか威儀を正して正座をしている。凛とした姿であったという。青年将校の安藤中隊長は、夫人に対して所属と名前を明らかにし、その目的は昭和維新断行のためですとだけ言った。「まだ脈はある。武士の掟にしたがい、閣下にとどめを・・」と言ったときに、それまで静かに座っていただけの夫人が、初めて声を出した。「それだけは私に任せてください」。少しも身じろぎすることなく言った。安藤中隊長は、「閣下に対して敬礼」と号令をかけ捧げ銃をしてそのまま立ち去った。その結果、夫は一命を取り留めた。
尚、孝子夫人は昭和天皇の乳母であり、天皇のもとに、事件の第一報が届けられたのは、この孝子夫人からであった。天皇の怒りは想像にあまりあるものであろう。
いずれも、事件後の調書において、将校たちは、夫人たちの立派な姿勢を褒めたたえている。
夫人たちも夫とともに、日本という国を支えているという自負があったのであろう。残念ながらベクトルを間違えてはいるが、青年将校たちも真っ直ぐであった。
女たちにとっても、重たい「2.26事件」なのである。
その返事をした一週間後くらいであったろうか。私は、何気なく手にした週刊誌において、「2.26事件重臣たちの惨殺写真」としたグラビア記事を見かけた。事件で殺害された斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監、各々が、まさにその惨殺現場そのままの写真が掲載されていた。これほどの写真が公になったのは初めてだという。凄惨なものであった。「むごい」の一言であった。
その犠牲者となった渡辺錠太郎教育総監こそが、先のノートルダム清心学園渡辺和子理事長の実父である。当時九歳の彼女は、手を伸ばせばすぐ届きそうな距離で、自分の父親が、青年将校たちに軍刀でとどめをさされる場面を目にすることになった。
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「男が子供を産むのならおかしいが、女が産むのに何がおかしいことがあるものか」
和子の母は、43歳という年齢と、政府高官の妻という立場を考え、身ごもった、後の和子を堕胎しようと考え、既に医師として独立していた長男にも相談していたという。そんな時、父親になる錠太郎は、先のなんだかよく分からない理屈をもって、「産んでおけ」と述べたという。和子が「私は『望まれないで産まれた子』でした」と述べる所以である。
既に52歳であった錠太郎は、和子を孫のように可愛がったという。実際、事件の半年前に写された二人並んでの写真を見ると、その可愛がりようが伝わってくるものである。和子自身も、「この9年間に私は一生涯分の愛を父から受けたように思っています」と述べている。
2.26事件。その時、錠太郎61歳、和子9歳。
2.26事件については、既に膨大な書物や研究資料が出されているので、ここでは、その詳細には触れない。
安田優、高橋太郎両少尉率いる約30名の青年将校は、荻窪の渡辺邸を襲撃。錠太郎は布団を盾に拳銃で応戦。錠太郎は一緒に寝ていた和子を、一端は、部屋から出した。しかし、恐かったのか、父親が心配になったのか、その幼子は父親の元に戻ってきてしまう。
「戻ってきた私を見た父は、そばにあった座卓を立てかけて、私を隠してくれました。父は、もう自分が助かることは考えずに、私を守るために応戦したのだと思います」
動かなくなった父を、青年将校たちの軍刀が襲う。その父親に溺愛された娘のすぐ目の前の出来事である。
「私はたまたま父の死を1メートルのところで見届ける唯一の者となってしまったのですが、今思うと父を敵の最中でたった一人さびしく死なせないために、私は産まれてきたのかもしれないと思うようになりました」
出生時のいきさつやそれまでの可愛がりようを思い起こすと、このように思い至るのかもしれない、否、そうでも思わないと今日まで生きていけなかったのかもしれない。
和子は、父を殺害した将校たちに対して、怨みや憎しみを抱いたことはなかったという。むしろ、この時期でなければ、より悲惨な最期を迎えていたかもしれないと考えることさえあった。宗教人のなせるわざであろうか。そもそも、宗教に帰依したのも、この事件とは全く関係なく、母親との確執が原因であったという。
自分には、2.26事件のわだかまりは何もない。そう信じて生きてきた。
しかし、事件から40年以上経ったある日のこと。2.26事件の特集番組収録のため、あるテレビ局に出向いた際、スタッフから、一人の年配の男性を紹介された。「反乱軍にいた方です」
簡単な挨拶の後、目の前にあったコーヒーに手を伸ばす。しかし、そのときまで、平穏なはずと思い込んでいた気持ちとは裏腹に、知らぬ間に体が硬直してしまい、大好きなはずのコーヒーにどうしても口をつけることが出来ない。動かない。初めての経験である。「心の奥底で、私は父を殺した人々を許してはいないのかもしれない」
青年将校たちは、事件の年の7月12日に処刑にされ、元麻布の賢崇寺に分骨埋葬。遺族らによって毎年法要が営まれている。
事件から50年経った1986年7月12日、節目の年だからと自分に言い聞かせ、和子は、初めてその法要に参列した。墓前で静かに手を合わせ、もと来た方へと向き直ると、二人の男性が深々と頭を下げ、涙を流して立っていた。「ありがとうございました」。父の命を奪った将校二人の弟たちであった。
つらいのは自分たちだけではない。反乱軍の汚名を受け、処刑にされた将校たちの遺族の苦しみは、いかばかりであったろうか。宗教人、教育人として何十年と過してきたが、初めて気づかされたことである。
その二ヵ月後、今度は、その青年将校の弟がお彼岸に合わせて、錠太郎のお墓参りをした。
以来、和子と彼らとの、年一回の交流が続いているという。わだかまりが消えたとはお互いに思ってはいない。穏やかな時間を過すだけだという。
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渡辺和子理事長の講演では、2.26事件について全く触れられることはなかった。聴き終えてしまえば、それは当然のことである。宗教人としても教育人としても、既に立派な実績をあげられている方である。今さら、「2.26」でもあるまい。実際、私は主催者側の何人かの方にお聞きしたが、どなたも、渡辺理事長と2.26事件との関係はご存知なかった。
じっとお聴きする。
渡辺理事長のその容姿、お声、身振り、話し振り、全ての挙措が、お人柄をそのまま表しておられる。静かでたおやかな感じが漂っておられる。
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2.26事件に関して一つだけ触れておきたい。事件で惨殺された高官の夫人たちのことである。
斉藤実内大臣の春子夫人は、二階夫婦寝室の前で、乱入してきた青年将校たちの前に立ちふさがった。夫人越しに内大臣に銃撃が放たれる。夫人は倒れた内大臣をかばいながらも、火を噴く機銃を掴み、「撃つなら私を撃ちなさい」と言い、その結果、腕に貫通銃創を負う。夫は、40数発の弾丸を受け即死した。邸内で寝ていた孫である当時8歳の岡百子は、邸内の大きな声で目を覚ます。静かになった頃に祖父の部屋に行くと、母が出てきて、「帰りなさい。後でお辞儀をさせてあげるから」と涙を流しながらもしっかりと話したことを覚えているという。
高橋是清蔵相は銃で撃たれた上、左腕を切られている。その写真を見た遺族が、「これほどまで恨まれていたのか」と絞り出すように言った後、絶句する程のさまであった。志な夫人は、来訪した新聞記者に向って、「青年将校は卑怯に存じます」と毅然として言い放った。
渡辺錠太郎教育総監のすず夫人は、いきなり邸内に入ってきた将校たちに対して、「どこの部隊ですか。見れば歩三(麻布歩兵第三連隊)ですね。それが軍部の命令ですか。他に方法がないのですか」と銃剣の前に立ちふさがった。将校たちは、それに答えることなく、夫人をつき退け、進んでいった。
鈴木貫太郎侍従長の孝子夫人は、銃撃の末倒れた夫の横で、いつの間にか威儀を正して正座をしている。凛とした姿であったという。青年将校の安藤中隊長は、夫人に対して所属と名前を明らかにし、その目的は昭和維新断行のためですとだけ言った。「まだ脈はある。武士の掟にしたがい、閣下にとどめを・・」と言ったときに、それまで静かに座っていただけの夫人が、初めて声を出した。「それだけは私に任せてください」。少しも身じろぎすることなく言った。安藤中隊長は、「閣下に対して敬礼」と号令をかけ捧げ銃をしてそのまま立ち去った。その結果、夫は一命を取り留めた。
尚、孝子夫人は昭和天皇の乳母であり、天皇のもとに、事件の第一報が届けられたのは、この孝子夫人からであった。天皇の怒りは想像にあまりあるものであろう。
いずれも、事件後の調書において、将校たちは、夫人たちの立派な姿勢を褒めたたえている。
夫人たちも夫とともに、日本という国を支えているという自負があったのであろう。残念ながらベクトルを間違えてはいるが、青年将校たちも真っ直ぐであった。
女たちにとっても、重たい「2.26事件」なのである。
2006年01月21日 (土) 「アドレナリン」もう一つの名誉回復
新年早々、私たち金沢人にとって、大層嬉しいニュースがとび込んできた。
私のメルマガ「高峰譲吉にみる日本人、金沢人」の中でも問題提起している、アドレナリン発見にまつわる誤解の解消が、ようやく、少なくとも日本においてなされるということである。
全国版で掲載された、読売新聞(2006年1月4日朝刊)記事より引用する。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『高峰譲吉の「アドレナリン」107年目"名誉回復"』
化学者の高峰譲吉(1854〜1922)らが発見した「アドレナリン」が4月から、医薬品の正式名称として使われることになった。
これまでは米国の学者が命名した「エピネフリン」を使用してきた。高峰の業績を正しく評価すべきだとの声が高まり、厚生労働省は医薬品の規格基準を定めた公定書「日本薬局方」を改正、1900年のアドレナリン発見以来107年目の"名誉回復"をはかる。
アドレナリンは、高峰と助手の上中(うえなか)啓三(1876〜1960)が、研究生活を送っていた米国で1900年に牛の副腎から初めて抽出したホルモン。「腎臓の上」を意味するラテン語にちなんで高峰が命名した。薬としては、強心剤や気管支拡張薬などに使われている。
厚労省によると、薬品の一般名として欧州ではアドレナリン、米国とメキシコは日本同様にエピネフリンを使っている。エピネフリンは、高峰より先に抽出したと主張した米国人学者が名づけた。後に、その学者の方法では抽出できないと判明したが、米国ではエピネフリンを使い続けた。
日本も米国にならったのか、アドレナリンは日本薬局方では長い間、正式名称「エピネフリン」の別名扱い。96年の改正では別名からも消えた。高峰の業績に詳しい菅野富夫北海道大名誉教授らが「発見者の母国であり、正式名称にしてほしい」と厚労省に申し入れていた。
3月末に告示される改正薬局方では、エピネフリンが入った名称を別名扱いとし、アドレナリンを用いた名称を正式名にする。菅野氏は「ようやく本来の形に戻る。高峰らは米国で研究したので日本に子弟がおらず、業績が正当に評価されなかった」と話している。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
これが地元紙となると、さらに気分が高揚し、やや肩肘の張った記事になっているのは、ご愛嬌であろう。
いずれにしても、誠にもって、ご同慶の至りである。しかし、その「慶事」に水を差すわけではないが、私はこれを機会に、アドレナリン発見に関して、もう一つの"名誉回復"を強く望んでおきたい。
それは、記事中にもある、譲吉の助手として書かれている上中啓三が、アドレナリン発見において果たした役割の再認識についてである。
―――――
1894年、譲吉はタカジアスターゼを発見し、アメリカで特許を出願。1897年には、パーク・デービス社と契約し、日本以外の国においての製造販売権を認めている。これは、間違いなく、譲吉の偉大なる功績である。
さて、「アドレナリン」。
専門的な解説は省略するが、1890年代の後半、欧米の研究者の間では、動物の副腎の作用に強い関心が集まっていたという。副腎抽出液は、血圧上昇や止血作用に対して強い効果があることが、数々の実証データから明らかにされてきた。そこで、副腎抽出の有効成分を、純粋化学物質として精製することに、世界的な先陣争いが行われ、その最先端を走っていたのが、前出の記事中にもある「エピネフリン」を"発見"したとするアメリカのエイベルと、ドイツのフュルトであった。
譲吉から、タカジアスターゼの販売権を得た、製薬会社パーク・デービス社としても、もちろん大きな関心を持ち、何と、エイベルの研究室からその弟子を引き抜き、自社で独自に精製にあたらせてもいる。(しかし、こんなことをすれば、エイベルが怒るのは当たり前。仮に、同意を得ていたとしても、結果的に、パーク・デービス社に先を越された形となったエイベルにとっては、おもしろくなかろう。言いがかりの一つもつけたくなる。)
しかし、いずれも、はかばかしい成果は得られてはいなかった。
また、パーク・デービス社は、譲吉にもその研究依頼をしている。譲吉も期待に応えようとしたであろうが、やはり、残念ながら、それから二年間は、全く何の成果報告を出すこともできなかった。
それも当然のことであろう。それまでの譲吉の研究テーマは、米、麹、麦芽といったものの、発酵作用を中心としたものであって、動物の内臓の抽出液分析などということは、そもそも実験の手法も根本的に違っていよう。そんなことは、素人の私でも容易に想像できることである。
さらに、譲吉にとっては、この時期、タカジアスターゼの製造販売権を、パーク・デービス社に委託すると同時に、彼自身の会社である、タカミネ・ファーメント社の事業へも自ら本格的に乗り出し始めた時期でもあった。実際、研究だけではなく、様々な事業家としての交際も広まっていったようである。
生まれたときから、親戚として譲吉一家と身近に接してきたというアグネス・デ・ミルも、『上中が夜遅くまで実験しているところへ、パーティの帰りにちょっと立ち寄っては、「どうかね」と言って、その日の経過報告を受けるという具合だった』と、譲吉の化学者であり事業家でもある、その生活の一端を述べている。これまでのように、研究にばかり没頭することはできなくなっていたのである。
そんな譲吉にとって、奇跡のような僥倖が訪れた。
上中啓三との出会いである。
上中啓三は、1876年、現在の兵庫県西宮市名塩に生まれ、今の大阪大学薬学部の前身である大阪薬学校に入学、三年後に国家試験に合格し薬剤師に。その後、東大医科附属薬学選科で、日本における薬学研究の泰斗といえる長井長義教授から、二年半の間、直々に指導を受ける。
長井教授は、麻黄からエフェドリンを抽出し、世界的に名を知られる薬学者となっていた。そのエフェドリンは、今日になっても気管支喘息、喘息性気管支炎の治療に使用されている。
上中は、その長井教授からすぐれた実験技法の手ほどきを受けている。そして、その手法を工夫することによって、「アドレナリン」発見に結び付けていったのである。
上中は、長井教授らの紹介をもって、1990年2月、アメリカの譲吉のもとを訪ね、助手として働くことになる。
そして、信じられないことに、何と、その年のうちに上中の手によって、「アドレナリン」は発見されたのである。前述したように、長井教授のもとで培った経験を活かした成果である。
その詳細は、いくつもの書籍や、また、上中死後明らかにされた、上中の実験ノートをご覧いただくとして、ここでは、長井教授のもとで研鑚を積んだ上中の功績を再度、強調しておきたい。
さて、ここで、なぜ、日本人二人が発見した「アドレナリン」が否定されて、アメリカ人の"発見"したとされる「エピネフリン」が流布するようになったのか触れておきたい。
譲吉がアドレナリン発見を発表したのが1900年。それ以来、ずっと、それは譲吉の功績とされてきた。1922年、高峰譲吉死去。その5年後の1927年、唐突に、エイブルが、譲吉のアドレナリンは自分の発見の"盗作"であると言い出した。
時代背景がある。1924年、アメリカでは、排日移民法が成立。1931年満州事変勃発、1933年日本が国際連盟脱退と、特に、アメリカにおいて、反日感情の高まってきた時期であった。しかも、譲吉も既に亡くなっていて、科学的に反論もできはしない。その間隙を縫った異論とも言える。
時代に翻弄された、「アドレナリン」でもあった。
上中啓三の功績に話を戻す。
確かに、上中は、譲吉から給与をもらい、譲吉の研究所で、譲吉がパーク・デービス社から依頼された研究に取り組んだものであり、研究テーマそのものは上中独自のものではない。仮に、上中がエイベルやフュルトに知遇を得ることができたとしても、その時代、そんな若い日本人研究者に、そこまでの研究のための環境整備を提供されていたかどうかは疑わしい。そう考えると、譲吉にとって、上中がいなければ、「高峰譲吉のアドレナリン」は100%あり得なかったであろうが、上中にとっても、これほどの大発見に、直接かかわることも難しかったのではないだろうか。(しかし、上中の場合、その可能性も無いこともなかったようだ。なぜなら、エイベルは、エフェドリンを抽出した長井教授のことを高く評価していたといい、上中が、長井教授の下で、エフェドリン抽出の研究に関与していたことを知れば、どうなっていたかは分からないとも言われている。)
ここまで書いてきて、私自身、少々気が重くなってきた。決して、郷土の偉人高峰譲吉の偉業に意見を差し挟むものではない。しかし、冒頭で述べたように、「高峰譲吉のアドレナリン」の名誉回復とともに、このことに関する、上中啓三の名誉というものも、今一度、光があてられても良いのではないだろうか、と素直に感じている。
尚、誤解を受けないためにも、ここで譲吉の名誉のために付け加えなければいけない。
何と言っても、時代背景というものを理解しなければならないということだ。
前出したアグネス・デ・ミルの著作にも書かれていることだが、この時代、労働法のような考え方もない頃である。法律がどうであろうと、個人には侵してはならない権利があるという認識が、アメリカの社会にも、まだ全く定着していなかった時代である。「新世紀の冒険者たちのように、高峰も未知の世界に進出し、そこにあるものを自分の所有物だと宣言したのです。彼の場合、剣の代わりに特許権を振りかざして」(「高峰譲吉伝」(アグネス・デ・ミル著)より)。そういう時代なのである。だからこそ、「彼(譲吉)は、研究者をましな下男並に扱いました」(同)からといって、譲吉を責めることはできない。
むしろ、譲吉は、上中が帰国するに際して、三共において研究者としての道を提供し、遺産相続に際して、「寛大と誠実に感謝を込めて」という添え書きとともに、それなりの待遇を供してはいる。
決して、譲吉は上中を蔑ろにしたわけではない。また、上中にも色々な思いがあったであろうが、彼は、終生愚痴らしいことを述べることはなかった。それは、研究の全てが記録された、「上中ノート」を彼の生前、決して公表しようとしなかったことからも明らかであろう。上中の人物である。
上中の出生地、西宮市名塩にある彼の菩提寺教業寺において、1981年、その顕彰碑が建立された。しかし、ほとんど、訪れる人はないという。
アドレナリンの名誉回復を機に、高峰譲吉を顕彰する様々な事業にあわせて、色々な意味で上中啓三に敬意を表す、何か働きかけというものがあっても良いのではないだろうか。もちろん、それらは、金沢市もしくは金沢市に事務局を置く、高峰譲吉博士顕彰会からなされるべきものであろう。
そうすることによって、高峰譲吉はもちろん、彼を郷土の先人としていただく、私たち金沢市民にとっても、より一層、「アドレナリン発見」の価値が高まるのではないだろうか。
私のメルマガ「高峰譲吉にみる日本人、金沢人」の中でも問題提起している、アドレナリン発見にまつわる誤解の解消が、ようやく、少なくとも日本においてなされるということである。
全国版で掲載された、読売新聞(2006年1月4日朝刊)記事より引用する。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『高峰譲吉の「アドレナリン」107年目"名誉回復"』
化学者の高峰譲吉(1854〜1922)らが発見した「アドレナリン」が4月から、医薬品の正式名称として使われることになった。
これまでは米国の学者が命名した「エピネフリン」を使用してきた。高峰の業績を正しく評価すべきだとの声が高まり、厚生労働省は医薬品の規格基準を定めた公定書「日本薬局方」を改正、1900年のアドレナリン発見以来107年目の"名誉回復"をはかる。
アドレナリンは、高峰と助手の上中(うえなか)啓三(1876〜1960)が、研究生活を送っていた米国で1900年に牛の副腎から初めて抽出したホルモン。「腎臓の上」を意味するラテン語にちなんで高峰が命名した。薬としては、強心剤や気管支拡張薬などに使われている。
厚労省によると、薬品の一般名として欧州ではアドレナリン、米国とメキシコは日本同様にエピネフリンを使っている。エピネフリンは、高峰より先に抽出したと主張した米国人学者が名づけた。後に、その学者の方法では抽出できないと判明したが、米国ではエピネフリンを使い続けた。
日本も米国にならったのか、アドレナリンは日本薬局方では長い間、正式名称「エピネフリン」の別名扱い。96年の改正では別名からも消えた。高峰の業績に詳しい菅野富夫北海道大名誉教授らが「発見者の母国であり、正式名称にしてほしい」と厚労省に申し入れていた。
3月末に告示される改正薬局方では、エピネフリンが入った名称を別名扱いとし、アドレナリンを用いた名称を正式名にする。菅野氏は「ようやく本来の形に戻る。高峰らは米国で研究したので日本に子弟がおらず、業績が正当に評価されなかった」と話している。
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これが地元紙となると、さらに気分が高揚し、やや肩肘の張った記事になっているのは、ご愛嬌であろう。
いずれにしても、誠にもって、ご同慶の至りである。しかし、その「慶事」に水を差すわけではないが、私はこれを機会に、アドレナリン発見に関して、もう一つの"名誉回復"を強く望んでおきたい。
それは、記事中にもある、譲吉の助手として書かれている上中啓三が、アドレナリン発見において果たした役割の再認識についてである。
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1894年、譲吉はタカジアスターゼを発見し、アメリカで特許を出願。1897年には、パーク・デービス社と契約し、日本以外の国においての製造販売権を認めている。これは、間違いなく、譲吉の偉大なる功績である。
さて、「アドレナリン」。
専門的な解説は省略するが、1890年代の後半、欧米の研究者の間では、動物の副腎の作用に強い関心が集まっていたという。副腎抽出液は、血圧上昇や止血作用に対して強い効果があることが、数々の実証データから明らかにされてきた。そこで、副腎抽出の有効成分を、純粋化学物質として精製することに、世界的な先陣争いが行われ、その最先端を走っていたのが、前出の記事中にもある「エピネフリン」を"発見"したとするアメリカのエイベルと、ドイツのフュルトであった。
譲吉から、タカジアスターゼの販売権を得た、製薬会社パーク・デービス社としても、もちろん大きな関心を持ち、何と、エイベルの研究室からその弟子を引き抜き、自社で独自に精製にあたらせてもいる。(しかし、こんなことをすれば、エイベルが怒るのは当たり前。仮に、同意を得ていたとしても、結果的に、パーク・デービス社に先を越された形となったエイベルにとっては、おもしろくなかろう。言いがかりの一つもつけたくなる。)
しかし、いずれも、はかばかしい成果は得られてはいなかった。
また、パーク・デービス社は、譲吉にもその研究依頼をしている。譲吉も期待に応えようとしたであろうが、やはり、残念ながら、それから二年間は、全く何の成果報告を出すこともできなかった。
それも当然のことであろう。それまでの譲吉の研究テーマは、米、麹、麦芽といったものの、発酵作用を中心としたものであって、動物の内臓の抽出液分析などということは、そもそも実験の手法も根本的に違っていよう。そんなことは、素人の私でも容易に想像できることである。
さらに、譲吉にとっては、この時期、タカジアスターゼの製造販売権を、パーク・デービス社に委託すると同時に、彼自身の会社である、タカミネ・ファーメント社の事業へも自ら本格的に乗り出し始めた時期でもあった。実際、研究だけではなく、様々な事業家としての交際も広まっていったようである。
生まれたときから、親戚として譲吉一家と身近に接してきたというアグネス・デ・ミルも、『上中が夜遅くまで実験しているところへ、パーティの帰りにちょっと立ち寄っては、「どうかね」と言って、その日の経過報告を受けるという具合だった』と、譲吉の化学者であり事業家でもある、その生活の一端を述べている。これまでのように、研究にばかり没頭することはできなくなっていたのである。
そんな譲吉にとって、奇跡のような僥倖が訪れた。
上中啓三との出会いである。
上中啓三は、1876年、現在の兵庫県西宮市名塩に生まれ、今の大阪大学薬学部の前身である大阪薬学校に入学、三年後に国家試験に合格し薬剤師に。その後、東大医科附属薬学選科で、日本における薬学研究の泰斗といえる長井長義教授から、二年半の間、直々に指導を受ける。
長井教授は、麻黄からエフェドリンを抽出し、世界的に名を知られる薬学者となっていた。そのエフェドリンは、今日になっても気管支喘息、喘息性気管支炎の治療に使用されている。
上中は、その長井教授からすぐれた実験技法の手ほどきを受けている。そして、その手法を工夫することによって、「アドレナリン」発見に結び付けていったのである。
上中は、長井教授らの紹介をもって、1990年2月、アメリカの譲吉のもとを訪ね、助手として働くことになる。
そして、信じられないことに、何と、その年のうちに上中の手によって、「アドレナリン」は発見されたのである。前述したように、長井教授のもとで培った経験を活かした成果である。
その詳細は、いくつもの書籍や、また、上中死後明らかにされた、上中の実験ノートをご覧いただくとして、ここでは、長井教授のもとで研鑚を積んだ上中の功績を再度、強調しておきたい。
さて、ここで、なぜ、日本人二人が発見した「アドレナリン」が否定されて、アメリカ人の"発見"したとされる「エピネフリン」が流布するようになったのか触れておきたい。
譲吉がアドレナリン発見を発表したのが1900年。それ以来、ずっと、それは譲吉の功績とされてきた。1922年、高峰譲吉死去。その5年後の1927年、唐突に、エイブルが、譲吉のアドレナリンは自分の発見の"盗作"であると言い出した。
時代背景がある。1924年、アメリカでは、排日移民法が成立。1931年満州事変勃発、1933年日本が国際連盟脱退と、特に、アメリカにおいて、反日感情の高まってきた時期であった。しかも、譲吉も既に亡くなっていて、科学的に反論もできはしない。その間隙を縫った異論とも言える。
時代に翻弄された、「アドレナリン」でもあった。
上中啓三の功績に話を戻す。
確かに、上中は、譲吉から給与をもらい、譲吉の研究所で、譲吉がパーク・デービス社から依頼された研究に取り組んだものであり、研究テーマそのものは上中独自のものではない。仮に、上中がエイベルやフュルトに知遇を得ることができたとしても、その時代、そんな若い日本人研究者に、そこまでの研究のための環境整備を提供されていたかどうかは疑わしい。そう考えると、譲吉にとって、上中がいなければ、「高峰譲吉のアドレナリン」は100%あり得なかったであろうが、上中にとっても、これほどの大発見に、直接かかわることも難しかったのではないだろうか。(しかし、上中の場合、その可能性も無いこともなかったようだ。なぜなら、エイベルは、エフェドリンを抽出した長井教授のことを高く評価していたといい、上中が、長井教授の下で、エフェドリン抽出の研究に関与していたことを知れば、どうなっていたかは分からないとも言われている。)
ここまで書いてきて、私自身、少々気が重くなってきた。決して、郷土の偉人高峰譲吉の偉業に意見を差し挟むものではない。しかし、冒頭で述べたように、「高峰譲吉のアドレナリン」の名誉回復とともに、このことに関する、上中啓三の名誉というものも、今一度、光があてられても良いのではないだろうか、と素直に感じている。
尚、誤解を受けないためにも、ここで譲吉の名誉のために付け加えなければいけない。
何と言っても、時代背景というものを理解しなければならないということだ。
前出したアグネス・デ・ミルの著作にも書かれていることだが、この時代、労働法のような考え方もない頃である。法律がどうであろうと、個人には侵してはならない権利があるという認識が、アメリカの社会にも、まだ全く定着していなかった時代である。「新世紀の冒険者たちのように、高峰も未知の世界に進出し、そこにあるものを自分の所有物だと宣言したのです。彼の場合、剣の代わりに特許権を振りかざして」(「高峰譲吉伝」(アグネス・デ・ミル著)より)。そういう時代なのである。だからこそ、「彼(譲吉)は、研究者をましな下男並に扱いました」(同)からといって、譲吉を責めることはできない。
むしろ、譲吉は、上中が帰国するに際して、三共において研究者としての道を提供し、遺産相続に際して、「寛大と誠実に感謝を込めて」という添え書きとともに、それなりの待遇を供してはいる。
決して、譲吉は上中を蔑ろにしたわけではない。また、上中にも色々な思いがあったであろうが、彼は、終生愚痴らしいことを述べることはなかった。それは、研究の全てが記録された、「上中ノート」を彼の生前、決して公表しようとしなかったことからも明らかであろう。上中の人物である。
上中の出生地、西宮市名塩にある彼の菩提寺教業寺において、1981年、その顕彰碑が建立された。しかし、ほとんど、訪れる人はないという。
アドレナリンの名誉回復を機に、高峰譲吉を顕彰する様々な事業にあわせて、色々な意味で上中啓三に敬意を表す、何か働きかけというものがあっても良いのではないだろうか。もちろん、それらは、金沢市もしくは金沢市に事務局を置く、高峰譲吉博士顕彰会からなされるべきものであろう。
そうすることによって、高峰譲吉はもちろん、彼を郷土の先人としていただく、私たち金沢市民にとっても、より一層、「アドレナリン発見」の価値が高まるのではないだろうか。
2006年01月11日 (水) 「戌の日」の儀式
今年は戌年。話を一つ。
妻が長男を身ごもり、その何ヶ月目かに、実家からいただいた腹帯を、神社でお祓いをしていただくという「儀式」があった。その儀式は、「戌の日」でなければならないという。理由は、イヌは概して安産であり、それに倣うのだという。しかし、十二支に配当された他の動物も、ほとんどが安産。イヌだけが特別ではない、と無粋なことを、思いはしたが、口には出さなかった(と思う)。
おかげさまで、子供たちが元気で育っている今、無粋な詮議をする。
イヌの妊娠期間は、一般的に9週63日といわれている。そして、その前後1、2日以内でほぼ生れてくるという。3日とずれることは、ほとんどないそうだ。そのことをもって、安産とされているのかもしれない。しかし、そもそも約40週といわれる人間のそれに換算すると、それなりのような気もするが、産科の知識が全くない私には、それ以上のコメントはできない。
しかし、それであっても、やはり、イヌでなければならないという理由とするには弱い。
一般的な考え方としては、イヌと人間とは、3万年も昔から共同生活を送っていたともいわれ、人間にとって、極めて身近な動物であったということ。さらに、獰猛な野生動物の脅威から人間の集団を守ることにおいて、イヌは古くから活躍していたということからも、犬は外敵から身を守る一種呪術的な力の象徴となり、新しい生命を外敵から守る役割を負ったのではなかろうか。・・・・。書いていて、さもありなんという気もするが、おもしろくもなんともない。
そこで、白川静の著作による。
言うまでもなく、イヌは、象形文字として「犬」と書かれる。
中国の殷・周代の古い王墓には、王の墓を守るため、人とイヌとを埋めて地中にひそむ悪霊を祓うとされていた。これが、「伏」という。時代がやや下った王墓にも、愛犬であったらしいイヌが、金銀の飾りをつけて埋葬されている。イヌと人間との親密さを表すとともに、ひいては、高貴ないけにえとしてのイヌの役割も、人々の意識の中に強く刻印されることになったようだ。
神に願い事をする際には、イヌはお供え物として、霊験あらたかな尊いものであった。犬牲(イヌのいけにえ)によって清められたうつわを「器」といい、犬牲で清められた鼎形の器を「献」、神に供える酋(ふるざけ)にいけにえのイヌをそえて、神に祀り、神意にはかることを「猷」等々。これらだけでも、十分に、そのことは感じられる。
さすがに、国が変わり、さらに時代が大きく下るにつれて、本物の犬牲というものは見られなくなったが、イヌに対する考え方は、残ったようだ。
安産を祈願するに際して、「戌の日」というものが、冒頭で挙げた俗説と相俟って、広まっていったのではないだろか。
もう一つ、白川静。
「戌」は、もともとは、「茂」の音符である。言うまでもなく、「茂」は繁茂という言葉に代表されるように、盛んになる、豊かになる、さらには、すぐれるという意味も持つ。「戌の日」に安産を祈願するというのは、子供が多く恵まれますように、さらに、すぐれた子供に育ちますようにという願いも込められている、と言ったら、考えすぎであろうか。
さて、話は変わるが、奈良県奈良市に「帯解寺」という、いわくあり気な名のお寺がある。
今から千百年以上前、55代文徳天皇が皇后(藤原明子)との間に子供が生まれないのを悩み、祖神春日明神のお告げによって、雲松庵という小さなお寺にあった帯解子安地蔵菩薩に祈願された。すると間もなく懐妊、安産により後の清和天皇の誕生となった。
文徳天皇はお喜びのあまり、天安二(858)年、更に伽藍を建立し、寺号を改められ、帯(腹帯)が解けた寺、帯解寺と勅命されたという。
尚、江戸時代にも、将軍家において同じようなこともあり、益々、子宝を授かることへの願掛けの場として名が知られると同時に、安産祈願の寺ともなっていった。
現在、この帯解寺においては、安産の守護神として、イヌのぬいぐるみを作り販売しているという。帯解寺の由来には、何の関係もなさそうであるが、ここでもイヌが登場、利用されている。
ここまで書いていて気がついたのだが、この帯解寺は、もともとは、弘法大使の師勤繰大徳の開基とされ、文徳天皇の祈願されたという帯解子安地蔵菩薩も、やはり、弘法大使の作ともいわれている。実は、弘法大使とイヌとの縁は浅からぬものがあり、もしかしたら、その辺にも安産と「戌の日」との関係があるやも知れぬ。しかし、長くなるので、ここでは触れない。
さて、安産と「戌の日」でもう一つ。
これは、金沢特有の習慣らしいが、出産間近の「戌の日」に、親類縁者へ、「ころころ餅」なるお餅をお配りする。赤ちゃんが ころころと産まれ出てくるようにとの願いを込めての風習だそうだ。我が家も、長男の誕生の際も長女の時も、その習慣に則り、ころころ餅をお配りした。おかげさまで子供たちは元気に生まれ育ってくれている。「戌の日」の腹帯ところころ餅とのおかげであろうか。
最後に、身も蓋もない余談を二つ。
一つ。「戌の日」を機に利用する腹帯だが、母体と胎児とを守る効果があるということだが、このような習慣は西洋はもちろんのこと、東洋でも日本独自のもので、隣の韓国や中国にもないという。医学的な効能はともかく、やはり、祭祀的なものなのであろうか。
もう一つ。最近のイヌは必ずしも安産ばかりでもなくなったそうだ。愛玩用のイヌは、全体的に小型化し、母犬に比べて胎児の体重比が大きくなり、産みの苦しみが増すようになる。また、小型犬は室内飼いが一般的で、運動量も少なく、また、間食の機会も大きいので、基礎体力が弱く、太りがちのことも多い。
また、中・大型犬でも、以前のようにそこらを走り回るわけにいかず、やはり、小型犬同様、食事も人工的なものが主となり、基礎体力が弱く、難産が多くなっているという。
何とも早、「戌の日」の風習が薄れてくるのも当然である。
妻が長男を身ごもり、その何ヶ月目かに、実家からいただいた腹帯を、神社でお祓いをしていただくという「儀式」があった。その儀式は、「戌の日」でなければならないという。理由は、イヌは概して安産であり、それに倣うのだという。しかし、十二支に配当された他の動物も、ほとんどが安産。イヌだけが特別ではない、と無粋なことを、思いはしたが、口には出さなかった(と思う)。
おかげさまで、子供たちが元気で育っている今、無粋な詮議をする。
イヌの妊娠期間は、一般的に9週63日といわれている。そして、その前後1、2日以内でほぼ生れてくるという。3日とずれることは、ほとんどないそうだ。そのことをもって、安産とされているのかもしれない。しかし、そもそも約40週といわれる人間のそれに換算すると、それなりのような気もするが、産科の知識が全くない私には、それ以上のコメントはできない。
しかし、それであっても、やはり、イヌでなければならないという理由とするには弱い。
一般的な考え方としては、イヌと人間とは、3万年も昔から共同生活を送っていたともいわれ、人間にとって、極めて身近な動物であったということ。さらに、獰猛な野生動物の脅威から人間の集団を守ることにおいて、イヌは古くから活躍していたということからも、犬は外敵から身を守る一種呪術的な力の象徴となり、新しい生命を外敵から守る役割を負ったのではなかろうか。・・・・。書いていて、さもありなんという気もするが、おもしろくもなんともない。
そこで、白川静の著作による。
言うまでもなく、イヌは、象形文字として「犬」と書かれる。
中国の殷・周代の古い王墓には、王の墓を守るため、人とイヌとを埋めて地中にひそむ悪霊を祓うとされていた。これが、「伏」という。時代がやや下った王墓にも、愛犬であったらしいイヌが、金銀の飾りをつけて埋葬されている。イヌと人間との親密さを表すとともに、ひいては、高貴ないけにえとしてのイヌの役割も、人々の意識の中に強く刻印されることになったようだ。
神に願い事をする際には、イヌはお供え物として、霊験あらたかな尊いものであった。犬牲(イヌのいけにえ)によって清められたうつわを「器」といい、犬牲で清められた鼎形の器を「献」、神に供える酋(ふるざけ)にいけにえのイヌをそえて、神に祀り、神意にはかることを「猷」等々。これらだけでも、十分に、そのことは感じられる。
さすがに、国が変わり、さらに時代が大きく下るにつれて、本物の犬牲というものは見られなくなったが、イヌに対する考え方は、残ったようだ。
安産を祈願するに際して、「戌の日」というものが、冒頭で挙げた俗説と相俟って、広まっていったのではないだろか。
もう一つ、白川静。
「戌」は、もともとは、「茂」の音符である。言うまでもなく、「茂」は繁茂という言葉に代表されるように、盛んになる、豊かになる、さらには、すぐれるという意味も持つ。「戌の日」に安産を祈願するというのは、子供が多く恵まれますように、さらに、すぐれた子供に育ちますようにという願いも込められている、と言ったら、考えすぎであろうか。
さて、話は変わるが、奈良県奈良市に「帯解寺」という、いわくあり気な名のお寺がある。
今から千百年以上前、55代文徳天皇が皇后(藤原明子)との間に子供が生まれないのを悩み、祖神春日明神のお告げによって、雲松庵という小さなお寺にあった帯解子安地蔵菩薩に祈願された。すると間もなく懐妊、安産により後の清和天皇の誕生となった。
文徳天皇はお喜びのあまり、天安二(858)年、更に伽藍を建立し、寺号を改められ、帯(腹帯)が解けた寺、帯解寺と勅命されたという。
尚、江戸時代にも、将軍家において同じようなこともあり、益々、子宝を授かることへの願掛けの場として名が知られると同時に、安産祈願の寺ともなっていった。
現在、この帯解寺においては、安産の守護神として、イヌのぬいぐるみを作り販売しているという。帯解寺の由来には、何の関係もなさそうであるが、ここでもイヌが登場、利用されている。
ここまで書いていて気がついたのだが、この帯解寺は、もともとは、弘法大使の師勤繰大徳の開基とされ、文徳天皇の祈願されたという帯解子安地蔵菩薩も、やはり、弘法大使の作ともいわれている。実は、弘法大使とイヌとの縁は浅からぬものがあり、もしかしたら、その辺にも安産と「戌の日」との関係があるやも知れぬ。しかし、長くなるので、ここでは触れない。
さて、安産と「戌の日」でもう一つ。
これは、金沢特有の習慣らしいが、出産間近の「戌の日」に、親類縁者へ、「ころころ餅」なるお餅をお配りする。赤ちゃんが ころころと産まれ出てくるようにとの願いを込めての風習だそうだ。我が家も、長男の誕生の際も長女の時も、その習慣に則り、ころころ餅をお配りした。おかげさまで子供たちは元気に生まれ育ってくれている。「戌の日」の腹帯ところころ餅とのおかげであろうか。
最後に、身も蓋もない余談を二つ。
一つ。「戌の日」を機に利用する腹帯だが、母体と胎児とを守る効果があるということだが、このような習慣は西洋はもちろんのこと、東洋でも日本独自のもので、隣の韓国や中国にもないという。医学的な効能はともかく、やはり、祭祀的なものなのであろうか。
もう一つ。最近のイヌは必ずしも安産ばかりでもなくなったそうだ。愛玩用のイヌは、全体的に小型化し、母犬に比べて胎児の体重比が大きくなり、産みの苦しみが増すようになる。また、小型犬は室内飼いが一般的で、運動量も少なく、また、間食の機会も大きいので、基礎体力が弱く、太りがちのことも多い。
また、中・大型犬でも、以前のようにそこらを走り回るわけにいかず、やはり、小型犬同様、食事も人工的なものが主となり、基礎体力が弱く、難産が多くなっているという。
何とも早、「戌の日」の風習が薄れてくるのも当然である。
2005年12月18日 (日) 八田與一の歌、高峰譲吉の歌
この12月議会において、私は、「金沢の偉人から学ぶ」という項目で、谷口吉郎・吉生父子、柳宗悦・宗理父子、さらに、八田與一ととりあげ、金沢市の施策を質した。
私は、これまでも、何度も申し上げてきているが、人物を通して歴史を学ぶという観点は、大変、大切だと思っている。少なくとも、歴史教育の入口としては、最も好ましい姿勢だと思っている。これまで、私の拙いメルマガでも、「八田與一」、「谷口吉郎」、「高橋介州」、「高峰譲吉」、さらに、金沢市出身ではないが、お隣福井県の「佐久間勉」等々をとりあげてきた。
特に、「八田與一の旅」では、浜野弥四郎、磯永吉、廣井勇、中島力男等々を紹介させていただいた。近いうちに、新渡戸稲造、後藤新平についても、その人物に関心を持ってもらえるよう、できるだけ平易にまとめてみたいと思っている。さらに、何といっても、児玉源太郎で人物評は止めを刺すのではないかと思ってもいる。
さて、この議会の答弁で、八田與一に関して明らかにされた、来年秋に、ふるさと偉人館を会場に予定されている「八田與一特別展」。
実は、私たちが今年の八田與一の墓前祭に参列したのは、その特別展のために、烏山頭ダムを管理する水利会からお借りする資料の確認が、その大きな目的の一つであった。
ところが、「八田與一の旅その4」でも書いたように、台北日本人学校の子供たちとの思いがけない出会いが、想像もしていなかった八田與一顕彰へと繋がっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
八田與一のご長男、八田晃夫氏を中心とした、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行が、台北日本人学校を訪問し、烏山頭ダムへの修学旅行を秋に控えていた6年生の子供たちへ、晃夫氏が言葉をかけられたということは、既に、「八田與一の旅その4」で述べた。また、その後、子供たちはそれぞれ感想文を書き、それらを私たちに送ってくれたことも、やはり、「その4」の中で紹介させていただいている。
実は、さらに後日談があった。私は、つい先日、そのことを知った。
以下のような出来事があった。
八田晃夫氏の話を聞いてくれた、6年生。その担任の先生が、子供たちと話し合い、八田與一を顕彰する歌を作ることにした。そして、本当に彼らだけで作り上げてしまったのだという。次のようにして実現させた。
まず、6年生全員に詩を作ってもらい、先生が、その中から印象的な言葉を抽出し、詩を作り上げる。次いで、先生がその詩に曲をつけ、やはり、他の先生と一緒に編曲をして完成させた歌である。
このやり方は、実に、うまくできている。子供たちが、詩の中に共通して使うであろう、いわゆる「八田與一キーワード」といえるものがある。
「烏山頭ダム」、「嘉南大?(しゅう)」、「珊瑚潭」、「殉工碑」等々。多くの子供たちが、こういった言葉を使って詩を書いたはずだ。
子供たちは、自分の書いたあの言葉こそが、歌に使われたのだと感じ、その歌に強い愛着を持つようになる。本当に、自分の作った歌である。
「麗しき烏山頭〜八田與一賛歌〜」
(一番)
青く透き通る烏山頭
大きな夢抱きつつ
ふるさとへの思いを力に変えて
人々は輝きだした
苦しみを忘れ去るために
たった一つの希望のダム
世界一のダム
素晴らしき烏山頭
嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
あ〜嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
(二番)
伝説を語る珊瑚潭
守られ抜いたブロンズ
差別のない殉工碑優しさに満ち
人のために尽くす技
一生を尽くした男
日台の架け橋
嘉南大しゅうの父
ありがとうと心こめて
嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
あ〜嘉南大しゅう 嘉南たいしゅう
「その4」にも書いたが、台北日本人学校では、4年生で八田與一のことを学び、6年生の修学旅行では、八田與一が全精力を傾けて完成させた、烏山頭ダムを見学に行く。
今年11月18日、修学旅行で烏山頭ダムに訪れた6年生の子供たちは、八田與一の銅像と八田與一ご夫妻の墓前で、この「麗しき烏山頭〜八田與一賛歌〜」を合唱したという。
八田與一も外樹代夫人も、本当に驚かれたのではないだろうか。と同時に、お互い苦笑いをし、照れながら、顔を見合わせていたことであろう。
閑話休題。
私は、金沢の偉人のために、子供たちが顕彰する歌を作ったと聞いて、もう一人、思い起こす方がいる。
高峰譲吉である。
現在、旧高峰家の一部が、金沢市丸の内の「黒門前緑地」に移築復元されている。それは、明治5年、譲吉の父精一が建てた住居の一部で、書斎や茶室として利用された離れにあたるものである。当初梅本町(現大手町)に建てられたが、昭和39年に、この離れの部分だけが、湯涌町にあった「江戸村」に移築された。平成13年、緑地整備にあわせて、高峰家が住まいをしていたすぐ近くという理由で、現在の地に移築復元されることになった。
そのことを契機に、元々、高峰家があった地が、現在の味噌蔵町小学校校下にあったこともあり、平成13年当時の味噌蔵町小学校5、6年生の子供たちが、高峰譲吉を顕彰する歌を作っている。こちらは、作詞も作曲も、子供たちで行い、監修指導として、各々、先生方が名を連ねている。
高峰譲吉博士賛歌『高き峰めざして』
(一番)
科学のふしぎ 追いもとめ
あゆみ続けた その思い
今もぼくらの 心の中に
高き峰めざす 希望をうんだ
以下、三番まである。
毎年、高峰譲吉の誕生日である11月3日に、高峰譲吉が顕彰されている金沢市立ふるさと偉人館前庭にある、「高峰譲吉博士胸像」の前で、献花式が行われている。その際、代々、味噌蔵町小学校の子供たちによって、この歌が歌い継がれている。
また、高峰賞という、市内で特に理数科にすぐれた中学生に贈られる賞の授与式の際にも、歌われているそうだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私は、秋に予定されている「八田與一特別展」において、こんなことができればいいなと思っていることがある。
特別展のオープニングンセレモニー、もしくは、期間中のなんらかのイベントに際して、その会場と台北日本人学校とをインターネットで繋げ、その子供たちに、「麗しき烏山頭〜八田與一賛歌〜」を歌ってもらう。会場にいるすべての方たちに、台北日本人学校と八田與一との関わりを、さらには、その歌が作られた経緯などを説明してもらい、子供たちが歌う、その歌を、静かに聞いてもらう・・・。
もちろん、その映像が流れているディスプレイは、許文龍氏の奇美実業が作っている液晶パネルで作られたものである。・・とまでは言わない。
私は、これまでも、何度も申し上げてきているが、人物を通して歴史を学ぶという観点は、大変、大切だと思っている。少なくとも、歴史教育の入口としては、最も好ましい姿勢だと思っている。これまで、私の拙いメルマガでも、「八田與一」、「谷口吉郎」、「高橋介州」、「高峰譲吉」、さらに、金沢市出身ではないが、お隣福井県の「佐久間勉」等々をとりあげてきた。
特に、「八田與一の旅」では、浜野弥四郎、磯永吉、廣井勇、中島力男等々を紹介させていただいた。近いうちに、新渡戸稲造、後藤新平についても、その人物に関心を持ってもらえるよう、できるだけ平易にまとめてみたいと思っている。さらに、何といっても、児玉源太郎で人物評は止めを刺すのではないかと思ってもいる。
さて、この議会の答弁で、八田與一に関して明らかにされた、来年秋に、ふるさと偉人館を会場に予定されている「八田與一特別展」。
実は、私たちが今年の八田與一の墓前祭に参列したのは、その特別展のために、烏山頭ダムを管理する水利会からお借りする資料の確認が、その大きな目的の一つであった。
ところが、「八田與一の旅その4」でも書いたように、台北日本人学校の子供たちとの思いがけない出会いが、想像もしていなかった八田與一顕彰へと繋がっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
八田與一のご長男、八田晃夫氏を中心とした、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行が、台北日本人学校を訪問し、烏山頭ダムへの修学旅行を秋に控えていた6年生の子供たちへ、晃夫氏が言葉をかけられたということは、既に、「八田與一の旅その4」で述べた。また、その後、子供たちはそれぞれ感想文を書き、それらを私たちに送ってくれたことも、やはり、「その4」の中で紹介させていただいている。
実は、さらに後日談があった。私は、つい先日、そのことを知った。
以下のような出来事があった。
八田晃夫氏の話を聞いてくれた、6年生。その担任の先生が、子供たちと話し合い、八田與一を顕彰する歌を作ることにした。そして、本当に彼らだけで作り上げてしまったのだという。次のようにして実現させた。
まず、6年生全員に詩を作ってもらい、先生が、その中から印象的な言葉を抽出し、詩を作り上げる。次いで、先生がその詩に曲をつけ、やはり、他の先生と一緒に編曲をして完成させた歌である。
このやり方は、実に、うまくできている。子供たちが、詩の中に共通して使うであろう、いわゆる「八田與一キーワード」といえるものがある。
「烏山頭ダム」、「嘉南大?(しゅう)」、「珊瑚潭」、「殉工碑」等々。多くの子供たちが、こういった言葉を使って詩を書いたはずだ。
子供たちは、自分の書いたあの言葉こそが、歌に使われたのだと感じ、その歌に強い愛着を持つようになる。本当に、自分の作った歌である。
「麗しき烏山頭〜八田與一賛歌〜」
(一番)
青く透き通る烏山頭
大きな夢抱きつつ
ふるさとへの思いを力に変えて
人々は輝きだした
苦しみを忘れ去るために
たった一つの希望のダム
世界一のダム
素晴らしき烏山頭
嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
あ〜嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
(二番)
伝説を語る珊瑚潭
守られ抜いたブロンズ
差別のない殉工碑優しさに満ち
人のために尽くす技
一生を尽くした男
日台の架け橋
嘉南大しゅうの父
ありがとうと心こめて
嘉南大しゅう 嘉南大しゅう
あ〜嘉南大しゅう 嘉南たいしゅう
「その4」にも書いたが、台北日本人学校では、4年生で八田與一のことを学び、6年生の修学旅行では、八田與一が全精力を傾けて完成させた、烏山頭ダムを見学に行く。
今年11月18日、修学旅行で烏山頭ダムに訪れた6年生の子供たちは、八田與一の銅像と八田與一ご夫妻の墓前で、この「麗しき烏山頭〜八田與一賛歌〜」を合唱したという。
八田與一も外樹代夫人も、本当に驚かれたのではないだろうか。と同時に、お互い苦笑いをし、照れながら、顔を見合わせていたことであろう。
閑話休題。
私は、金沢の偉人のために、子供たちが顕彰する歌を作ったと聞いて、もう一人、思い起こす方がいる。
高峰譲吉である。
現在、旧高峰家の一部が、金沢市丸の内の「黒門前緑地」に移築復元されている。それは、明治5年、譲吉の父精一が建てた住居の一部で、書斎や茶室として利用された離れにあたるものである。当初梅本町(現大手町)に建てられたが、昭和39年に、この離れの部分だけが、湯涌町にあった「江戸村」に移築された。平成13年、緑地整備にあわせて、高峰家が住まいをしていたすぐ近くという理由で、現在の地に移築復元されることになった。
そのことを契機に、元々、高峰家があった地が、現在の味噌蔵町小学校校下にあったこともあり、平成13年当時の味噌蔵町小学校5、6年生の子供たちが、高峰譲吉を顕彰する歌を作っている。こちらは、作詞も作曲も、子供たちで行い、監修指導として、各々、先生方が名を連ねている。
高峰譲吉博士賛歌『高き峰めざして』
(一番)
科学のふしぎ 追いもとめ
あゆみ続けた その思い
今もぼくらの 心の中に
高き峰めざす 希望をうんだ
以下、三番まである。
毎年、高峰譲吉の誕生日である11月3日に、高峰譲吉が顕彰されている金沢市立ふるさと偉人館前庭にある、「高峰譲吉博士胸像」の前で、献花式が行われている。その際、代々、味噌蔵町小学校の子供たちによって、この歌が歌い継がれている。
また、高峰賞という、市内で特に理数科にすぐれた中学生に贈られる賞の授与式の際にも、歌われているそうだ。
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私は、秋に予定されている「八田與一特別展」において、こんなことができればいいなと思っていることがある。
特別展のオープニングンセレモニー、もしくは、期間中のなんらかのイベントに際して、その会場と台北日本人学校とをインターネットで繋げ、その子供たちに、「麗しき烏山頭〜八田與一賛歌〜」を歌ってもらう。会場にいるすべての方たちに、台北日本人学校と八田與一との関わりを、さらには、その歌が作られた経緯などを説明してもらい、子供たちが歌う、その歌を、静かに聞いてもらう・・・。
もちろん、その映像が流れているディスプレイは、許文龍氏の奇美実業が作っている液晶パネルで作られたものである。・・とまでは言わない。
2005年11月20日 (日) 「『反』政府系金融機関の再編」
あるテーマに関して、それなりに造詣の深い人なら大体は気付いてはいるが、あまり表沙汰にはならない、「本質的な事実」というものがある。しかも、そのテーマが盛んに議論されている最中であったとしても、何故か、状況は変わらない。ほとんど、詳らかにされることはない。報道各社の中にも、間違いなく、気になっている人はいるはずであろうが、匿名性の記事の中では何故か出てこない。
その一つとして、今まさにタイムリーな話題になっている、いわゆる政府系金融機関の再編について触れてみたい。
いわゆる政府系金融機関というものは、現在、8つあるという。小泉首相は、それらを1つに集約できないかと問題提起されているようだ。
このこと自体は、多くのマスコミで毎日のように報道されていることでもあるし、私も確たる意見を持ち合わせているわけでもないので、ここではこれ以上触れないが、一点だけ。
この議論の多くが、郵政民営化が構造改革の「入口」とされるのに対し、政府系金融機関の整理統合が、「出口」の改革の一つといわれているように、財政的な観点から、つまり国内的な問題としてのものばかりである。しかし、私は、なぜ外交的な観点から、別ないい方でいえば、国際社会における国益という観点から、もう少しこの問題が掘り下げられないのか、常々不思議に思い、不足を感じている。もっと具体的にはっきりいえば、その一つである、国際協力銀行の存在意義についての議論が、厳しくなされるべきではないだろうかと強く思っている。そうでなければ、政府系金融機関を幾つに再編しようが、国際協力銀行が、今のままの性格を有した状態では、日本の外交戦略という観点からは、全く意味がないのではないだろうか。
――――――
「1989年6月の天安門事件の直後、私たち外務省の人間が必死で中国へのODAの停止に取りかかっている最中、私たちの知らない間に大蔵省管轄の別の対中資金供与がどんどん進行していたのです。あの驚きと憤りは今も忘れられません」
これは、「日中再考」(古森義久著)に引用された、中国の日本大使館で働く外務省のベテラン中国専門官の言葉である。
「大蔵省(現財務省)管轄の対中資金供与」とは、その当時の、日本輸出入銀行(現国際協力銀行。以下、旧輸銀と書いていく)から出される資金供与のことである。
一般に、海外資金協力として、私たちがよく耳にするのは、いわゆるODAである。
これまでも、日本は中国に対して、合計3兆4234億ものODAを実施してきた。この金額はともかく、日本は中国にODAをしているという事実は、おそらくは多くの日本国民は知っているであろう。また、政府としても、曲がりなりにも対中外交の枠内で、ODAの推進を図ってきているはずである。
ところが、巨額の海外資金援助は、これだけではない。この他にも、政府系金融機関といわれる旧輸銀からは、政府の方針とは関係なく、対中援助が行われているのである。しかも、ODAとほぼ同額という大きなものである。
詳細な説明は割愛するが、旧輸銀は、2種類の対中国アンタイドローン(事業の受注を日本企業に限定しない融資)を行っている。一つは、「資源ローン」といわれるもので、これによって、中国は26の油田と炭田を開発できた。
もう一つは、「資金協力計画関連アンタイドローン」と呼ばれるものである。これがくせもの。
その一つに、現在、まさに日中間で問題になっている東シナ海ガス田開発がある。
旧輸銀は、上海沖の平湖から上海までのパイプライン建設に130億円もの融資をし、その工事は、既に完成してしまっている。中国政府はこの海域で合計20箇所以上の掘削を行う予定であり、そのどれもが採取した石油・ガスを平湖に集め、そこから上海へ運ぶ計画だという。その他にも、輸出基地開発のために、300億円も旧輸銀から資金供与されている。
つまり、中国は、日本の政府系金融機関である旧輸銀からの資金援助で、資源移送の基幹インフラを完成させたのである。
さて、先般、日本政府が帝国石油に天然ガス田開発試掘権を与えたことに対して、中国政府が、「これに対して強い懸念を表明する」(外交部の秦剛報道官)としたのも、彼らからすれば、当然のことなのであろう。もう既に、自分たちは、日本の政府系金融機関が融資してくれた資金で、そのガス田開発のインフラ整備に乗り出している。日本の政府系金融機関が、中国の権益であると認めてしまっているではないか、今さら、「石油ガス田の地下構造が日本側海域に続いている可能性が高いため、開発の即時中止と地質データの提供を改めて求める」(日本政府)なんていわれても、いいがかりに過ぎないのではないか。彼らの腹の中は、こんなところではないだろうか。
中国政府の強気の行動に、強力な担保を与えているのは、何と、旧輸銀という政府系金融機関なのである。
問題は、アンタイドローンということもあり、融資はしても、一切のモニターはせず、返済があればそれでよしとしている点である。しかも、この融資は、政府系金融機関という「名」とは別に、実際は、旧輸銀とその監督官庁である旧大蔵省(現財務省)により、政府の意思とは関係なく、別の表現でいえば、国会でなんらチェックされることもなく、粛々となされているものなのである。
さらに、「国際的援助」という名目のため、金利は異様に低く設定されている。
では、その融資される資金の元手はなにか。それは、ODAと同じ財政投融資、つまり郵便貯金や厚生年金という国民の金融資産なのである。詳細な数値は把握していないが、その「国民の金融資産」から旧輸銀へ貸し出される金利より、旧輸銀から中国にこのような形で出される金利の方が低いのではないだろうか。
何故、このような信じられないことが起きるのか。
それは、省あって国なしといわれる典型的な、旧大蔵省(財務省)の保身のためだけである。国際協力に関する、様々な人事と予算の権限を維持し続けるためだけである。それしか考えられない。
小泉首相が、構造改革の入口として、郵政民営化にこだわってきた、まさに最たる所以である。
政府系金融機関といわれながら、日本政府の方針と真っ向から対峙する行動をするという、この性格。この性格を温存したまま、幾つかに再編されたとしても、財政改革とは別に、もう一つの問題の本質は置き去りにされたままなのである。
普段はあまり注目されない政府系金融機関のあり方のテーマである。報道は、この事実を積極的に追求し、明らかなものにしていかなければならないのではないだろうか。
2005年08月16日 (火) 前田利貴とインドネシア独立
先般、石川インドネシア友好協会主催による、講演会に行ってきた。インドネシア総領事が金沢に来て講演していただけるということで、楽しみにしていた。期待通りの、私たち日本にいてはとても知り得ないお話を色々と聴かせていただいた。
講演の後の懇親会で、協会の方で、気を遣っていただき、挨拶の機会をいただいた。
私は、インドネシアと金沢との接点という観点から、先の大戦後、前田家末裔の前田利貴陸軍大尉が殉死された話を手短に述べてきた。ほんの数分、しかもざわめく会場ということもあり、どれだけ、正しく伝わったか分らなかった。ただ、その後、何人かの方から、もう少し詳しく聞かせて欲しいと言われ、私の知っている範囲のことを述べさせていただいた。
―――――
昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾。その宣言に基づき、敗戦国日本をターゲットにした戦争犯罪裁判が行われた。
ところで、一般に、A級戦犯及びBC級戦犯とよくいわれているが、私たち日本人は、それらを、被告とされた人物の階級を指した序列を表すものと思い込みがちであるが、決してそうではない。
ABCとは、日本より早くに準備された、ドイツのニュールンベルグ裁判における戦争犯罪の規定に由来している。
すなわち、大まかにいって、A項目「平和に対する罪」、B項目「戦争法規及び慣習の違反」、C項目「捕虜の虐待を含む人道に対する罪」、それぞれを表わすABCなのである。
よって、正確には、A級戦犯ではなく、A項目戦犯容疑者というべきであろう。ABCという順番が、階級好きの日本人の性向にあってか、いつの間にか、A級戦犯、BC級戦犯という誤解を招きがちな表記が一般化していった。
結果的には、A項目戦犯容疑者とは、指導的立場にある高位高官の人物が多く、BC項目戦犯容疑者とは、戦争の現場における直接の指揮者、責任者、執行者等の人物が多くなり、尚一層、その印象が強まってしまったようだ。
ちなみに、A項目の「平和に対する罪」なる概念は、この裁判のために急遽作り上げられた考え方である。しかしながら、言ってしまえば、戦争それ自体が、「平和に対する罪」そのものであり、そのような罪状名を作り上げてしまうと、それで全てが完結してしまう。裁判を行う意味をなさないのではないだろうか。
さらに言えば、日本を裁いた連合国側には、リアルタイムで北方四島と北海道を侵略中で、しかも、日本軍兵士数十万人をシベリアに抑留し、強制労働させている真っ最中であったソ連(現ロシア)までが裁判官として加わっていたことや、この後述べるが、日本の敗戦後すぐに、独立宣言をしたインドネシア占領に乗り出したイギリスなどに、「平和に対する罪」などと言って責められたのでは、全くもって、たまったものではない。
さて、BC級戦犯容疑者裁判である。
これらはアメリカ、イギリス、オーストラリアなど7カ国が主宰国となり、国内外の49の裁判所でほとんど非公開で行われた。5,700人が捕虜虐待や民間人殺戮などの戦争法規違反に問われ、920人が処刑されたという。
BC級戦犯裁判も、東京裁判同様に、首を傾げたくなる内容も多かった。元捕虜の証言などを手がかりに犯人捜しが行われたが、身に覚えのない容疑で逮捕され、処刑された「戦犯」も少なからずいたようである。また、イギリスやオーストラリア、オランダのように、日本軍の捕虜になった者を裁判官に選び、報復的な処置を前提にしたり、罪状調査、陳述などを省略するもの、通訳のつかなかったりしたものも多数あった。中には、法廷では本人に陳述の機会すら与えられないケースもあり、いきおい、感情的な判決も多かったと思われる。
さて、BC級戦犯裁判について書かれた書物をいくつか読んでみると、インドネシアに再侵略したオランダの軍事裁判が、もっとも粗暴であったと書かれたものが多い。
日本とオランダとの戦闘行動は僅か9日間に過ぎず、よって、捕虜や一般市民の受けた人的被害は、他の連合諸国に比べても、最も軽微なものであった。
それなのに、なぜ、戦犯に問われた数とその量刑とは、他とは比較にならないほど重酷なものであったのか。
その理由の一つとしてあげられるのは、オランダの「プライド」であろう。
オランダ本国が、既にヨーロッパ前線において、ドイツとの戦いに疲弊している間隙を縫って、インドネシアが日本に奪われてしまったという「怨み」。また、日本敗戦後も、オランダ自らインドネシアを奪い返したのではなく、イギリス軍が上陸し、日本の武装解除をしてから、オランダが譲り受けたという「屈辱」。
もう一つの大きな理由は、オランダが再びインドネシアに上陸した際の、インドネシア独立共和国との闘争、さらには、そのインドネシア独立に、日本兵が大きく力を貸していたという事実があげられる。
このテーマは長くなるので、ここではこれ以上触れないが、日本人として、是非知っておかなければいけない事実である。
それらを全て受けての、「前田利貴陸軍大尉」である。
―――――
インドネシアのティモール島クーパン収容所で行われた裁判において、昭和23年4月29日に、前田利貴陸軍大尉が死刑を宣告された。
前田利貴は、加賀藩主前田家の末裔で、正確に言うと、第13代藩主前田斉泰(なりやす)の玄孫(孫の子供)にあたる。彼の父親は華族でもあり、彼自身は、学習院高等科ら法政大学に入り、卒業後は、三井物産に勤めていた。馬術が得意で、幻の東京オリンピックの候補選手でもあった。
前田の罪状は、ティモール島及びサウ島で逮捕した捕虜に拷問を加え、死に至らしめたということである。
もちろん、それらは、前田の預かり知らぬことであり、むしろ、裁判においては、原住民特にサウ島民の多くが、「最後の公判の時まで、私の為に有利な証言をして呉れた」(『世紀の遺書』より。以下、引用は全て同書より)ことからも明らかなように、「サウ島警備隊長時代の至誠が天にも通じている」仕事ぶりであった。
これは、前田の毛並みの良さが、予め、オランダ当局に目をつけられていたことに起因する罪状であったようだ。本人も、これまでの処遇から、その点は充分覚悟していて、「今日あるを予期し前以て遺髪を送った次第」と認(したた)めている。
前田の育ちの良さ、教育の深さは、この遺書の中からでも自然、感じられてくる。
前田とともに処刑された、穴井秀雄兵長が、「昔の楽しかった思ひ出にふけると死ぬのがいやになる」と言うが、前田の場合は、「将来の希望を胸にうかべた時一番死ぬのが嫌になる」と述べている件からも、充分、彼の性向が窺うことができる。
やや長いが、前田の人格を端的に表わす部分を遺書から引用する。
「兄(前田の遺書は、弟妹に宛てたものである)が死の判決を割合に平然と受けることが出来たのは、之全く御両親の御教養の賜に外ならず、之を見ても我々の御両親は我々が知らぬ間に人間最大の修養をちやんとして居て下さつたのだ。(中略)今となつては其の高恩を何一つ御報いすることが出来ないのは慙愧に耐へない。故に皆は是非兄に代わつて御両親を大切に孝養を尽くしてください」
さて、前田に対してだけではなく、インドネシアに置ける日本人捕虜への虐待は、猖獗を極めたものであった。
捕虜たちは、犬や猫の物真似をさせられたり、夜中に、突然起こされ、コンクリートの上に二時間も座らせられて、罵詈雑言を浴びせられたり、日本人同士の殴り合いをさせられたり、床の上にばら撒いた飯粒を這いつくばって食べさせられたり等々、「彼らが我々のことを事件に取りあげている以上の虐待を重ねて」受け、捕虜たちは半死半生となった。
しかし、捕虜たちは、「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている次第です」と励ましあっていた。
そんな中でも、前田は最後まで誇りを失わなかった。死の前日に、残る捕虜たちに世話になったお礼の手紙を書き、「私の希望として検事に申し出たこと」として、次のように書いている。
「1.目かくしをせぬ事
2.手を縛らぬ事
3.国歌奉唱、陛下の万歳三唱
4.古武士の髪に香をたき込んだのに習い香水一ビン(之は死体を処理するものに対する私個人の心づかいであります)
5.遺書遺髪の送付
以上全部承認」
処刑前夜、前田は、ともに死ぬことになる穴井に対し、こまごまと注意を与えていたという。
「穴井君。左のポケットの上に白布で丸く縫いつけましたか」
「はい。明るいうちにつけておきました」
「白い丸が心臓のところにあたる。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら長く苦しむだけだからね。発つ時は、毛布を忘れないように持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えるといやな気がするからね」
翌朝早く、二人は書き置いたとおりの手順と態度で銃殺された。大きな声で歌も歌い、二人何か言葉を交わして、静かな笑い声をあげた直後、銃撃音が響いたという。
その時、昭和23年9月9日午前5時45分。
さすがの監視兵たちも、この歌声と笑い声の最期には、恐れと驚きを感じたらしい。あれほど続いていた収容所内での虐待が、その時以来、すっかりやんでしまったという。
「『我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!』と申し合わせ神に祈っている」
彼らの祈りは、神に通じたのである。
2005年06月28日 (火) 八田與一の旅その4
5月9日、台湾最後の日である。
八田與一の墓前祭に参列し、李登輝氏、許文龍氏といった八田與一に繋がる、素晴らしい出会いもいただいた。全てを終えたつもりでいた私たちに、この最終日に、さらに素晴らしい出会いの場があった。
急遽、台北日本人学校にお伺いすることになった。
台北日本人学校へは、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」台湾在住世話人の徳光信誠氏のご令嬢が通われている。
実は、この学校では、4年生の時に八田與一のことを学び、6年生の修学旅行では、烏山頭ダムにまで行き、八田與一の業績に直接触れてくるという。
徳光氏が、小学6年生のお嬢さんに、八田與一の墓前祭に日本から沢山の方が来られる、その中に、八田與一のご長男の晃夫氏ご夫妻もいらっしゃるという話をされたという。秋に烏山頭ダムへの修学旅行を控えていたお嬢さんが、そのことを、学校の先生に、何気なく話されたところ、先生の方から、ぜひ、お時間があれば、日本人学校にお立ち寄りいただきたいというお願いがあった。晃夫氏から、直接お話をお伺いし、子供たちに、より一層、八田與一に興味を持ってもらい、秋の修学旅行を、格段に実りあるものにしたいとの思いからであろう。
世話人の方たちで相談の上、私たちは急遽、日本人学校に寄らせていただくことになった。
私たちの乗ったバスが日本人学校に入ると、既に、先生方が迎えに来ておられた。
6年生の子供たちは、ピロティで私たちを出迎えてくれた。
長旅でお疲れの八田晃夫氏は車椅子で、子供たちの前に移動された。
マイクを持った晃夫氏はしっかりとした口調で、子供たちに向って話を始められた。
「私は烏山頭で生まれ、小学校は烏山頭小学校でした。その頃は、二学年ずつの合同授業でした。そこで、10年いました」
「私のふるさとは台湾です。台湾以外に、私のふるさとはありません」
「皆さんは、台湾と日本との架け橋になってください。これが、私からのお願いです」
ゆっくりとした口調ではあったが、一言一言、丁寧に話されていた。本当に、この子供たちに、台湾と日本との架け橋になって欲しいという強い思いの表れであろう。子供たちにも、十分伝わったはずだ。
ちなみに、この日の、まさに私たちがお伺いした時間は、数日後に行われる予定の運動会で、6年生が発表する原住民ダンスの練習をしている時間であった。その講師である、台湾原住民の林さんという、まだ、若い男性の方もその場に同席されていた。日本語が理解できるのかどうかは分らないが、理解できなかったとしても、後から、この出来事を聞き、何か感じてもらえれば嬉しい。また、子供たちにとっても、林さんとの関係でも、同じような思いを持ってもらえるのではないだろうか。
さて、金沢に帰ってから、子供たちが書いた感想文が掲載された学級通信を送っていただいた。子供たちの素直な気持ちが伝わってくるものであった。
金沢に戻って、もう一つ、いただいたものがある、それは、日本人学校の子供たちが授業で使っている、社会科副読本「みんなで学ぼう 台北台湾」のコピーである。
これは、実際に授業を行っている先生方がまとめられたものという。八田與一の偉業が、9ページにも渡って詳細に書かれていたことにも感銘を受けたが、何といっても、「はじめに」と題された巻頭言は、秀逸である。
最初に、大きな字で「台湾の良さをおもいきり知ろう!」
中ほどに、この副読本作成の最大の眼目が書かれている。
「この社会科副読本『みんなで学ぼう台北台湾』は、あなた方が、今以上に台湾を知り、台湾が好きになり、台湾が愛せるようになるために、先生方の力を結集して作り上げたものなのです」
日本の学校で使われている社会科副読本はもちろん、社会科の教科書でも、その観点で作られたものは、一体どれだけあるだろうか。
「日本を知り、日本が好きになり、日本が愛せるようになるために、先生方の力を結集して作り上げたもの」と、作成者が胸を張って言えるものが、どれくらいあるのか。
台湾の日本人学校は、日本の文部科学省とどのような関係にあるのか、また、先生方は、どのような資格をもってそのお立場に就かれるのかは、私はよくは知らない。しかし、教員を志すような高邁な精神をお持ちの方たちは、皆、本来は、ここに書かれているようなお気持ちに違いない。外国の地に行き、旧時代の残滓による呪縛から解き放たれた先生方の、子供たちに対する素直な思いが伝わってくる。
最後の締め括りは次のように書かれている。
「台湾のことを今以上に知り、台湾を愛せる皆さんになり、将来の日本と台湾の架け橋となれるような国際人に成長してくことを先生方は願っています」
「日本と台湾の架け橋」
李登輝氏、許文龍氏、そして、八田晃夫氏。今回の旅で、皆さんから何度も聞かせていただいたお言葉を、改めて、目にすることになった。まるで、お三方は、この副読本を読んでいたかのようである。
最後に。
今回の「八田與一の旅」での新たな収穫は、八田與一に勝るとも劣らないくらいの素晴らしい立派な「人物」が、他にもおられるということを知ったことである。
既に述べた、台湾下水道を整備し、八田與一に大きな影響を与えた浜野弥四郎。やはり、既に書いているが、現地に合った米の品種改良を重ね、蓬莱米という新品種を作った、農学博士磯永吉。
また、学生時代、気宇壮大な思いを口にする八田與一は、いつの間にか「八田屋の大風呂敷」と陰口をたたかれてもいたという。そんな時、「八田に内地は狭すぎる。内地にいれば、狭量な人間に疎んじられるようになる。八田を生かすには外地で仕事をさせるのが一番だ」として、24歳の八田與一に台湾へ進む道を開いてくれた、東京大学時代の恩師広井勇教授。この恩師がいなければ、「八田與一」はなかった。
烏山頭ダムというハードは完成したが、先に述べた蓬莱米を豊かに実らせるために、計画給水、計画生産に則った農業が必要である。
この指導を任されたのが、東京農業大学出身の中島力男技師である。100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りの経験はない。中島技師は、農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導した。さらに、ダムからの水を田畑に引くための水路作り、完成し張り巡らされた水路にどれくらいの水を放出するかの管理も農民たちに指導した。
ダムが完成し、台北に戻った八田與一も、時々、現地に来ては、中島技師を激励していたという。
八田與一が台湾を去り、水利課長となった中島技師の活躍と苦労は終戦間近まで続き、その後も台湾省の留用として1年余現地で指導にあたった。
その後、故郷大分県宇佐市に帰郷した中島技師は、地元の中学で教鞭をとられていた。しかし、ご本人の性格なのだろう、中島技師は、台湾での功績や苦労をほとんど語ることもなく、地元の人も中島技師がそのような活躍をしたこともほとんど知らなかったという。
しかし、台湾の人たちは中島技師の功績を忘れてはいなかった。
八田與一ご夫妻のお墓の横に、中島技師の生前墓が建てられ、現地の人たちは、八田與一と同じように感謝の気持ちを表している。
実は、中島技師は現在もご存命で、今から4年前に100歳を迎えられた時には、嘉南農田水利会の役員数名が宇佐市を訪れ、感謝状を送っている。その時の写真も水利会事務局に飾られてあった。
まだまだ、「人物」はいる。たくさんいる。
最後に、一点のみ付け加えたい。
忘れてはならないことは、浜野弥四郎にしても、八田與一にしても、中島力雄技師にしても、彼らの行った事業は、全て、日本政府の方針のもと、日本政府からの予算で行ったということである。もちろん、だからといって、彼らの偉大な業績及び人間性に、いささかの曇りももたらされるものではない。
台湾を領有した日本は、欧米列強から、果たして、日本に植民地経営ができるのかと疑いの目で見られていた。それだけに、日本は、莫大な予算と、優秀な人材を派遣して、慎重に台湾統治にあたった。
誤解を恐れずに言えば、当時の日本政府の方針が、浜野弥四郎や八田與一を生み出したのである。
余談。
「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」が台北で宿泊する時は、福華飯店(ハワードプラザホテル)と決まっている。理由がある。
今から10年ほど前、やはり、墓前祭に参列すべく、台湾に来ていた一行が、台北のあるホテルで宿泊していた。団体での行動であるため、バスを一台チャーターする。バスの前面には、『「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行様』というような案内が貼られる。ある早朝、中川外司世話人が、そのバスのところに行くと、一人の老人が、そのバス前面に書かれた案内をじっと見つめている。中川世話人に気付いた老人が、きれいな日本語で、「八田技師とは、八田與一先生のことですか」と聞いてきたという。
「私は、まだ10代の若い頃、烏山頭ダムの現場で働いていた。八田先生は既に雲の上のような人であったので、とても言葉を交わすことは出来なかったが、私たちの仕事を、いつもニコニコして見ていてくれた」
驚いたのは、中川世話人たちの方であろう。烏山頭ダム建設にあたり、八田與一と一緒に仕事をした方で、ご存命の方にお会いできるとは、夢にも思っていなかった。聞けば、その後、一念発起して、事業家に身を転じ、福華飯店を創業されたという。現在は、99歳というご高齢ということもあり、ご子息に、オーナーの座は譲られているという。今回、残念ながら、体調がすぐれず、私たち一行はお会いすることは出来なかった。
という事情があり、少なくとも、その方がご存命の間、私たちは、福華飯店に宿泊することになる。
次、本当に余談、蛇足。
実は、前出した徳光氏は、私の中学時代の同級生である。彼は現在、日本一の和風旅館加賀屋の台湾現地社員として、台湾加賀屋立ち上げのため、日夜奔走している。
さらに、水利会のこれからの通訳及び説明役は、だんだん、徐氏から、私の慶應の後輩になってくることであろう。
ますます、私は、「八田與一」から抜け出せなくなってくる。
2005年06月26日 (日) 八田與一の旅その3
5月8日、八田與一の命日である。
墓前祭の前に、隣接したホテルで、「追思八田技師音楽会」が開催された。
音楽会とはいうものの、関係者や来賓の紹介、挨拶等々だけで1時間。お客様や目上の方を大事にするお国柄を感じた。
昼食を挟んで、墓前祭は滞りなく行われた。八田與一の半生をテレビドラマ化するということもあってか、テレビカメラが、やたらと目に付いた。
――――――
その日、ダム近くのホテルに宿泊した私たちは、早めに起床し、1.2キロのダム堰堤の途中まで歩いた。ダムに貯められた水の中で泳いでいる方がいたのには、驚いた。聞くと、もちろん、遊泳は禁止であるという。のどかな光景である。
八田ご夫妻のお墓は、満面に水がたたえられたダムを見下ろすことができる小高い丘の上に作られ、そのすぐ横に、八田與一の銅像が置かれている。
銅像は、現地で働いていた方たちが、八田與一の功績をたたえ、製作を依頼し寄贈したものである。そして、この銅像は、日本と台湾との関係に翻弄されるかのように、数奇な運命をたどることになる。
終戦後、中華民国国民政府の蒋介石軍が、台湾に上陸し、台湾を統治することになった。
当然、日本人の銅像や碑は全て撤去された。八田與一の銅像も、同じ運命にあったと思われていたが、実は、水利会の方たちが、ずっと隠し守ってきたのである。
時代の流れを見、1975年、水利会は、政府に対し、銅像設置の許可を求めたが、不許可の通知。その後、1978年、再び、銅像設置の許可申請をしたが、その返事はずっと来なかった。政府としても、日本と正式に国交がない以上、許可を出せないまでも、不許可を出す理由までもないとして、黙認せざるを得なかったのであろう。その3年後の1981年1月1日、八田與一像は、台座をつけて元の場所に再び設置されることになった。こうして、烏山頭から持ち去られてから37年ぶりに「八田與一」は、温かい嘉南の人達の心に囲まれて、烏山頭ダムを見下ろし、現在に至っている。
朝食後、嘉南農田水利会顧問徐欣忠氏のご案内のもと、長い工事の間に亡くなられた方たちの霊を慰めるために作られた、「殉工碑」に向う。
徐氏は、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の世話人の方たちからすれば、まさに旧知の間で、私たちだけでなく、八田與一の話を聞きに来る、台湾、日本の方たちほとんど全ての、通訳及び説明役をされているという。
余談だが、徐氏の後継者として、私の後輩にあたる、慶応義塾への留学経験をもつ30代の若い方がおられたが、80歳近い徐氏には、まだまだ及ぶべくもないようだ。
徐氏は、殉工碑の前にきて、これまで以上に力を込めて、説明を始められた。
「八田先生が当時から、そして今でも、私たち台湾人に、心より尊敬されている、その最大の理由が、この殉工碑にあります。二つの点で、その偉大さが際立っていることがあります」
声震わせて、話される。
その一つは、碑に刻んである名前は、日本人、台湾人の分け隔てなく、全て、亡くなられた順番に書いてあるということである。しかも、工事中の事故だけでなく、病気で亡くなられた方たちの名前も同じである。
とかく、安直に「人権」なるものが吹聴される現代の価値観からすれば、さしたることではないかも知れない。しかし、当時、台湾は日本に統治されていたという事実を考えた場合、まさに、あり得ないことであったろう。その決断力、実行力。
もう一つは、工事の従業員だけでなく、その家族の名前までもが刻まれているということである。
八田與一は自分の家族を大事にしているのと同じように、従業員たちの家族も大事にしていた。そもそも、「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設した。
それ以外にも、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなどを行ったり、従業員だけでなく家族のことも頭に入れてのまちづくりを行っている。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想からであった。
家族があっての、現場の従業員であり、工事である。その家族が亡くなられるということは、大切な、従業員が亡くなることと同じである。その考え方のもと、殉工碑には、工事期間中に亡くなられた、従業員家族の名前も刻まれている。
工事期間中、八田與一にとって一番辛かったことは、随道内で発生した爆発事故であったであろう。
随道工事の最中に、石油ガスが噴出し、そのガスに火花が引火して爆発した。50名以上死亡するという大惨事となった。
その事故もあり、この殉工碑に刻まれている方のお名前は、134名にもなる。
また、この殉工碑には、八田與一の文章も刻まれている。
漢語調の、やや長めの文章であったが、徐氏は既に、何百回と口にしてきたのであろう。
「読み上げます」と言い、抑揚をつけながら、また、時には、途中で簡単な解説をつけ加えながら、既に暗誦しているであろう八田與一の書き上げた文章を読み、説明してくれた。その韻律に耳を傾けているだけで、徐氏及び台湾の方たちが、八田與一を心より崇拝しているお気持ちが伝わってくる。
その最後の方に、次の言葉がある。
「諸子の名も亦(また)不朽なるへし」
このダムの水によって、灌漑用水が流れている限り、皆さんの労苦は、忘れられることはない。
この一文を読むだけで、八田與一が、従業員の皆さんを思う気持ちが伝わってくる。また、その関係者も、この一文だけで、心震わされる思いをしたことであろう。
私は、殉工碑の前に立って、その文章を凝視し、言葉の力というものを、一人感じ入っていた。
2005年06月19日 (日) 八田與一の旅その2
20世紀アジア最大の政治家李登輝氏にお会いした後、空路、台南に入り、八田與一が作った烏山頭ダムを管理する嘉南農田水利会主催による晩餐会にご招待いただいた。
李登輝友の会全国総会長の黄崑虎氏、国策顧問の呉天素氏等々、通常ならとてもお会いできないような方たちとも、懇談の場をいただく。
このご縁も全て、八田與一の名声によるものである。なにより、彼らにとって、八田與一は神様のような存在であり、八田與一と郷里が同じというだけで、大変な歓待振りである。
実は、今回の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行に、八田與一のご長男の八田晃夫氏と奥様が、現在お住まいの名古屋市から合流されている。なおさらのこと、現地の方たちは、「ご一行様」として大切にしてくれたのであろう。
翌7日、午前中、台南市内にある水利会を表敬訪問。
私は、そこの資料室で、八田與一が残した様々な資料に目を通す機会をいただいた。改めて、紹介できる機会もあるかもしれない。
その後、ABS樹脂生産で世界一を誇る台湾の奇美実業グループ許文龍氏の会社が所有する、「奇美博物館別館」にお伺いする。残念ながら、本館の方は、工事中ということでお伺いできなかったが、別館だけで、その蒐集の品の良さは十分窺い知れる。
広大な台南サイエンスパーク内に点在する、奇美実業グループの社屋をバスで見て回った後、社員食堂で夕食。正面に用意された舞台には、バイオリンのケースと、何かを覆っているであろう黄色い生地がかけられた台座が一つ。
そこに、許文龍氏が静かに現れた。
食事の後、許氏は、舞台端にある、黄色い生地が掛かった台座の傍らに行き、その生地をめくりながら、静かな口調で話しを始められた。
その生地の中には、一人の日本人の胸像があった。
浜野弥四郎の胸像である。
日本の統治前、亜熱帯の台湾にはマラリアやペストなど様々な風土病が存在し、街頭にはゴミが堆積し汚水があふれていた。洪水があれば、汚水・汚物までをも含んだ水が街道を覆った。そのため、先の伝染病などが蔓延し、平均寿命は30歳前後であったといわれている。
日清戦争後、日本の統治領となった台湾。その民生局長となった後藤新平は、イギリス人衛生技師で当時東京帝大の講師であったウィリアム・バルトンを台湾に呼び、衛生土木監督に任命。バルトンは一番弟子の浜野弥四郎とともに、3年かけて台湾各地をまわり、上下水道の設計と水源地調査を行った。
バルトンは淡水と基隆の水道を完成させたところで、マラリアに感染し、東京に戻ったが、そのまま治癒することなく死去してしまった。そこで浜野がその事業を受け継ぎ、23年もの長い年月をかけて完成させた。
バルトンと浜野が建設した上下水道は鉄筋コンクリート製で、何と信じられないことに、本土の東京や名古屋に先んじて建設されている。これで台湾の衛生環境は一気に改善され、マラリアやペストなどの根絶の一翼を担った。
その浜野の後輩として、浜野の手伝いをしたのが、八田與一である。先にあげた新渡戸稲造もバルトンも、全ては、後藤新平から始まっている。後藤新平については、一度、しっかりと取り上げたい。
許氏は、台湾の下水道の歴史にバルトンの名は刻まれてはいるが、浜野弥四郎のことはほとんど触れられていないということに、以前から気になっておられたという。また、以前、台南県水上郷浄水場に建てられた浜野の銅像も、戦後の混乱の中、紛失してしまっているということを知り、浜野弥四郎の胸像を関係各方面に寄贈することを思い立ったという。尚、以前建てられていたという浜野の銅像には、「友人一同贈」と書かれていたが、許氏が色々と関係者に確認すると、どうやらそれは、八田與一からの寄贈であったという。そのことも、許氏が胸像寄贈を思い立った理由であった。
趣味とはいえ、相当な腕前の油絵をたしなむ許氏。「デッサンから彫刻までを、私一人で行いました。私の第一号彫刻作品です」。
一同、和やかな雰囲気に包まれた。
その後、許氏手製による歌集「懐かしき若き日の歌」が、私たちに配られた。日本の懐かしい童謡・唱歌が掲載されている。私たちのリクエストにあわせ、許氏が、何人かの社員さんたちとともに、時にはバイオリンをひき、また、時にはギターを爪弾きながら、一同、楽しいひとときを過ごした。
八田晃夫氏も大好きな軍艦マーチを歌われ、「私は海軍なので、ここのところの歌詞はこうだ」と、海軍式の歌詞も教えていただいた。
すべての演奏を終えると、八田晃夫氏は、許氏に抱きつき、「会いたかった。本当に会いたかった」と泣きながら叫んだ。許氏が、来年もまた来てくださいというと、晃夫氏は、「私はもう年だから、来られない」
傍らにおられた奥様が、静かに、来年もきますとおこたえになられた。
大変、印象的な光景であった。
八田與一のご子息である晃夫氏には及ばないまでも、心打たれ、涙しない者はいなかったのではないだろうか。
2005年05月19日 (木) 八田與一の旅その1
この連休に、台湾に行ってきた。「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の一員として、八田與一の墓前祭に参列するためである。また、八田與一に連なる、様々な出会いもあり、陳腐な表現になるが、「感動」という一言に尽きる旅であった。
金沢に戻り、一週間。すっかり落ち着いた中で、あっという間の4泊5日の「八田與一の旅」を、少し振り返ってみたい。
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5月5日の早朝に金沢を出て、台湾に到着。翌6日、台湾前総統の李登輝氏にお会いする機会をいただいた。
最初に、会を代表して中川外司世話人から、昨年末、李登輝氏が金沢に来られたことのお礼の言葉が述べられ、それを受ける形で、李登輝氏がご挨拶をされた。それは、挨拶というよりも、講演に近いものであった。八田與一及び金沢に対する想い、現在の日本、台湾のあり方、さらには、今後の台湾の進むべき方向性を、50分近い時間をかけて力強く語られた。
昨年末、金沢を訪れた印象を語られた言葉の中で、「金沢の雰囲気を知り、このまちが多くの偉大な人物を生んだ理由が良く分った。進歩の中に伝統を失わず、の精神があったからだ」と聞いた時は、さすがに、心を揺さぶられた。
少々解説がいるかもしれない。
李登輝氏は、これまでも、最も尊敬する日本人として、八田與一、西田幾多郎、鈴木大拙の三氏をあげられている。言うまでもなく、八田與一と鈴木大拙は金沢市生れであり、西田幾多郎は宇ノ気町出身ではあるが、李登輝氏からすれば、西田幾多郎も金沢の気風の中で出てきた人物である。実際、西田幾多郎は、金沢四高に学び、その後、教鞭をとられていたこともある。
それらを踏まえての、先の言葉である。この三氏ともに金沢の気風の中で生まれてきた偉人であり、その気風とは、「進歩の中に伝統を失わず」の精神であると、私たちの前で喝破された。それは、あたかも、私たちに、忘れてはならないと諭されているようでもあった。
さらに、日本であれ台湾であれ、これからの時代に大切な要素として三つあげられた。一つは、国の目標は何かをはっきりさせなければいけない、二つ目には、指導者(リーダー)が確固たる信念を持ちしっかりしなければいけない、三つ目には、自分とは何かというアイデンティティをしっかり持たなければならない。
特に、このアイデンティティという言葉を何度も使われていた。現在の、台湾の置かれている状況や、これから先の行く末を想い、深く期するところがあったのであろう。
西田哲学だけではなく、漱石の「私の個人主義」も引用されての力説であった。
「自分は誰かと問われて、自分の国の歴史や思想に誇りを持って答えられないようでは、アイデンティティは確立できない」
アイデンティティと並んで、何度も繰り返していたフレーズがある。
「私は私でない私」
西田幾多郎や鈴木大拙に心酔する、まさに、禅問答のような言葉である。
これは、私は次のように解釈した。
私という人間が存在するということは、それは、無垢な個人としての私なのではなく、これまでの生まれ育ってきた伝統や文化、風習等々を全て背負った私、つまり、先にあげた言葉にあるように、自分の地域や国という「公」を自覚した私なのである。その自覚のない「私」とは、無意味で空疎な存在に過ぎない。
李登輝氏は、私たち全員に、最新の著作である、「新時代台湾人」を配られた。いただいた著作は北京語版であったが、後日、日本語に翻訳したものをいただいた。まさに、台湾人としてのアイデンティティを明確にした著作である。
私は、質問の機会をいただいたので、再度、日本への訪問を要望すると同時に、新渡戸稲造の故郷岩手県への訪問について尋ねた。
あまり知られていないが、台湾と新渡戸稲造の縁は深い。
日清戦争後、日本の統治領となった台湾に、後藤新平が民政長官として就任。後藤は台湾財政確立のため、産業の振興を推進しなければならないと考え、郷里の後輩である新渡戸稲造を招集した。あの有名な「武士道」を著した翌年のことである。
新渡戸稲造は、それまでも、札幌農学校の教授として、農政学と植民論を担当し、「農業本論」等の大作もまとめていた。それらの実績が認められての大抜擢であった。
後藤新平の台湾統治論は「生物学的植民地論」とも言われる、これまでの欧米の植民政策とは、明確に一線を画するものであった。少々長いが、以下、後藤新平の言葉を引用する。
「社会の慣習とか制度とかいふものは、皆相当の理由があって、永い間の必要から生まれてきてゐるものだ。その理由を弁へずに無闇に未開国に文明国の制度を実施しようとするのは、文明の逆政(虐政)といふものだ。そういうことをしてはいかん。だから我輩は、台湾を統治するときに、先ずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ。これを理解せんで、日本内地の法政をいきなり台湾に輸入実施しようとする奴等は、比良目の目をいきなり鯛の目に取り替へようとする奴等で、本当の政治といふことのわからん奴等だ」
その最前線に立ったのが新渡戸稲造である。新渡戸稲造は、現地の自然環境を調査研究し、糖業の改良に目をつけた。
ハワイからのさとうきびの導入を通じて、幾多の品種改良を行い、また、搾糖機械の技術革新が図られ、製糖業の近代化を進めた。台湾製糖株式会社以下多くの大規模な製糖会社が次々と設立され、在来の零細企業の「糖」は、近代的な米糖産業と脱皮することになっていった。欧米型のモノカルチャー型生産ではなく、地域に根ざした産業として発展していった。
さらに、日本統治下の台湾は、この米糖経済を土台にして、工業化の時代を迎えることになるのであるが、そのことについては、長くなるのでここでは触れない。ただ、戦後の台湾の成長は、それらが基礎となったことは間違いないし、戦後間もなく、台湾経済が貧窮した時代、砂糖産業が最大の外貨獲得の手段であったということも、新渡戸稲造の功績と言っても過言ではない。
話は少し飛ぶが、米についても、日本人技師磯永吉博士により、精力的な品種改良努力が重ねられ、「蓬莱(ほうらい)米」として知られた新品種が作られた。この「蓬莱米」は品質と収量の両面で、当時の東アジアにおける画期的な水稲種であった。八田與一の作った烏山頭ダムによる、水利灌漑施設の拡充、これによる開田が相次ぎ、「蓬莱米」による、台湾の耕地面積が急拡大したことも付け加えておく。
さて、台湾には今でも、「ニトベカズラ」という花がある。現地の人が、台湾の気候風土を理解した上で、農業指導にあたった新渡戸稲造を慕ってつけた名である。
李登輝氏も昨年、「『武士道』解題」なる本を出版した。新渡戸稲造に対する思いは、格別なものがあるのであろう。
その、新渡戸稲造の故郷岩手県へも、ぜひ、李登輝氏に立ち寄ってもらいたいところである。
李登輝氏は、従前より、松尾芭蕉の「奥の細道」を歩いてみたいと公言されている。その「奥の細道」を歩いていく過程で、ぜひ、その地も立ち寄りたい旨述べられた。またその返答の際、俳句の「わび、さび」について触れられ、奥の細道を歩いた後、「さびの構造」についての著作をまとめたいと気宇壮大な思いも述べられた。
衰えることない知の欲求。驚くべき、「知の巨人」である。
2005年04月08日 (金) 高峰譲吉にみる日本人、金沢人
今年の2月、日本の製薬業界では第二位の三共と、同第六位の第一製薬の経営統合が発表された。報道によると、今年10月に持ち株会社が設立されるという。
ところが、最近のいくつかのビジネス誌を読んでいると、統合のメリットが見えにくく、実際、その後の双方の株価も低迷し、破談説さえ出ているという。
私は、どちらの株を持っているわけでもないし、経営統合そのものには、さして関心を持っているというわけではない。しかし、「三共」という社名を聞くと、全く無関心でいられない金沢人は、決して私一人だけではないであろう。
結論から言う。
あまり知られてはいないが、三共株式会社の初代社長は、金沢の誇るべき偉人、高峰譲吉その人であるからだ。
高峰譲吉については、「タカジアスターゼ」及び「アドレナリン」という名とともにあまりにも有名であるので、以下、あまり知られていないことを中心に、簡単に触れる。
―――――
譲吉は、1854年、ペリーの黒船来航の翌年、現在の富山県高岡市で、町医者高峰精一の長男として生まれた。翌年、父が加賀藩主前田斉康の御典医となったため、金沢市の堤町に移り、そこで育った。
譲吉にとって、大きな転機となったのは、11歳の夏に訪れた、藩派遣による長崎留学であろう。この長崎留学で譲吉は「世界」に対しての目が開かれたといえる。
留学生となった加賀藩の少年たちは、二三人ずつ別れて、それぞれ長崎在住の外国人家庭に預けられた。譲吉が寄宿したのは、英国商人オルトの居宅である。
ある日、オルトと譲吉との間で、地球儀を挟んで、次のような会話があった。
「ジョーキチ、英国も日本と変わらないくらい小さい。それなのに、英国は世界の富を手に入れている。同じように小さい国なのに、なぜ、英国と日本とはこれだけ違うと思うか」
「軍艦と大砲です」
「確かに、軍艦も大砲も今の日本にはない。英国との大きな違いだ。しかし、大切なのは、軍艦や大砲を作り出した『力』だ。その『力』を科学という。その『力』が今の日本にはない。あなたが、今長崎で勉強しているのは、将来、日本に新しい『力』を作り出すためなのだ」
その後、京都、大阪と留学を重ねた譲吉は、自分の将来を、高峰家代々続く医学ではなく、化学の道へ進もうと決心した。当然、両親は、猛反対である。
もちろん、譲吉自身も、医学に進むべきか化学に進むべきか大いに悩んでいた。両親が、これまで留学を許してくれていたのも、自分が医学の道に進むことを前提にした上でのことであるということも、十分承知している。
一方では、その留学先において、先にあげた、オルトとの会話もある。また、大阪で学んでいる時に、分析学の教授から、「化学とは、生命そのものを研究する学問です。生命を育てる学問です」と言われた言葉も脳裡から離れない。
さらに、譲吉が自分の将来の進路を決定する際に、大きな影響を与えたのは、加賀藩最大の難と言われた「安政の泣き一揆」である。
安政五年、凶作のため米不足で苦しんでいた町民たちが、金沢の街の北東にある卯辰山に登り、そこから金沢のまちなかに向かって、「ひもじいわいやぁ〜」「米くれぇ〜」と、二日間にわたり、涙ながらに訴えた。
当時、三歳に過ぎなかった譲吉ではあるが、父の背にしがみつきながらも、その光景を凝視した。松明を振りかざしながら、幽鬼のように泣き叫ぶ人々。その数2000名ともいわれる、善男善女の魂魄ともいえる姿。
父精一は、恐さに震えながら、背にしがみつく我が子に言った。
「医術の前に、貧富の差はない。おまえは大きゅうなったら、今夜のような人たちを救える医者になれ」
譲吉は、長崎でも京・大阪においても、あの山から泣き叫んでいた多くの人々をどうしたら救えるのか、そのことばかりを考えていた。医者は一人一人の人間しか救えない。どうしたら、2000人もの人を一度に救えるのか。
それは化学であるというのが、留学先において出した、譲吉の結論であった。
先を急ぐ。
その後、さらなる3年間の英国留学を終えた譲吉は、渋沢栄一や三井物産創始者の益田孝と協力し、1887年、日本で最初の人造肥料会社、東京人造肥料会社(現日産化学)を設立した。
それは、譲吉の心底には、あの「泣き一揆」で飢えに苦しむ人々を救う為に、科学者として、具体的な試みを行いたいという思いがあったに違いない。
益田孝の著作(「日本農界の恩人-早く燐素肥料に目をつけた高峰博士の卓見-」)の中にも、当時の譲吉の次のような言葉が残されている。
「日本の農業で一番大切なのは、燐素肥料を使用することである。そして、燐素肥料を安く売ることである。現在、大農主義だとか、機械を使用せよだとかいう事は、むしろ空論で、私としてはせめて現在の日本へ、燐素肥料を使用せよとのことを第一に叫びたい」
社会制度としての農業の近代化とは、一般的に、戦後の農地解放を指すが、作物を作り育て、豊富に収穫するという意味では、まさに、この事業を持って、農業の近代化の嚆矢といえるのではないだろうか。
さらに、譲吉は、その人造肥料のかたわら、工場の一隅に十畳ほどの小さな研究所を設け、これまで手がけてきた、麹、藍、紙といった研究を続けた。そこで譲吉は清酒醸造に不可欠な麹(こうじ)の改良を行い、発酵カが極めて高い元麹(もとこうじ)を創製。「高峰式元麹改良法」の特許を申請した。
余談ではあるが、あまり触れられることはないが、実は、譲吉の才覚優れた点は、この特許というものの重要性に一早く目をつけた点である。
これは、やはり、留学中に特許の重要性に気付いていたことと同時に、初代特許局長である高橋是清に請われて、特許局次長として実務に直接携わったことが大きく影響している。
このことが、これから後の米国移住に繋がり、ひいては、タカジアスターゼ、アドレナリンによる成功への道へと導かれるのである。
日本ではあまり、このことが触れられないのは、特許に目敏いというのは、何となく商魂逞しいイメージが強く、学者・偉人としては、必ずしもプラスの印象がしないからかもしれない。
また、譲吉死後、明らかにされた遺言状や各種資料などを見ると、彼は、特許だけなく、あらゆる資産に対して繊細な神経をもって接していたことがよく分る。確かに、よく知ると、少々、辟易する部分もあるが、それくらいでないと、この時代、海外で東洋人が成功することはできなかったのであろう。
とにかく、「高峰式元麹改良法」の特許が、イギリス、フランス、ベルギー、アメリカで行われたことによって、譲吉の成功に道が開かれていったことは間違いないのである。
この「高峰式元麹改良法」に目をつけたのは、アメリカのウイスキー業者、ウイスキー・トラスト社である。様々な経緯がありながらも、当然、アメリカでの特許を知り、早速、譲吉にアメリカヘの招聘を申し入れてきた。譲吉もそれを受け入れ、アメリカに移住することになるのだが、そこで一つの問題があった。
譲吉が中心になって創った、東京人造肥料会社のことである。譲吉は、早速、渋沢栄一、益田孝にその旨相談した。
渋沢は、この時のことを、後年、次のように述懐している。「私はその時に、大いに博士(高峰譲吉)に不平を言いました。(中略)この成功を見る前に去るということは、はなはだ信義を欠いた訳ではないかと申して、或は、抑留せむと欲したことがしばしばであります」
一方、益田孝は譲吉を支持した。「日本人の発明を、米国の会社が実用化しようなどという話は、未だかつてなかったことだ。」
それはそうであろう。これは、1890年の話である。日本が世界史の中において、ようやく認識されるのは、日清戦争(1894〜5年)勝利以降である。
しかし、どちらも、これからの日本の国際的地位向上という点では一致し、最後は、譲吉のアメリカ行きに、大いに賛意を示している。
結果として、譲吉のアメリカにおける、その事業そのものは失敗するのだが、その後、失意の中ではあったが、譲吉はウイスキー造りの経験からヒントを得て、モルトからデンプンを分解する酵素(ジアスターゼ)を取り出し、消化を助ける薬を作り出した。譲吉の取り出した消化酵素は「タカジアスターゼ」と命名された。「タカ」は高峰の「高」とよく誤解されるが、ギリシャ語の「最高」「優秀」という意味である。
1897年、デトロイトに本社をおくパーク・デービス製薬会社から、タカジアスターゼの全世界の「独占販売権」を買いたいとの申し出があり、譲吉は一つだけ条件をつけて申し出を受け入れた。その条件とは、「日本における販売権だけは除外して欲しい」というものであった。日本だけは日本の会社にまかせたいという強い思いからである。
そして、日本でこの薬を販売しようと決心したのが、横浜にいた21歳の塩原又策という若者である。
彼こそが、後に、友人と合わせて三人で「三共」という製薬会社を設立し、また、株式会社にするにあたり、初代社長として譲吉を招請することになる人物である。
タカジアスターゼを主成分とする「新三共胃腸薬」は、今に至るまで、三共の主力商品、否、日本の主要な胃腸薬である。
その後、副腎から生理活性物質の結晶化に成功してアドレナリンと命名したことは、あまりにも有名であるが、詳細は、ここでは述べない。
一つだけ。
譲吉の死後に、アメリカの化学者エイベルは、譲吉の研究は自分の盗作であると主張した。アドレナリン発表寸前に、譲吉がエイベルの研究室を訪問した事実を盾に取った主張であった。これは、譲吉がこのアドレナリンを発表後、速やかに米国特許に申請し、商標登録さえもした事が、米国学会に強い拒否反応を与えたとも言われている。
先に述べたように、譲吉は、学者ではあるが、特許の重要性を十分認識していた。その迅速な行動が誤解を生んだともいえる。しかし、この速やかな行為がなければ、アドレナリン発見は譲吉及びその助手で、共同研究者ともいえる上中啓三の功績とされなかったかもしれない。
幸い、その後の研究で、エイベルの方法ではアドレナリン作用を有する物質は結晶化することができなかったという点、また、上中啓三の実験記録ノートの記述により、エイベルの主張が誤りだった事が確実になっている。それにも拘わらず、米国では、現在でもエイベルの名付けた、「エピネフリン」が正式名として使われている。
そして、なんと信じられないことに、日本でも生物学の分野ではアドレナリンと呼んでいるのに対して、医薬品の正式名称を定める日本薬局方ではエピネフリンと呼んでいる。ヨーロッパでは、アドレナリンと呼ばれているのにである。
譲吉のみならず、当時の、海外で雄飛した日本人たちはみな草葉の陰で涙しているのではないか。
さて、私が今回、高峰譲吉を取り上げたのは、郷土の偉人たる世界的化学者としてだけではない。譲吉が、終始一貫してとってきた、自国を愛し、そのために最大限の努力を惜しまないという、この時代の典型的な日本人の一人としての行動を知り、深い感銘を覚えたからである。
以下、述べていく。
1904年、日本はロシアとの開戦を決意し、日露戦争が始まった。
日本は開戦当初から、アメリカによる早期講話を期待し、ハーバード大学時代に、ルーズベルト米大統領と親交のあった金子堅太郎を派遣することになった。
金子は、渋沢栄一からも高橋是清からも、アメリカに行ったら、真っ先に譲吉に会うように勧められた。金子も、藁にもすがる思いである。
譲吉は金子に、ロシアが独立戦争や南北戦争でアメリカを援助してくれたことから、米国民の8割はロシアに好意を持っていることを話し、難しい使命だと語った。しかし、祖国のために死力を尽くそうと誓い合った。
その3日後、つまり、日露戦争開戦の18日後である、1904年2月28日の「ニューヨーク・プレス」紙の日曜版が市民を驚かせた。
「日本における諸科学の驚くべき発達」と全段抜きの見出しのもとで、譲吉の寄稿記事が掲載されていた。そこでは日本人がいかに平和を愛しているかを説き、その証拠に明治維新後、わずか30余年で近代医学を発展させ、北里柴三郎による血清療法の発見という世界的な貢献をなした事を紹介していた。
このようなことができたのも、譲吉のアメリカにおける名声ゆえであった。
この後、譲吉は精力的に、講演で全米を飛び回った。日本と日本人を知ってもらうために、譲吉は、日露戦争が始まって以降、公式の場に出るときは、必ず、紋付袴という和服の礼装で通した。
和服の礼装の譲吉と、それに付き添う洋装のキャロライン夫人。二人の姿は、日本に関心のなかった一般のアメリカ市民まで魅きつけたことは想像に難くない。
譲吉が「無冠の大使」として称された所以である。
一方の金子堅太郎も、ハーバード大学での同窓ルーズベルト大統領に働きかけて、日本に有利な局面でロシアに講和を働きかけて貰うことに成功する。その際、ルーズベルトに日本を理解してもらう為に、新渡戸稲造の著作「武士道」を手渡したことはあまりにも有名な話である。
また、高橋是清の外債募集にも、譲吉が種を蒔いた親日世論が大きく寄与したであろうことも間違いはない。
こうした民間外交の重要性を経験した譲吉は、1905年3月、日本人相互の親睦と情報交換及び日米間の経済・文化の交流と相互理解の促進を目的として、自らが会長となってニューヨークに「日本クラブ」を作り、以後、日米間の相互理解と親善に力を尽くした。
また、譲吉は、アメリカ一般市民の理解を得ようと、ニューヨークに桜の木を贈ることにした。
そして1909年9月12日、桜の苗木2000本が日本郵船シアトル航路「加賀丸」によって無償で運ばれた。しかしこの苗は植物検疫で外来種の害虫や細菌が多く発見されて、全て焼却処分となってしまった。その3年後の1912年に改めて送られた桜の木がニューヨーク市のセントラル・パーク及びジョン・ロックフェラー所有のクレアモント・パークに植樹され、現在その地は、「サクラパーク」と名付けられ、ニューヨーク市民に愛されているという。
しかし、日露戦争後は日米両国の利害対立が目立ち、関係が悪化していった。
私も、これ以降の、郷土の大偉人高峰譲吉博士の心痛を慮ると、激しく胸が痛む。
譲吉は、民間大使としての役割による心労とともに、健康もすぐれず、静かにベッドに体を横たえることが多くなってきた。
「アメリカに渡って30年、せめて老後は日本の風景に抱かれて暮らしたい・・・・・」
そんな時、譲吉の静養先に、渋沢栄一が訪ねてきた。譲吉の心からの思いを耳にした渋沢は、涙を流しながら言った。
「(君が)大いに骨を折られた日米関係は、まだ、決して君の学問的事業の発展ほどには進んでおりませぬ。(中略)君がニューヨークにおられて、自ら日本の重きをなすことは幾許である。日本人にああいう人があるといえば、自ら日本に重みを与えるのである。(中略)望むところは、後10年アメリカにとどまられたいと希望する」
譲吉はただ黙って頷くしかなかった。そして主治医の止めるのも聞かず、「これが最後のご奉公になるかもしれない」とキャロライン夫人に言い残して、ワシントンに向かった。そして日本の使節団を米政府高官や政財界の有力者に紹介して回った。
ワシントン会議が始まって一ヶ月、譲吉は倒れて、そのまま意識を戻すことなく、1922年7月22日、68年の生涯を閉じた。譲吉の別荘地であるメリーウッド村では、全村あげて半旗が掲げられた。
最期の言葉は、「後10年・・・」であったという。
「後10年」で何がしたかったのか。何かやり残した研究があったのだろうか。日米の掛け橋のために、まだまだ、するべきことがあったのか。10年後には、日米の真の友好が実現する、そのためにも、渋沢との約束にあるように、自分は生きていなければならない・・・・。
ニューヨーク5番街にあるセント・パトリック教会での葬儀には、日米600名もの人々が集まった。教会に入りきらない人であったという。
墓地での埋葬の式の後、キャロライン夫人が日本人の会葬者たちに呼びかけた。
「ジョウキチが愛してやまなかった、日本の国歌で送ってやってください」
馥郁たる花におおわれた棺の中で、譲吉は、最後の「君が代」に包まれ、今でも墓地に眠っている。
―――――
冒頭で書いたように、高峰譲吉は、どうしても、「タカジアスターゼ」及び「アドレナリン」の印象が強い。そのため、日本における特許ビジネスの先駆者、肥料を通じての農業改革先導者、さらには、日露戦争講和の最大の功労者及びそれに繋がる民間大使としての側面等々が、あまりにも、知られていない。かく言う私も、今回色々調べて、初めて知ったこともたくさんあった。
特に、晩年、日米の掛け橋としての大いなる社会貢献は、もっと評価されて然るべきではないだろうか。
タカジアスターゼの日本販売だけは、日本人に任せる。日露戦争講和に向けて、日本を理解してもらうために、紋付袴で講演をしてあるく。日米の掛け橋として、日本クラブを設立する。ニューヨークに日本を象徴するサクラを寄付する。しかも、最初に、サクラをアメリカに運んできた船の名前が「加賀丸」。日本の将来の科学的発展のために、国民化学研究所(現理化学研究所)設立を提唱する。日本及び日本人の真の理解を深める為に、日本人の手による英文雑誌「オリエンタル・ビュー」の創刊。老後は日本でと思いながらも、あえて、日本のために、アメリカに残る。そして、最期、「君が代」に包まれながら、墓地に眠る。
私たちは、高峰譲吉から学ばなければならないことが、あまりにも多すぎる。
2005年04月02日 (土) 小学校6年生の作文
年度始めにあたり、さらに、大リーグ開幕にあたり、企業経営者の間でも有名になっている、ある小学校6年生の子供が、「僕の夢」と題して書いた作文を紹介したい。
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僕の夢は一流のプロ野球選手になることです。
そのためには中学、高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。活躍できるようになるためには練習が必要です。僕は3才の時から練習を始めています。3才から7才では半年くらいやっていましたが、3年生の時から今までは365日中360日は激しい練習をやっています。
だから、一週間中で友達と遊べる時間は5、6時間です。
そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球選手になると思います。そして、その球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズです。ドラフト一位で契約金は一億円以上が目標です。僕が自信のあるのは投手か打撃です。
去年の夏、僕たちは全国大会に行きました。そして、ほとんどの投手を見てきましたが自分が大会ナンバーワン選手と確信でき、打撃では県大会4試合のうちホームラン3本を打てました。そして、全体を通した打率は5割8分3厘でした。このように自分でも納得のいく成績でした。そして、僕たちは一年間負け知らずで野球ができました。だから、この調子でこれからもがんばります。そして、僕が一流の選手になって試合に出られるようになったら、お世話になった人に招待券を配って応援してもらうのも夢の一つです。
とにかく一番大きな夢は野球選手になることです。
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少年の夢は実現し、日本のプロ野球どころか大リーグにおいても、超一流のプレーヤーとなった。言うまでもなく、イチロー選手である。
この作文のどこがそんなにすごいのか。それは、大リーグでも大成功を治めているイチロー選手の書いたものであるということが、理由の一つであることは間違いあるまい。しかし、そのような皮相的な理由だけではない。当然、その作文の内容に大きな理由がある。
先ずもって、イチロー選手は、自分の目指すべきものを、「一流のプロ野球選手」として明確に、大目標を掲げている。
さらに、その大目標達成の為には、「中学、高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。」と中期的な目標までもはっきりと視野に入れ、その「活躍」の担保として、「練習が必要です。」と言い切っている。
小学校6年生で、ここまでの計画作成能力を極めた子がいるであろうか。
計画作成だけではない。この子は、自分がこれまで行ってきた事象を、客観的に数字で持って把握し、さらに、それらを全てを、自発的な意識の中でとらえている。「自分が大会ナンバーワン選手と確信でき」、「自分でも納得のいく成績でした」と、自発的・主体的な問題意識を完遂した達成感を、具体的に述べている。
マズローの欲求5段階説の「自己実現」に向って、まっしぐらという感じである。
私が、このイチロー選手の作文に舌を巻くのは、将来を展望しての目標を描き、それを実現するための計画を策定し、その実現に向って努力を積み重ねているということだけではない。
自分の大きな目標を達成することによって、「お世話になった人に招待券を配って応援してもらう」という社会貢献の姿勢までもが、この中において見られることである。なんという社会的知性、人間的理性であろうか。
教育の一つの理想形が、この作文の中に込められているといったら言い過ぎであろうか。
チチロー、恐るべし。
2005年03月17日 (木) 『蛍の光』と竹島問題
自動車で街中を走っていると、小中学校の正門に日の丸が掲げられ、卒業式の看板を見かけるような時期になった。私たちの年代は、卒業式と聞けば、「蛍の光」や「仰げば尊し」を思い出す。
話は飛ぶが、3月16日、島根県議会では、「竹島の日」制定の条例が可決された。
全く関係なさそうな、この二つの事象から、私は連想することがある。
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「蛍の光」は、言うまでもなく、1881年、スコットランド民謡に日本語の歌詞をつけて小学唱歌として発表されたものである。
一般的には、その二番までしか歌われることはないが、実は、三番と四番とがあることはあまり知られてはいない。
三番の歌詞は、こうである。
『筑紫(つくし)の極み 陸の奥(みちのおく)
海山遠く隔(へだ)つとも
その真心(まごころ)は隔てなく
ひとつに尽くせ国のため』
さらに続く四番。
『千島の奥も沖縄も
八州(やしま)のうちの守りなり
至らん国に勲(いさお)しく
努めよ我が背つつがなく』
三番で歌われている、「筑紫」は、要するに九州のことであろう。「陸の奥」は東北地方を指しているという理解で、間違いあるまい。記紀で言うところの日本の国土を表わしているということであろうか。
四番になると、帝国主義全盛時代に、近代国家に追いつこうと必死な形相の、新興国家日本の姿が透けて見える。
今から150年前の1855年、日本はロシアと通好条約を結び、ウルツプ島と北方四島との間に国境線を引いた。さらに、その20年後の1875年、樺太千島交換条約で、樺太をロシアに譲渡する代わりに、千島列島を日本のものにした。
一方、その4年後の1879年には、琉球藩が廃止され、沖縄として鹿児島県の一部とされ、日本に正式に組み込まれている。
その2年後の1881年に「蛍の光」が発表された。
それら全てを受けての、四番である。
北は千島列島から、南は沖縄までが、八州(やしま)、つまり日本の領土であり、各地で国の守りにつく兵士や役人との別れを惜しみ、立派な任務達成を祈る歌である。
ところが、日清、日露戦争を経た上で、「蛍の光」の四番の歌詞が次のように変更された事実を知ると、さすがに、考えさせられてしまう。
『台湾のはても 樺太も
八州(やしま)のうちの守りなり
至らん国に勲(いさお)しく
努めよ我が背つつがなく』
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いつの時代でも、その時代の価値観というものがあり、また、その当時の、国際法もしくはそれに準じる国際的慣習というものがある。それらを基にして、歴史というものが作られてくる。現在の価値観や国際法、国際的慣習で、歴史を判断しようとしても無理があるし、その試みは、たいていの場合、ある意図をもったものである。正しい歴史認識を、最初から放擲してしまっている。
さて、竹島問題については、本日の多くの新聞・テレビで報道されているので、ここでは詳細について触れることはしない。
一点のみ。
韓国の潘外交部長官は、「独島(韓国では、竹島をこう呼ぶ)問題は、領土と主権の問題であるため、韓日関係よりも上位の概念だ」としているが、それは、全くもって正しい。だからこそ、韓国は竹島に軍事力を誇示して占拠している。最大の問題は、日本が50年以上に渡って、この問題に何ら発言をしてこなかったことである。
明治の先人は、「蛍の光」の歌詞の中にまで、日本の領土のことを歌い、歴史的事実を伝えようとしている。
ここで、私が「歴史的事実」という表現を使うことに抵抗感を持つ方もいるかもしれない。軍事力で獲得した領土ではないか、平和裡に譲渡されたものではないではないか。その後、やはり軍事力によって、再度失うことになる。そのような経緯を、歴史的事実といって正当化してもよいのか、と。しかし、前述したように、当時は、帝国主義の世界潮流のただ中である。現在の価値観だけでは推し量ることはできない。冷静に考えなければならない。
閑話休題。
日本、韓国ともに一国主義的歴史観で、この問題を論じようとしても解決はつかない。
今回の島根県の条例が、正しい歴史的事実の議論の契機になることを望みたい。
2005年03月12日 (土) 議会質問を終えて−友引のお葬式番外−
いつもありがとうございます。
昨日、とりあえず、議会質問を終えました。今回は、ニッチ及び専門的なテーマが中心でしたが、たくさんの方から、ご意見ご助言をいただきました。本当にありがとうございます。それらご意見を、随所に原稿の中に入れさせていただきました。皆さんからいただいたご意見をもとに、これだけ原稿に手を入れたのは初めてというくらい、手を入れました。ただ、質問の時間調整がうまくいかず、途中から、相当な早口で話さざるを得なくなってしまい、反省しきりでした。
さて、取り急ぎ、一点のみ、今朝の新聞記事において、私の質問の主旨と違って取り上げられていたように感じられるものがありましたので、正確を期すために、ご報告させていただきます。
一部新聞で、私が金沢市の斎場の休業日が現在、毎週土・日となっているのを改めて、「友引」にすべきである、と述べたように書かれています。
私の質問原稿を、注意して読んでいただくとお分りいただけると思いますが、私は、そのようなことは提案していません。
確かに、友引に葬儀を避ける一般市民の感覚及び他都市の状況を、客観的な数値でもって提示してはいます。そして、個人的には、本市においても、そのことは無視できない課題ではないかという気もしています。しかし、質問原稿の中でも、はっきりと、『私は、行政が「友引」云々といった因習に拘泥する必要はないと思います』と書いていますし、本会議場でもそう述べました。あくまでも、『この施設の性格からいって、年末年始やお盆の時期はともかくとして、定期的な休日を、しかも土日にしっかりと、休業しなければならないという発想自体が、市民感覚からの著しい遊離を感じています』と問題提起し、毎週土・日に休みにしなければいけないものとしている現状の改善を求めたものです。
実は、「金沢市斎場条例施行規則」には、斎場の休業日として、質問原稿で書いてあるものの他に、『施設の管理運営上市長が別に定める日』という記述が見られます。私は、土日休業なんてふざけた項目は削り、ここで工夫すればよいと思っています。
いくつかの政令指定都市及び中核市では、同じような規定を設け、秋頃に、来年一年間の休業日を決め、発表しているところがいくつもあります。その中で、時には「友引」を入れたり、施設の検査・修繕の日が必要であるならば、事前に対応したりすることができます。何度も言いますが、施設の性格からいって、機械的に、土日を休業日とするのは、あまりにも役所仕事に過ぎます。
市長は答弁で、土日も平日も使用頻度は変わらない、とりあえずは対応できている旨述べられています。しかし、これは、利用者の立場というものが感じられないような気がします。市が対応できているのではなく、私たち市民は、斎場はそこしかないので、対応せざるを得ないだけです。他に選択肢はないのです。
普段は二つある斎場ですが、土日は、有無を言わせず一つ休業になりますので、平日と同じ頻度ということは、一つの斎場で対応すると、遅い場合は、夜に近い夕刻での火葬になります。ご遺族にとって、最後のお別れです。遠方のご親戚の方も、できるだけ最後までおられるでしょう。全てを終えるのは、既に、夜です。その方たちのことを少しは考えても良いのではないでしょうか。
質問原稿にも述べていますように、ちょっとした工夫でできることです。もちろん、どんなに良いことであっても、新たな財政負担が発生する場合は、慎重に対応しなければなりません。しかし、この場合、新たな財政負担や市職員の負担が増すわけでは、全くありません。私の論旨の説得力不足でしょうか。残念です。
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以前、新聞記者の方から、あなたの質問はちょっと難しすぎるという指摘を受けたことがあります。自分では、それなりの質問だと思っても、独り善がりになっていては何にもなりません。今回も、新聞記者の方に、十分ご理解いただけないような、原稿の言い回しであったと反省しています。構えずに聞いていただいて、自然にご理解いただけるような文章にしていかなければいけません。今後、気を付けます。
他にも、きちんとご報告しなければいけないものもありますが、取り急ぎ、新聞記事で誤解を招きかねない部分に関してご報告させていただきました。
繰り返しになりますが、たくさんの方からご意見、本当にありがとうございました。皆さんに助けていただいて、議会質問もできているということ再確認させていただきました。
2005年03月02日 (水) 友引のお葬式 その1
滋賀県の大津市において、昨年末に発行した2005年版職員手帳に、大安や仏滅などの「六曜」を記載。県内の人権団体や職員の一部から「人権啓発の主体である市として不適切」との指摘を受け、発行済みの約3,800冊の全面回収と焼却処分をした。
手帳は市の全職員に無償配布し、市民にも510円で販売している。以前は六曜が記載されていたが、やはり、人権団体の意向を受け入れ、1990年版から取りやめていたという。
以上の新聞報道が2月中旬頃になされた。
私は、二つの点で、気を惹かれた。
一つは、職員手帳なるものが、全職員に無償配布されているような自治体が存在しているということ、もう一つは、六曜が「人権啓発の主体である市として不適切」と決め付けられてしまっているということだ。
私が、「大津」と聞いて思い出すのは、中大兄皇子が白村江の戦いの後、都を近江大津京に移し、天智天皇として即位されたということくらいであろうか。たった5年間ではあるが、大津が日本の都、今でいう「首都」であった。ほとんど知られていない、本当の話である。
このテーマは、後日、整理したい。今日は触れない。
今回は、この報道記事を読んで、私が思い起こした金沢市のある行政サービスについて記述したい。
現在、金沢市に、斎場(一昔前までは、「火葬場」と言っていたようだが、今はそうは言わないのだろうか)は鳴和台の東斎場と西泉の南斎場と二つある。
この斎場は、金沢市民の方はもちろん、近隣自治体の多くの方々が、利用されている。
当然のことではあるが、人の寿命である。結婚式じゃあるまいし、事前に「お日柄」を選んでということは、医学的に可能であっても、倫理的にはそうはいかないであろう。
一般的にいって、お葬式は「友引」を避けるというのが、私たち日本人の小市民的感覚である。「友引」は、友を引っぱっていく、と安易な結び付けによるものであろうか。少なくとも、多くの方は、そのようなことに、こだわりは持たないまでも、自分が遺族という立場になった場合、一度は気にはかけることであろう。結果として、様々な事情により、友引であっても、葬儀を行うこともあるかもしれない。ただ、その場合であっても、最後の対面の際に、棺の中に紙でできた人形を入れることが多いという。その紙人形を身代わりに引っぱっていくということらしい。全くもって、非科学的なことではあるが、現実に、決して少なくはない例である。
さて、斎場。
斎場にも「休業日」というものがある。現在、金沢市にある二つの斎場は、1月1日はともに休みである。それは理解できる。その他、1月2,3日、8月15,16日、12月29,30,31日、及び、土・日曜日は、どちらか片方の斎場が休みとなる。これは、他の中核市及び政令指定都市、さらには近隣自治体と比べても、ダントツ抜群に多い休業日数である。二つ以上の斎場があり、土・日にどちらかが必ず休みなんていう施策をとっているのは、おそらくは、全国で金沢市だけであろう。少なくとも私が調べた、中核市、政令指定都市、近隣自治体には一つもなかった。金沢市民は、日にちを気にせずに、おちおち、息を引き取ることも許されない。とは、言い過ぎであろうか。
実は、平成7年まではそうではなかった。
1月1日は両施設とも休業というのは同じである。問題は、交互の休業日である。それまでは、日曜日、友引、1月2,3日、8月15,16日がそれであったが、平成7年からは、さらに、12月29,30,31日と、土曜日が加わった。その理由の主なものとして、「金沢市斎場条例施行規則の一部改正について」によると、「斎場職員の福利厚生および勤務条件を改善するため」と書かれている。ところが、斎場における業務は、専門技術も必要とされるものも多いため、そのほとんどが外部委託されているという。金沢市からは、退職職員の方が、各々斎場に2名いて、受付業務だけを担当されているという。その方たちの「福利厚生および勤務条件を改善するため」の改正といえる。
翌平成8年には、休業日から「友引」が削られている。その理由として、「友引にあたる日という表現が、過去の習慣、習俗によるもので、現代の生活習慣になじまない」としている。
しかし、本当にそうであろうか。確かに、友引をはじめとした六曜は、「過去の習慣、習俗」かもしれないが、「現代の生活習慣になじまない」ものとは一概に決めつけることはできないのではないか。
結婚式が行われるのは、土・日の「大安」なり「先勝」の日の方が、「仏滅」、「先負」よりも数も多いし、ホテル側も料金にしっかりと差異をつけている。民間のホテルが、「現代の生活習慣になじまない」ことをするとは思われない。そんなことをしたら、つぶれてしまう。
先に述べたように、葬式は友引の日をできれば避けたいというのが、一般的な市民感情であろう。
昨年10月から今年1月までの4ヶ月間に、金沢市の東・南斎場で行われた火葬の件数は、友引の日も含めて、その合計は平均して毎日ほぼ12件である。ところが、友引に行われた火葬の件数は、平均6件強である。友引以外の日の半分といえる。そのうち、友引ではあるが、土・日を除いたもの、つまり友引の平日の火葬は、さらに数が減り、平均4.7件となる。11月なんて、平日の友引に行われた火葬は、平均2.5件にしかすぎない。当然、友引の翌日の件数は、平均を大きく上回っている。
つまり、市民感情としては、友引に葬式をしたくないというのは、一般的なものといってもいいであろう。少なくとも、友引というものにこだわらないまでも、気にかけない人はほとんどいないと思われる。以上の数字が物語っている。
現在、中核市35市のうち、友引に斎場の休業日としているのは、22市ある。6割強。ちなみに、日曜日を休業日に入れているのは、やはり、35市中、金沢市と岡山市のみであり、休業日に土曜日なんて入れているのは、金沢市だけである。当然、土・日にどちらかを、しっかりと休ませているのは、本市のみである。
休業日の設定が、あまりにも役所仕事に過ぎるのではないだろうか
長くなったので、「友引」の扱いについては、改めて整理し、次回にお送りしたいと思うが、まずは、金沢市斎場のあり方については、もう一度議論が必要であることは、間違いないであろう。
2005年02月16日 (水) 八田與一がテレビドラマに
台湾の著名な番組プロデューサーである陳銘城氏は、2月6日、米国ダラスでの講演で、「嘉南大?の父」と呼ばれる日本人技師、八田與一氏を描く連続テレビドラマを作る意向を表明した。
陳氏の話によれば、ドラマは嘉南大?や烏山頭ダムを建設する八田氏と外代樹夫人の物語になるという。
「日本の植民地統治は経済利益を追求しただけではなく、台湾の近代化を促進した。八田夫妻はその象徴」。「台湾各地では多くの人々が黙々と台湾のために貢献してきた」と語る陳氏。「このような物語をどんどん紹介し、台湾意識の宣揚に役立てたい」との抱負を述べられた。
撮影は日本のテレビ局との協力で、4月に開始される。日本のスター俳優も起用の予定で、将来は日本でも放映の見込みという。なぜ、日本で、八田與一氏のドラマ化という声が上がらないのか。
ヨン様もいいが、台湾のドラマも楽しみにしたい。
2005年02月06日 (日) 日本語によるカウントダウンの不思議
今から4〜5年程前、新聞の文化欄を読んでいて、フッと疑問に思ったことがあった。確か、その記事は、日本語について書かれたものであったような気がするが、思いついたことは、その内容とは全く関係ないことであった。
私たちは、普通、数字を数え上げていくときには、「いち、にー、さん、しー、ごー、ろく、しち、はち、くー、じゅう」と発音する。ほとんどの人はそうであろう。
ところが、逆に数えるとき、つまりカウントダウンのときは、多くの方は、「じゅう、くー、はち、なな、ろく、ごー、よん、さん、にー、いち」と発音するのではないだろうか。ここで、「しち」「しー」という人は、まずいない。
つまり、数字を数え上げる場合は、ほとんどの方は、全ての数字を「音読み」で発音するのに、数え下げる(なんて言わないか。「カウントダウン」の方が、馴染んだ言い方かもしれない。)の時は、なぜか、「4」と「7」だけは、いきなり、「訓読み」になってしまう。なぜだろう。不思議だ。
と言っても、根が怠惰な私であるので、そのままほっておいた。ただ、ある時、図書館で議会質問の調べものをしているとき、やはり、そのことをフッと思いつき、半日かけて様々な資料を調べまくった。その後、インターネット利用して色々と調べたが、いずれも、確信を持てる「解答」にまでは至らなかった。また、そのまま3年くらい経過。
ところが、つい先日、井上ひさしの著作「にほん語観察ノート」を読んでいると、まさに、それそのものの「解答」が載っていた。以下、引用する。
『筆者の(あまり当てにならない)理論ではこうなります。
「わたしたちはふだんの生活の中で数え上げることをよくする。そこで、『しー』『しち』という漢語風の言い方に慣れている。ところが数え下げるのは稀で、慣れていない。そこで『なな』『よん』という大和言葉風な生地が現れるのだ」』
天下の大先生ではあるが、一時期、色々調べた私には納得できない「解答」であった。「数え下げるのは稀で、慣れていない」のなら、なぜ、「7」と「4」だけ、「大和言葉風な生地が現れる」のか。「10、9、8」くらいまでは、緊張感を持って数え下げているので、数え上げる場合と同じ音読み(漢語風の言い方)をするというのは、理解できる。では、なぜ「7」で大和言葉風な生地が現れ、「6、5」で、漢語風の言い方に戻ってしまうのか。しかも、「4」で、再び、大和風・・・。
失礼ながら、大先生の「(あまり当てにならない)」が正しいような気がする。
私の結論。
「7」の「しち」という発音は、「1」の「いち」という発音と紛らわしいということが原因ではないだろうか。「しち」と「いち」とを混同しないために、意図して、「7」を「なな」と発音することは、日常生活でもよくあることである。特に、電話で会話をしている場合は、「午後しち時」というと、「いち時」と聞き間違えることもあるので、わざと、「午後なな時」ということも決して少なくはない。あわせて、「しち」の最初の発音である「し」と、「4」を意味する「しー」とも、混同しかねない。だから、「よん」と発音することも、やはり、少なくはない。
実際、数え上げる際も、「いち、にー、さん、よん、ごー、ろく、なな、はち、くー、じゅう」と言っても、さして、違和感を持たなくなっている。それは、前述したように、日常生活の中で、音読みの「1」と「7」、さらには、「7」と「4」との明確な区別のために、音読み、訓読みを入り組ませて発音するということに慣れてしまっているからであろう。
私は、そのことは、日本語の乱れとは感じない。
これまでも、私は一連の「文化としての日本語シリーズ」で、何度も書いてきているように、私たちの祖先は、漢字という圧倒的な先進文化の中に呑み込まれることなく、わが国語の中に漢字を取り入れる工夫をして、漢字仮名交じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。
また、「仮名」と並んで、わが国の言葉を豊潤なものにしたものとして、「訓読み」の発明があげられる。そのことによって、漢字の持つ表意性をそのまま日本語に反映させることができた。
さらに、ここにまた、上手く、音読みと訓読み、井上ひさし式に言えば、漢語風と大和言葉風とを組み合わせ、数え下げ(カウントダウン)という、比較的新しい試みを、日本語で表わそうとしているのである。
そもそも、カウントダウンを意味する適切な日本語が思い浮かばないというのは、そのようなことは、日本には、これまでなじみのない習慣なのであろう。新しい文化(?)を表わす、新しい日本語の発音の方程式、新しい試みがなされるということは、当然のことである。そのような作業が、日本語を豊潤(芳醇)にしていくのであろう。
※年末のカウントダウンという時機は逸しているのだが、今年の年末まで待っても、自信を持った内容になりそうにない話題。それに何と言っても、ここらでメルマガを一つ出さないと、2月中での月2回メルマガ目標がしんどい。
2005年01月29日 (土) 『ハインリッヒの法則』にみる回転ドア事故
今月26日、昨年3月に起きた、六本木ヒルズで、6歳の男の子が亡くなった回転ドア事故に関して、六本木ヒルズを運営する森ビルの幹部らが書類送検された。
六本木ヒルズは、2003年4月のオープン直後から、回転ドアでの事故が多発し、昨年3月の死亡事故までの一年の間に、報告されただけでも32件もの事故があったという。十分、今回の事故が予見されたにもかかわらず、安全な対策をとらなかったというのが、嫌疑とされている。
特に、2003年12月には、6歳の女の子が頭と右ひざをドアに挟まれ、警備員らが助け出そうとしてもドアが動かず、4分後にようやく救出された。その時には、女の子の黒のタートルネックは血まみれになり、すぐに、救急車で病院へ搬送されたが、右耳の後ろを11針も縫ったという。既に軽傷なんていうものではない、大事故が起きていたのだ。
現在、六本木ヒルズでは、ほとんどの回転ドアは撤去もしくは使用が停止されているという。当然のことである。
国土交通省と経済産業省も、専門家らによる検討会を設置し、再発防止のためのガイドライン(指針)を作成したようである。
昨年3月にこの死亡事故が起きる前までの1年の間に、32件の事故が報告されていたということを聞いて、私を含めて、労働災害で有名な「ハインリッヒの法則」を思い出された方も多かったようだ。実際、ある報道でも、そのことが触れられていた。
―――――
「ハインリッヒの法則」とは。
「1:29:300の法則」とも呼ばれている。米国のハインリッヒ氏が、労働災害の発生確率を分析したもので、保険会社の経営に役立てられている。それによると1件の重大災害の裏には、29件のかすり傷程度の軽災害があり、その裏にはケガはないがヒヤリ、ハッとした300件の体験があるというものである。日本では、ハインリッヒを文字って、「ヒヤリ・ハット」の法則ともいわれている。
同じように、ビジネスにおける失敗発生率としても活用されており、例えば1件の大失敗の裏には、29件の顧客から寄せられたクレーム、苦情で明らかになった失敗がある。さらにその裏には、300件の、社員が「しまった」と思っているが、外部の苦情がないため見逃しているケース、つまり認識された潜在的失敗が必ず存在するといえる。
一言でいえば、小さな失敗なら、上手く隠すこともできる。しかし、その原因を根治しないと、後々300倍の痛手になって返ってくるというものだ。
具体例をあげる。
職場の隅っこに、紙くずが落ちている。社内の整理整頓がなされていない。社内で挨拶をしても、生返事しかしない社員がいる。家庭で、いつも置いてあるはずの所に、新聞が置かれていない。そんなことは、大したことではない。会社がつぶれることもないし、家庭内に何の影響もない。しかし、そのようなことが、改善されることなく積み重なっていくと、トラブルが表に出てくる。
お客様の所に、間違った商品、連絡が行ってしまう。社内で、ちょっとしたことから、言い争いがおきてしまう。新聞を読もうと思った夫が、すぐに見つけられず、家族に不満をぶつける。それらに対して、根本的な改善策ではなく、当座の対処療法しか施さない。
すると、今度は、信頼関係を構築できなくなった、大切なお客様から契約を打ち切られる。優秀な社員が会社を辞めてしまう。会社の危機。夫婦、親子内で修復できない状態になってしまう。離婚。家出。
―――――
ハインリッヒという人は、労働災害の専門家である。労務を管理し、データを分析する方であり、される側の人間ではない。ハインリッヒの法則をビジネスの観点からいえば、それは、サービスを供給する側からの法則であり、受け取る側のものではない。それはそうであろう。CS(顧客満足)なんていわれ出したのは、1980年代くらいからであろうか。
おもしろい数値がある。「サービス・マネジメント」という、マーケティングについて書かれた本からの引用である。顧客の側からみた、「ハインリッヒの法則」といえようか。
『ある提供されたサービスに対して不満を持った顧客の96%は、その企業に対して何も言わない。一般にクレームが1件あると、問題を抱えた顧客が他にも24人存在することになり、そのうち6件は深刻な問題である』
つまり、1:29:300の法則における29のクレームは、不満をもった顧客のうち、わずか4%が発するクレームにしか過ぎないということだ。29件のクレームが発せられたとするなら、実は、不満をもった顧客は単純計算で725人いるということになる。
なるほど、顧客としての自分を振り返ると納得ができる。
あるレストランで食事をする。味なり価格なりサービスなりに対して、そのレストランに不満をもつことはよくある。私を含めてほとんどの人は、よほどのことがない限り、直接クレームをつけることはしない。二度と、その店に行かないだけである。96%だ。
こういう趣旨の記述もある。
『企業とのビジネスに問題があると感じた顧客は、平均9〜10人にその事実について話す。特にその13%は、20人以上にも話をする』
その数値はともかく、確かに、そのレストランの話になれば、厳しい意見を吐いてしまうであろう。
『苦情を訴えた顧客の54〜70%は、問題が解決されれば再びその企業とビジネスをしようとする。特に問題が速やかに解決されたと顧客が感じるときには、その数字は95%にまで上昇する』
私は、まず、クレームをつけない方だが、仮にクレームをつける4%に入った場合、先方が速やかに対応していただければ、逆に、責任を感じて、再度そのレストランに足を運ぶことになるであろう。
本来の、ハインリッヒの法則が表わす通り、重大な失敗を回避することに留意することが一番大切であることはいうまでもない。しかし、万が一、そのような状況に陥ってしまった場合は、とにかく、スピード感を持って対応することが、非常に重要なポイントになってくる。
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森ビルほどの大会社の労務担当者が、「ハインリッヒの法則」を知らないはずはない。しかしながら、32件という事故の報告を受けても、小さな女の子が、血まみれの事故にあったということを聞いても、取り返しのつかない事故、事件に繋がりかねないというところにまでは、思いは至らなかったようである。
私は、私の長男と同い年である男の子が犠牲になった、今回の六本木ヒルズでの事故を報道で知って、とても穏やかではいられなかった。胸が引き裂かれるような思いであった。
その子の葬儀の際、祭壇には、ピースサインをした笑顔の遺影と、4月から使うはずだった真新しいランドセル、好きだった絵本、幼稚園の修了証などが並べられたという。
この年齢の子がいる家庭ならどこでも、この時期には小学校入学の準備は万端に整えているはずである。
ランドセルのほかにも、制服、ズック、文房具等々、その他、数多くの夢、希望。
ご両親は、一生、それらを大切に守っていかれることであろう。
2005年01月15日 (土) 強制換羽
今年は酉年。「トリ」にちなんだ、話題を一つ。
本当は、新年早々に、お送りしたかったのだが、どうしても、落し所がしっくりこなかったので、なかなか発信できなかった。実は、これまでも、同じような理由で躊躇し、結局、時機を逸して、出さずじまいのメルマガも数多くあった。
今年のメルマガのささやかな思いとして、できるだけ、月二回発信を目途にできればと考えている。しっくりこない落し所も含めて、お送りしてしまう。
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「強制換羽(きょうせいかんう)」という言葉がある。
卵からひよこが孵り、やがて、成長した鶏たちは新鮮な卵を産むようになる。若い鶏たちは、栄養価の高い、日本人好みの卵を産む(ように管理されている)が、初産から、10ヶ月後くらいから、卵質が低下した卵が増えてくるという。
養鶏業者はどうするのか。
その鶏たちに餌を与えないようにするという。人間でいう、断食である。しかも、当たり前のことだが、鶏の意思は関係ない。強制的に、断食させられる。
鶏たちの本能が働く。生きていくために、少しでも無駄なエネルギーは消費しない。当然、卵は産まなくなる。羽も少しずつ落ちてくる。そんなところに栄養をまわす余裕はない。この段階で、弱い鶏の中には、死んでしまうものもあるという。
養鶏業者もプロである。ある段階にきたら(体重の25〜30%減少が目途だという)、再び餌を与えだす。鶏たちも、必死に喰らいつき、少しずつ元気になってくる。古い羽から新しい羽に、すっかり生えかわり、再び、卵を産むようになる。この時の卵は、最初のものと変わらないくらい、栄養価の高い卵であるという。
これを「強制換羽」という。
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大変、含みのある話だと思う。(鶏たちにとっては、迷惑この上ない話だが。)
以下、しっくりこなかった落し所を二つ。
その一。
人間誰しも、失敗や挫折はある。
受験での失敗。スポーツ等での苦い敗戦。社会人になってからの仕事上、もしくは、人間関係での、大きな挫折。私の職業でいえば、選挙での落選、等々。
そんな時であっても、実は、それは、社会から、天から、市民から与えられた、「強制換羽」の機会なのである。
その苦境は、鶏たち同様、自ら望んだものではない。しかしながら、自らの責任であるという点においては、鶏たちとは全く違う。大切なことは、その間、悪態をついたり、現実から逃避してしまったりといった、無駄なことに時間や気持ちを費やすのではなく、ひたすら、次に必ず訪れるであろうチャンスのために、新たなエネルギーを蓄積する。たとえ、ささやかなものであったとしても、好機がきたならば、それを、しっかりととらまえて、活かしていく。苦しい「断食」の際に、しっかりと蓄えてきたものが基になって、以前同様、否、それ以上の素晴らしい成果を生み出していけるように。
・・・・・・。
その二。
現在、自分は、誰にも負けないだけの努力をしてきているし、実績も残している。スポーツ、勉強、仕事、さらには、様々な人間関係等々。
自分がこの立場を抜けてしまうと、きっと、この組織は立ち行かなくなる。間違いなく、このチームは弱くなってしまう。売上は大きく落ち込んでしまう。上手く回転していたものが、滞ってしまう。だから、自分は、絶対に引くわけにはいかない、と一人、思い込んでしまっていることが、決して少なくはない。
ところが、実は、その自分の思い込みとは相反して、必ずしもそうとは言い切れない場合も、やはり少なくはない。
むしろ、そうこうしているうちに、だんだん、「卵質が低下した卵」が増えてくることに気付かなくなってしまう。裸の王様。
最近の大きな経済界の話題で言えば、ダイエーの中内氏や西武の堤氏などがあげられる。ちょっと前の、ヤオハンの和田氏もそうだ。NHKの海老沢会長もそうか。
どこかの段階で、大所高所から、強制換羽の機会が与えられることが必要かもしれない。そのことが、次なる、大きな飛躍に繋がる。
「経営の神様」といわれた、松下幸之助は、生まれつき身体が弱く、会社の規模が大きくなるにつれて、仕事を人に任せざるを得なかったという。そのことから、事業部制をひき、多くの仕事とそれらに伴った責任と権限とを、委譲していったという。生来の病弱さが、「強制換羽」の機会になったといえる。
ホンダの本田宗一郎には藤沢武夫が、ソニーの盛田昭夫には井深大が、それぞれ、「強制換羽」の役割を果たしていたのかもしれない。
本田宗一郎は、退任が決まった後のある会合で、藤沢にいった。
「まあまあだな」
「そうまあまあさ」と藤沢。
「幸せだったな」、「本当に幸せでした。心からお礼をいいます」「おれも礼をいうよ。良い人生だったな」
・・・・・。
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「その一」の方は、理屈では分ってはいるが、やはり、そのような状況には、できるだけ、なりたくはないという保身の気持ちが起きてくる。それだけに、そのようなことで結論付けても、偽善的に過ぎるし、何といっても、書いていて白々しい。
「その二」の方は、その前提である、大きな成功体験、否、努力さえも十分しているとはいえない私には、僭越に過ぎる。細木数子じゃあるまいし、そんな、無責任で放縦なことを断定的に書くことはできない。だから、途中で書くこともできなくなってしまった。
文章にしてしまうと、何ということもない、味気ないものになってしまったが、ちょっとしたスピーチで利用してみると、それほど悪くないネタである。
私は、これまで何度か、スピーチで使ったが、聞き手の方たちが、ぐっと関心を持って、引き込まれてくるのを、ひしひしと感じた(ような気がする)。
二月くらいまでは、使えるネタである。
2005年01月05日 (水) 日本における『ニュースの天才』
人気ジャーナリストによるスクープ記事捏造という、衝撃的な事実を題材にした米映画「ニュースの天才」が、東京はじめ大都市では既に上映され、好評を博しているという。
その映画の中で、実在するスーパージャーナリストをモデルにした主人公が、「僕は、『読者が求めているニュース』を書いてきたのだ」と言い切っている場面がある。
社会に影響力を持ちうる、ジャーナリストとしての大いなる自負と、鼻持ちならない不遜とが感じられ、日々、多くの情報に、一方的にさらされてばかりいる立場の私たちにとっては、複雑な思いにさせられてしまう。
先日、あるニュースに触れた私は、「読者が求めている」、否、「読者を(無責任に)おもしろがらせる」ことだけを目的とする報道が、この後、センセーショナルにばら撒かれるのではないかという危惧の念を感じた。
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先月、12月の上旬頃に、埼玉県教育委員会の新しいメンバーに、明星大学の高橋史朗教授が選任される見込みであるとの報道がなされた。高橋氏が、扶桑社から出された「新しい歴史教科書」を主導した「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長であることをもってして、既に、さも大問題であるかのような記事であった。先に述べた「危惧」ではなく、既に、それそのものであったような気さえする。
埼玉県議会でこの人事案件が正式に承認された、12月20日の翌日のある新聞には、そのことについて、特報として、センセーショナルに大きなスペースが割かれていた。しかも、「揺れる『中立性』?」「教育委員だれが決める?」などという、「?」を多用する、スポーツ新聞張りの大見出し付きである。さらに付け加えて、高橋氏の教育委員任命に反対して、抗議のデモをしている団体の写真も、大きく掲載されていた。その写真にあったプラカードの文言は、ひたすら、「!」の乱れ打ちである。「高橋史朗にNO!」「教育委員にするな!」「知事は法律違反をするな!!」etc。やっぱり、スポーツ新聞だ。東スポを思い出した。
デスクの激しい気分の高揚が感じられると同時に、記事をまとめた記者の、「僕は、『読者が求めているニュース』を書いてきたのだ」という声がこだまする。明らかに、ある意図を持った記事である。しかも、見出しに「?」を濫用することによって、誘導尋問的に世論操作を企図したものである。
一方では、幸いなことに、その『読者が求めているニュース』に対して、冷静に、理性的に検証しようという報道も、いくつか見られる。
それらいくつかの報道を参考にしていきながら、この問題を整理し、教育の中立性、教育委員会のあり方について、考えてみたい。
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今回、高橋史朗氏の県教育委員就任について、反対団体が問題にしている点は、大きく次の二点である。
1.今回、例として取り上げた新聞記事の大見出しにあるように、任命にあたって、「教育の中立性」はどのように担保されたのか。
2.高橋氏は、扶桑社から出された「新しい歴史教科書」を主導した「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長であり、現在も会員である。そのような人が、教育委員では、教科書採択の公正が侵害されるのではないか。
他にも、相当、感情的な議論もあるようだが、論評に値するものは以上二点であろう。
さて、一つ目。
恥ずかしながら、今回の問題が起きて、私は、初めて、教育委員会の法的根拠というものをじっくり精査した。
教育委員会は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によって、その存在が担保されている。そのうち、委員の任命についての制約は、第四条三項、「委員の任命については、そのうち3人以上が同一の政党に所属することとなってはならない。」と、第十一条五項の「委員は、政党その他の政治的団体の役員となり、又は積極的に政治運動をしてはならない。」だけである。(もちろん、破産者とか禁固以上の刑、職務違反云々とかいうものもあるが、それらは常識以前のものとして、ここでは触れない。)
つまり、第四条三項の規定は、一人一人の教育委員が、どのような思想信条、政治的立場を取っているかを問題にしているのではなく、五人で構成される合議体の決定・執行機関である教育委員会総体として、特定政党の政策に左右されないということを意味しているのである。個々の教育委員に、政治的中立を求めているものではない。その証拠に、第十一条五項にある、「委員は、政党その他の政治的団体の役員となり、又は積極的に政治運動をしてはならない。」とは、個々の教育委員の政治的活動を前提にしており、あくまでも、その行き過ぎに注意喚起を促しているものである。
そもそも、教育委員会制度は、戦前の教育制度の反省から、住民自治で政策決定することを前提に、昭和23年から、市民が直接委員を選ぶ「公選制」として始まったものである。委員一人一人を選挙で選んでいたのである。委員個々が自分の政治的立場、教育的思想を明確にすることによって、選挙によって決められていたのである。ところが、実際には、55年体制のもと、政治的イデオロギー対立が教育の場に持ち込まれることが少なくないこともあって、昭和31年から現在の、自治体の首長が「任命」し、議会の同意をもって「承認」とされる制度になったのである。もともとが、委員個々人は、政治的、思想的立場を明確にされていたのである。そうでないと、選ぶ方が困ってしまう。
もう一つ、そもそも論で言えば、何の教育的、政治的思想を持たない委員たちで教育委員会が構成されてしまっては、単なる烏合の衆の集まりとなってしまい、これまでにも多々見られた、様々な圧力に、唯々諾々として従属する「仲良しクラブ」に堕してしまいかねない。
残念ながら、そのような教育委員会が少なくないがために、文科相の諮問機関である中教審からでさえも、その存在意義が問われているのである。
高橋氏の任命において問題があるとするならば、高橋氏がある政党の党員で、埼玉県教育委員会には、既に、その政党の党員である教育委員が二名存在している場合だけである。
私は寡聞にして、その議論を耳にしたことはない。高橋氏はどの政党の党員でもないという報道を見かけたが、私はその確認をしてはいない。するまでもないであろう。
「?」や「!」を濫発する、感情的な物言いはさておいて、教育委員会に求める、「教育の中立性」とは、以上の議論につきるのである。
二つ目。
教科書採択の公正が侵害されるという意見を述べる方たちは、先の法律の第十三条五項「教育委員会の委員は、自己の従事する業務に直接の利害関係のある事件については、その議事に参与することができない。」を、その根拠に、過去、教科書監修者の経歴を持つ高橋氏は、教育委員としてふさわしくないとしている。
しかし、教科書の執筆者・監修者であっても、教育委員になっている例は、決して少なくはないという。例えば、東京都文京区では、教育委員である上智大学の猪口邦子教授は、教育出版の中学校社会科教科書の執筆者で、しかも、文京区では、その教育出版の教科書が三年前から採択されている。それでは、先にあげた法律に抵触するのではないかと思われるかもしれない。
実は、法律をよく読めば書いてあるのだが、この第十三条は、教育委員会の「会議」の持ち方、進め方を規定したものであり、教育委員の任命とは全く関係はない。
この規定に従い、文京区では、中学校社会科教科書の採択の議事に限り、猪口氏は一時退席しているという。第十三条の二項においては、そのことを前提としての規定も記されている。それはそうであろう。教育委員の仕事は教科書採択だけではない。猪口氏はその他多くの議事において、大切な役割を果たしているに違いない。
議論を混同してはいけない。
そもそも、高橋氏は確かに、「新しい歴史教科書をつくる会」の会員ではあるが、来年度採択を検討される教科書には、執筆者としても監修者としても、全く関与していないという。何のことはない、今回の場合、問題にしている前提そのものが存在していないのである。
以上、できるだけ感情論は排して、法律に基づき、一般の議論に耐え得る検証を加えてきたつもりである。
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実は、今回の問題が起きるまで、私は、高橋史朗氏なる人物をほとんど全く知らなかった。その著作はもちろん、執筆された文章すら読んだことはなかった。
私が問題提起したかったことは、「高橋史朗」、「埼玉県」、「教科書」などという、具体的個別的なテーマではなく、「教育委員会のあり方」、「マスコミ報道のあり方」といった普遍的一般的な課題である。
教育委員会のあり方については、私は過去にも、このメルマガで問題提起をしている。(「教育委員会のあり方」参照)
今回のテーマは、さしずめ「教育委員のあり方」といったところであろうか。
さて、問題は、マスコミ報道の方である。先に例にあげたもののように、今回の高橋氏の任命にあたって、一部で見られる報道は、明らかに、偏りが見られる。記事は、いかにも多くの市民が反対しているように書かれているが、法に基づいた理性的な決定を反故にしようとしているのは、明らかに、衆を恃んでデモ行進を行ったりして威嚇行動に出ている人たちである。私は、扇動されて声をあげている方たちの善意を疑うものではないが、あまりにも無防備に過ぎる。
もちろん、デモ行為自体は、憲法で保障された表現の自由の範囲内で行われる限りにおいては、正当な権利である。私は、その行為そのものを否定しているのではない。
私は、今回のデモを直接見たわけでもないし、あくまでも、この偏った内容の新聞記事内で、必要以上に大きく扱われている写真からの判断でもあり、いくらか曇った目で見てしまっているのかもしれない。
先にも書いたように、その写真に写っているプラカードには、「高橋史朗にNO!」、「教育委員にするな!」、「知事は法律違反をするな!!」なる言葉が見られる。これでは、主義主張でも何でもない。単なる、個人に対する品のない誹謗中傷であり、不勉強なマスコミ受けを狙った示威行為である。知事は、法律を守っているし、そのことをそうでないように喧伝し、理性的な合法行為を否定しようとしているは、そのプラカードを担いでいる彼ら自身である。中には、「上田知事は恥を知れ、マスコミと市民をだましてるぅ!!」なんていうものまであった。そのまま、まっすぐ、自分たちにかえってきている。
再度繰り返すが、そのような意思表示であっても、法律に則ってデモ行為を行うこと自体については、私は、権利としては、理解しているつもりである。しかし・・・。
弱者に立ったふりをして(もしくは、そう思い込んで)、自分たちの意見と違う声を消し去ろうという、威嚇的行為を繰り返すことは、全体主義、ファシズムを彷彿とさせかねないものである。そして、そのような行為を、空疎な正義感で、勉強不足のまま、大掛かりに報道しようという姿勢に対しては、私たちは、良識とバランス感覚とを持って、しっかりと対峙していかなければならない。
「ニュースの天才」は、米娯楽映画の世界だけのものではない。
2004年11月09日 (火) 金沢美大と米百俵
先月10月29日に、加賀象嵌作家の高橋介州が亡くなられた。99歳であった。
実は、高橋介州の逝去によって、石川県における美術工芸界の一つの大きな時代が、ほとんど誰からも意識されることなく、静かに静かに幕を下ろすことになった。
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昭和20年8月15日終戦。
信じられないことに、その直後から、県内の美術関係者の中おいて、金沢で戦後日本初の総合美術展を開催するという気宇壮大な事業の胎動がみられた。そして、なんとその後、二ヵ月も経たない10月12日には、石川県美術文化協会が設立され、その翌日10月13日から、旧北陸海軍館を借り受けて、第一回の現代美術展が、日本画、洋画、彫刻、工芸の四分野において開催されることになった。これは、まさに、美術関係者の中で語り継がれているとされる、「戦後60日の奇跡」以外のなにものでもない。
その美術文化協会設立に向けては、石川県が日本の美術界に誇る、錚々たる人材が奔走することになった。
高光一也(洋画)、長谷川八十(彫刻)、高橋介州(金工)、浅田二郎(洋画)、疎開中の宮本三郎(洋画)、畠山錦成(日本画)。
彼らは、ただ、北陸否日本の美術工芸文化再建を「坂の上の雲」として、懸命にその坂道を登っていった。おそらくは、芸術家である彼らにとって、それは、相当な困難を伴う作業であったことであろう。
当時、その中心メンバーであった宮本三郎は、新聞社のインタビューで次のように答えている。
「この美術の国日本を戦後の新しい現実の中にいかに再建設していくか、私はそこにいま思いをひそめているのです。(中略)日本国民全体の前に、いまこそ真の力を問う時代がきているのであると・・・」
彼らの努力が先ずは形となったのが、県美術文化協会設立であり、その初代理事長がこの度亡くなられた高橋介州、その人である。
高橋介州の逝去によって、当時の、空気を知る者は誰もいなくなった。戦後、日本で初めて行われた、あまりにも勇壮な試みの、その渦中にあった人間は、一人もいなくなったのである。
物話はまだ続く。
さて、県美術文化協会を設立し、現代美術展開催にこぎつけた、高橋介州をはじめとした面々は、その余勢を駆って、当時の武谷甚太郎金沢市長に、美術工芸分野の裾野拡大の意義を説き、とうとう、金沢市立の美術工芸専門学校設立を認めさせてしまった。いうまでもなく、現在の金沢美術工芸大学の前身である。
終戦の翌年の昭和21年2月に開かれた金沢市議会において、武谷市長は、金沢美専設置の意思表明をすると同時に、昭和21年度一般会計当初予算に設置準備費として10万円を計上した。さらに、その年7月には臨時議会を召集し、初年度経常費17万円に加え、第一期建設費54万円余を計上した。当時の一般会計予算規模は825万円余であったので、大学設置に要した予算額は、現在の予算規模で換算すると150億円にも相当する、とてつもない事業であった。
金沢21世紀美術館の建設費が約110億円であることを考えれば、その壮大さが窺い知れよう。否、想像もできないようなスケールの大きなプロジェクトであった。
金沢美専の設置が審議された議会において、武谷市長は金沢美専設置を決意された理由として次のように述べられている。
「今日はまさしく国を挙げて食糧危機の中にあります。何をおいても食糧問題の解決に向けて進まなければなりませぬが、食うことだけにとらわれていては国家の再建は非常におぼつかないのではなかろうか。特に金沢は爆撃を免れて全国に残った少数の都市であります。この焼け野原の日本で平和の息吹、新しい芽を少しでも出していかなければならないのではないか。そういう役割をこの地が帯びているということを痛感いたしているのであります」
小泉首相が、就任して最初の国会の所信表明演説において取り上げられたことにより、長岡藩の米百俵の逸話が、一躍有名になったことは、まだ記憶に新しい所である。その全く同じ精神が、戦後間もない本市において発露されたその顕著な例が、現在の金沢美大の黎明といえる。先にあげた、宮本三郎の談話にも、それに繋がるものが感じられる。
時代は変わりながらも、その精神を現代に再確認するものとして、これからの美大を見つめていかなければならない。
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私は、高橋介州が今年亡くなったと聞いて、彼は、この年を待っていたのではなかったかという気がして仕方がない。
今年は、彼らがその成功に向けて尽力した、美術文化協会及び現代美術展開始60周年という区切りの年である。また、高橋介州の弟子である、象嵌作家中川衛氏が、56歳という若さにして人間国宝に認定された年でもある。そして、何といっても、高橋介州をはじめ、美文協設立、現美展開催に汗を流した先達たちの想いを、後世へと伝える新しい装置として、金沢21世紀美術館の開館がなされたのが、彼が息を引き取る、20日前であった。
高橋介州はそれらをすっかりと見届けて、一足先に、鬼籍に入られた仲間達に、想いを遂げた「戦友達」に、持参するお土産を待っていたのではないだろうか。
金沢21世紀美術館には、そういう「想い」も込められているのである。
2004年10月27日 (水) 韓国の教科書問題
先般、朝日新聞を読んでいると、「らしからぬ」記事を見かけて、一瞬、目を疑った。
その記事は、お隣、韓国の教科書問題を取り上げていた。昨年から、韓国の高校で使われている「近現代史」の教科書が、あまりに、親北朝鮮に偏向し、韓国に対しては政治・経済とも独裁と不正腐敗を強調し、自虐的過ぎるという声が多いということであった。
この教科書の記述に際し、韓国の野党やいくつかのマスコミが、批判を加え、また、その教科書が多くの高校で採用されていることに対して、強い危惧の念を露にしているという。
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ここで、韓国の教科書の制度について、当日(2004年10月5日朝刊)の朝日新聞のキーワード『韓国の高校の近現代史』を以下、引用しておく。
韓国では、国定教科書による必須科目「国史」のほかに、選択科目として、当局の検定を経た教科書を使った「近現代史」を学校ごとに教えることができる。全国2095校の7割近い1415校が近現代史を科目に取り入れ、教科書は6社から計32万冊が発行。金星社(今回問題になった教科書)の教科書は2002年7月に検定を通り、2003年の新学期から使用されている(49.5%にあたる、701校で採択)。(但し、()内は私の注釈。)
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朝日新聞には、その教科書の内容で、野党などが問題視する主な点として、次のような箇所があげられている。
南北分断について。「南に駐在していた米軍は、自分に都合のよい人物を官僚に充てたが、ソ連軍は、北の住民による建国準備委員会を大筋で認め、金日成が実権を掌握できるよう積極的に後押しした」
北朝鮮体制について。「北朝鮮は社会主義と朝鮮民族第一主義を唱え、世界平和に対応する一方、部分的な開放策で経済的困窮から脱出しようとしている」
新聞記事には、その他いくつかもあげられていたが、なるほど、この二つだけでも十分、その偏向度はうかがえる。
さらには、韓国の朴正煕政権のセマウル運動(1970年から始まった国民的地域社会開発運動。いわゆる、「漢江の奇跡」を生み出すことになった。)は、「自分の長期政権を正当化するための手段」と決め付けているのに対して、2000万人の中国国民を飢えさせた毛沢東の代表的な失敗作「大躍進運動」を真似、今ではやはり大失政の評価が固まっている、金日成の千里馬運動を、「社会主義の経済建設に大きな役割を果たした」と評価している。
実は、この金星社の教科書の次に採択率の高い斗山社の教科書は、この箇所では、まったく相反する記述をしているという。(朝鮮日報(2004年10月4日)より)
他国のことではあるが、これはまた、大変なことである。
日本の新聞でさえ、大きく報道していたので、私はこの前後の、韓国の新聞を確認してみた。私の調べた範囲でも、先にあげた朝鮮日報、そして中央日報、ともに10月5日の社説をはじめとして、この話題を大きく取り上げていた。いずれの記事も、この教科書を問題の多い教科書であるとし、その改定を要求したものであった。
さらに、問題の箇所をいくつか引用しながら、歴史を学ぶに際してのあるべき姿が述べられている。私も、その多くの部分に、強く頷きながら、目を通していた。
中央日報では、「歴史書」ではなく、「歴史教科書」という点を重視し、次のように述べている。
「学生が対象の歴史教科書の内容は、客観的で価値中立的でなければならない。過度に進歩的な色彩を帯びていたり、保守一色であってもならず、画一的な認識を強要してもいけない。特に、歴史学界でも論議となっている事案を、定説であるかのように教科書に掲載することがあってはならない。特定理念に基づいた歴史教育は、国家のアイデンティティーを混乱させるだけだ。客観的に歴史を見る目がまだ形成されていない学生に、特定理念の歴史を教えることは、教育ではなく政治的洗脳である」
極めて正論。私も完全に同意できる。特に、「歴史学界でも論議となっている事案を、定説であるかのように教科書に掲載することがあってはならない」とは、日本の教育関係者にとっても、真摯に素直に聞いていただければ、耳が痛いはずだ。
さらに続く。
「歴史を非支配層の観点で見る民衆史観、韓半島の分断責任を米国に転嫁する修正主義史観など、特定史観が支配する教科書は教科書になりえない。こうした史観は学者間の討論の対象であり、国民のアイデンティティーの根幹を形成する中学校(高校の間違い?)の歴史教科書にはならない」
もちろん、韓国を代表する新聞であるので、法治国家としての秩序にも、きちんと触れている。
同日付けの記事中に、教科書の検定業務管理の責任者である韓国教育課程評価院長の鄭剛正氏の話を載せている。
「鄭院長は『教科書検定を通過した、とのことは「教科用図書審議会」が設けた審査観点をみたした、との意味』とし『教科書の具体的な内容については言及できないが、検定を通過しただけに何ら問題がない、と考えている』と話した」
色々と意見はあろうが、こちらも、手続論としては、正論である。
政権与党と対立しているといわれる、朝鮮日報はさらに過激である。
10月5日付けの朝刊社説で、「歴史教科書の偏向を正さずして何を正すのか」と見出しを掲げている。その内容は推して知るべし。
朝鮮日報は、その前日にも、この教科書問題についての記事を載せている。
このような教科書の採択率があがったのは、左派色の強い教職員労組の働きかけが影響しているとみられる(韓国メディアによると、としながらも、何と、朝日新聞がそのようなことを書いていた!朝日新聞の良識が、やはりバランスをとろうとしているのか。)とし、次のような趣旨の記事が見られる。
「全国教職員労働組合を中心に活動する教師らは、従来の歴史教育と北朝鮮に対する教科内容は冷戦時代の産物だとし非難してきた」と前置きがあり、「そのような認識の結果が、大韓民国を否定」し、さらには、「偏った教育内容の形で現われたとしたら、これは歴史に反する政治教育であり、思想改造作業に過ぎない」締めはこうである。「歴史教育を生徒の頭の中に左派傾向の理念を植え込む政治闘争、理念闘争の道具にするのは容認できない」
少し視点を変えてみる。
これは、お隣の韓国の教科書についての、韓国内の大手新聞社の記事であるが、大韓民国を日本に置き換えて、読み直してみたい。そうしてみる方が身につまされて、分りやすい。
《そのような認識の結果が、日本(大韓民国)を否定し、偏った教育内容の形で現われたとしたら、これは歴史に反する政治教育であり、思想改造作業に過ぎない。歴史教育を生徒の頭の中に左派傾向の理念を植え込む政治闘争、理念闘争の道具にするのは容認できない。》
私はここで、まさに「思想改造作業」をすることを目的としているのではない。よって、「全国教職員労働組合」とか「左派傾向」とかいう朝鮮日報の記事に見られる個別の表記には、全く興味はない。あくまでも、「歴史教育を政治闘争、理念闘争の道具にするのは容認できない」という考え方は、どの国においても大切なことであると強調したいだけである。
さらに、朝鮮日報の同じ記事に、次のような記述もある。少々長くなるが、大事なところなので、全て引用したい。
「歴史を見る視点は多様であるべきだ。しかし、成長期の世代に教える歴史は、普遍性やバランス感覚を失ってはならない。歴史を見る目が確立される前の段階にある生徒たちに史実よりは歴史観、しかも理念的にバランスを失った偏向的な歴史観を植え付けるべきではない」
全くもって、100%同感である。
ところが、何と、信じられないことに、普遍的な正論を、これだけ冷静に述べている朝鮮日報が、対日本ということになると、いきなり、激情的、扇情的になってしまう。
先の100%同感であると述べた文章の後、しばらくして、次のような文章に出くわす。
「われわれが日本の歴史教科書歪曲を批判するのも、日本の極右勢力の歴史教科書編纂と採択が、このような共通の原則から外れているからだ」
・・・・・。大きなため息をついてしまった。
それまでの、理性的、論理的な議論から、いきなり、「普遍性やバランス感覚」を棄却し、「理念的にバランスを失った偏向的な歴史観」で押し込んでくる。「政治闘争、理念闘争の道具」として、他国(日本)の歴史教育を制御しようとする。「教育ではなく政治的洗脳」を助長しようとしている。
なぜ、このようなことになってしまうのか。
実は、皮肉なことに、その理由は、先に私が100%同感であると述べた、その社説の文章の直後に、朝鮮日報自らが、逆説的に著している。
「このような原則は、共産主義国家を除く世界中の国の教科書編修と採択においての常識である」
この場合の「世界中の国」には、当然、韓国はもちろん日本も含まれているはずなのだが、なぜか、日本という固有の国名があがった瞬間、その「常識」は、朝鮮日報の中からは霧消してしまうようである。総論賛成、各論反対というやつか。
最後に、やはり、朝鮮日報の社説から、一行だけ引用して終りたい。
「はっきり言えば、現在の教育がどんな国民を作ろうとしているのかが重大な問題だ」
私たちにも、訴えかけている。
以上
※大変、デリケートなテーマでもあるので、変な誤解を避けるためにも、私は具体的な事例や固有名詞は使わずに、ほとんどを、日韓両国の新聞記事の引用でまとめている。しかし、問題提起はしっかりとできたつもりだ。
※私が文中に書いているように、韓国の国内においても、あれだけ冷静な教科書観が述べられているのに、こと日本に対してだけは、例外的になってしまっている。当然、韓国だけではなく、私たち日本の対応にも問題があると考えるべきであろう。私たち日本としては、つい先般、中国と韓国・北朝鮮との間で紛糾した、「高句麗帰属問題」での双方の対応が、ひとつの参考になるのではないだろうか。
2004年10月22日 (金) 自動車『金沢ナンバー』の可能性
行政視察とはおもしろいもので、私にとって、さして関心事でないテーマであっても、その課題の先進地にお伺いし、様々な先行事例を、それに直接携わった、強い思い入れをもった方たちから説明を受けていると、自然、興味が沸き起こってくることが多い。
今回、経済企業常任委員会の行政視察もそうであった。
初日にお伺いした宇都宮市では、平成13年度をもって、宇都宮市主催の競馬事業を廃止した。存続か否かが議論されている金沢競馬を抱える本市にとっても、参考にしたいテーマである。
既に、谷本知事と山出市長との間で、ある程度の話をしているようで、今後、その議論の推移を見ていきながら、発言をしていきたい。
三日目は、仙台市に行き、特区についてと、自動車の「ご当地ナンバー」の動きについて勉強させていただいた。
実は、私は、自動車の「金沢ナンバー」に、さして関心も持ってはいなかったのだが、色々とお話をお聞きしていると、おもしろいテーマだと感じるようになった。さらに結論からいうと、「金沢ナンバー」実現には、大きなハードルが待ち構えているということも分ってきた。
少し、整理したい。
恥ずかしながら、今回初めて知ったことだが、自動車のナンバープレートに記されている地域名は、国土交通省の運輸支局や、自動車検査登録事務所の所在地の地域名が表示されることになっている。
お伺いした仙台市の場合、宮城運輸支局が、宮城県内唯一の自動車登録・検査施設であるため、宮城県内で登録された自動車は、現在全て「宮城ナンバー」となっている。そう言えば、自動車登録台数の増大で自動車検査登録事務所が開設され、その結果、「湘南ナンバー」なるものができ、大騒ぎされたのは、まだ、記憶に新しいところである。
ご想像の通り、石川県は、石川運輸支局であるため、全て、「石川ナンバー」。
ご当地ナンバー実現に向けて、仙台市は、何と平成6年から、「仙台ナンバー」要望の動きをしてきているという。仙台市内では既に自動車の登録台数も多くなってきていたため、新たに自動車検査登録事務所を新設し、「仙台ナンバー」を創設してほしいという活動を続けてきた。
では、一体、仙台市は、「仙台ナンバー」によって、どういうメリットを期待しているのか。いただいた資料によると、それには、大きく、次の四つを挙げている。
1. 仙台市の都市イメージを向上させる、シティセールスの効果が期待できる。
2.仙台の知名度向上が図られることから、観光振興の効果が期待できる。
3.街を元気づけ、地域振興に寄与することができる。
4.仙台市民の「わが街・仙台」への愛着を高めることができる。
それと、資料には、「何よりも、自分の自動車のナンバープレートに、自分の住む街が表示されるというのは、やっぱりちょっと嬉しい(ような気がします)。」とも書かれている。
外部の目から、ちょっと冷静に考えると、実際に意味がありそうなのは、メリットの四番目と、おまけに書かれたものくらいであろうか。しかし、それが大切。私が、「金沢ナンバー」興味を持った所以である。
ところが、私のそのにわか問題意識は、すぐに、大きな壁にぶち当たった。
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国土交通省は、折からの規制緩和の中、自動車検査登録事務所新設がなくても、地域名表示いわゆる「ご当地ナンバー」を認める方向で議論を重ねてきた。
詳細な経緯は割愛するが、平成18年度から、「ご当地ナンバー」を認めていくことになりそうだという。さしあたり、「会津ナンバー」と「仙台ナンバー」あたりが、その有力候補といわれている。このことも初めて知った。
国土交通省は、「ご当地ナンバー」を認めるにあたり、いくつかの基準を出している。大きくいって、次の四つである。
1.一定のまとまりある地域(同一経済圏)
2.広く認知されている地域
3.登録自動車10万台超
4.人口等県内のバランスを考慮
本市の場合、2、3、4は全く問題ない。問題は1である。1は、単独の自治体では、原則、認めないということを含んでいる。つまり、金沢市だけではなく、近隣自治体(一つでも良い)も、「金沢ナンバー」で了解しなければいけないということになる。
現在の状態で、野々市町や内灘町、津幡町が、「金沢ナンバー」に対して、理解を示してくれるかどうかは、難しいところだ。仙台市の場合においても、全ての近隣自治体は、拒絶しているという。
当然、私たちは、そのことに対して、仙台市としてどう対応していかれるのかを尋ねた。さらに、なぜ、仙台市は単一自治体であるのに、ご当地ナンバーが認められるのか、と。
仙台市のご担当者は、自信満々で、以下のような趣旨のお答えをされた。
国土交通省は、単一自治体であっても、合併市町村(合併によって一つの市になる場合のこと)や政令指定都市の扱いについては、次のように述べている。
「それぞれの地域が、『一定のまとまりのある地域であり、広く認知されている地域』等の要件に該当するか否かで判断することにします。」
実は、この国土交通省の見解は、「合併市町村や政令指定都市及び中核市においては、ご当地ナンバーを認めてほしい」という、パブリックコメントにおいて出された要望に対する答弁である。要望には、中核市も含まれていたのだが、答弁では、それは無視され、合併市町村と政令指定都市についてのみ答えられている。
現在、政令指定都市において、その都市名を冠したナンバープレートがないのは、平成15年に政令指定都市になったばかりの、さいたま市だけである。さいたま市にしても、その前身市の「大宮」ナンバーは存在している。京都、大阪、静岡、福岡、広島は府県名か、都市名かはともかく、存在はしている。
つまり、この「ご当地ナンバー」は、合併市町村の場合は、議論があるにしても、少なくとも、政令指定都市においては当確であるということである。中核市単独では、問題外と考えられているようである。余談ではあるが、「さいたま市」ナンバーは難しそうだ。国土交通省は、「ご当地ナンバー」については、原則、漢字二文字としているからだ。
仙台市は、手ごたえとして、平成18年度からの実施について、相当自信を持っているようであった。
「金沢ナンバー」に話を戻す。
このテーマこそ、経済界の方たちが中心になって、声をあげて欲しい課題である。ある自治体が突出して声を上げると、いらぬ誤解が生じかねないが、ちょっと、冷静になれば、自治体合併と違って、感情的な問題も、実はさほどありはしないことに気付く。なぜなら、少なくとも、金沢市及び金沢市近郊の自治体、さらにはその住民にとって、全くもって何のデメリットもないからだ。電話番号の市外局番が、金沢市だけでなく、野々市町や内灘町、津幡町が同じ番号076で、何か不都合があるだろうか。
民間においては、金沢工業大学、金沢医科大学、さらには○×会社金沢支店、金沢営業所等々をはじめ、金沢市近郊自治体にありながら、「金沢」という地名を利活用している例も数多い。それは、対外的には、そのブランドを利用するほうが、色々な意味で都合がよいからであろう。
そういう考え方だけでよい。その発想で、経済界の方たちが、その気風を起こしてもらうことにより、従来の自治体域を越えた考え方というものもしやすくなってくるのではないだろうか。
たかが、自動車のナンバープレートかもしれない。多くの人が特に気にすることもなく、何人かの方が、ほんのちょっと気分がいいだけなものかもしれない。しかし、案外、そういうところから、これからのまちづくりに対する、新たな展開というものが生れてくるのではないだろうか。
追伸
このメルマガをお送りしたのは2004年10月であるが、現在、2005年2月の時点では、大きく状況が変わってきている。その分析をするにはまだ早いし、余計な憶測を生むのもおもしろくないので、ここでは触れない。
文中にあるように、国土交通省としては、2006年度からの「ご当地ナンバー」は、仙台ナンバーと会津ナンバーを想定しているようではあるが、石川県内各地域での動きを初め、全国的な動きが、今後の継続的な「ご当地ナンバー」認定へと繋がっていくのではないだろうか。
経済界はじめ各種団体の皆さんの行動を高く評価すると同時に、私も一市民として、最大限のご協力をしていきたい。
2004年10月08日 (金) 谷口吉郎生誕100周年
表題で、答えが出てしまっているようで恐縮ではあるが、慶應義塾、東宮御所、東京国立近代美術館、この三者の共通点をあげるということは、本当は、必ずしも容易ではないことなのかもしれない。しかし、これに、藤村記念堂、明治村とくれば、ぐっと、解答に近づく。さらに、格別に金沢人にとって、観光会館、玉川図書館、商工会議所と出揃うと、「谷口吉郎」というキーワードに到達する。
谷口吉郎は、明治37年金沢市に生まれ、東京帝国大学建築科を卒業。その後、東京工業大学の教授となり、建築家としては、近代性と伝統との調和の実現を目指し、「清らかな意匠」と彼自身が述べているように、清潔で叙情豊かな作品が多く、その幅は文学碑から工場建築まで多岐に渡っている。また、名文家としても知られ、昭和36年には日本芸術院賞、昭和48年に文化勲章を受賞している。間違いなく、日本の建築界において指導的な役割を果たしてきたといえる。
先にあげた作品の中、私たち金沢市民にとって、特に印象深いものは、何といっても玉川図書館であろう。玉川図書館は谷口吉郎が総合監修を務め、ご子息の谷口吉生が設計するという、ともに世界的な建築家である親子による、最初で最後の共同作業による作品として名高い。
さらに、谷口吉郎の作品群を語るにおいてはずせないのは、一連の慶応義塾の建築物である。幼稚舎、普通部、中等部、女子高、大学、病院等々、塾に関するほとんど全ての様々なステージにまで、その仕事の範囲は及んでいる。中でも、一般に最も知られているのは、三田キャンパスを左手に入った所に見られた、「新萬来舎」(第二研究室)であろう。それは、塾卒業生にとっても同様である。(実は、個人的には、いわゆる「山食」の方が、親しみを感じるような気もしているが、ここでは、触れない。)
その理由の一つは、「新萬来舎」という呼称に見られる。
多くは語らない。次にあげる、谷口吉郎自らの述懐が全てであろう。
「新しい第二研究室が建つ場所は、明治の初年、福澤諭吉がそこに『萬来舎』を開設した跡だった。それは名称のごとく千客萬来、来る者はこばまず、去る者は追わず、今の言葉で一言えば、広く識見を求めようとする対話の場所であった。それが戦災で壊滅したのである。だから新しく建てられる『新萬来舎』は福澤精神の新しい継承を必要とする。従って建築もそれに応じて開国的な新しい意匠でいいはずだと、私は考えた。」
くらくらするような一文である。
もう一点、この空間は、谷口吉郎とイサム・ノグチとによるコラボレーションであるということも忘れてはならない。
私は、イサム・ノグチという人は、20世紀を代表する偉大な彫刻家だと思っていたが(もちろん、そうだが)、それだけではなく、優れたプロダクトデザイナーでもあり、もっと言えば、それらを包含した空間全体に意匠をこらすことを得意とした、いわば空間デザイナーともいえる存在でもあったようだ。
イサム・ノグチは、自分の父が慶応義塾で教鞭をとっていたこともあり、その縁で、当時の潮田塾長から谷口吉郎を紹介され、谷口の新萬来舎に対する構想に共鳴し、そのインテリアデザイン、空間造形を担当することになった。
新萬来舎に隣接する彫刻作品「無」、「若い人」、「学生」も有名であるが、ホール内の談話室の室内デザインは、イサム・ノグチの最高傑作として知られ、「ノグチルーム」と呼ばれるようになった。
しかし、戦後間もない日本において、現代美術の最高峰の融合が見られたということは、慶応義塾にとっても、日本の芸術界にとっても、まさに、特筆すべきことではないだろうか。
もちろん、私が学生時代は、そんなことはほとんど全く考えもしなかった。皮肉なことに、おそらくは、私を含めた多くの方が、このことに気付いたのは、慶応義塾が新校舎建築にあたり、この新萬来舎の解体、そして一部移転を決定してからではないだろうか。いくつかのマスコミにも、このことが取り上げられることにより、改めて、谷口吉郎やイサム・ノグチの共同作品に光が当てられた。当然、その決定に異議を唱える声が多く聞かれた。だからこそ、マスコミに表れることも多かったのであろう。
そう言えば、数年前に、私のところにも、何人もの方から、新萬来舎の解体反対の声を上げてほしい、さらには、反対の署名をしてほしいというメールがきた。それも、全く知らない方からもだ。余談だが、私は、このとき初めて、チェーンメールなるものを受け取った。
しかし、それらの声もむなしく、残念ながら、2003年6月に新校舎建設にあわせて、解体されたようである。それに先立つ、その年の3月に行われた二日間の一般公開では、2,500人を超える方が、見学に訪れたという。
実は、今年は、谷口吉郎生誕100年にあたる年である。そして、イサム・ノグチも谷口吉郎と同じ明治37(1904)年生まれ、やはり、生誕100年である。
私はご縁があり、この春に谷口吉郎のご令嬢と一緒に、食事をする機会を得た。そこで、実は、谷口吉郎 イサム・ノグチ生誕100周年記念として、今は解体されてしまった萬来舎の写真展を、谷口吉郎の故郷である金沢で行うことができないだろうかと相談を受けた。私は、それでは、金沢21世紀美術館が開館する10月9日にかかった方が良いのではないか、また、場所も、美術館から歩いていける、「ふるさと偉人館」もしくは、谷口吉郎が設計した「観光会館」でいかがかと思い、市執行部にも提案させていただいた。結果、『〜谷口吉郎 イサム・ノグチ生誕100周年記念〜萬来舎写真展「美の鼓動、永遠に」』が、ふるさと偉人館において、先月18日から今月24日の予定で行なわれることになった。もっとも、実務的なことは、すべて谷口吉郎に繋がる人脈で対応されたことではあるが、私としては、一人、静かな思い入れを持った気持ちでいる。
特に、10月20日(水)の午後6時30分からは、「萬来舎の歴史的・芸術的価値と谷口吉郎、イサム・ノグチとの思い出」と題して、金沢21世紀美術館館長である蓑豊氏、また、先程申し上げた谷口吉郎のご令嬢の杉山真紀子氏、そして、慶應義塾大学教授の河合正朝氏との鼎談が行われる。塾、建築関係者はもちろん、芸術全般やまちづくりに関心のある方にとっても、興味を持ってもらえる内容ではないかと期待している。
お時間のご都合のつく方は、ぜひ、お出かけいただきたい。できれば、美術館に来ていただき、そのまま、ふるさと偉人館にまで足を伸ばしていただければいかがだろうか。
余談。
私は、杉山氏のご好意で、寺町にある、谷口吉郎が育った家にご案内いただいた。谷口吉郎の生誕の地は、今の、片町のど真ん中あたりのようであるが、その後、寺町にて過ごしていたという。
落ち着いた雰囲気の中で、お茶をいただく。しっとりとした気分にさせていただいた。
2004年09月20日 (月) 敬老の日とゴールデンウィーク
今日は、敬老の日。
昨年から、いわゆるハッピィ・マンディ法なる悪法により、海の日が7月20日から7月の第三月曜日に、敬老の日が9月15日から9月の第三月曜日に変更になった。
そのことに対する私の思いは、これまでもさんざん述べてきているので、ここでは繰り返さない。(メルマガ「祝日のあり方」、「海の日」参照)
ただ、一点。敬老の日を9月の第三月曜日とすることによって、実は、秋にとんでもないゴールデンウィークが誕生しかねないことは、ほとんど全く知られていない。
昭和60(1985)年に「国民の祝日に関する法律」いわゆる祝日法が改正されて、次の一文が付け加えられた。
『その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(日曜日にあたる日及び前項に規定する休日にあたる日を除く。)は、休日とする』
なんのことはない、5月3日の憲法記念日、5月5日のこどもの日に挟まれた5月4日を休日にするために改正されたものである。
まさか、この段階で、体育の日や成人の日、海の日、敬老の日を移動させるハッピィ・マンディ法なんていう発想は、全くなかったであろう。海の日は存在さえしていなかった。
ところが、敬老の日を9月の第三月曜日にすることによって、いわゆる「秋分の日」とあまりに近すぎる為に、とんでもない連休ができてしまう可能性が生まれてきたのである。
今年の例を見てみる。
本日9月20日が第三月曜日で、敬老の日。21、22日と二日を挟んで23日が秋分の日。二日を挟んでいるために、まさにカレンダー通りであったが、これが、もう一日ずれていれば、どうなるのか。つまり、9月21日が第三月曜日で敬老の日。22日の一日だけを挟んで、23日は、秋分の日。そうなると、昭和60年の祝日法改正に則って、22日も休日となる。5月4日が祝日法により休日とされているのと同じである。
ここで、一つ、疑問を持たれる方がいるかもしれない。
秋分の日は何も、9月23日に固定されているわけではないので、そのような安易な発想はいかがか、というふうに。
確かに、春分の日と秋分の日とは、固定された日ではない。国立天文台が、毎年2月に翌年の「春分日」、「秋分日」(暦要項)を官報で公表することによって決められる。
しかし、国立天文台は、「地球の運行状態などが現在と変わらないと仮定すると」として、長期の春分の日、秋分の日の予想を発表している。それによると、秋分の日は、2012年に9月22日となるまでは、ずっと9月23日となっている。ところが、春分の日は、9月20日と21日が入り乱れている。ここでは、このテーマを取り上げることが主眼ではないので、このことはこれ以上触れない。ご関心のある方は、国立天文台のホームページをご覧いただきたい。
以上のことを踏まえて、調べてみると、2009年に9月21日が第三月曜日で敬老の日。23日は秋分の日。つまり、22日の火曜日も、祝日法に則り、「休日」となる。会社によっては、19日の土曜日から23日まで5連休になる。もっと言えば、24、25日をうまく有休休暇として利用(?)できれば、次の26、27日の土日と繋がって9連休だ。すさまじい、黄金週間の誕生。
きちんと数えてはいないが、このようなめぐり合わせは、おそらくは、十数年に一度のことであろうので、さして、騒ぎ立てることではない。しかし、このような事例が発生するなんてことは、ハッピィ・マンディ法を決定した故小渕総理大臣は考えもしなかったであろう。
蛇足。
春分の日、秋分の日は固定された日でないことは知ってはいたが、先にあげたように、秋分の日は、ほとんど変更しないのに、春分の日がころころ変わるということは知らなかった。もっとも、国立天文台の予想によると、2012年からは、4年に一度、9月22日が秋分の日になるという。もちろん、それも知らなかった。
もう一つ、知らなかったこと。
祝日法によると、春分の日(春分日)とは、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日で、秋分の日(秋分日)は、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日だという。
全然違う意味のような気もするが、全く同じ事を言っているような気もする。
2004年09月14日 (火) 学校運営協議会について(議会質問を終えて)
いつもありがとうございます。
昨日、議会質問を無事終えることができました。ご助言いただいた皆さんに、心より御礼申し上げます。
さて、本日の朝刊に私の記事もいくらか掲載されています。地元紙2紙とも、教育問題を中心に取り上げていました。その中で、残念ながら、一部報道では、誤解された形で記事掲載をされておりますので、以下、訂正させていただきます(私が訂正するのも変ですが・・・)。
質問原稿にもありますように、今回、私が取り上げた「学校運営協議会」とは、地域住民グループ、学校長、意欲的な教員グループなどが、学校運営協議会の指定を望んでいるとき、当該区市町村教育委員会はその意思を尊重するということが前提となっています。
そのことは、この法律が議論された衆議院において、河村文科大臣は「そうあるべきものだと考えて法案を作っている」と明確に答弁していますことからも明らかです。
また、県教委との関係で言えば、これも、衆議院文部科学委員会での議事録によると、文部科学省初等中等教育局長は、「同意を得るということを求めていない」「事前協議がととのわない場合も設置できる」と述べており、このテーマに関しては、あくまでも、行政ヒエラルキーの枠外での話といえます。
私が質問で、「県教委との間に、制度についての共通の理解を進めていくべきと考えます」と言っているのは、衆議院文部科学委員会で文部科学省初等中等教育局長が答弁された、「学校運営協議会は、指定学校の教職員人事に関して意見を述べることができ、任命権者である都道府県教育委員会は、当該意見を尊重して職員の任用を行う、こういうことになっていることでございますから、あらかじめ都道府県教育委員会としては、指定が行われる学校について知っておく必要があるであろう、こういうことで、都道府県教育委員会に事前協議を行うというふうにしておるわけでございます。」を念頭においたものです。
つまり、県費負担教職員の人事権に関わってくる課題があるだけに、県教委と、きちんと共通認識をもっておきなさいと指摘したわけです。もっとも、こんなことを質問したのは、人事権を触られる県教委に共通認識を持ってもらうのは、難しいと思うからです。
この部分は、市教委も、当初は理解されていないようでしたが、質問前に私が、国会の議事録を引用しながら説明したことにより、ご理解いただいたと思っています。(もっとも、市教委が理解しても、県教委は納得しないでしょう。県教委が面妖なことを言えば、市教委も逡巡するでしょうし、学校長は萎縮してしまうでしょう。私立が多い都会ならともかく、地方都市では、壁は厚い。)
ところが、一部報道では、小見出しで、「県の動向を注視、設置へ慎重姿勢」と、既に、ピント外れなことを書いています。学校運営協議会も、「県教委−市教委」という行政ヒエラルキーの枠内の機関と認識されていたようです。別の言い方で言えば、多くの情報に敏感な新聞記者でさえ、学校運営協議会のことを、ほとんど全く理解していないということであり、やはり、先ずは、正しい理解浸透に努めていくべきなのでしょう。
ちなみに、本日、記者の方に説明し、ご理解いただきました。
中学校区域外通学については、市教委はやりたそうです。私は、機会をとらえて、説明を求めながら、拙速を避けた議論を求めていきたいと思っています。
2004年06月20日 (日) 平成16年6月議会質問を終えて
17日、おかげ様で、議会質問も無事終えることができた。
事前にお送りした質問原稿のほかに、挙手を持って再質問の機会を求め、再度取り上げた点について、少し触れてみたい。
骨太の方針第四段における「法律と条例との関係」と、景観施策に関しての光害(ひかりがい)対策との二点である。
平成11年の地方分権推進一括法の成立により、国と地方とは上下関係から、対等になったといわれている。しかしながら、税源移譲がなされなかったことと、各省庁の抵抗により、当初の議論より自治事務が減らされ、法定受託事務が多くなったことに表わされるように、国の強い関与が残され、決して十分なものとはいえなかった。
色々な経過はあったが、今般の骨太の方針では、「税源移譲三兆円」と明記されたことは大きな前進といえる。
さて、実際には、税源移譲が行われても、それで真の地方分権が進んだとはいえない。骨太の方針にもあるように、「必置規制や義務付け等、国による地方公共団体への規制の廃止や大幅な緩和を図る」ことによって、「地方の裁量度を高め、自主性を大幅に拡大する改革を実施する。」ことが、絶対必要条件である。
その代表的なものが、「法律と条例との関係」の見直しである。
例えば、今回私が取り上げた景観施策のような、地方固有の自然や伝統に裏付けられた政策は、その地方で定められた条例に大きな権限を与えるべきである。景観緑三法が成立して初めて、条例に法的根拠が与えられるというのは歪(いびつ)である。金沢市なんか、国に先駆けて、三十数年前から取り組んでいる。
外交、防衛、通商といった分野は国が責任を持って対応すべきだが、それ以外の多くは、もっと地方に権限を委ねるべきである。
質問原稿にもあるように、今回の骨太の方針では、「条例で定めることができる範囲の大幅な拡大」と明記されていることは、昨年の骨太の方針第三弾において、「国の関与の縮小」とだけ記述されているに過ぎなかったことに比べれば、規制や基準など、国のコントロールの解消という点において、相当な思い切った表記をとったものといえる。
税源移譲に、一つの方向性が見えた今、ぜひ、これからは、この「法律と条例との関係」の見直しを、議論の俎上にのせて欲しい。そのことこそが、真の地方分権、地域主権へ向けた、具体的な動きに繋がっていく。
山出市長の得意とするジャンルでもある。また、山出市長が全国市長会会長の間に、本格的な議論を始めないと、なかなか進まない課題でもあると思う。強く期待したい。
光害対策について。
最近、夜の店舗の広告効果を狙って、自店舗に対してではなく、天空に向って、ビーム光線のような光が発せられている光景に出くわすことがある。中には、舞台のスポットライトのように、ぐるぐる回転させているところさえもある。これでは、静かに星空をみることもできない。鳥も、おちおち寝てもいられない。広告効果といっても、やや、度が過ぎているのではないか。夜間景観という点から、大いに問題があるだけではなく、光害という環境保全の面からも問題がある。規制を考えることがあってもよいのではないだろうか。
2004年06月14日 (月) 許文龍氏講演『八田與一技師に寄せる私の想い』
本日、台湾財界の重鎮であり、大変な親日家である許文龍氏の講演が、金沢市ふるさと偉人館で行なわれた。
ふるさと偉人館1階には、八田與一技師の胸像が5月29日に設置されたばかりであるが、それは、八田技師を尊敬する許氏から寄贈されたものである。この度、その胸像寄贈を機に、許氏は初めて、敬愛する八田技師の出身地である本市を訪れ、「八田與一技師に寄せる私の想い」と題して、講演を行った。
それほど広くはない会場であったが、多くの方が来ていただいた。会場外には、モニターテレビが置かれ、入場できなかった方たちも、それを通して、講演に聴き入っていた。
八田技師に関しては、私もこれまで、平成11年9月議会と平成12年12月議会の2度に渡って取り上げ、また、メルマガにおいても「八田與一」という題で一文認めている。
私はこれまでも、人物を通して歴史を学ぶことの大切さを、機会あるごとに力説しているが、その際、最も多く引用させていただくのが、八田與一技師と佐久間勉艇長(メルマガ「佐久間艇長の遺書」参照)、そして、大文豪夏目漱石である。
近いうちに、今回の講演に関したメルマガを送らせていただければと思っている。しかし、惜しむらくは、皆さんに、今回の講演のご案内をすることを忘れてしまったことだ。選挙や議会の慌しさに紛れてしまい、当日まで、すっかり失念してしまっていた。幸い、新聞で、事前に案内されていたため、多くの方にお越しいただいたが、私がメルマガをお送りしている方の中にも、ご関心を持っていただけそうな方が多かったと思われ、本当に、残念で申し訳ない気持ちである。
2004年05月11日 (火) 障碍者と障害者−文化としての日本語その7−
前回(「交ぜ書き−文化としての日本語その6−」)、1850字に使用が制限された当用漢字表なるものが登場したことにより、我が国語に甚大な弊害が与えられた事を述べた。
特に、この当用漢字表の前文にあった、「この表の漢字で書きあらわせないことばは、別のことばにかえる」という指針が示されたことにより、発音が同じということを主たる理由として、当用漢字表に掲載されていない漢字(表外字)は書き換えられ、そのことによって、漢字文化に大きな悪影響を及ぼすようになったということも、いくつか例をあげて、既に述べた。(「濫」を「乱」に、「捐」を「援」になど)
昭和56年に、「目安」としての1945字の常用漢字が制定されても、事態は全く変わることはなかった。
先に述べた、「濫」を「乱」に、「捐」を「援」に書き換えたことによる弊害、それは、それぞれの文字が持つ意味合いについての、いわば文化的齟齬といっても良いものかもしれない。しかし、私は漢字の書き換えによる、人間的齟齬といっても過言でない例を一つあげたい。(人権的齟齬と書こうかとも思ったが、やめた。安直な人権主義者と同一視されたくなかったからだ。)
それは、「碍(がい)」を「害」に書き換えたことである。
現在、私たちが日常的に使用している、「障害者」という言葉は、当用漢字表公布以前は、「障碍者」と書かれていた。「碍」という字は当用漢字表に記載されていないため、その前文に従って、「別のことばにかえる」ことが行われたのである。
「碍」のかわりに「害」が使われるようになった。
「害」という字が使われたのは、発音が同じということを主たる理由としてなされたであろうことは、間違いない。
「碍」は「礙(がい)」の俗字であり、電柱の「碍子(がいし)」(陶製の電気絶縁物)という語から見てわかるように、本字である「礙」も「碍」も、「妨げる」という意味を持つ言葉である。誰かを傷つける、害するという意味はない。あくまでも自分自身にとって、妨げになるという意味であり、「障碍」という意味も、文字通り、自分自身にとって「障り」があり、「妨げ」になるという意味である。
融通無碍(ゆうずうむげ)『一定の考え方にとらわれることなく、 どのような事態にも滞りなく対応できること』(「広辞苑」)。この四字熟語を一つ見るだけで十分であろう。
では、「害」はどうか。
やや、長くなるが、白川静氏の著作を引用し「害」を説明する。(こういう時は、白川氏の著作に限る)
『もとの字は把手(とって)のついた大きな針と口とを組み合わせた形。口は「くち」ではなく、もとの形は「さい(ここには本当は、甲骨文字がくるのだが、どうしてもテキストとしてパソコン上で表記はできない)」で、神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形である。大きな針で「さい」を突き破り、その祈りの効果を傷つけて失わせ、祈りが実現することをじゃまするのが害であるから、害には「きずつける、じゃまする、そこなう」の意味があり、そこなうことによって「わざわい」が生まれるのである。』(白川静著「常用字解」(平凡社)より)
「害」という字は、ある対象があり、その対象に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせることを企図した意味を持っているのである。「害悪」「公害」「有害」「危害」等々、いずれも誰かに、「わざわい」も生じさせるものである。「害虫」は、その虫自身に害があるわけではなく、人間の都合で、害があるとされているだけである。自分自身に「わざわい」をもたらす際は、「自害」とする。
前述したように、「碍」は、「妨げる」という意味であり、「障碍」とは、本人が「妨げ」をもってはいるが、他人を「害」する「障害」とは、全く意味が違うのである。
ちなみに、「碍」の本字の「礙」は、「石」と「疑」とからなる。この「疑」という字は、「もとは、進もうかどうしようかと自分で迷うという意味」(「常用字解」)であったという。そのことからしても、「礙」も、その俗字である「碍」も、あくまでも自分自身における「妨げ」と理解されるものといえる。
「障碍者」とは、「障り」があり、自分自身にとって「妨げ」になるという特性を持った人のことをいい、その特性によって他の人との関係が云々されるというものではない。しかし、「障害者」としてしまうことは、「障り」があり、他の人に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせる人という意味になってしまう。全く違う意味になってしまった。つまり、「障害」というような造語は、「障碍」の書き換えにはなり得ないものである。それとも、「障碍」とは、他者に危害を加えるものという意味を有しているとでも言うのであろうか。それこそ、差別以外の何ものでもない。
そう言えば、最近、一部の学校や地域の運動会では、「障害物競走」なる名称が少なくなってきているという。そのかわり、「山あり谷あり競争」「チャンス競争」(ちょっと違うような気がするが・・)など、別の名前を付けることもあるという。
「障害物競走」なる名称は、「障害者」に対して、失礼だからという考え方かららしいが、これも、乱暴な漢字の書き換えのせいでもある。
この競技の場合は、進路に置いてある飛び箱や平均台は、明らかに、競走者への邪魔をし、スピードを損なわせることを目的とするものであるので、「障害」物競争という漢字は当てはまるのかもしれない。但し、それは、あくまでも人間側の価値観で、「障害」物となっているだけで、そこにおいてある飛び箱や平均台そのものは、決して、「障害」物ではない。
いずれにしても、その名称は、「障碍者」にとっては、何ら関係ないことである。
「障害者」という間違った表記にするから、的外れな気遣いもしなければならない。他の人に、害を及ぼすわけではない「障碍者」からすれば、そのような気遣いは、痛くもない腹を掻き回されたような気分ではないだろうか。
また、時として、「障害」という字を、わざわざ、「障がい」と交ぜ書きにしてある文章に出会うことがある。前回に記したように、ようやく、少しずつではあるが、交ぜ書きを修正していこうという気風が出てきているときに、全くナンセンスである。要らぬ気遣いをするくらいなら、すっきりと、「障碍」と正していくべきである。
最後に、最近、ノーマライゼーションという言葉を耳にする機会が多い。
「障害者に、すべての人がもつ通常の生活を送る権利を可能な限り保障することを目標に社会福祉をすすめること。」(大辞林(三省堂)より)を表わすという。
他者への「わざわい」を生じさせることを意味する「障害者」と名付けることは、既に、その方が、「すべての人がもつ通常の生活を送る権利」を奪われていることに、なりはしないだろうか。当用漢字が公布される以前の、「障碍者」と戻すことこそが、ノーマライゼーションの第一歩といえる。
「ノーマライゼーションな社会を」と唱える方たちの善意を疑うものでは、決してないが、安易にスローガンを口にするよりは、先にしなければならないことがある。
2004年05月05日 (水) 交ぜ書き子供−文化としての日本語その6−
〔交ぜ書きとは〕
今年の1月14日、「これからの時代に求められる日本語力」について審議していた文化審議会国語分科会は、その最終報告をまとめた。その最大の眼目は、小学校の教科書で、「成長」を「せい長」、「骨折」を「こっ折」などと表記する交ぜ書きをやめ、ルビを活用するなどして、早い段階から、漢字表記のまま児童生徒の目に触れさせる大切さを強調したことである。
小学生が学ぶ漢字は1006字で、常用漢字1945字全体の半分程度にとどまっており、小学校卒業までに常用漢字の大半を読めるよう提言もされている。そして、2月の文化審総会で、河村建夫文科相に答申として提出された。
私は、この答申に対して、両手をあげて賛成する。私のこれまでのメルマガ、特に直近の「子供−文化としての日本語その5−」や、「白川文字学への誘い」の中でも述べてきているように、私たち日本の先人は、我が国語の中に、大陸文化の粋を極めた「漢字」というものの持つ表意性を最大限活かし、漢字かな混じり文という、洗練された、独自の国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。
この答申は、その漢字が持つ表意性を、改めて認識し、活かしていこうというものだ。
しかし、残念なことに、先般発表された、平成17年度から使用される小学校教科書検定では、この答申は完全に無視された。文部科学省は、「ルビをつけるのは、当該年度で学ぶ漢字数の3分の1以内」という上限を決め、常用漢字のルビ付けを、基本的には認めるということをしなかった。
私は、行政が審議会の言うがままに従うことが、必ずしも望ましいとは思わない。しかしながら、今回の件は、審議会の答申内容が賛同できるものであっただけに、非常に残念だ。
なぜ、文部科学省は、常用漢字のルビ付けを認めなかったのか。
文部科学省は、たとえルビ付きであっても、新しい漢字があれば、教師はそれを教えなけれならず、大きな負担になるとその理由を説明している。しかし、本当の所の理由、それは、以下の鈴木孝夫の言葉に尽きるのではないだろうか。
『文部省、いや、文部科学省っていうのか、あそこがやたらに漢字制限をするでしょう。あれは、読める漢字と書ける漢字とが一致するものだという誤解から生まれたものですよ。読める字は、書ける字の百倍くらいある。いや、千倍くらいかな。』(「日本・日本語・日本人」(新潮選書)より)
読める字は、書ける字の千倍はともかく、やはり、百倍くらいはあるのではないだろうか。というより、そうでなければならない。「薔薇」なんていう漢字を書ける人は、ほとんどいないであろうが、多くの人は「ばら」と読めるのではないだろうか。そんな例は、どれだけでもある。
しかし、もっと根源的なことを考えれば、一体、「常用漢字」というものは何かということであり、本当に、必要なものなのかどうか、もしくは、その必要性は認めるとして、果たして現在の基準で適正なものなのかということに対して、もう少し疑問を持ってもよいのではないだろうか。
〔当用漢字と常用漢字の成り立ち〕
昭和22年、敗戦後の混乱期に公布された「当用漢字表」は、漢字の使用を僅か1850字に制限するというものであった。しかも、どうやら、その1850字という数字に何ら合理的な根拠があったわけではなさそうである。この不合理極まりない漢字制限が、我が国語に与えた弊害は捨てて置けないものがある。
特に、影響が大きかったのは、この当用漢字表の前文にあった次の記述である。
「この表の漢字で書きあらわせないことばは、別のことばにかえるか、または、かな書きにする。ふりがなは、原則として使わない。」
つまり、当用漢字とは、広く社会一般に対し強い拘束力をもつものであり、これまで使われていた漢字であっても、それが、当用漢字表にない場合(表外字)は、他の語への置き換え、他の字への書き換えを行う。また、そのことがどうしても叶わない場合は、ふりがなも使えないので、漢字とかなを混在させた「交ぜ書き」で対処するしかなかったのである。
それが、「交ぜ書き」が定着(?)した理由である。
その後、昭和47年の当用漢字表の改定を経て、無理な漢字制限を緩和し、漢字使用実態に近づけようと、昭和56年、制限的な意味合いを持つ当用漢字に代わり、「目安」としての常用漢字1945字が制定された。しかし、いくら「目安」といわれても、中央集権国家である我が日本では、所詮、制限幅がいくらか緩やかになっただけで、その枠を越えてはいけないという意識は変わりはしなかった。
では、なぜ、根拠のない1850字なんていう当用漢字なんかが決められたのか。
当時、進駐軍アメリカからすれば、漢字なんていう分りにくい文字よりも、ローマ字で統一した方が良いという考え方があったことは間違いない。実際、アメリカは、その前段として占領費から予算を計上して、日本人の識字率を調べるという作業を行っている。結果、あの難解な漢字を含めた日本語に対する日本人の識字率が、アメリカ国内の識字率よりも高いということが分り、アメリカも方針を転換したということである。しかし、一度決めた占領軍の方針に信奉する識者も多く、当時の国語審議会でもローマ字論者が幅を利かせ、漢字抑制に動いたそうである。
以上は、当時、一時的に国語審議会の委員(しかし、当時、そんなものがあったのかな?名称はともかく、そのような役割を担った会のことだと思う)を務め、日本語の大切さを諄諄と説いたため、お払い箱になったという大野晋の談によるものである。(「日本・日本語・日本人」(新潮選書)より)
なにしろ、あの志賀直哉(ご存知、小説の神様と言われている人なのに)でさえ漢字廃止をとなえ、梅棹忠夫(文化勲章及び勲一等瑞宝章を受章しているような人なのに)なんて、今でもローマ字を国語にすべきと言っている状況を考えると、それだけで、あの時代における敗戦の大きさというものが窺い知れるというものだ。
〔当用漢字、常用漢字の弊害〕
さて、当用漢字、常用漢字ができたことにより、前述したように、表外字に対する、他の字への書き換えも行なわれ、その結果、その言葉の意味すること自体が曖昧に、時には、違う意味合いに変わってしまう例も少なくない。
三つだけ例を挙げる。
一つ目。「濫」と「乱」。
「濫」は当用漢字でなかったがために、「濫用(乱用)」「濫読(乱読)」「濫発(乱発)」と、それぞれ「乱」に書き換えられて使われるようになった。しかし、「濫」は、もとは水があふれ拡がることをいい、「はびこる、みなぎる、あふれる」の意味、ひいては「みだれる」意に用いられるようになった。糸のほぐれを意味する「乱」では、度を過ぎてあふれ出るという意味が伝わってこない。「乱読」は無目的に乱れ読むことであるが、「濫読」は、ある目的にそって、あふれんばかりの分量の書物を読み込むという意である。「乱用」は、何の脈略もなく、みだりに使用するという意味だが、「濫用」は、幅広い用途があるという意味を含んでいる。微妙に、いや、大きく違ってはいないだろうか。
二つ目。「義捐(ぎえん)」と「義援」。
「捐」という字が当用漢字表にないという理由から、それと音が同じ「援」で書き換え、「義援」と表記されるようになり、既にその字が一般的になっている。「捐」という漢字は、「すてる」「放棄する」さらには、「えぐりとる」という意味を持つ。つまり、「義捐」とは、非常に大切なもの(例えばお金)を、大変惜しいけれども義のためとあるならば投げ打つ、自分も決して楽ではないが、義のために、自分自身から「えぐりとる」という、非常に葛藤に満ちた言葉である。しかし、「義援」と書いてしまうと、虎の子をえぐりとるという葛藤に満ちた行為を、余裕のある人が行う、非常にビューティフルな慈善事業にしてしまう。また、受けとる側にとっても、えぐりとられた人の葛藤を察しにくくなってはいないだろうか。
「義捐」を受けるとは、温かい気持ちを受けとるという意味だけではないのである。相手の葛藤を感じとらなければならない。大きな大きな負荷をも併せて受けとめなくてはいけない。
三つ目。「疏」と「疎」。
「疎」の本字である「疏」は、よどみなく流れる、よく通るという意味と同時に、「うとい、あらい」という意も有する。一方、「疎」には、結束のゆるやかなことをいう意味、つまり、「うとい、あらい」という意味があるが、よく通るという意味を持ち合わせてはいない。そのため、「疏遠(疎遠)」「疏略(疎略)」等、「うとい、あらい」を意味する場合は、「疏」と「疎」、ともに使われるが、「お互いの意見がよく通じ合って、誤解などのないこと」を表わす「疏通」の場合、「疎通」という字は当たらない。「疎」には、よく通るという意味はないからだ。
しかしながら、「疏」は当用漢字にないがために、「疎」という字をかわりにあて、「疏通」を「疎通」と書き換えてしまっている。とんでもないことである。全く逆の意味になってしまっている。「疏通」という字はありえても、「疎通」は意味をなさない。あえて言えば、「意見が通じ合わない、誤解があること」ということになる・・・。全く正反対。「疏通」を「疎通」に書き換えることは、安直にも程がある。
他にも、「燻」と「薫」、「碍」と「害」など、説明していくと、それだけで一つの大論文になってしまう事例も多い。次回、もう少し詳しくまとめたい。
さて、常用漢字表と、現実に社会で使用されている漢字の間には、まだまだズレがあり、一般には何の問題もなく使用されている表記であるのに、新聞や官公庁などだけが交ぜ書きとなっているケースがよくある。「真し」「痴ほう」「啓もう」「安ど」「払しょく」などである。
また、特定の事件が繰り返し報道されることで、いつの間にか表外字が定着してしまうことがある。同時多発テロ後にばらまかれた生物兵器は、当初は「炭そ菌」と書かれていたが、一ヶ月もしないうちに「炭疽菌」という純粋な漢字表記に変わった。北朝鮮による「拉致」問題も、当初は、「ら致」と報道されていたが、いつも間にか、漢字で統一された。
このように、現実が常用漢字表を通り越すような事例も増えてきている。「迂回」「卑怯」なども、最近は漢字表記が多くなってきているような気がする。(「迂」も「怯」も常用漢字でない!)
常用漢字表の基準に、疑問を感じる例をもう一つあげる。
それは、常用漢字で書けない県名が沢山あるということだ。それもさほど難しい漢字ではない。埼玉の「埼」、岡山、福岡の「岡」、岐阜「阜」、茨城の「茨」、栃木の「栃」、山梨の「梨」、奈良の「奈」、大阪の「阪」、愛媛の「媛」、熊本の「熊」、鹿児島の「鹿」、全て表外字である。このことは、私も知らなかった。今回、調べて初めて知った。ただし新聞では使用されている。「岡」や「鹿」なんて、習っていなくても、小学生でも書けるのではないか。
また、日本文化を代表する歌舞伎の「伎」、浄瑠璃では「瑠璃」、長唄の「唄」、箏曲の「筝」がないのも残念だ。
その一方で、一体誰が使うのかと思うような字も常用漢字表に入っている。特に驚いたのは「朕」「勅」「璽」の三字。皇室関係であることは明らかだ。私でも書けない。「璽」なんて、読めない人も多いのでは。
さらに大きな問題なのは、熟字訓である。
熟字訓とは、二文字以上になって、初めて読み方が確定する訓読みをいう。「玄人(くろうと)」「息子(むすこ)」「百日紅(さるすべり)」などである。漢字一つ一つに、ふりがなを付けることはできない。「くろう人」「むす子」とは、なり得ない。繰り返すが、二文字以上になって、初めて読み方が確定するものだからだ。無論、これは、当て字の極みではあるが、醸成された日本文化の賜物でもある。
そんな価値観などは関係なく、こちらも常用漢字音訓表なるものによって定められている。しかし、この基準も好い加減なものである。「息子」「伯父、叔父」「乳母」などがあるのに、「大人」も「子供」も入っていない。「凸凹(でこぼこ)」はあるのに「凹凸(おうとつ)」はない。「五月(さつき)晴れ」はあるのに「弥生(やよい)」はない。「煙管(きせる)」も「狼煙(のろし)」もない。
後段のいくつかの事例はともかく、「大人」「子供」くらいは入れておいても良いのではないだろうか。いや、これこそ、熟字訓の常用漢字音訓表なんてなくしてしまえば良い。本当に、いらない。混乱、誤解を招きかねないだけである。
〔最近の新聞の傾向〕
最近の日本語ブームのおかげか、はたまた、幼少期から学校教育の中で、安易に英語をカリキュラム化していこうという流れの反作用からか、新聞各紙において、正しい日本語を志向しようという動き、ひいては、交ぜ書きに対する見直しがみられるようになってきた。
いくつかの新聞において、コーナーとしてルビをつけるページも出てきた。そんな中、地元紙北國新聞では、この4月から、通常記事の中でも、交ぜ書きをなくするようにし、少々、難しい漢字には、臆することなくルビを付けていくようにしているようだ。私のこれまでのメルマガを読んでくれていたのかな・・・。
〔問題意識を持ちたい〕
小学校2年生の教科書に、次のような記述が見られるそうだ。
「近じょのえらい人ぶつにせつ明する用いがあると言う」
「子どもがじゅん番にかん字を書しゃする」
「原こうれい」
その意味するところの正解は、パズルを解くように、じっくり考えてもらうこととして、なぜ、こういうような表記が出てくるのか。それは、冒頭でも述べたように、習っていない漢字は、子供たちに見せないという、文部科学省の基本方針があるからである。
常用漢字のあり方の議論はさておいて、まずは、漢字の表意性を意識させ、国語力・想像力を養っていくためにも、その常用漢字くらいは、未だ習っていなくても漢字表記とし、ルビをつけていくべきである。少なくとも、学年によって、もう少し積極的な基準を作って対応し、交ぜ書きくらいはなくしていくべきではないだろうか。
上記のような文例を見て、発展途上、教育途上だから仕方がないと割り切るのか、それとも、たとえいくらかであっても、なんらかの違和感を覚えるのか。
私が問題提起したいのはそれだけである。
2004年03月16日 (火) 白川文字学への誘い
「字統」「字訓」「字通」のいわゆる「字書三部作」で有名な白川静氏が、昨年末に「常用字解」という白川文字学の入門編ともいえる著作を新たに出版した。
年末年始をいつも慌しく過ごしている私は、1月の中頃に買い求め、それ以来、常に手の届く所に置いておき、時折、拾い読みをしている。
白川文字学とは、漢字成立期の資料である甲骨文字や、殷・周時代の青銅器の銘文、いわゆる金文などから、漢字の成立の過程を含めた、字様の成立・変化の状態を系統的にまとめたものである。漢字の表意性というものを強く意識させてくれるものだ。しかし、前述した三部作はあまりにもボリュームがあり過ぎるし、価格面からもなかなか手が出ない。私は、気になって仕方がない調べものがある時に、本屋さん(しかも、普通の本屋さんにはあまり置いていない)で立ち読み(調べ)するか、図書館に行った時に読み込むくらいであった。この度出された「常用字解」は、いわゆる常用漢字に絞って、「主として中・高生を対象として解説することを試みた」(「常用字解の編集について」より)もので、前述したように、まさに漢字の成り立ちを知る入門編といえるものだ。
しかし、常用漢字に絞ったといっても、その漢字の成り立ちそのものが、常用漢字以外の漢字がその要素になっていることも多いので、そこから解説することが必要となってくる。常用漢字というものの曖昧さがあぶり出されてくる。
白川氏の著作を読んでいると、漢字本来の持つ意味に触れることができ、巷で溢れている通俗的解釈の愛想らしさ、時には、胡散臭さというものに微笑ましく感じることもある。
その愛想らしい例と胡散臭い例を各々一つだけとりあげる。
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まず、愛想らしい方、「親」。
「親」という字は、子供が心配で、木の上に立って、その様子を見ている姿を表わしているものだと、私はよく聞かされてきた。漢字の持つ表意性という点からいっても、妙に説得力があるように感じていた。自分が子を持つ親になり、なおさら切実に感じるようにもなった。しかし、それでは、同じ「へん」を持つ新や薪が説明できない。木の上に立って、その木を斤(おの)で切ったら、自分が落ちて怪我をしてしまう。落ちた先が草むらの中で、自分と一緒に落ちてきた木が薪(たきぎ)か・・・。乱暴な解釈だ。
そこで、「常用字解」。
「親」という字は、立と木と見とを組み合わせたものに見えるが、この「立」は、元々は「辛」であり、辛とは取っ手のついた大きな針のことである。自分の親が亡くなり、その位牌を作る際、この針を投げて、その木を選ぶ。その新しく作られた位牌をじっと見て拝む形が「親」である。そして、その木を斤(おの)で新しく切り出すことが「新」であり、位牌を作って残った切れ端の木を「薪」といい、祭りの時に「たきぎ」として利用されたという。
金文の中には「?(親にウ冠)」の字も見られ、「宀」とは、祖先の霊をまつる廟の屋根の形で、まさに廟そのものを表わす。廟の中で新しい位牌を拝んでくれるのは「親しい」間柄であり、「親族」である。
次、胡散臭い方、「婦」
一時期、ある強い思い込みを持った方たちが、「婦人」という字は、箒(ほうき)を持って掃除するのは女性だと決め付けるものであるから、使用すべきでないと大騒ぎし、世の「婦人」とついた名をことごとく否定して回ったことがあった。婦人センターを女性センターに、婦人部を女性部に、婦人用を女性用に、等々。
「常用字解」では、以下の様にきちんと説明されている。
「帚(そう)は木の先端を細かく裂いた箒(ほうき)の形をしたもので、これに香をつけた酒をふりかけ、祖先の霊を祭る廟の中を清めるために使用した。」「婦は廟の中を祓い清め、祖先に仕えるという、家にあっては重要な職分を担当したのである。」とし、「服従するもの」「掃除をする(ごみやほこりを取り除いてきれいにする)者であるとする」という理解は、「婦のもともとの意味とははなはだ間違った解釈である。」と静かに諭している。
その他にも、漢字の成り立ちから、その字本来が持つ意味を知っていくこともおもしろいが、さらに、読み込んでいく中で、違う観点から漢字を見ていくことも、知の営みとしては興味深い。
「訓読み」を切り口として横断的に調べていくという遊び方だ。
一つだけ例をあげる。「おもう」。
「おもう」は元々は、おも(面、顔)が動詞化したもので、顔の表情が変わることを指すということは、容易に理解できるところであろう。
ところが、漢字の「思う」が当てられることによって、その意味が進化していく。「田」は元は、「?(ひよめき)」つまり、頭脳の形で、それに「心」を加えて、現代の私たちが一般的に使う意味で、「思う」が定着してくる。
別の漢字「想う」は、「生い茂った木の姿を見ることによって、見る者の生命力を盛んにする魂振りの儀式」をいい、「遠く思いを馳せる、思いやるの意味」を表わす。(想像、回想、愛想等)。
もう一つ「念う」は、「今」は詮のついている蓋(ふた)の形で、その蓋で心を閉じ込める。心中に深く思うことを「念う」と表わす。(執念、念願、一念等)。
他にも、「おもう」を表わす漢字がいくつもある。そのうち三つをあげただけだが、顔の表情が変わるという単純な言葉であった「おもう」が、漢字に触れることによって、深みを増していったことが分る。それが日本語、国語の文化そのものである。
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前回のメルマガ「子供―文化としての日本語その5改訂版―」でも述べたが、私たち日本の先人は、漢字の持つ表意性を最大限活かし、漢字かな混じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。
人間の思考は、例え頭脳の中だけであったとしても、言葉でその行為をする以上、その人の所有する語彙の範囲を超えられるものではない。これまで触れてきたように、私たち日本の先人は、かなに漢字の持つ表意性を最大限活かし、言葉に文化的深みを与えてきた。どのレベルをもって、必要十分なものといえるかは、個々によるものであろうが、一つだけ忘れてはならないことがある。
人前で話す技術、すなわち文字通り「話術」は、数をこなすことによって、慣れによって、それなりに上達することはできる。しかし、話しの内容は、いくら場数を踏んでも、容易に、その深みを増すことはできない。話術の向上の中で、ごまかせる部分もあるかもしれないが、薄っぺらいものだ(自分自身の経験)。慣れは、技術的な進化はもたらすことはあっても、質的な深化に繋がることは、ほとんどあり得ない。知的に刺激的で豊潤な内容の話しをするには、文化としての国語に触れていくしかないと私は思っている。しかも、数多く触れていくしかないのではないだろうか。
特に、私のような必ずしも十分な経験を積んでいるとはいえない者は、もっと多くの方の話を聞き、もっと多くの本を通して、もっと多くのことを学んでいかなければいけないと覚悟を決めている。
2004年03月02日 (火) 子供−文化としての日本語その5改訂版−
一昨年末、私にとっての二冊目の本を刊行した。多くの方から色々なご意見をいただいた。
本の内容はともかく、本を刊行したこと自体に対してご評価をしていただくことが多い。直接私に話されることであるから、概ね耳あたりのよいお言葉が多い中、ある方から次のようなご指摘を受けた。
「『平仮名』が多すぎる。読み易いように意識したのかもしれないが、漢字で書いた方が自然な場合は、平仮名記述にすると、かえって読みづらいことも多い。」
確かに、私も迷った末、「言う」はすべて「いう」にしたり、「分る」を「わかる」としたりした。ご指摘の通り、かえって読みづらかったかもしれないと反省している。
ただ、平仮名記述にこだわりたい表記もある。
「ありがとうございます」という言い回しだ。時々、「有り難う御座います」と書かれているものも見かけるが、やはり、温かみやぬくもり、優しさがあまり感じられないような気がする。事務的、機械的な感が強い。「ありがとうございます」の方がお気に入りだ。
一方、平仮名ではなく、漢字にこだわりたい表記もある。
「子供」である。「子ども」は使わない。私も三年ほども前までは、「子ども」を使うこともあったが、一昨年あたりからは、「子供」しか使わないようにした。平仮名を使用する場合は、すべて平仮名。「こども」と表記する。
以下、その理由を文法的、文化的に述べていく。
もっとも、浅学非才な私が新説を披露できるわけではなく(特に文法的な部分)、ほとんどが受け売りに近いものかもしれないが、それほど関心持たれないテーマを、私なりの価値観で整理し、できる限り分り易くまとめたものとご理解いただきたい。
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一般的に、文字の発生、普及は文化・文明の熟度に比例すると思われがちであるが、歴史を紐解いてみると、必ずしもそうではないことが分る。
世界最古の文字とされる、紀元前3000年頃のシュメール文明の言語は、商売における契約から必然的に生まれたものである。
つまり、社会階層の出現と文字の発生、普及は密接に関連しているということだ。主従関係や契約の概念等が、当事者同士で確認するだけであれば文字の必要性はない。口承だけで、信頼関係を打ち立てることができる。しかし、主従関係や契約の概念を第三者に提示し、そのことの拘束力を高めていく為には、文字をもって広く内外にアピールする必要が出てくる。
文字の発生である。
そのことと文化・文明の発達状況とは、必ずしも一致するものではない。支配、被支配の関係がまだまだ薄く、口承で多くのことがすまされた縄文、弥生時代の文化の高さを見るだけで、その説明は要らないであろう。このテーマだけでも大論文になってしまうので、後日に委ねる。
さて、日本語(以下、国語と記す。その方が、正しい認識であると思われる。)である。
言わずもがなではあるが、律令国家形成の為には、文字が必要とされるようになった。法律を書き上げなければならない。また、仏教、儒教などを吸収する為には、漢語を読まなければならない。
一般的に、7世紀くらいには既に口語としての国語が確立されており、そこに漢字という圧倒的な先進文化が用いている文字が入ってきた。
しかし、私たちの祖先はその文化の中に呑み込まれることなく、わが国語の中に漢字を取り入れる工夫をして、漢字仮名交じり文という洗練された国語の表記法を作り上げてきた。大陸文化を主体的に日本文化の中に取り込んできた。
お隣の朝鮮半島各国との決定的な違いである。これは優劣の問題ではなく、文化や価値観の問題である。こちらも後日、詳細にまとめたい。今回は、割愛。
漢字を取り入れてきたわが国語の特徴の最大のものは、「仮名」の発明であることは、誰もが認めるところであろう。よって、詳しくは述べない。
また、「仮名」と並んで、わが国の言葉を豊潤なものにしたものとして、「訓読み」の発明があげられる。そのことによって、漢字の持つ表意性をそのまま国語に反映させることができた。
国語の「ち」という音節が表わす、「地」や「知」、「血」、「稚」、さらには「恥」等は、そうした漢字を用いることによって語としての分節を安定的にすることができた。「訓読み」と言えば聞こえは良いが、要するに「当て字」の活用である。しかし、その工夫がどれだけ国語に力を与えてくれたことか。文化を作っていってくれたことか。
一般に、どのような言語であれ、その成立、普及の裏側には、その言語独自の文化が隠されている。否、独自の文化が内包されてこそ、言語というものが成立し、それらが豊潤になっていく過程が、言語の普及そのものであると言っても過言ではない。私が「文化としての日本語」にこだわる所以でもある。
さて、「子供」。
ここまでお読みいただいた方にはご理解いただけると思うが、「供」は「ども」の当て字である。さらに言えば、「子供」という漢字は「こども」の当て字なのである。つまり、「子供」とは熟字訓といえるものなのであって、「子供」と書かれることによって、初めて国語としての言葉が成立しているのである。
「弥生」という字をもってはじめて「やよい」と読めるのであり、「十六夜」という漢字をもってのみ、「いざよい」と発音するのである。それらは、漢字一文字一文字にふりがなをつけることはできない。「やよ生」とも「いざ夜」とも書かない。間違っている。
全く同じように、「こども」を漢字表記するには、「子供」と書くことによってのみ成立するのである。「子」と「供」とに分けて、ふりがなをつけることはできない。「子供」という表記でもって、「こども」の漢字が成るのである。
ついでに、「大人」は「おとな」の当て字であることは容易に理解できるところであろう。「子ども」と表わすことは、「大とな」「おと人」と表記することと全く同じことなのである。前述したように、「弥生」を「やよ生」、「十六夜」を「いざ夜」と書くようなものである。わが国語の歴史が、そのことを物語っている。
余談。この漢字の「大人」が一人歩きして、対になる語として「小人」という漢字を見かけることもある。中国の古典では、「小人」と書いて、「つまらない人間」を意味することが多いため(『小人閑居して不善をなす』が有名)か、違和感を持つことではあるが、長い目で見れば、このような営みが国語の厚みを作っていくのかもしれない。ちなみに、この場合の「小人」は、「大人」との対比の中で造語されたものであるから、やはり「こども」と発音することが自然だと思われる。しかし、さすがに、「小人」はまだ、市民権を獲得した言葉とは思えないが、いかがだろうか。
では、なぜ、「子ども」表記がこれほど流布するようになったのか。
それは、どうやら日本共産党(以下、共産党)が流布させたようである。
共産党は既に70年代から「しんぶん赤旗」において、「子ども」表記に統一していたという。その理由として、共産党は、「民主主義と人権の運動のなかで子どもは、戦前のように、おとなの「お供」でも、神仏の「お供え」でもない、人権を持った人間だという考えにもとづいています。」と述べている。
ここまで、私の駄文にお付き合いいただいた方には、共産党の解釈は、完全な間違いであることに気付かれたことでしょう。
共産党は、私たちの先人が作ってきた国語の最大の特徴でもある、「訓読み」というものを知らないのか。認めたくないのか。「子供」の「供」は、『おとなの「お供」でも、神仏の「お供え」でもな』く、字訓を当てたものであり、前述したように「熟字訓」そのものである。
もう一点付け加える。
「字統」「字訓」「字通」のいわゆる「字書三部作」で有名な白川静氏が、昨年末に「常用字解」という白川文字学の入門編ともいえる著作を新たに出版した。その中に、「供」の解説として以下のように書かれている。
『供は両手で物を「そなえる、もうける(用意する)」の意味に使う。国語では「とも」とよみ、お供(付きそって行くこと。また、その人)のように用いるのは、供を伴(とも、つれ)の意味に誤って使用したものである。』
つまり、共産党のいう『おとなの「お供」でもない』とする主張は、その前提である、『おとなの「お供」』という考え方自体が、漢字の使い方として間違っているのである。『供を伴(とも、つれ)の意味に誤って使用したもの』であることに気づいていない。
一見、耳あたりの良い言葉を並べ立てて、国民をある意図した方向性にもっていこうというのは、共産党の常套手段である。また、いわゆる紙爆弾(特に選挙が近づくと、毎日のように、共産党のビラが郵便受けの中に入れられている。)で少しずつ、自分たちの思い込みを、善良なる市民にすり込んでいこうとする。
私は、その手法を批判しているのではない。自分たちの思想を広めていく一つの手段として認めてはいるが、間違ったことを喧伝するのは良くない。
私は以前は、「子ども」という表記も使用していたことも既に述べた。実際、旧文部省でも昭和56年の内閣告示「常用漢字表」以降は、文化庁発行「言葉に関する問答集」の中で、「公用文関係などでは、やはり、「子供」の表記を採っておいてよいと思われる。」と「子供」表記が正しいとしながらも、それほど強い口調で述べているわけでもない。その影響もあったのかもしれない。
また、『おとなの「お供」でも』ないと聞くに及んでも、違和感を持ちながらも、やはり、強く抗うこともなかった。しかし、私は文化としての国語についての勉強も重ねていくにつれ、また、間違った国語観に触れるに及び、憤然と「子供」に統一するようにした。
共産党絡みで、余談を一つ。15年3月金沢市議会で共産党から出された意見書には、内容は忘れたが、「子供」と書かれたものがあった。何のことはない。赤旗にあれだけ仰々しく掲げている共産党でさえ、考え方が統一されていないのだ。
共産党云々はともかくとして、やはり、意識するとしないとに関わらず、文化的営みとして言葉を使用する以上、ある程度の知識人としては節度を持った対応をすべきであろう。
そして、その知識の粋を一般的にしてくれるはずのものが新聞であるが、その新聞はどうか。
驚いた。
ほとんどの新聞は、何の問題意識も持ってはいない。歴史観や教育観が比較的似通っていると思われる読売新聞や地元紙北國新聞、また、その対比にあるといわれる、朝日新聞、毎日新聞、さらにはもう一つの地元紙北陸中日新聞。全て、「子供」、「子ども」両方の表記が入り乱れている。何の統一的な基準もないのであろうか。日経もそうであった。専門紙や業界紙は改めて調べてはいないが、似たようなものだろう。そんな中、産経新聞だけは、「子供」でほぼ統一しているようだ。
おかしな話だ。
新聞は、基本的には常用漢字を使用して、記事を書いているはずである。固有名詞は別にして、ほんの一部を除いては常用漢字以外は使用しないということなので、「真し」「痴ほう」「啓もう」「安ど」「払しょく」などという、意味不明の言葉を羅列することも出てくる。
しかし、常用漢字として、「子」という漢字は小学校1年生で習い、「供」は6年生で習得するという。であるならば、中学生以上の年齢では、「子供」と書くべきであり、ましてや新聞の記述としては、そうするのが当たり前のことである。それとも「子ども」という固有名詞が存在しているとでもいうのであろうか。
すっかり長くなった。
最後に一点だけ。
私は、子供は大人の「お供」であって(間違った表記ではあるが)、どこが悪いと言いたい。
子供とはもちろん、日本国憲法で言うところの「基本的人権」を有していることは当然ではあるが、社会生活を送っていく上での、権利や資格、義務、理性などは、全く有していない存在である。私は、それらを学んでいくことことが、まさに教育であると思っている。
その為には、大人は、それら権利、資格のみならず、それらを裏付ける義務や責任を背負っていなければならない。少なくともその為に最大限の努力をしている姿勢を、子供たちに見せなければならない。そういう大人に指導されることによって、初めて、子供は成長していくのではないだろうか。そのことこそが教育であると信じている。
大人と子供とは同じではない。違うのである。その違いによって差別や抑圧を感じさせることは絶対あってはならないが、その違いを認識、尊重することが大切である。
もう一つだけ。
ここまで書いてきてなんだが、私は、「子供」と「子ども」との表記にそれほど、目くじらを立ててはいない。しかし、これまで述べてきたことを全て分った上で呑み込むことと、何も知らないまま、流されていくということとは、やはり、違うのである。
2004年02月10日 (火) 「坂の上の雲」の役割
今年は日露戦争開戦からちょうど100年目にあたる。そして、本日2月10日が、宣戦布告したまさにその日である。
多くの新聞紙上においても、連載物や社説、コラム等々で取り上げられているので、ここでは、日露戦争の意義について、その詳細には触れない。
ただ、この日露戦争及びその2年前に結ばれた日英同盟が、近現代日本史において、最も大きな転換点であったということは、改めて確認しておかなければならない。私の考えは、私のメルマガ「日英同盟締結100周年」の中で、述べさせていただいているが、一点付け加えるならば、日露戦争は、近現代日本史においてだけではなく、近現代欧州史においても、結果的にではあるが、大きな転機をもたらすことになった。
日本とイギリスは日英同盟を結んだが、一方では、既にロシアはフランスと同盟関係(露仏同盟)にあった。日露戦争により、間接的とはいえ英国と仏国とが敵対関係になることは、英仏両国にとって、対ドイツ戦略上、好ましいことではない。よって、1904年には、英仏協商が結ばれることになる。敵の敵は味方というやつである。もちろん、それらは日本が企図したものではないが、その対立軸の中から、第一次世界大戦に繋がっていくことになる。
もう一つ、あまり触れられないことではあるが、私は日露戦争の遠因は、アヘン戦争にあると思っている。これも詳細は割愛するが、アヘン戦争により、アジアという後進地域は、欧州帝国主義のもとに、何の大義もなく、容易に、不条理に搾取され続け得るということが、明白になった。そのことが、欧州帝国主義、特にロシアの領土膨張主義と相俟って、当時の日本の危機感を形作ることになっていった。明治維新において、その視点は欠かすことはできない。さらに、1895年の三国干渉に出くわすにあたっては、その危機感は、はるかに現実味を帯びたものとなってきた。
世界史的な観点からみれば、ボーア戦争も、日露戦争に並ぶ大きな転換点であったが、今回は触れない。機会があれば、まとめてみたい。
さて、上記のような近現代日本史及び欧州史、世界史における日露戦争の分析はもちろん、これも、日本自身が企図していたものではなかったであろうが、日露戦争後、アジアやアフリカの民族独立運動に大きな希望を与え、その後の、欧米列強の植民地支配からの打破に繋がっていったという歴史的事実さえ、長く、語られることはタブー視されていた。
それは、第二次世界大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策のもと、日本の過去の多くが間違ったものであると、決め付けられたことの影響が大きい。占領が終わり、日本が主権を回復した後も、その風潮が根強く残った。
その暗く陰鬱とした風潮に風穴を開けたのは、司馬遼太郎の大作「坂の上の雲」である。
戦争を語ることさえタブー視されていた中、困難な戦争に、英知を絞って立ち向かっていった明治の群像を生き生きと描いている。正岡子規、夏目漱石、秋山好古、真之兄弟等々。
この小説は、私の最も好きな小説の一つであるし、日本人としての、静かな矜持を感じさせてくれるものである。
厚めの文庫本で8巻にわたる大作でもあるので、私は、人に勧める際には、全て読まなくても、「あとがき」だけは読んでみてはどうかと言っている。
特に、以下の部分が、この小説の全てでさえあると思っている。
「この長い物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがて彼らは日露戦争という途方もない大仕事に無我夢中で首を突っ込んでゆく。最終的にはこのつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっとも古い大国の1つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうと思っている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう」
やはり、小説を読み終えてからでないと、この言わんとするところは伝わらないかもしれない。しかし、このあとがきが、どれだけ多くの私たち日本人の目を開いてくれたことか。客観的な歴史的事実を正視できるものさしを与えてくれたことか。現在でも、丸の内のビジネスマンに最も読まれている作品であるということを考えると、その影響力の大きさは、計り知れないものがある。
さて、その「坂の上の雲」を基軸としたまちづくりに取り組んでいるのが、先に挙げた正岡子規、秋山好古、真之兄弟の出生地である松山市の市長である中村時広氏だ。詳細は、中村市長のホームページをご覧いただければと思うが、この度、私の会にお越しいただき、その思いを語っていただけることになった。2月13日の午後6時から金沢市内のホテルで予定している。
この時期に、「『坂の上の雲』のまちづくり」と題した中村市長の講演を聞き、今一度、現在の日本を見つめ直してみたい。
2004年01月12日 (月) さしたる仔細はない
昨年末に、NHK大河ドラマ「武蔵」の総集編を見た。と言っても、ほんの30分ほどであったが、年間を通じての低視聴率であったという、その理由の一端が分ったような気がした。
一体、私たちが、歴史上の人物に対して持つイメージというものは、その人物を取り上げた作家の力量によるところが大きい。否、正確に言うと、作家たちが作品上に作り上げてきた、その歴史上の人物のイメージを、私たちは、一方的に信じ込んでしまうということが多い。さらに、その思い込みの深度は、それら作品の売れ行きに正比例しているとも言える。
信長、秀吉、家康くらいになれば、その印象は一人の作家の影響下にあるものではないが、多くの場合、それは否定できないことである。
例えば、坂本竜馬。
多くの日本人は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によって、竜馬のほとんどの印象が作られているといっても過言ではない。その作品の前半部分は、何とかというよく分らない泥棒などが幅をきかせているなど、司馬遼太郎の創作の部分が多いが、書き進められていくにつれ、だんだんと硬質な作品となっていく。いわば、司馬遼太郎の中で、「時代小説」から「歴史小説」へと意識が転じてきたものと思われる。しかし、私たち一般の読者は、その「時代小説」的な部分も含めて、坂本竜馬のイメージを持ってしまっている。
もっと顕著なのは、宮本武蔵である。宮本武蔵に対して持つ、私たち日本人のイメージは、ほぼ100%、吉川英治の「宮本武蔵」によるものと言える。漫画の影響を言う方もいるが、その漫画も既に、吉川「武蔵」の影響下にあるものである。
宮本武蔵のイメージを、一口に言えば、修行僧的に剣の道の本髄を求め、ついには、人間としての生き方そのものを問うといったようなものであろうか。少なくとも、私はそう思っているし、武蔵について書かれたものは全てそのことを前提に書かれているようだ。
武蔵は、江戸時代初期の人物であるが、意外にその資料が少なく、有名な「五輪書」でさえ、本人が書いたものかどうか怪しいという。おそらく後世の作家か弟子が書き上げたものであろう。
最初に、大作として仕上げられた吉川「武蔵」が、あまりにも偉大すぎたがために、その印象が一人歩きしてしまっている。
そんな中、全く違う武蔵像を描き、成功を治めていると思われる、ほとんど唯一と言ってもよい作品がある。
山本周五郎の「よじょう」である。
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物語は、宮本武蔵に、ある包丁人が切られたところから始まる。そんなことは、「さしたる仔細はない」として始まっている。
その切り殺された包丁人には、どうにもならない、ぐれた息子岩太がいた。彼の兄は、父の死を機に、岩太に勘当を言い渡す。
ここに、岩太はついに決心をして、乞食になることにした。そこで、掘っ建て小屋を建てて、乞食を始めた。と、ここで異変が起こる。何を勘違いしたのか、人々が集まってきて、金やら食べ物やらを持ってくるようになった。さらには、岩太を捨てたはずの女たちさえが戻ってきた。
何があったのか。
実は、人々は、岩太が父の仇を討とうとしていると勘違いしていたのだ。
『「こいつは大笑いだ」岩太は笑い出した。「ばかなやつらだ、みんな底抜けだ」
彼はげらげら笑った。笑えば笑うほど可笑しくなって。しまいには腹の皮が痛くなった』
さらには、宮本武蔵自身までが、朝夕の二回、わざわざ、小屋の前に来て、挑発するわけではないが、突っ立っていくのである。
『「かかるんならかかれというわけさ、おもしれえの何の、そうやってる格好はまるで見栄の固まりよ、わざわざ控え家へ移ったのも、きっかけを呉れてやろうという見栄だろう、へっへ」』
岩太は、貰った金はすべて貯め込み、さらには貰ったもののうち売れるものは、やはり金に換えて貯め込んだ。そして、逃げ出す日を待っていた。
そうこうしていたある朝早く、岩太は武蔵の従者の訪問を受けた。かねて病気療養中の武蔵が亡くなったというのである。そこで、武蔵が言うには、「さぞ無念のことと思う。そこで、晋の予譲(よじょう)の故事にならって、身につけた着物を与える」ということであった。
『「よじょうたあなんでえ、よじょうたあ、わけのわからねえ、いかさまみてえこと云いやがって」』
よくできた話で、それには、見廻り組支配の役人が答えてくれる。
『「故事とは予譲の斬衣、かの晋の予譲は、知伯という旧主君の仇を打つことができず、ついにかたき襄子の着物を斬って、その恨みを晴らしたという、かの高名な出来ごとをさすのです」』
その役人の説明を聞いた後の、岩太がいい。
『 岩太は小屋の中にとび込んだ。とび込んで、帷地を放り出し、ひっくり返って笑いだした。
「あのじじいめ、あの見栄っ張りのじじいめ、死ぬまで見栄を張りやがった、死ぬまで」彼は笑って咳きこんだ。(中略)
岩太は悲鳴をあげた。それでも笑いは止まらなかった、彼は小屋の中を転げまわった』
さて、しばらくして、隈本城下に、「よじょう」という旅館が出来た。そこには、宮本武蔵の帷子があった。それには、三カ所切り裂いたところがあって、これは宿の主人が予譲の故事に倣って、父親の仇を報じたものだった。それ故、この旅館は繁昌したが、「さしたる仔細はない」と、この小説は結ばれている。
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山本周五郎の作品には、「樅の木は残った」、「さぶ」、「ながい坂」等、どちらかと言えば長編ものに代表作が多い(「青べか物語」、「赤ひげ」も有名だが、私は読んでいないので・・・)。しかし、この「よじょう」は短編ではあるが、私は、周五郎作品の中で、最も好きなものの一つである。実際、周五郎本人も、「後半期の道をひらいてくれた」と大切な作品と思っていたようだ。周五郎作品の入口としても良いかもしれない。
さて、この作品で山本周五郎は、岩太の言葉を通して、厳格な武家及びそれを尊ぶ風潮を痛烈に皮肉っている。
仇討ちを尊いものとする世間の了見を、「腹の皮が痛くなった」程、嘲笑している。岩太の小屋の前で、朝夕黙って突っ立つ武蔵を、「見栄の固まり」と喝破する。武蔵が、晋の予譲の故事にならってとった行為を、「死ぬまで見栄を張りやがった、死ぬまで」と見抜いている。求道者、吉川「武蔵」のたどり着いた先を、「見栄っ張りのじじい」と言い切っている。
吉川「武蔵」のイメージが強すぎたがために、NHKとしては、その部分を表わすわけにはいかなかったのかもしれないが、実は、この作品の主題は、高級官僚や一流企業の破綻や失態が相次いでいる現代にとっては、極めて身近なテーマでもあった。彼らの、プライドなんて所詮、「見栄の固まり」に過ぎないということを、「よじょう」は教えてくれるからだ。
誤解を恐れずに言えば、私自身は、武家社会の「見栄」や「やせ我慢」は、必要悪とまではいわないが、大切なものだと思っている。むしろ、それらがあるからこそ、社会のバランスがかろうじて保たれてもいるとも感じている。だからこそ、この「よじょう」という作品が爽快に思えてくるのかもしれない。また、これは、直木賞をはじめ、あらゆる文学書を辞退してきた山本周五郎だからこそ、説得力を持って読まれる作品とも言える。
すっかり長くなったので、大河ドラマ「武蔵」が国民に受け入れられなかった、もう一つの理由を簡単に述べたい。
それは、「お通」の位置付けである。
私たち日本の男性には、吉川英治「宮本武蔵」の「お通」と木下順二「夕鶴」の「つう」、二人の「つう」に対して、遺伝子的な畏敬の念が植え付けられている、と私は勝手に思い込んでいる。それを、あの大河ドラマはぶち壊そうとした。建設的な意味での破壊ではなく、迎合的な破棄を試みたのではないかとさえ思っている。そして、見事に作品として失敗してしまった。
詳細は、長くなるので述べないが、「利家とまつ」でいくらか成功したかのように見えた手法を、安易に敷衍してしまったような気がして仕方がない。
もっとも、そんなことは、「さしたる仔細はない」ことではある。
2003年12月18日 (木) ラッキーストライク
報道等でご存知の方も多いであろうが、広島に原爆を落とした米軍B29爆撃機「エノラゲイ」が、12月15日から、ワシントン郊外の国立スミソニアン航空宇宙博物館別館で一般公開されている。同機の展示は、原爆投下の被害についてなんら言及がないこともあり、唯一の被爆国である日本からはもちろん、米国内においてでさえも批判が広がっている。公開にあわせ日本から被爆者団体も訪米し、要請・抗議を行ったという。
それら団体の政治的な立場はともかく、やはり、唯一の被爆国の住民である日本人としては当然の抗議であると思う。
しかし、一方では、やはり原爆被害に関し、日本国内の施設において、驚くべき展示がなされているということは、ほとんど全く知られてはいない。
平成14年8月1日にオープンしたばかりの、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館がそれである。
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今年の夏に、私は出張で広島市に行った際、夕食までの時間が少しあったため、オープンしたばかりの、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へと足を運んだ。できたばかりということもあり、ぜひ、行きたいと思っていた。
当日は、ホテルから借りた傘がほとんど役に立たない程の激しい雷雨で、歩いたのはほんの十数分であったが、スラックスの折り目もすっかりなくなり、革靴の中は、雨でぐじゅぐじゅになってしまった。
祈念館の建物自体が地下に入っていくような構造になっており、瀟洒な中に厳かな雰囲気を感じさせるものであった。
私は、この手の展示館等では、時間の許す限り、展示されている説明文などを丁寧に読むようにしている。この日もそうであった。
地下二階にある平和祈念・死没者追悼空間。
爆心地、いわゆる「グランドゼロ」から見た、被爆後のまちなみを表現した空間である。この展示場に入るには、その入口から、スロープ状の廊下をやや下りながら歩いていく必要がある。そして、その廊下の壁には、原爆被害について書かれた何枚かのパネルがかかってる。短いものばかりであったので、私は、その一つひとつを読みながらも、ほとんど立ち止まることなく歩を進めていった。しかし、その最後のパネルを読んでいて、思わず、立ち止まってしまった。暫く、その前にいたが、すぐ横に「グランドゼロ」の空間が垣間見えていたので、そちらの方が気になり、間もなく移動した。
祈念館には、被爆体験記や追悼記が多く展示され、特に、被爆体験記はいくつか読むだけで、胸が締め付けられるような思いがし、その膨大な量もあって、まさに、色々な意味で圧倒されるような気がした。と同時に、この館の目的である、「核兵器のない平和な世界を築くことを誓います」ということに最大限の努力を惜しまないという思いを新たにした。
さて、ひと通りの展示を見てから、最初のコースに戻り、やはり気になっていた、先ほどのパネルの前に、再び立った。
時間もあまりなかったこともあり、後日、精査しようと思い、取り急ぎ、そのパネルに書かれた文章を書き写してきた。すぐ近くにいた警備の方が、いぶかしげな表情で、あわててパネルを書き写す私をちらちら見ていた。私も悪いことをしているような気分になり、「すいません」と卑屈に謝りながら、ペンを走らせていた。
以下の文面がそれである。
「原子爆弾によって亡くなった人々を心から追悼するとともに、誤った国策により犠牲になった多くの人々に思いをいたしながら、その惨禍を二度と繰り返すことのないよう後代に語り継ぎ、広く内外に伝え、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くことを誓います」
ここまで私の拙文にお付き合いいただいた方には失礼な言い方かも知れないが、私は文章作成力の自信は全くない。しかしながら、文章読解力は、人並みなものを持ち合わせているつもりであるし、バランス感覚も普遍的な日本人のそれを保っているつもりである。
この説明文は、一体、どういうことか。
原子爆弾を投下したのは、間違いなく、米軍戦闘機「エノラゲイ」であり、そのスイッチを押したのは、米軍人である。そして、その指示を出したのは、当時の米国大統領ではなかったか。
この文章では、原子爆弾を投下されたのは、「誤った国策」のため、つまり、日本自らの責任でもって原爆被害を受けたということになりはしないか。
「誤った国策により犠牲になった多くの人々に思いをいたしながら」という箇所は、先の大戦全体のことを指すつもりなのかもしれない。しかし、そうすると、最後尾の「核兵器のない」には繋がらない。現在はもちろん、当時も日本は核兵器などは所有していないのだから。明らかにこの意図は、原爆を落とされたのは、日本の責任だから仕方がない、今後はそういうことのないようにしよう、というものと受け取れる。
しかし、もしそういう意図であるとするならば、それでは説明できない歴史的事実がたくさんある。
なぜ、原爆投下は、アメリカにとって、多くの同胞ともいえるユダヤ人を迫害していたドイツではなく、日本であったのか。なぜ、アメリカは明らかに戦時国際法を犯してまで、原爆を使って民間人の大量殺戮を行ったのか。そして、何といっても、なぜ、一度ならず、広島、長崎と二度も投下したのか。等々。
それらの理由も全て「誤った国策」という言葉で、集約させるつもりなのか。それでは、あまりにも切ない。原爆で犠牲になった先人たちに対して、なんと言葉をかければいいのか。上記の事実にに対する理由も含めて、全て「誤った国策」により、犠牲になった、と言えばいいのか・・・。
先日、朝日新聞を読んでいると、あるコラムの中に、この記述のことが触れられていた。その記事によると、「誤った国策」という表現は、被爆者の中から、入れて欲しいという声があったからということだ。
私は、その記事を見て、内心ホッとした。その記者の思いはともかくとして、やはり、あの表現に対して、違和感を持つ人が新聞記者の中にもいたのだ。私がこの文章を書き、問題提起をしようと思ったのも、この記事を見かけたことが理由の一つだ。
被爆者の中には色々な方もいらっしゃる。もちろん、そのような声を上げた方にしても、原爆を落とされた直接の原因は、日本であり、だから仕方のないことだという思いで提案したわけではないことは疑いようもない。純粋に平和を望む気持ちから発せられたことであろう。その思いが捻じ曲げられてしまったのか。
やはり、そもそも、原爆死没者追悼平和祈念館というところに、そういう記述を展示していこうという発想自体が、極めて偏狭的な政治的嗜好を感じざるを得ない。
―――――――――
スミソニアン博物館でのエノラゲイ展示に話を戻す。
今回、博物館側は「技術的進歩に焦点を当てた」(デーリー館長)と主張しているという。そうであるならば、その原爆によって、人口どれくらいの都市で、どれくらいの被害(この表現が抵抗があるなら、「影響」でも良い。「効果」では困るが)を出したのかを提示した方が、科学的に技術的進歩を証明できるのではないか。もっと言えば、技術面の展示なら、どのB29でも問題ないはずである。
原爆投下を正当化したいという意図が明らかである。
何度でも言う。世界唯一の被爆国であり、二度とそのような悲劇が繰り返されないことを心から願う日本人のみならず、米国内からも今回のような形での展示に抗議の声が起こるのは当然のことである。私たちもそれぞれの立場で、意見の表明をしていくべきだ。
しかし、原爆被害展示に関して、どうやらその前に、私たち日本人はやらなければならないことがあるようだ。
以下、大きな不謹慎な余話。
1945年8月6日、広島上空に到達したエノラゲイはウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下。
キノコ雲に包まれた広島を眺めながら、エノラゲイの搭乗員はこう叫んだという。
「ラッキーストライク!」
タバコの銘柄である「ラッキーストライク」は、この時のパイロットの言葉から名前を取られた、原爆投下を記念して作られたタバコである。
以上は、もちろん、全くのデタラメなエピソードに過ぎない。
もともと、「ラッキーストライク(大当たり)」とは、19世紀のゴールドラッシュの時に金鉱を掘り当てた山師が叫んだ言葉がルーツとされるスラングで、エノラゲイとは何の関係もない。
もっとも、「ラッキーストライク」は、当時米軍の支給タバコとして、広く吸われていたタバコでもあったので、後日、このような極めて不謹慎、不愉快なエピソードが広まっていったのであろう。
当時のアメリカにとって原爆投下は、その程度の認識でしかなかったという象徴的なエピソードではある。
2003年12月13日 (土) 誇りある二人の外交官を悼む
12月議会が終了した。
私がお送りした質問予定原稿に対して、何人もの方からご意見をいただいた。極めて専門的な内容にも関わらず、お目通しいただき、素直にうれしい。
さて、当日、実際の質問に入る前の前口上として、私は、以下のように述べさせていただいた。
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質問に先立ちまして、イラクで殉職された、お二人の誇りある外交官のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
亡くなられた奥大使がイラク駐在中に書き綴った、「イラク便り」の中に、テロの被害に遭った現状を見ての、次のような記述が見られます。
「犠牲になった尊い命から私たちが汲み取るべきは、テロとの闘いに屈しないと言う強い決意ではないでしょうか。テロは世界のどこでも起こりうるものです。テロリストの放逐は我々全員の課題なのです。」
「『我が日本の友人よ、まっすぐ前に向かって行け!』 と語りかけてくるようです。『何をためらっているんだ。やることがあるじゃないか。』と語りかけてくるのです。」
「一刻も早い支援の実施が唯一の解決策でしょう」
これらは、現場から遠く離れた、日本において語られた言葉ではありません。現場で汗を流し、一日も早い、日本からの支援を心待ちにしていた外交官の言葉なのである。
私はこれらの言葉の中に、お二人の外交官としての崇高な使命感と、世界の中の日本人としての静かなる矜持とが、感じられてなりません。
お二人の数々のお言葉と行動に対して、心より敬意を表すると同時に、改めて、お二人のご冥福を衷心よりお祈り申し上げ、以下、質問に移らせていただきます。
―――――――――
自衛隊派遣について、政府の態度を「自衛隊派遣ありき」と批判する論調が一部見られる。一見、もっともらしい意見に聞こえるし、私もそれらの論調を見聞きしていると、正論のように感じてしまう。しかし、慎重、冷静に、様々な意見に耳を傾けていると、実は、それら論調を発している方こそが、「自衛隊派遣反対ありき」で凝り固まっているということに気づかされる。
その顕著な例を一つあげる。
朝日新聞12月10日の社説で、次のような記述があった。しかも、わざわざ一面にもってきた社説の中にである。
『国民は自衛隊派遣の不安をますます募らせている。だが、一方で、「彼らの遺志を継げ」「テロに屈するな」と、しきりに派遣を促す声がある。』
この前段の部分に、イラクで殉職されたお二人の外交官について触れられている。この社説で言うように、「テロに屈するな」との言葉が、即、「(自衛隊)派遣を促す声」であるとするならば、その声は、まさに「イラク便り」の中で述べられている、故奥大使の声そのものである。
「イラク便り」や、「外交フォーラム」に書かれた、故奥大使の文章には、世界の中の日本としての、一日も早い然るべき対応を望む気持ちを読み取ることができる。しかし、現職の外交官でもあり、言葉としてはっきりと、そこまでは表わすことはできない。
その立場を、悪意があってとは思わないが、結果的に利用した形になっている「派遣反対ありき」陣営の論法を、私は道義的に許すことはできない。人の死は確かにいたましい。しかし、その人が亡くなったからといって、その方が残された言葉を曲説して、自分たちの主張を述べることが、許されて良いはずはない。
そのことを、地方議会の場ではあるが、ささやかながら表わしたかった。
自衛隊派遣に関して、12月9日の読売新聞に、中谷元代議士と前原誠司代議士の「論陣」が掲載されている。自民党と民主党、それぞれの良識派の真摯な姿勢が読み取れて面白い。寸評の最後に書かれた、「自衛隊派遣を含むイラク復興支援の重要さについては両者一致している。それだけに自衛隊派遣には、党利党略を離れた的確な情勢認識が何より大事だろう。」が全てであろう。
やはり、12月9日、小泉首相は自らの言葉で、自衛隊派遣の必要性を国民に説明し、理解を求めた。このような説明は、どれだけ行っても、多すぎることはない。小泉総理自らの、国民に説明する姿勢を今以上に求めると同時に、何が何でも「反対ありき」陣営の冷静な対応も望みたい。それら陣営の報道に多くの国民が注視をし、影響も受けるのだから。もちろん、報道関係だけではない。その陣営に与している有識者も然りである。
2003年07月21日 (月) 海の日
今日は祝日、海の日。
私はつい先日まで、海の日は7月20日で、今年は、その日が日曜日なので、21日が振替休日となっただけだと思っていた。違っていた。天下の悪法、いわゆるハッピィマンディ法なるものが採用され、今年から7月の第三月曜日が海の日になったそうだ。
ご存知の通り、平成8年から7月20日が海の日として定められ、国民の祝日となった。
つい最近のことなので、私を含めて当時のマスコミ報道等により、その経緯の詳細を覚えている方も多いであろう。何のことはない、6〜8月にかけて祝日が一つもないので、何かもっともらしいものを、ということで決められたのが、7月20日の海の日である。これ、嘘のような本当の話。
さて、問題はそのもっともらしい理由である。
こちらも、ご存知の方も多いかもしれない。
明治9年、明治天皇が明治丸で東北地方巡幸の際に青森から函館経由で横浜へ海路で戻られた。その明治天皇の横浜御帰着の日が7月20日であった。
そのことをもって、昭和16年、当時の逓信大臣村田省蔵の提唱で、その7月20日が「海の記念日」と制定された。
そして、その「海の記念日」をもって、平成8年から7月20日が「海の日」と決められた。
と、ここまでは既にご存知の方も多い。では、なぜ、明治9年の出来事をもってして、60年以上経った昭和16年に、「海の記念日」とされるに至ったのか。
それは、この「海の記念日」を提唱した、当時の逓信大臣村田省蔵によるところが全てである。
では、なぜ、村田省蔵がこのようなことに意を砕くようになったのか。
日本は、明治維新を境とし、富国強兵・殖産興業へと国家の方向性を明確にし、造船・海運業をその大きな柱とした。しかしながら、国民のほとんどは海洋を走る商船を見たことがない。造船・海運業に対する国民の関心は必ずしも高いとは言えない。
実は、大阪商船の社長まで務めた、時の逓信大臣村田省蔵にとっては、そのことは、痛切な思いとして感じられていた。
今、私の手元に、大正13年に、当時の大阪商船専務であった村田省蔵が書いた、「危機を孕める海運界」と題した論文の写しがある。
第一次世界大戦の後、英国をはじめ世界中の造船・海運界の構造的大不況について書かれている。その大不況の中で、わが国特有の事象として、外国の老朽船が大量に輸入され、そのことにより、日本国内の「真面目な生一本の船主の蒙る圧迫と脅威」について述べられている。
これら古船の輸入は、「造船界を萎靡沈衰せしめ」、「船舶の競争を激甚ならしめ」とし、日本の造船・海運界を壊滅的な状態に陥れかねないという危惧について触れられている。
論文中、時の政府に対しては、「我政府は、徒らに政変にのみ捉われて何等の施設をこれに加えんともせず、船会社の破産に陥らんとしても拱手傍観するの態度を持している。否、余をして極言せしむれば、政府は船会社を破滅に導かんとしつつあるのである。何故ならば政府は古船に対する管理はおろか、殆んど的を外れた暴論を臆面もなく吐いて船主を悩ますこと一方でないからである」 と徹底的に罵倒している。
他の詳細な部分は、その論文に譲るとして、村田省蔵の脳裡には、「徒らに政変にのみ捉われて」という部分に表されるように、政治家に期待するよりは、直接、国民に海事全般に関心を持ってもらうことを重視するという考えがあったのではないかと思われる。
それが、彼が船舶の所管である逓信大臣という発言力を持った昭和16年、「海の記念日」制定へという原動力になったものであり、そのことによって彼は、先の論文発表から、実に17年後に、いくらかでも溜飲を下ろしたと言えるのではないであろうか。
さて、7月20日。おもしろいことに、村田省蔵の中では、格段に、この日に対するこだわりがあったわけではなさそうである。
というのは、実は、明治天皇が初めて明治丸に乗船されたのは、明治丸がイギリスから回航されて横浜に到着したその翌月、明治8年3月6日で、横須賀から横浜まで航海されている。ということで、海の記念日を決める際も、3月6日と7月20日のどちらか良いか議論になったそうだ。最終的に決めたのは、当然、所管大臣の村田省蔵。彼はこう言って決めた、「第一に記念日は冬ではいけない。夏でなくては海に出る人間が少ないことが一つ。今一つは学生諸君に海の思想を大いに吹き込みたい。そこで学生の休みの時がよい、ということを先ず考えた」
好い加減なものである。村田省蔵にとっては、7月20日という日にちなんて、極めて優先順位の低いことであった。とにもかくにも、海事全般に政府はもちろん、国民全体が関心を持ってもらう、そのことが重要だったのである。そして、より関心を持ってもらいやすいであろう日なら、いつでも良かったのであろう。
昭和16年から半世紀以上経って、海の日なる国民の祝日が制定され、しかもその由来が「海の記念日」とされたことによって、ようやく彼の思いのいくらかは成就されたのかもしれない。
蛇足。
しかし、平成8年から始まった祝日を、たった6、7年で変えてしまうのもいかがなものか。そのうち、元旦を1月の第一月曜日、平成天皇誕生日を12月の第三月曜日になんてするのではないだろうか。
もう一つ、どうせ、昭和16年に制定された、海の記念日を由来とするということを発表するのであるならば、今回私が報告したことくらい、政府は答えを用意しておいて欲しい。私にしても頭の中で、雑然とした知識を、全く整理しないまま、まとめてしまうことになってしまった。やっつけ仕事でまとめたことなので、いくらか誤りもあるかもしれない。後日、もう少し正確にまとめてみたい。
2003年07月10日 (木) 「坂の上の雲」のまちづくり
8月下旬に予定されている、総務常任委員会の視察先が決定。愛媛県松山市にした。司馬遼太郎の「坂の上の雲」を活かしたまちづくりに取り組んでおられる。中村市長の肝いりだ。私が、以前からどうしても詳しく話を聞いてみたいと思っていたことだ。
司馬遼太郎は、数ある作品の中で、この「坂の上の雲」だけは、その映画化、ドラマ化を断っていたそうだ。この作品を限られた時間の中で描写しようとすると、どうしても日露戦争を中心とした、いわゆる戦争ものとしてとられてしまうことを心配されていたそうだ。分るような気がする。
以前、「2.26事件」に関係した映画を観たことがある。単なる、安っぽい恋愛ものに堕していたようで、興醒めしたことを覚えている。
「2.26事件」や「5.15事件」は、一応、愛国心旺盛な若者たちが、腐敗した政府高官や軍部を打倒するために起こしたということになっている。しかし、誤解を恐れずに言えば、その実行犯たちは、純粋ではあるが、決してその行動の何たるかを十分に理解してはいなかった若者たちであり、彼らの安直な正義感から出た暴走であるというのが、後世の評価と言っても差し支えはないであろう。私は彼らの純粋さを疑うものではないが、やはり、その後の国を誤らせた一因であるということは、避けられない事実ではないかと思っている。
映画としては、その無知さを上回る純粋さを全面的に表に出していたようだ。彼らと恋人や母親との愛情を絡めることが、演出効果を高めると判断されたのであろう。ドキュメンタリーでもないので、鑑賞ものとしてはそれで良いのかも知れないが、軽薄な白々しさと同時に、強烈な違和感を持った。
「坂の上の雲」の映像化は、同じような轍を踏むことになりかねないと、司馬遼太郎も危惧したのであろう。そして、その懸念は映像化だけでなく、作品として、ある部分だけが肥大化すること自体にも向けられたことと思われる。司馬未亡人も同じ気持ちのはずである。
しかし、その「遺志」を覆させたのは、中村松山市長の熱意である。詳細は松山市役所及び中村市長のホームページに譲るが、今から当日が楽しみだ。私の無理なお願いに、中村市長もお時間を取っていただき、ご説明いただくことになった。他自治体の一常任委員会の行政視察に、市長自らお出迎えいただくなんてことは、異例のことだ。松山市に足を運び、その熱意の一端を感じてきたい。間に入っていただいた方に、ただただ、感謝である。
それまで調べられることは徹底的に調べ、金沢市にどういう形で活かしていけるかも考えていきたい。
2003年07月04日 (金) 健康のため、一日も早くJCを卒業しましょう
一年半ぶりくらいの人間ドック。
ことごとく数値が改善していた。体重も、72キロから68キロに減っていた。それに併せて、前回は、脂肪肝の初期症状であったが、全く改善。胃も荒れ模様であったそうだが、完全復活。大腸ポリープも小さいものがあったということだが、きれいさっぱり。
どういう変化があったか。理由はただ一つ、JCを卒業したからだ。それ以外の理由は見当たらない。
深夜、日付が変わってから、焼肉屋に行くことも、中華料理屋に行くこともなくなった。焼酎をあっという間に飲み干すことも、ビールジョッキが目の前に林立している様子も見かけなくなった。
医師が、食事に工夫をされていたのですかと言ってはいたが、全くそんなことは意識してはいない。ただ、あえて言えば、意識するとしないとに関わらず、上記のような生活に改まった。
何か特別な運動をされていますか、と聞かれた。
そう言えば、と思いつき、「ちょっと前まで選挙運動をしていました」。
ここは、笑ってもらう場面であったが、医師も看護婦も、なるほどという表情で納得されてしまった。ストレス解消にも役立ちました、とも言いたかったが、言えなくなってしまった。
現役JCの皆さん、健康のため一日も早く卒業しましょう。
2003年07月02日 (水) 「民間校長」を質問しなかった理由
6月議会、私は金沢市立工業高校の民間校長登用について、何点か取り上げるつもりでいた。ご案内の通り、いくつかキーワードを整理している段階で、ここに至っては、議会で議論することは、かえって、民間出身校長である高橋校長を追い詰めることになるのではないかと思いやめにした。
学校現場における民間校長は、平成12年度より始まり、年々増えてきているようだ。結論を求めるには早すぎるが、これまでの様子を聞く限りでは、ほとんどの場合、上手くいっていないようだ。
閉鎖的な教育現場に、新たな空気を入れて、学校を活性化していこうという方向性は間違っていないと思う。また、その場合も、学校教育法施行規則第九条の二により、「学校運営上特に必要がある場合」とされているところも正しい。
他自治体の場合はともかく、金沢市立工業高校だけに絞って考えたい。
一番大切なことは、何をもって、「特に必要」としたかをはっきりさせなければいけないということだ。逆に言えば、ここがはっきりできれば、他の教職員や保護者にもきちんと説明もでき、協力要請もしやすくなる。また、市教委としても、その「特に必要」な理由を錦の御旗にして、様々な支援をできるというものだ。その場合、「民間で培った、経験と能力を」なんて、抽象的、最大公約数的な理由ではダメである。そんなものは、程度の差こそあれ、それなりの人なら誰でもある。「この人」という強いインプレッションにはならない。
色々と調べていくと、残念ながら、今回の場合は、全くそうではなかった。しかも、工業高校の校長を委嘱するということで、市内の理科系の企業のいくつかに声をかけ、名前の出てきた三名のうちから選んだ人というとこである。そんな好い加減な基準で選ばれた方こそ災難である。
本来ならば、市教委の方で、ある人を念頭において、「特に必要」な理由を明確にし、その人に強く校長就任を要請するという形にならなければいけない。
民間校長ありき、で悪いとは思わないが、具体的な人選に入る際は、「特に必要」な理由ありきであるべきである。いくつかの企業に、推薦を依頼するなんて無責任にも程がある。市教委が本気でバックアップもしていくつもりであるならば、最初から、腹をくくって、市教委で意中の人をヘッドハンティングするくらいの気概で取り組むべきだ。人の人生がかかっているのだ。
しかも、普通の感覚を持った民間人の中で仕事をするというのではない。質問予定原稿素案にもあるように、文部科学省が、民間校長に行なった意見聴取の際にも出てきた、『「企業は上司の指示で部下が動く。教員は理屈を並べて、すぐには行動しない」「校長から給料をもらっているわけではない、と言われた」「大卒後すぐは社会のいろいろなことを吸収できる時期。そんな時期に、閉鎖的な社会に閉じこもってしまうことはいかがか。大卒ですぐに先生と呼ばれてしまうことも問題」』という人種に囲まれて仕事をすることになる。市教委は教職員に、どう理解と協力を求めるのか。そして、そのことは上手くいっているのか。
聞けなかった。
全てが、うわべだけのことしかしていないからだ。流行りでやっただけといったら言い過ぎであろうか。県教委の金沢錦丘の中高一貫も似たようなものだが、ここでは長くなるので、触れない。
救いは、その選ばれた高橋校長は大変前向きな方であるということと、営業畑出身であったということだ。
上手くいっていないところは、「校長」という管理職ということで、民間会社の管理部門出身の人間が多かったそうだ。前述のような教職員の方たちを相手に、それでは上手くいくとは思えない。
高橋校長は、北陸電力の営業部長を務められていたということだ。大企業の営業の責任者ということで、期待が大きい。
私個人は、民間校長を委嘱するならば、前述したようにすべきだと思っているし、本当は、校長なんかよりは、民間人がもっと一般の教壇に立てるような手立てを考えた方がよっぽど良いと思っている。
いずれにしても、今は、騒がずに側面支援していくしかない。市教委にも強く要請し、私ができることも考えていきたい。
2003年06月25日 (水) 教育委員会のあり方(6月議会を終えて)
今回の議会(15年6月議会)において、私は、自分の一般質問の後、再質問を求め、教育委員会から生涯教育の分野とスポーツ振興の分野とを切り離して、市長部局に移すように提案した。
翌日の新聞にも少し載っていたが、誤解を招かないためにも、もう少し詳しく触れたい。
質問原稿にもあるように、市町村教育委員会は既にすっかり形骸化してしまっている。これは、私個人の意見だけではなく、国の中央教育審議会からも指摘されていることでもある。誤解を恐れずに、分り易く言えば、今の制度のままであったなら、市町村教育委員会はなくなってしまってもほとんど全く問題はないとまで、指摘されている。
教育委員会制度は、元々は戦後、戦前の反省を踏まえて、教育の政治からの中立性ということを謳って、独立した組織として作られた。その当時は、それはそれで意味があったのであろう。
しかし、情報公開全盛時代の今となっては、1.教育委員会自らが積極的に情報提供するようになっている 2.今回私が取り上げたように、議会からのチェックが入る 3.マスコミも精力的に取材をする 4.何と言っても、民度全体があがってきている、等々の為、教育の著しい政治的偏向は、ほとんどあり得ない状況と言える(本当は、私はここで一つ言いたいことがあるが、長くなるので、ここでは触れない。慮っていただきたい)。
何よりも、先に金沢で行われた、「全国都市教育長協議会定期総会」において、「義務教育費の国庫補助負担金堅持」(分り易く言えば、三位一体改革に反対、とまでは言わないまでも、後ろ向きな提案といえる)の決議をするなど、教育委員会自体が、既に極めて政治的な行動を取ってきている。つまり、教育委員会の当初の設立意義は、相当部分、希薄になりつつあるといえる。
子供たちの成育に影響の大きい、学校教育という分野は、「政治からの中立」という錦の御旗を掲げておくことは、絶対大切なことであるし、文部科学省や都道府県教委も、その権限は死んでも離さないであろう。とりあえずは、この分野は今後の課題として、教育委員会が持つ、その他の分野は全て市長部局に移して対応するほうが、迅速に、そして少しでも無駄を少なくすることができるものといえる。現に、本市において数年前、教育委員会の中にあった、文化行政は、全て市長部局の都市政策部の中に移され対応している。何の不都合があったとも聞いていない。また、その方が、自然なことであろう。
同じように、公民館事業をはじめとした生涯教育やスポーツ事業が教育委員会の中にある必要は全くないといえる。それぞれが、学校行事との連携が必要な場合は、その都度、教育委員会と協議して、対応すればよいだけだ。行政改革の点からいっても、効果的といえる。
そもそも、町会行事が市長部局の市民生活部担当で、公民館が教育委員会担当というのは、おかしい。特に、金沢市の場合、金沢方式といわれる、全国でも珍しい、地域主導、すなわち、町会等地域の組織が中心となった公民館運営方式であることを考えればなおさらである。
そもそも論で言えば、教育委員会の政治からの中立といいながら、私の質問原稿の中にもあるように、教育委員会には予算編成権は全く無く、何かをやろうと思っても、全て市長部局の了解がないと出来ないというシステムになっている。最初から、市長部局の力を借りなければならないという、矛盾を背負った制度なのである。
ということを、挙手を持って再質問を求め、確認した。教育長や教育委員長へ答弁を求めても可哀想なので、あえて、市長に尋ねた。
市長も事情はご存知で、その通りではあるが、現在、様々なところで、議論がなされているところでもあるので、推移を見守っていきたいと答えられた。現在、全国市長会でも議論がなされているので、こう答えられた。
真に教育のことを考えるということもしない、既得権堅持しか念頭にない方たちは猛反対するであろうし、議論の意味するところが理解できない一部関係者は、また、面倒くさいことを言い出した、としか取らないかもしれない。
ただ、そうはいいながらも、長年、とってきた政策でもある。感情的な問題もあろう。関係部署と話し合っていきながら、少しずつでも望ましい方向に進んでいってほしい。
以上
その後の進捗状況。
平成16年度から、スポーツ事業が教育委員会から市長部局に移されることに成った。先ずは、この状態を見守っていきたい。
2003年02月06日 (木) 日本サッカー協会シンボルマーク
いまさらながら、ワールドカップのお話。
多くの日本人同様私も、にわかサッカーファンとして、純粋に日本チームを応援していた。
中田や稲本の動きに一喜一憂しながら、彼ら日本代表選手の左胸には、日本サッカー協会のシンボルマークが付されていることに気付いた人は、あまりいなかったかもしれない。また、そのシンボルマークには、三本足のカラスが画かれていることを知っている人はもっと少数であろう。そのカラスは「ヤタガラス」という名で、古事記や日本書紀に登場する、日本創造に大きな役割を果たした鳥であるということを知っている人は、さらに少ないと思われる。
では、そのヤタガラスは、記紀の中でどのように著されているのか。そして、なぜ、日本サッカー協会のシンボルマークに使われることになったのか。
記紀では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト。後の神武天皇)が東征の途上、天から遣わされたヤタガラスの導きにより、熊野の山中を行軍し、無事、大和国橿原宮(カシハラノミヤ)で即位された、とされている。「古事記」では高御産巣日神高木大神(タカヒムスビノカミ)がヤタガラスを遣わしたと記しているが、「日本書紀」では天照大御神(アマノテラスオオミカミ)が遣わしたと記している。いずれにしても神様である。
このことだけでも私は、もっと話を脹らませることができるが、ここではしない。
さて、話しは変わるが、日本の近代サッカーの起源は東京高等師範学校であり、その生みの親といえるのが中村覚之助氏であるということは、関係者の間では有名な話である。さらに、日本全国にサッカーの普及を行ったのも、やはり東京高等師範学校関係者であり、大正10年大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)を設立したのも東京高等師範学校関係者が中心となっている。東京高等師範学校が日本のサッカー史そのものであるといっても過言ではない。
中村覚之助は明治39年、29歳の若さで病死したが、昭和6年、大日本蹴球協会(当時)は、中村覚之助の故郷、那智勝浦に祀られている伝説の瑞鳥・八咫烏(ヤタガラス)を図案化して協会のシンボルマークとした。それは、彼の功績を長く後世に伝えるとともに、前述した記紀の伝説に見られるように、日本サッカーを明るい未来に導いてもらいたいという願いをこめたものであったからと思われる。
一個人の故郷の話をここまで、と思われる向きもあるかもしれない。私も最初はそう思った。しかし、これも前述したように、当時の大日本蹴球協会も中村の母校、東京高等師範学校の関係者が中心だったということや、その図案化の中心人物が、中村が病死した明治39年にやはり、東京高等師範学校の蹴球部員であり、当時の、東京高等師範学校の交友誌からも、蹴球部員から中村は神様のように慕われていたということ等を知るにつれ、充分あり得ることだと納得するようになった。それだけ、中村の人間性の素晴らしさ、偉大さと、ヤタガラスの伝説に様々な意味において期待を込めているということの表れといえる。
ところが、問題は、肝心かなめの日本サッカー協会である。
そのホームページを見ると、このシンボルマークについては、「中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏が天皇軍隊の道案内をしたということもあって、鳥には親しみがありました。」と、その由来は、中国の伝説の「三足烏」であって、ヤタガラスは、その第一義的なものではないようにとれる。百歩譲って、前述したように、その本当の由来を知って、日本語説明文を読めば、特に気にせずに読み過ごしてしまいそうだが、ほとんどの外国人がそうであるように、何の前知識もなく、英語版(日本語版のそのまんま直訳でした)の説明を読めば、このカラスはあくまでも中国の伝説を由来としたものであり、ヤタガラスは日本人にとって親しみのある存在でしか意味合いを持たないものと思われてしまうのではないだろうか。
あのシンボルマークを胸につけている選手たちは、果たして日本代表なのだろうか、中国代表の選手たちなのか。
確かに、「淮南子」など中国の古典に、この鳥が登場することは事実(6世紀くらい?調べるのが面倒なので、記憶だけで書いてます)であり、記紀の編纂者たちもここからヒントを得たのかもしれない。しかし、私が前述したように、大日本蹴球協会のシンボルマークに使用した由来を考えれば、現在の協会の説明は、あまりにもその歴史を軽視しているだけではなく、それを歪曲しかねないものと言えるのではないだろうか。
Jリーグのチェアマンとして、地域に根付いたサッカーの普及に意を尽くしてきた川淵三郎日本サッカー協会キャプテン(Jリーグでは、チェアマンという呼称は新鮮で響きは良かったが、サッカー協会では、やはり「会長」とすべきではないだろうか。副会長は副会長のままで、会長だけ、キャプテンというのは、やはりいびつである。)だからこそ、その一日も早い改善を期待したい。
日本サッカー協会の説明は置いておく。
ワールドカップにおける日本代表の試合は4試合。テレビ視聴率は分らないが、延べ人数では相当数の日本人が、観戦したはずである。また、やはり世界中にテレビ報道されていたことを考えると、少なくとも、数億人の人間が、日本代表選手のユニフォームを見ているはずである。その中で、ヤタガラスのマークに気付いた人間は、それほど多くはないであろうし、ここに記したような由来を知っている者は、さらに少ないと思われる。しかし、私のようにその説明をしてあるく人間が、何百万人に一人くらいの割合でいるのではないか。そこから広まれば良い。
今気付いたことだが、あの日本国中からの熱狂的な声援を受けた日本代表選手たちを見ていた日本人は、やはり、意識するとしないとに関わらず、あのマークは視界に入っていたはずである。いずれにしても、ヤタガラスや神武天皇のことは全く意識していないであろう。考えようによっては、サブリミナル効果ではないが、日本人としての遺伝子を、本当に微かなものであったかもしれないが覚醒させる効能くらいはあったのかもしれない。・・・というのは考えすぎだろうか。
2002年12月13日 (金) 八田與一
先般、私の母校でもある慶應義塾大学の学園祭である、三田祭において、台湾の李登輝元総統をお呼びしての講演が企画された。予想されたことではあるが、中国の横槍と、相も変わらず、外務省の事なかれ役所主義のため、ビザが発給されることができず、中止のやむなきに追いこまれてしまった。
ここでは、この話題にこれ以上触れない。
その後、あるマスコミが台湾の李登輝氏の元をお伺いし、取材されたところ、氏は既に講演予定原稿も用意され、その日を楽しみに待っていたという。後日、その講演予定原稿がある新聞に掲載されていたが、それを一気に読み終えた私は、深い感動を禁じえなかった。
「日本人の精神」と題された、その講演原稿は、冒頭の儀礼的な挨拶の後は、全て我が金沢市出身の八田輿一氏のことを引用しながらの話が進められていた。八田輿一氏の偉業や人間性を通して、「日本人の精神」が諄諄と述べられていた。
――――――――――
八田輿一は金沢市の今町出身で、土木技師として当時日本の統治領であった台湾に赴任した。それまで、台湾南部の嘉南平野は、水利の不便さゆえに不毛の大地と呼ばれていた。八田輿一はこの地にダムをつくることによって嘉南の地を豊穣の緑地に変えられるとの調査を行い、当時の台湾総督府を説き伏せ、1916年着工、1921年に烏山頭ダムの完成にこぎつけた。
このダム及び水路のおかげでこの嘉南の地は、天から雨が降って初めて耕作できる貧困な土地から、15万ヘクタールに及ぶ緑豊かな豊穣の地に生まれ変わることができたという。
八田が構想したダム建設にともなう大規模な灌漑水利工事は、当時の日本国内でも前例がないほど巨大なものであった。完成したときは、アメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界でも、驚愕と賞賛とを持って受けとめられたという。
また、八田は安心して働ける環境があってこそ初めて、よい仕事が生まれるとの信念のもと、職員宿舎200戸の住宅をはじめ、病院、浴場、学校を作るとともに、娯楽施設、弓道場、テニスコートといった設備まで建設した。
大工事を進めていく上で、数多くの困難もあった。実際この工事に携わった方たちのうち、134人もの人が犠牲になり、ダム完成後に殉工碑が作られ、そこには、台湾人、日本人の区別なく名前が刻まれているという。また、設計当時、ダムの寿命は50年と見られていたが、実際は、80年を経た現在でも、貯水能力は3分の2を維持し、竣工当時と同じように満々と水をたたえている。
戦争が始まり、八田輿一はフィリピンの灌漑施設の実施調査へ向かう船の中で、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、戦死した。
終戦の年の9月1日、烏山頭ダム工事がスタートした25周年目のこの日、八田の次男が復員して帰ってきた。八田夫人は、その喜びを家族一同と共にしたその翌朝早くに、愛する夫の銅像脇のダムに、和服姿で薄化粧をされて身を投ぜられた。この悲報に、嘉南地区の農民たちは言うまでもなく、新聞で知った台湾の方たちは慟哭してやまなかったという
確かに事業そのものは日本統治時代のことであり、当時の日本の国策によったものかもしれない。しかしながら、終戦とともに日本人の手でつくられた多くの石碑や像がすべて取り壊された中、ご夫婦のお墓は逆に終戦後、現地の方たちの手によって国有地という公の場で作られ、八田輿一の命日には欠かさず墓前で法要が営まれ続けているという事実。八田輿一の銅像も、現地の方たちが戦中・戦後の混乱の中、守り続け、現在に至っているという事実。さらには、台湾の中学校の歴史教科書に八田輿一の業績が紹介されているという事実。
それらは単にダムをつくり、緑豊かな土地にしてくれたという尊敬だけではなく、その八田御夫妻の人間性を含めた意味での敬いの証ではないだろうか。
――――――――――
李登輝氏の原稿の中に、次のような記述があった。
「(八田輿一の人間性について)天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ金沢という土地、日本という国でなければかかる精神はなかったと思います。」
日本人、金沢人として、思わず背筋を伸ばされるような気持ちにさせられた。
2002年10月29日 (火) 仕合わせ−文化としての日本語その4−
私が参加しているある会で、「我も他人(ひと)をも、仕合わせ(幸せ)」という言葉を教えていただいた。
私たちが一般に使う、「幸せ」という文字は、かつては、「仕合わせ」と書かれていたことは以前から知ってはいたが、改めて、「私も相手の人も」ということを聞くと、なるほど、「幸せ」とは、お互いに、相手に合わせることによって成就されるものだということが、よくわかる。
私は当初、この字は、相手に「仕え合わせる」という複合動詞が変形してできた語だとばかり思っていたが、いろいろ調べていくと、どうやら少々違うようだ。
現代口語でも文語でも、サ変動詞は、「する」ただ一つである。手元の辞書によると、「漢字音の語や名詞・外来語などに「する」をつけて、サ変の動詞となるものが多い」と書かれ、例として、「早寝する、あくびする、キャッチする」などがあげられている。つまり、「する」は極めて造語能力が高い動詞なのである。(「セコムする」というのもあったな。)
わかりづらいのは、「する」の連用形である「し」を由来とする名詞「し」である。
一般的に、「仕」という漢字があてられることが多いため、よけいわかりにくくなっている。
しかし、この「仕」が、「する」連用形由来の「し」であると知れば、「仕込み」「仕組み」「仕送り」等々も同じで、「し」に漢字の「仕」をあてることによって、それぞれの名詞性そのものを高める役割を果たしているということも、自ずと理解されてくる。
この「し」に、訓読みで、「仕(つか)える」と発音させる漢字の「仕」をあてることにした、日本の先人の深い感性には、感動をすら覚えるくらいでもある。
さて、「幸せ」である。
この字は、以前は、「仕合わせ」と書かれたことは既に述べた。「幸せ」という漢字により隠れてはいるが、やはり、「する」連用形由来の「し(仕)」がついて、その名詞性を高めている。
その対になる語として、「仕合い」がある。何のことはない、「試合」のことである。「試合」と「幸せ」とを比べただけでは、全く分らないが、それぞれの元の表記である、「仕合い」、「仕合わせ」とすれば、その対がわかりやすくなる。
大切なことは、相手に「合わせ」ることを、「する」ことによって、現代の私たちが感じるところの「幸せ」という概念を表しているということだ。決して、「仕合い」ではない。「仕合う」ことによって、私たち日本人の先人たちは、「幸せ」を感じていたわけではない。
よくスポーツ選手が、その試合に臨むにあたって、「自分のピッチングをします」とか、「自分の相撲を取るだけです」という。それは、まさに、試合であるので、文字通り「仕合う」という意味でも正しい。相手に「合わせ」ることによって、「試合」が成されるのではなく、相手に「合わせ」ることは、全く考えず(もちろん、お互いにルールを守ることは当然である)、自分の持っている力を、ぶつけ「合う」ことによって、文字通りの「試合」が成立する。逆にいえば、相手に、「合わせ」ることは、すでに「試合」とはいえないということだ。八百長だ。
もし、日本の先人たちが、相手に「合わせ」ることをもって、現代でいう「幸せ」を感じるのではなく、「仕合う」ことによってそのように感じていたとするならば、現代の「幸せ」を意味する語は、仮に「幸」という同じ漢字を書いたとしても、「しあう」と発音されて今に伝わっていたかもしれない。
先ほど、スポーツの例をあげたが、ここでも柔道、相撲といった日本の武道は、他のスポーツとの違いをかろうじてではあるが保っている。いわゆる、「礼に始まって、礼に終る」というやつだ。試合には、もちろん、「仕合う」が、その試合の前はもちろん、終わった後も、相手を敬い、「合わせ」ることを、礼という形で表す。そのことをもって、初めてその試合が成立すると考える。
では、なぜ「仕合う」ことではなく、「仕合わせ」ることをもって、私たちの先輩たちは、幸福の価値を見出すようになったのか。
私は、いわゆる、狩猟民族と農耕民族の違いが一つの理由ではないかと思っている。
狩猟民族は、標的となる動物たちに、「合わせ」るのではなく、「自分のピッチングをします」、「自分の相撲を取るだけです」ということをもって目的とする。そうやって、獲物を射止める。獲物たちと「仕合う」のである。
一方、農耕民族は、自然に「合わせ」ることによって初めて、農耕が可能となる。肥料も、人糞、馬糞はじめ自然に「合わせ」たものであったし、灌漑施設といっても、せいぜいが、板やそこいらの石、岩を重ねてつくったのものである。貯蔵庫も高床式であったり、氷室のような自然を工夫したものであったりした。気候をはじめとした自然に、「合わせ」ることによって、生活が成り立ち、幸福が達せられる。
自然に「仕合わせ」るという幸福観ができあがってくる。
ところが、時代を経るにしたがって、私たちは、自然と「仕合わせ」ることから、「仕合う」ように変わっていく。簡易なビニールハウスからはじまって、気温、湿度、光等々に徹底した管理が成された農耕、いや、すでに工業といっても過言ではないほど変質したものになっている。その他、今では人間でさえも管理しきれなくなった種種雑多な化学肥料を用い、また、治水、活水という掛け声のもと、必要以上に多くの、さらには大掛かりなダム等の建設等々。・・・・・。
その変化に連動するかのように、お互いに「合わせ」るという幸福観も、もしかしたら変わってきているのかもしれない。果たして私たち日本人は、「仕合う」ということの中に、幸福を感じるようになれるのだろうか。
私の想像力はさらに飛躍する。
幸福観を、お互いに「合わせ」ることによってなされるものと考える、最大の理由は、いわゆる「八百万(やおよろず)の神」にこそあるのではないか。
キリスト教諸派やイスラム教などの唯一神の信仰では、それ以外の神は全て、否定さるべき存在であり、「仕合う」対象となる。「仕合」った結果は全肯定か全否定である。
ところが、八百万の神は、当然のことながら、いたるところに存在する。山の神、海の神、お米の神、家の神等々。全ての存在に神が宿っている。だからこそ、神に「合わせ」ることなしに、生活というものは成り立たない。時には、都合のいいように、全ての神に「合わせ」ることにより生活が成り立ち、さらにその生活の中にこそ、幸福が存在する。八百万の神に、「仕合わせ」ることによって、幸福な生活を送ることができた。
だからこそ、日本には、いわゆる宗教戦争というものはありえなかった。それは、八百万の神に、「仕合わせ」ることを習い性としていたがために、「仕合う」という発想がなかったためであろう。
歴史を振り返ってみても、一向一揆は決して宗教的理念を争ったものではないし、僧兵も元々は寺院の自衛のためのものであり、何ら高邁な思想的背景があったものでもない。信長が石山本願寺を屈服させ、延暦寺を焼き討ちしたり、秀吉、家康がキリシタン禁教令を発したりしたのも、宗教的対立ではなく、自分たちの政治的野心を成就するための、一里塚としてのものにしか過ぎない。
本地垂迹説はともかく、廃仏毀釈なんてことが一時的にも可能ならしめられた一因は、この「八百万(やおよろず)の神」思想が、都合よく解釈され、捻じ曲げられたということが根底にあったのかもしれない。
「仕合わせ」ることを「幸い」とする幸福観こそが、古来、日本に伝わるそれである。
夫婦も家族も地域社会も、日本という国はお互いにいたわりあい、足りないところを補い合って十全とすることに幸福を見出した。それが、「仕合わせ」という言葉の中に記憶されている。言葉の中に日本の文化が宿っている。
一つの語から、門外漢の私でも、これだけ想像力を逞しくさせることができる。日本語にはそれだけの力がある。
長めの余談。
これまでお送りしてきた、「文化としての日本語シリーズ(?)」は、全て私の普段からの問題意識と手持ちの資料とで、一気呵成に書き上げたものばかりです。しかし、今回は、細かい文法や語の定義などの精査を必要としたため、市立玉川図書館にまで足を運び、専門的な辞書やいくつかの資料で確認し、呻吟しながらやっと書き上げました。
「し」という一文字だけで、いくつものストーリーを持ち得る日本語のすごさを今さらながら感じ入りました。細かな説明を要することも多かったので、私のでき得る限り平易にまとめたつもりですが、ここまで読んでいただくには、ちょっと、お骨折りだったのではないかと恐縮しています。
文法的な解釈など、受け売りの部分もありますが、私なりに想像力を膨らませながら、かといって、荒唐無稽なものにならないように心がけたつもりでもいます。
実は、先にお送りした、「佐久間艇長の遺書」は、「文化としての日本語・童謡唱歌編」としようかとも考えました。なぜなら、「佐久間艇長の遺書」という題名で、唱歌も作られてもいますし、大正時代の学校の教科書にも掲載されてもいたからです。けれども、ちょっとしつこいと思いやめました。「日英同盟100周年」も、その次の、「武士道―文化としての日本語その3―」へ繋がるものといえます。
普段からの問題意識であり、講演やちょっとしたスピーチ等で話していることばかりだったのですが、改めて文章にすることにより、日本語の中には、歴史を含めた文化が深く宿っていることを再認識しました。
2002年10月27日 (日) 小さくとも個性輝く政令指定都市金沢
私は平成13年12月議会において、金沢市は政令指定都市を目指すべきだと述べた。他会派の議員さんたちからは、厳しい野次が飛んだ。ところが、市長答弁で前向きな姿勢が出、翌日の新聞は、すべてそのテーマを見出しに持ってきた。その後、総務省から出向されていた原田助役(当時)も、個人的な意見としながらも、「金沢市は政令市を目指すべき」と述べたことが報道されたことなどがあいまって、金沢近郊の識者の間に、一時に、そういう空気ができてしまった。
13年12月議会の質問原稿と併せて読んでいただければ、より一層私の思いが伝わりやすいのではないかと思う。
政令指定都市と聞くと、漠としたイメージながら、都市の膨張化を想像される方も多い。確かに、法律上は、人口要件は50万人としながらも、実際は100万人を想定した80万人以上とされていた。昨年、総務省からその要件を、70万人にまで広げると発表された。金沢市が70万人の都市を目指すとした場合は、それなりの膨張化を前提にしなければならない。
私は、金沢というまちは、膨張化を念頭においたまちづくりはすべきではないと考えている。しかしながら、生活圏を一体化する自治体と合併することによって、節度ある発展をしていくことは、必要なことである。
政令市の最大の眼目は、地域の拠点都市であるということである。しかし、現実の政令市のなかには、人口要件ばかりにとらわれて、その意義があいまいになっているものもある。川崎市や千葉市さらには北九州市などがそうだ。大阪府の堺市も政令市へと希望しているようだが、総務省の方で、なかなか首を縦に振らないという。本来の政令市の意味を考えると、当然のことであろう。
さて、政令市に移行した都市は、新規産業の発生件数、立地件数が増え、産業基盤が厚みを増し、雇用の機会も増えてきていることは各種データからも明らかである。また、その近隣自治体への波及効果の大きさなどもいうまでもないであろう。特に現在、金沢市には、国の出先機関がほとんど駐在しているが、環日本海の拠点都市として新潟市が政令市に移行すると、行政改革の流れの中、そのいくつかが廃止され、新潟市の同機関に管轄が移されかねないことも危惧される。現に、今年に入り、農水省の金沢食糧事務所が廃止され、新潟食糧事務所の管轄内になり、14年7月からは、石川県の陸海運業務の管轄は新潟市内の北陸信越運輸局(旧新潟運輸局)担当とされてもいる。
また、金沢市に、銀行をはじめとした金融関係企業のほぼ全ての支店が出されているのは、北陸財務局・北陸国税局、さらには日銀金沢支店が存在していることと無縁ではない。北陸郵政局、北陸総合通信局があることにより、金沢市、石川県がインターネット普及率が地方都市の中で上位を占めていることは、高等教育機関の充実とあいまっての効果であることも否定できないところであろう。
詳細は割愛するが、私は、その優位性をしみじみと感じ入ったできごとも経験している。
それらが枝葉のように繋がり、地域経済に大きな貢献を果たしていることはいうまでもない。
私は覇権主義を想像させかねない、都市間競争という言葉は好きではないが、少なくともこれからの時代は、都市の選別がなされてくることは言を待たない。環日本海の拠点都市としての金沢市であることが、石川県、北陸の活性化に必須のことである。
そこで、私は、金沢方式の政令指定都市というものを提案している。
金沢は新潟のように膨張化を前提にした、70万人を目指すのではなく、法令の50万人を合併によって満たす。あくまでも生活圏と行政圏の一致を前提にする。そして、北陸及び環日本海の拠点都市としての性格と、歴史や伝統・文化を踏まえたブランド、都市の格とをしっかりとアピールし、小さくともキラリ輝く個性を大事にした政令市になる。金沢型の政令指定都市である。
総務省の70万人という目安に届かないという愚問を発する輩もいる。そもそも、100万人という基準が80万人になり、さらに、今回、70万となった。これは、静岡市と清水市とが合併する人口70万ちょうどの新静岡市をぜひ政令市にという、静岡県知事と静岡市長及び経済界の強い働きかけに、総務省が地域の拠点としての性格を根拠に、認めたものだ。つまり、目安が70万人となったから静岡市が政令市になるのではなく、静岡市が政令市になるために、人口70万人にしただけである。現に、片山総務大臣は明らかに金沢市を念頭において、「合併がなされるなら、法律の要件どおり50万人でも認める」と記者会見で明言している。要は、自治体側の色々な意味での「熟度」次第である。
合併によって吸収されるとか、呑み込まれるとかいうような、狭隘で感情的な議論ではなく、私たちの子供や孫たちのために「政令指定都市」という新しいまちを一緒に作っていくという発想が必要である。しかも、従来型の政令市でなく、金沢式の小さくとも個性をしっかりと持った政令市だ。
さて、合併によって、まちの個性が失われるのではないかという懸念の声が聞かれることがある。感情的には理解できるし、一瞬、もっともらしく聞こえるが、実は、そのような実例は一つも存在していない。まちの個性が失われてしまうのは、新しいまちづくりのせいではなく、個人の価値観やライフスタイルの変化によるものである。ライフスタイルはともかく、価値観は自覚の問題であることが大きい。もちろん、個人の価値観だけではどうにもできないまちの流れというものもある。しかしそれは、合併等の施策の問題ではなく、政治家をはじめとした為政者の資質の問題である。住民合意という美名のもと、責任を回避し、何のリーダーシップも発揮しない後ろめたさを糊塗した政治家も残念ながらいるようだ。そして、その政治家を選挙で選んでいるのは、私を含めた有権者である。議論を混同してはいけない。むしろ、自治体のいくつかが、自分たちのまちに隣の自治体と同じような施設を作りたがるほうが、よっぽど個性喪失に繋がりかねない。もちろん、こちらも政治家の資質の問題である。
しかし、感情的にはなかなか消せ得ないその懸念払拭のために、私は次の考え方を提案したい。
政令市になることにより、区制が敷かれる。当然、ある一定の基準で線引きすることになろう。例えば、白山麓1町5村で、「白山郷区」なる区を作る、大きな課題は市全体の中で取り組み、地域に特化した問題は、できるだけその区のなかでの議論を優先するということによって、一つの区切りができるのではないか。様々な法律との整合性を見ながら進めていけるのではないか。
一般的に政令市のメリットとして、教職員の任命権、児童相談所の設置、都市計画の様々な権限など、県並みの権限を持てることがあげられている。また、具体的には、先に私が述べた、経済的なメリットや区制による大きな案件と小さな課題への取り組み等もあるが、一つ、教職員の任命権について述べたい。
中核市である金沢市は、一般市町村と違って、教職員研修は独自で行なうことになっている。しかし、人事権は全て県が握ったままだ。研修の結果が人事に全く反映されない、いびつな形となっている。政令市になることによって、地域独自の教職員研修を行なうと同時に、先生方の研修の一環としてのより適切な配置も可能となる。場合によっては、研修の結果、不適格教員と判断された場合は、現場と離れたさらなる研修を課すこともあるだろう。研修の成果と現場の状況とを見据え、建設的なアイデアも可能だ。また、政令市の区(前述例の白山郷区のように)を意識した配置も研修との兼ね合いでできるようになる。実験的で大胆な、学級編成も可能だ。大きな魅力がある。
最後になるが、これまで全国の県庁所在地の合併は全て、知事とその地域の青年会議所(JC)や商工会青年部を中心とした若い経済人がリーダーシップをとっている。一つの例外もない。新静岡市などは、完全にJCが先導役を務めてきた。さいたま市は剛腕知事が一人でやったようにいわれることが多いが、行政に先駆けて、エリア内のJC同士が、お互いの合併を先行してやったことが大きなエンジンになったということを、行政関係者も認めておられた。
石川県においては、残念ながら、知事の動きは鈍いが、経済界は真剣だ。特に、昨年度、金沢JCにおける、まちづくりの責任者であった担当理事の熱意と当時の理事長の英断とがあったからこそ、議論がここまで熟成してきたことは間違いない。この二人がいなければ、金沢市、及び生活圏を共有する隣接自治体による、新しいまち、「政令指定都市」をつくろうという、将来を見据えた議論は今でも出ていなかったかもしれない。県・市議会議員を含めた識者から聞かれる議論のほとんど全てが、昨年のJCの議論をなぞっているに近い状況であることを見ても、間違いないところであろう。
私にしても、幸いなことにその渦中に身を置き、総務省の方や多くの調査研究を続けてこられた学者さん、さらには、石川県内を含めた全国いくつもの自治体関係者と議論を重ねる機会を与えられたからこそ、「小さくても個性輝く政令指定都市」という一つの見識に到達することができたに過ぎない。
彼らを中心としたJCメンバーや商工会青年部の方たちをはじめとする、多くの若い人たちの将来に対する危機感から出た行動を何とか次代につなげていきたい。JC内での議論と行動とを知り、議員という立場を与えていただいている者の責任として、精一杯取り組んでいきたい。
また、正攻法での議論をぜひさせていただきたい。
蛇足。
他自治体の動きを論評することは、私自身が感情的な議論をしていると思われるのを避けるためにも、できるだけ控えるようにしているが、蛇足として一点のみ付け加えておく。
対等合併が良いとか、編入合併は嫌だとかいう議論は論外であるということは既に述べた。しかしながら、残念なことに、そのことを強調する首長、議員も多いようだ。あるマスコミの方から、自分の自治体、もしくは、あの自治体は小規模なので、大きな自治体と合併すると、自分たちの自治体を地元とする議員はいなくなってしまう、もしくは、少なくなってしまうと吹聴する首長もいたということを聞いた。俄かには信じがたいが、中には、そういう方もいたのかもしれない。話が進まなくなるので、ここでは、これ以上触れない。
今日再選が決まった松任市長は、白山麓1町5村との合併を進めるにあたって、「対等合併」とともに、これまでの旧石川郡での広域行政の実績を強調されている。
これまでも私は指摘してきているように、合併は基本的には、生活圏と行政圏との一致を錦の御旗にすべきである。なぜなら、市役所や町・村役場とはそこで働く職員や首長、議員のためだけに存在しているのではなく、その方たちを含めた、そこで生活する全ての住民のために機能するものであるからだ。広域行政の組み合わせは、住民にとっては極論すればどうでも良いことである。
例えば、全ての野々市町民、及び一部の鶴来町民の下水処理は全て金沢市安原にある最終処分場で処理している。下水処理施設とは一般的に言って、近隣にあることが、必ずしも歓迎される施設とはいえない。そのことに対して、野々市町民や鶴来町民が金沢市民、特に、安原地区にお住まいの方たちに対して、感謝の気持ちを述べたということは聞いたこともない。また、金沢市側としても、そのようなことは考えたこともないであろう。生活インフラとして必要なものであるということは、誰でも理解しているかただ。
また、野々市町民が利用する斎場は、広域行政サービスにより、基本的には、鳥越村の斎場となっているが、実際は、多くの方が金沢市の斎場を利用している。その際の使用料は、金沢市民のそれよりも多くを徴収してはいるが、イニシャルコストを含めた実費の全てをまかなうものではない。差額分は、金沢市民が負担している。しかし、そんなことは、一般の野々市町民や鶴来町民にとってはどうでも良いことであろうし、金沢市民がそのことにクレームをつけたなんて事は聞いたこともない。また、問題にすることでもない。
つまり、広域行政の実績なんていうものは、あくまでも行政サイドだけの都合であり、その恩恵に与っているほとんどの生活住民にとってはどうでも良いことなのである。
合併を語るに際して、広域行政事務の実績は、行政サイドにとってはひとつの側面であることは間違いないが、生活住民にとっては、優先順位の極めて低いテーマである。にもかかわらず、そのことを、さも大事そうに強調することは、実は、生活住民の意思や利便性、さらには、その地域の将来のまちづくりよりも、現在の、否、過去の行政側の都合だけを最優先にしていることを露呈していることに気づいていない。本当は、住民置き去りの議論といっても過言ではないかもしれない。
もちろん、感情論というものは大切な議論であることは間違いないが、入口論としてもってきては、全てが滞ってしまう。建設的な議論ができなくなってしまいかねない。
本当に住民のことというのであるならば、先ほどの論外の議論はもちろん、行政側だけの都合で意見を言うばかりではなく、将来に責任をもてる議論をしていきたいものだ。
2002年10月13日 (日) 加賀藩前田家の限界
明治維新を語るに際して、「薩長土肥」は避けられない用語である。
薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の四藩が中心になって、倒幕から新しい政府設立、さらには、その後の富国強兵へと進む明治維新を成し遂げたということだ。しかし、実際、歴史の表舞台に登場するのはほとんどが、薩摩藩と長州藩で、土佐藩が野にくだっていくらか名前を残しているが、肥前藩にいたっては、ほとんど印象が薄い。
土佐藩としては、江戸末期に、脱藩した坂本竜馬が大いに名を馳せてはいるが、意外なことに、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が世に出るまでは、それほど知られてはいなかったという。藩内の複雑な事情もあり、藩として、倒幕に名が登場するのは、鳥羽・伏見の戦いからである。
肥前藩にいたっては、鳥羽・伏見の戦いには参加もしていない。正確にいえば、薩長から誘われて、それ以降、倒幕に関わったといえる。
薩英戦争、四カ国艦隊との戦いを経て、欧米の近代化された軍隊の強さを痛感していた薩長は、肥前藩の洋式化された軍隊をはじめとした藩組織そのものを、維新革命のために必要と判断した。地理的要因から、長崎警備を幕府から委任されていたがために、欧米からの色々な意味での危機感にさらされていた肥前藩は、まさにその危機感から大変な学問熱が起こったという。そこで育った人材が藩の近代化に貢献していく。また、その気風の中に大隈重信が生まれ、日本の政治・学問に大きな貢献を果たした。
では、綺羅星のごとく幕末維新に名を馳せた薩長二藩と、「薩長土肥」といわれながら、先の二藩の後塵を拝する形になった土佐藩、肥前藩との違いは何か。
その決定的なものは、長州の毛利家、薩摩の島津家は、ともに、藩主と藩士と領民は同じ種族で、同じ土地の人間であるが、土佐藩、肥前藩はそれぞれ、山内家、鍋島家という、いわゆる「進駐軍」の支配下にあったということであろう。
長州藩では、関が原の戦犯処置で、中国全体を仕切っていた毛利家が、これまでの三分の一以下の37万石に切り下げられた。それでも、足軽にいたるまでついていきたいといい、毛利家の方でも、同じ種族であるがためにいわゆる人員整理もできない。そういう中、当時の当主毛利輝元が幕府の閣老筋に、とてもやってはいけない、投げ出したいと泣きついたともいう。
その後、長州藩全体として、生活の為、瀬戸内海に向って干拓をし、殖産興業を少しずつ行ない、力をつけていく。村田清風の登場で、維新の導火線としての長州藩が完成されてきた。
薩摩藩においても、関が原の負け組であったが、長州藩同様、藩一丸となって殖産興業を進め、小規模ながら産業革命的な動きも起こし、雄藩としての力をつけていく。
一方、土佐藩は、関が原の戦いの前までは長曾我部氏という地生えの大名であったが、徳川家の敵方についたがために、取り潰されてしまい、掛川から山内氏が土佐に入った。進駐軍である。山内氏は最後まで長曾我部氏の残党、亡霊に苦しめられることになる。幕末には、藩主、上層藩士の「山内派」は佐幕、郷士・庄屋階級の「長曾我部派(?)」は倒幕と自然色分けがなされたという。それゆえ、郷士階級が次々と脱藩を重ねた。その中に、竜馬もいた。冒頭で書いた、藩内の複雑な事情とはこのことだ。
肥前藩も、長崎警備を幕府から委任されていたという特殊事情により、他の藩との比較は一概にはできないが、地生えの大名でないという点では、土佐藩同様である。
話は飛ぶが、この地生えの大名ではないという点において、一番、悲涙を誘われるのは、やはり、何といっても会津藩である。
いうまでもなく、家康の孫保科正之が当主となり、その後二百年あまり続くことになる。
幕末、京はいわゆる勤王志士が市中を横行し、佐幕派とみれば斬り、家宅に押し込んで殺戮し、その首をあたかも公刑であるがごとく鴨河原にさらした。幕府は、その無警察状態を収めるため、京都守護職として、会津藩に京に常駐するよう命じた。この段階で、すでに幕府の衰亡を予知していた藩士も多く、中には藩主松平容保に直訴し、「いまのこの難関にあたってはその任をうけるのは、薪を背負って火中にとびこむがごとし」と、極力幕命を辞退するよう申し入れ者もいたという。しかし幕閣の事情はそれを許さず、ついに受けざるを得なかった。
その後のことは、歴史が証明するとおりである。戊辰戦争での惨敗、さらには、維新初期の薩長による冷酷な仕打ちへと繋がっていく。
あれだけ、歴史に残る悲惨な戊辰戦争であったにもかかわらず、太平洋戦争の敗戦ですら戊辰戦争の敗戦の深刻さに及ばないといわれるこの土地全体の怨みであったにもかかわらず、その会津藩でさえ、先に述べたとおり、徳川家末裔の進駐軍である藩主・藩士と土着の領民とは全くかけ離れていたという。戊辰戦争は、所詮は、侍だけの戦いであった。領民はむしろ、官軍に情報を教えているくらいであった。
会津攻めに入った板垣退助が、支配階級と領民が全く離れているのを見て、これはどうしても民権でなければいけないと、真っ先に悟ったという程であったという。
死の覚悟で京都守護職を受け、その後、徳川慶喜に捨てられた松平容保はじめ、ほぼ全滅させられたという藩士たちにとっては、死んでも死にきれない思いであったろう。あまりにも切なさ過ぎる。
蛇足ではあるが、私はあるスピーチの場で、この話をしている最中に、思わず、胸が詰まってしまったことがある。
さて、加賀前田藩である。
「利家とまつ」の中で、こういう場面があった。信長から能登に封じられた前田家が七尾に小丸山城を築いた。その場面で、まつが能登の領民の女性たちの前で、彼女らが作った団子だかおにぎりだかを大いに食し、女たちを驚かせるというくだりがあった。そのエピソードが事実かどうかはともかく、マッカーサー前田家が地元の領民たちと意識的に交わろうという姿勢、逆にいえば、進駐軍ゆえのはばかりが示唆されていておもしろい。 一般に、信長の政治的資質は光秀、秀吉に引き継がれ、文化的素養は利家によって実が結んだといわれる。利家と三代目の利常の趣向や、徳川家ににらまれないという理由のためにも、前田家は武力よりも文化施策に力を入れたという。それが連綿と受け継がれ、現在にもその流れはある。
「謡が空から降ってくる」という言葉がある。植木職人が、木の上で剪定をしながら、謳いを吟じていることをいう。それだけ庶民にも文化が普及していたということであろう。
加賀文化が江戸文化や京の文化と決定的に違う点は、武家文化と大衆文化との違いであるという。加賀藩の文化は基本的には武家の文化である。それが藩全体の気風を作っていったということは、前田の殿様の善政の証ともいえる。庶民から慕われていなければ、武家文化が今に伝わるはずはない。
しかしながら、この地は、かつて「百姓のもちたる国」であった。富樫氏を放逐し、金沢御坊を拠点にしての、「もちたる国」であった。前田家もそのことは常に頭にあったはずだ。それだけに、気候にも恵まれ、百万石の財力のもと善政をひき、慎重に江戸時代を生き抜いてきた。
外様大名でありながら、減封もされることがなかったゆえに、徳川家に恩を感じていたであろう。前述のように恵まれすぎた環境であったこととあいまって、維新に乗り遅れてしまった。
さらにいえば、維新に乗り遅れたもう一つの理由は、藩士クラスにおける学問習熟度の低さにあったのではないか。
現在の金沢市及びその近郊は、実に多くの高等教育機関が存在する。しかし、江戸時代は、加賀藩の藩校としては明倫堂があったが、肥前藩の弘道館、会津藩の日新館、肥後藩の時習館、水戸藩の弘道館、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、等々きらびやかな実績を残している学び舎に比べると、あまりにその存在感は軽すぎる。あまり認めたくはないところだが、事実であろう。
文化度の高さからいえば、享楽的なまちであったとは考えにくいが、いずれにしても残念至極である。他藩の状況を見ても、藩士クラスが学問にあまり熱心でない、その気風は、一般庶民にまで伝播していたはずであろう。
私は、前田家が地生えの大名であったらどうであったろうか、と考える。あれだけの文化度の高さと百万石の財力のもと、領民たちと一心に幕末・維新を駆け抜けていたらどうなっていたであろうか。藩士や領民たちにもっと学問を奨励していたら、倒幕に携われなかったとしても、維新後にどのような立場でいたであろうか。
少々口惜しいような気もするが、一方では、もしかしたら長岡藩や会津藩のようになっていたのかもしれない。
地生えの大名でない前田家にとって、ある種の危機感がずっとあり、限界も感じていたであろう。
良くも悪くも私たちはその枠の中で生きている。
2002年09月17日 (火) 佐久間艇長の遺書
ご高齢の方たちのお集まりの会によんでいただき、講演をさせていただいた。人生の大先輩の方たちばかりの前での講演ということで、さすがに人前で話し慣れしているつもりの私も、少々臆してしまった。
何年か前、高砂大学において約四百名のご高齢者を前に講演させていただいたことがあるが、それ以来だろうか。ただ、この時は、当然ではあるが、今よりは数年若かったこともあり、結構、自分のペースで、一方的に話してきた覚えがある。もっとも、決して、いいかげんという意味ではない。
教育問題について、普段から考えていることを中心にお話させていただいた。人物を通して、歴史を学ぶということだ。
小中学校の国語の教科書から、漱石も鴎外もなくなっていること、音楽教科書から瀧廉太郎や山田耕筰の作品はじめ、私たちが聞き親しんできた童謡・唱歌が少なくなってきていることなど、聴衆の皆さんがおそらくはご存知であろう作品名を出しながら、話させていただいた。皆さん、強く頷きながら聞いていただいたようだ。
私がこのテーマの講演でよく取り上げさせていただく、「佐久間艇長の遺書」についても話してきた。「佐久間艇長の遺書」についての話は、時代が重ならないまでも、その時代の空気をご存知の方たちとして、感銘をもって聞いていただいたようだ。涙されていた方も多く、話している私も胸が詰まった。
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日露戦争終了の二年後の明治四十三年、佐久間勉艇長率いる潜水艇が、その訓練中に、不幸にして艇の故障により、部下十三名と共に沈没し、二度と自力で浮上することがなかった。
沈没二日後、潜水艇は引き揚げられた。この時、現地に駆けつけていた遺族も遠くへ離され、ごく一部の関係者以外は立入禁止となった。なぜなら、これまで諸外国での潜水艇の事故は、艇引き揚げ後、ハッチが開かれると、そこには乗組員たちが何とかして艇から脱出しようと、出口に殺到して息絶えている修羅のありさまが多かったからだ。我先にと争った形跡があったり、苦しさのあまりのどをかきむしったりした様子などが見られたということだ。そうした悲惨な光景を遺族に見せるわけにはいかない。
ところが、いざ、ハッチを開いてもそこには誰の姿も見えない。
艇内に足を踏み入れ、その内部の様子を一目見た関係者たちは思わず息を呑んだ。
艇長以下十四名の乗組員全員が、それぞれの持ち場についたまま息絶えていたからである。艇内に入った関係者はもちろん、これを伝え聞いた人々の驚きは大変なものであったという。
その後、佐久間艇長の遺書が発見された。
艇長は刻一刻と苦しくなる呼吸の中、司令塔の小さな窓のわずかな光を頼りに、事故の経緯やその事に対して取った対応策等々、遺書を綴った。息の続く限り少しでも多く書き残そうと、懸命に鉛筆を走らせた様子が伺える。その文字はしっかりとし、文章も簡潔明瞭であった。
私が驚くのは、佐久間艇長もそうだが、部下十三名全員が、艇長同様、最期まで自分の持ち場を離れなかったという点だ。その艇長のリーダーシップ、人望。
艇長以下すべての乗組員は、自分たちは助からないであろう事を覚悟していたはずだ。そうであるならば、自分たちにできることは何か。そう考えながらの最期の行動であったはずだ。
「謹ンデ陛下ニ白ス、我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ」
佐久間艇長の遺書に書かれた文言の一節。部下たちが艇長に文字通り命を預けて、私淑していた理由のすべてを表しているといえる。
遺書の最後の言葉は、「十二時四十分ナリ」であった。この後、何を書きたかったのか。この時間に何か異変があったことを記したかったのか、それとも、今後の潜水艇訓練に役立つようにと、自分が息絶える時間を記すつもりだったのか。いずれにしても、あまりに切ない。
佐久間艇長は、若干三十歳。今の私より、十歳も若い。
この出来事は、一人、佐久間艇長だけではなく、この時代の日本人の気質を表しているといっても過言ではないのであろう。
――――――――――
講演を終え、控え室で休憩していると、一人の老紳士が私のところに来られた。
「佐久間といいます。今日お話いただいた、佐久間勉の甥です。今日は、伯父の話をしていただき、本当にありがとうございました。」
本当に驚いてしまった。先日、市内在住の八田輿一技師の甥の方とお会いし、私が八田輿一技師のことを、機会あるごとに取り上げていることに関して、やはりお礼を言われたばかりである。しかも佐久間艇長は福井の方で、時代も、日露戦争直後の話である。
その方は、私のような若輩者が佐久間艇長の話をしたことに、いやそれ以上に、そういうことを知っていたことに驚いたようだった。
七十歳は越しているであろう方が、おそらくはご自分のご子息よりも年下であろう私を前にして、感激の面持ちで、深々と頭を下げておられる。
若輩者ではあるが、日本人の語り部としての責任を痛感した。
2002年09月08日 (日) 武士道−文化としての日本語その3−
前回、日露戦争までの指導者の資質に大きな影響を与えたのは、新渡戸稲造がいうところの「武士道」精神であり、江戸時代における藩校、寺子屋で身に付けた、古典的素養ではないかと述べた。
古典的素養はともかくとして、その武士道精神なるものはどの時代に日本に生まれてきたのか。
武士が日本の歴史の表舞台に現れてくるのは、鎌倉時代、もしくは平安時代末期の平家からといわれている。
それまでの日本は、律令体制のもと、公地公民制がひかれていたが、当然、貴族や有力農民の中には私有地を持つ者も出てくるようになる。その最大のものが藤原氏である。藤原一族は、天皇家と姻戚関係を持つようになり、その力を背景に、不輸・不入の権を朝廷に認めさせ、実質的に公地公民制は瓦解し、三世一身の法、さらには墾田永年私財法へと繋がっていく。(まっ、現代でいえば、族議員、抵抗勢力というやつでしょう。)
さて、貴族や有力農民たちが少しずつであったとしても、税金を納めなくても良い田畑、つまり私有地という概念ができてくると、当然、それらを守ることが必要になってくる。
法律的には、三世一身の法であり、墾田永年私財法となる。一方、ならず者たちから力ずくで守るためにも、武装化が必要となってくる。
司馬遼太郎のいうところの、「用心棒」であり、谷沢永一のいう、「保安官」の登場である。それが武士の起こりといえる。
これまでの公地公民制のもとでは、自らが開墾した土地であっても、自分の死後は朝廷に没収されていた。しかし、墾田永年私財法により、自ら開墾した土地は、自分の死後も、自分の子孫たちに伝えられることが、とりあえずは法律的に認められるようになった。
また、自らが武装化したり、武装化した集団を雇い入れたりすることにより、その安寧を守ることに意を配るようにもなった。
その一族にとってはまさに「一所懸命」の土地となる。そのことが担保されることによって初めて、自分のためだけではなく、自分の子孫たちのために、「後世に名を残す」という概念が澎湃として生まれてくることになる。
いわゆる、「名こそ惜しけれ」、「恥を知る」という武士道の起こりである。
この武士たちの美意識が、長い日常生活の中、儒教や仏教などの影響を受け、昇華され、蒸留されたものが、新渡戸稲造のいう「武士道」といえるのではないだろうか。
そして、その美意識が日本の文化史の表舞台に現れてきたものが、かの有名な平家物語の「青葉の笛」である。
一の谷合戦で平家は敗れ、平家一門は海上へと敗走していった。
平家の公達・平敦盛(あつもり)は馬に乗ってその助け船にたどり着こうとしていた。その時、平家の残党狩りをしていた、源氏の武将、熊谷次郎直実(なおざね)がその後ろ姿を見つけ、「まさなうも、敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と挑発する。
敦盛は、踵を返し、直実と組み合うも力の差はいかんともしがたく、あっさりと組み伏せられてしまう。直実が、相手方の鎧冑をとって、その顔を見ると、大将軍と思ったその武将は、自分の子供とたいして変わらない、若い公達であった。直実は助けてやりたいと思いながらも、他の源氏の軍勢が背後に迫っていることを知る。
「あなたを助けてあげたい。お名前は。」
「私は名乗るまい。私の首を取って人に聞くがよい。お前にとっては大手柄となるだろう。」
「若武者ながらも、あっぱれな心意気。」
直実は、「名も無き雑兵の手にかかるよりは」と泣く泣く、敦盛の首を切り落とした。
その敦盛の腰には、笛がかかっていた。直実は、その日の早暁、戦場に響く美しい笛の音を聞いて、戦場でも情緒を忘れない平家の武士に感銘を受けていたのだが、その奏者が、今、自分が命を奪った若い公達だということを知り、無常を感じその後出家をする。
その笛が、大本山須磨寺の寺宝として現存する、「青葉の笛」である。
敦盛は、直実の呼び立てになぜ取って返したのか。おそらくは、そうすれば自分の命のないことは覚悟していたであろう。「まさなうも」と、背中から吐きつけられ、そのまま、敗走するわけにはいかない。それがその時代の武士の美意識といえる。現代人からすれば、むしろ忌避される行動かもしれない。
中世武士の美意識、モラルが、新渡戸稲造のいう「武士道」のように未だ決して洗練されたものではなく、武骨でゴツゴツした激烈なものとして表されている、その顕著な例といえる。
さて、その敦盛のことを歌った、「青葉の笛」が、明治時代に唱歌として、当時の子供たちに歌われていたという。
戦後、「青葉の笛」はどの音楽の教科書からもなくなってしまった。確かに今風の歌とはいえないかも知れないし、歌詞にある、一の谷の合戦にしても、子供たちにはすぐに理解はできないであろう。
私も、さすがに、唱歌「青葉の笛」の復活を声高にいうつもりもない。しかし、いつか、何かの機会に、その精神だけでも子供たちが、触れることができる、そういう社会環境であって欲しいし、その責任の一端を担える大人であっていたい。
蛇足を一つ。
敦盛は、この「青葉の笛」の唱歌としても有名だが、幸若舞の「敦盛」としての方が知られているかもしれない。例の、信長が舞うことを好んだという、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」というやつだ。
「利家とまつ」をはじめ、様々なドラマにおいて、本能寺で信長が自害した際に、舞ったとされている。しかし、当たり前のことだが、誰も見た者がいない。
幸若舞の「敦盛」を、信長が普段から好み、特に、桶狭間の戦の朝に舞ったことが強烈な印象となっていることから、後世の歴史家が信長の最期に相応しいエピソードとして作り上げ、広まっていったのだろう。
それはそれで良い。
さて、詳細な説明は割愛するが、「下天(化天)」という世界に住まう、その住人の定命は五百歳とされているという。そんな世界に比べれば、この世はまさに、「夢幻のごとく」であろう。
私が、疑問に思っていることは、先の、「利家とまつ」の信長の最期のシーンでもそうであったが、その舞を口付きに謡う際、信長に、「にんげん(人間)五十年」と発音させていることだ。
この場合は、人が生きている間、人の寿命の長さのことをいっている事は間違いない。下天の住民(という表現が適切なのかな?)との、生きている間の長さを比べていることでもあろう。
私はこの部分は、「じんかん(人間)五十年」と発音させる方が正しいような気がして仕方がない。
浅学な私にはどのように調べてもわからない。井上ひさしか丸谷才一、もしくは山崎正和あたりならわかるでしょうが、私にはその伝手もない。
どなたかおわかりになる方がいらっしゃれば、ご教授いただきたい。
2002年08月30日 (金) 日英同盟締結100周年
あまり騒がれていないが、実は今年は日英同盟締結100周年である。
明治維新以降の日本の近現代史の中、日本にとって、最大の転換点が、この日英同盟であったと私は思っている。
第二次世界大戦を、日本の最も大きな分岐点に挙げる方も多いかもしれない。
しかし、もし日露戦争で日本が敗れていれば、間違いなく日本はロシアに侵略されていたであろうし、そのような状況の中、仮に大戦が行なわれることがあったとしても、少なくともあのような枠組みとはなってはいなかったであろう。
日露戦争に日本が勝利したことによって、ロシアの南下を防ぐことはできたが、他の欧米列強、特にアメリカにおける日本脅威論が様々な形であらわれてきて、また、日本自身にとってもおかしなところが表れてき、第二次大戦へと突入していってしまうのである。
日露戦争に日本が勝利することができた最大の理由は何か。それは、日英同盟であるということは誰もが認めるところであろう。
私たちは学校の授業や一般の書物などで、当時まだ世界の三流国とされていた日本が、当時の一流国イギリスと同盟を結ぶことができた最大の理由としては、さしもの「陽の没することなき」大英帝国といえども、極東の既得権益を維持するには、第三国の協力を得なければ困難になってきたからだと学んできた。
それは確かにそうであろう。しかし、そのことが、イギリスにとって、東洋の非キリスト教徒で黄色人種である日本との間に、同盟を結ぶ動機にはなり得ても、直接的な契機となるには、どうにもインパクトが弱すぎるような気が、ずっと私はしていた。
そんな疑問の解消にヒントを与えてくれたのは、平間洋一氏の著書「日英同盟」(PHP新書)である。
つまり、鍵は、清国の内紛とも言える義和団の乱であり、その乱平定における日本軍の勇敢さ、規律の厳正さが世界中から評価されたという事実である。
そのことは、北京市内における日本軍管轄地域が規律正しく厳正であるとして、多くの清国人が保護を求めて流れ込んできたという事実。また、日本軍に接収されていれば略奪が免れるとの理由から、多くの民家では勝手に日の丸が掲げられ、これには師団長が国家の威信に関わるので、みだりに日の丸を掲げてはならないと通達を出した事実などからも窺い知れることでもある。
このような事実が、各国の北京駐在特派員によって世界中に大きく報道され、また、英国公使マクドナルドが本国に、日本は充分信頼に足る国であることを再三にわたり、強く進言したことなどにより、「光輝ある孤立」を標榜する大英帝国が、「東洋の一小国」日本と同盟関係を結ぶ最終決断を大きく促したものといえる。
日清戦争においては、イギリスは中立といいながら、明らかに反日親清の姿勢をとっていたことからも、この義和団の乱における日本軍の行為が、大きな転換点であったことは間違いないであろう。
では、なぜ、日本軍はそれほどまでに勇敢で規律に厳正であり得たのか。
ここからは全く私の推測である。
司馬遼太郎の言葉を借りれば、日露戦争までの軍人、特に指導者は、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争を含めた明治維新を駆け抜けてきた人物たちである。彼らは、いわゆる近代教育を受けてはいないが、古典的な教養の素養を持った人物たちであった。また、新渡戸稲造のいうところの、「武士道」精神を無意識のうちに身に付けている時代の人間たちともいえるであろう。
そういえば、日露戦争の早期講和の斡旋を、当時のアメリカ大統領ルーズベルトに、金子堅太郎が要請に行った際、持っていったのは、新渡戸稲造の著書「武士道」であることはあまりにも有名だ。
結局、ルーズベルトは、その本によって当初の態度を軟化させ、講和の斡旋に乗り出すことになった。
当時の日本軍の行動の規範となるもの、もっといえば、精神的な支柱となり得たものは、やはり、その「武士道」的な道徳観により築かれていったものであったと思われる。また、その時の指導者たちが泰然自若たる雰囲気を醸し出していたのは、やはり、その時代人特有の古典的な教養がにじみ出ていたものではなかったか。日露戦争において、乃木将軍は、砲弾行き交う中、さらさらと漢詩を書いて、外国人記者連中はみなすっかり魅せられてしまったという。それらが入り混じって、規律に厳正で、世界に信用され得る日本軍との評価を作っていったものと思われる。
では、明治維新を駆け抜けてきた先人たちが受けてきた教育と、その次の世代の指導者たちが受けてきたそれとの決定的な違いは何か。それは、各藩が積極的に設置を進めてきた藩校及び、民間による、いわゆる「寺子屋」にあるのではないだろうか。突き詰めて言えば、その寺子屋を可能ならしめた、「藩制度」が挙げられる。現代風の言葉でいえば、地方分権の粋を極めたものとなろうか。
江戸時代の藩は、幕府からの改易を受けないように、藩内の産業を育成し、そのための人材を育てるために藩校を設けていた。幕府からの干渉に対応し、藩の独立を保ちつつ緊張感を持って人を育てる。また、その気風が、数多くの寺子屋へと繋がっていった。
江戸時代末期には、日本中に、一万を越す寺子屋があったという。そこで藩士の子弟や庶民の子どもたちが、いわゆる「読み、書き、そろばん」を習っていた。幕府の天領地以外のほとんど全国に、そのような寺子屋が存在していた。
一方、学問のネットワークがあり、藩を超えて繋がっている知識社会の一面もあるきわめて完成された、いわゆる地方分権の社会構造が江戸時代に確立されていたともいえる。
その教育水準の高さが、維新以降の急激な近代化に貢献したであろうことは間違いない。
その指導者たちの威風堂々とした風格は、そこで学んだ、古典的素養からきているといっても過言ではないであろう。
さらには、日英同盟が締結されたのは、江戸時代に結ばれた、いわゆる不平等条約が解消された二年半後であるということも、象徴的なことといえる。
不平等条約改定のために、各種法制度の整備、欧化政策等々、明治の先人たちの涙ぐましいまでのひたむきさが、条約改定だけではなく、日英同盟に繋がっていったことも忘れてはならないことである。
縷々、述べてきた。
現代の日本は、実は、そんな議論をし直さなければならない岐路に立たされているはずではないのか。
そのための、100周年となって欲しい。
2002年08月11日 (日) 案山子―文化としての日本語その2―
私が講演に際して、好んで取り上げる話。
古事記には多くの神々が登場する。
大国主神(ご存知、国づくりを果たした神様)が、他の神様たちと出雲の海岸で寛いでいると、沖合いから、誰も見たこともない小さな神様が船に乗ってやってきた。大国主神が周りの神たちに聞いたが、誰も分らない。そこで、何でも知っているといわれる、久延毘古(クエビコ)という神様に聞いてみたところ、その小さな神は、神産巣日神(カミムスビノカミ)の子で、少名毘古那神(スクナビコナノカミ)だということが分った。
早速、神産巣日神に聞いてみると、確かに自分の子である。これも何かの縁だから、大国主神よ、少名毘古那神と一緒にこの国を作り固めなさい。
そこで素直な二人の神様は、忠実に国を作り固められた。ところが、国を作ってしまうと、その小さな神様は、単身、常世の国(海の彼方にあると考えられた不老不死の楽園)に行ってしまわれた。
何とも、神秘的(神様だから当たり前だが)で、魅惑的な神である。
さて、その誰も知らなかった小さな神の名を教えたあの久延毘古は、今では「山田のそほど」という名で呼ばれていると書かれている。さらに続けて、この神は、「足は行かねども、尽(ことごと)に天の下の事を知れる神なり」と締め括られている。つまり、現代語でいう、「かかし」のことである。
この古事記の逸話からは、当時のかかしの役割がどれだけ重要視されていたかが伝わってくる。なるほど、どの神様も知らないようなことでも、何でも知っている神様として、「そほど=かかし」のことが書かれていることからも、明らかであろう。
私が古事記のこの節を読んだのは、恥ずかしながらほんの数年前のことだ。直感的に、童謡の「案山子(かかし)」を思い出し、作詞者を調べてみた。作詞者は、不詳とということらしい。長い長い言い伝えが、私たち日本人の共鳴を生み、やはり、長く歌い続けられた。
私は小さい頃、その始まりの歌詞、「山田の中の一本足のかかし」を文字通り、山間(やまあい)に田んぼがあり、その田んぼの中に案山子が立っている穏やかな様子が歌われたものと思っていた。
ところがそうではなかった。いや、作者は実際にそのような光景に出くわしたのかもしれない。しかし、その詩人は、その情景に吸い込まれそうになりながらも、古事記のあの魅惑的な神たちのことを思い出し、欣然として、「山田のかかし(そほど)」を詩の中に使ったものと思われる。
詩中に古事記を生き返らせたのだ。神様の息吹を与えたのだ。ほぼ間違いないであろうと私は確信している。
果たして、「案山子」は現代の子どもたちの音楽の教科書に載っているのであろうか。子どもたちが自然に耳にするところとなっているであろうか。
童謡の中にも、このようにほとんど意識されることなく、そっと日本の文化がうずもれているものもある。その文化がその歌を歌う人、聞く人の意識の底に沈んでしまうときに、私たちは日本人というものを感じるのではないか。
何気ない言い回しにも文化の深さを感じさせるものこそが、言葉の力といえる。
2002年08月04日 (日) 文化としての日本語
本屋に足を運んでみると、ここ最近は、ちょっとした日本語ブームということに気付かされる。
日本語に関する本が多くある中、私見ではあるが、今回のブームは、4年ほど前にベストセラーになった、大野晋の「日本語練習帳」あたりを嚆矢とし、大野晋、鈴木孝夫、森本哲郎、3人の共著である、「日本・日本語・日本人」、さらには、斎藤孝の「声に出して読みたい日本語」と続き、同じ著者の「理想の国語教科書」で頂点に達したといえるのではないだろうか。
この関心の高まりは、文部科学省の中教審、文化審が、国語力の育成を訴え、古典などの読書を重視するよう求める答申を発表したことをその理由に挙げる向きもあるが、私はそうは思わない。
私が議会質問や講演等々で再三にわたって述べているように、漱石や鴎外が国語の教科書から完全になくなってしまったり、日本の伝統・文化や風習が謳われた童謡・唱歌の多くが、音楽の教科書から消えてしまったりしたことに象徴される、私たち日本人としての文化としての日本語の衰退に対する潜在的な危機感、不安感がその根底にあるように思えてならない。
もしかしたら、そのブームの仕掛人はいたのかもしれない。しかし、ここまで大きなうねりになった素地というものは、間違いなくこれらの理由に帰結せられるものであると確信している。
特に、斎藤孝氏の著作は妙な言い方だが、元気付けられる。その著作の中に、私と価値観を同じくする箇所が多く見つけられるからであろう。
「日本語力は意識的に身につけるべき技だ。最良のものに出会いあこがれ、大量の反復練習をこなすことで、技を見に付けていく。」
「(詩や名文を暗誦することにより)文章の意味はすぐにわからなくてもいい。長い人生のプロセスのなかで、ふと意味のわかる瞬間が訪れれば。こうしたゆっくりとした構えが、文化としての日本語を豊かにする。」
この春に、ある教育関係者とじっくり話しをする機会があった。その話の中で、私が、いわゆる古典的名文と言われている文章を暗誦することが大切ではないかと述べた際、教育長は、そのような意味のない単調な作業が、子供たちの読書嫌いを生んでいるのだと指摘された。続けて、子供たちがもっと興味持てる事柄に力を入れていきたいとも述べられた。
私は漠然と違和感を持ちながらも、上手く反論できなかったが、斎藤氏は上記の文章におけるように見事に答えてくれている。
また続けて、「暗誦が衰退した背景には、暗誦文化が受験勉強の暗記と混同された(中略)、覚えること自体が人間の自由や個性を阻害するものと思い込まれた。」と書かれている。暗誦というものが誤解されていたのだ。
引用ばかりで恐縮だが、もう一点だけ。
昨年9月議会で私が議会質問において教育問題を取り上げた際、例にあげた、兵庫県山口小学校の蔭山英男先生の最新著作「本当の学力をつける本」にも、同様な記述が見られる。
音読による反復学習の科学的な成果を例示された後、次のように記されている。
「源氏物語や枕草子と平家物語や方丈記などを暗誦させた後、その語感を比べてみるとその違いがわかり、貴族社会と武士社会の違いが良くわかります。」
「将来、こういうこと(小さいときに暗誦した古文や和歌など)が口をついて出てくれば、それが教養というものになるのかなと思います。」
文化とは、その個人としての教養がお互いに絡み合い、反発しあったものを、総体としていうのかもしれない。
このテーマは私にとって、大変興味深いものであり、得意としたい分野である。
今回は引用が多くなったが、これからも、何回かこのことに関する私の考えを述べていければと思う。
2002年06月19日 (水) 鶴来町と白山麓5村
平成14年の春頃から、金沢市の合併問題に、これまでの野々市町との合併の議論に加えて、鶴来町と白山麓五村との合併の話が澎湃として湧き上がってきた。
これまで、金沢市の合併問題において、精力的な活動を繰り返してきた、私も所属する金沢青年会議所(JC)メンバーや関係者の何十人かに、私は、以下のようなメールを急遽送った。
私がこのテーマについて取り組んできた流れや、JCがこの合併問題において、果たしてきた役割の一端が垣間見えるものでもある。ご高覧いただければ、幸いである。
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市長は今議会の提案理由説明の中で、従来の野々市町との合併を目指すことに加えて、鶴来町と白山5村との合併も視野に入れることを述べられた。
98年に金沢青年会議所で「リージョン2020」という金沢、松任、野々市、鶴来、内灘、津幡の2市4町による広域的なまちづくり案を提言した。これは、当時、私が副委員長を務めていた委員会内で、次のような議論を経た上でのものだ。
金沢でのまちづくりを考えた場合、自動車の台数が交通インフラ整備の進捗状況以上に急激に増加してくることによって、交通渋滞のみならず、都心部の衰退化などの様々な社会問題を生み出してきた。
一足先に同じような問題に直面した欧米の都市では、それまで別個に対応してきた交通システムと土地利用とをリンクしたまちづくりを推進するという考え方、いわゆるTOD(トランジット・オリエンテッド・ディベロップメント)政策に変化することによってこの問題に対応してきた。
もちろん、それは地域内交通だけではなく、地域外との連続性のある交通システムを考慮し、交通政策を単独の問題としてとらえるのではなく、まちづくりの一環として取り組んでいこうという考え方だ。
その先進地として、アメリカのポートランド市を当時の委員会で視察に行き、その他様々な調査を踏まえた上で、つくられたものが「リージョン2020」といえる。
その提言が基になり、2市4町の行政の中に、金沢都市圏関係都市会議なるものが作られ、さらには、この2市4町と石川県、国土交通省とで、「金沢都市圏交通円滑化総合計画」が策定されたことは記憶に新しいところだ。
JCとしては、「リージョン2020」を受け、昨年の、「羽ばたけ!かなざわ生活圏―政令指定都市構想に向けて―」さらには、10月のフォーラムへと繋がってきたものといえる。
多くの関係者も認めるように、その10月のフォーラム以降は、県内においてもそれまでの合併論議から明らかに大いに脱皮し、そのベクトルが明確になってきた。また、結果としてポイントがずれた議論は、明白にポイントがずれているものとして整理され、現在に至っている。
覚えておいて欲しいことは、ポイントがずれたものはともかくとして、昨秋以降の金沢市の合併にまつわる議論は全て、県議会や市議会での議論を含めて、本当に全て、「羽ばたけ!かなざわ生活圏」とそのフォーラムの枠内での議論であるということだ。
メルマガにおける、対新潟市との比較、環日本海側の拠点都市としての性格付け、道州制、そして政令指定都市・・・。さらにはフォーラムにおける、交付税の段階補正の見直し、小規模自治体の権限の縮小、地方制度調査会の議論等々・・・。ここ数ヶ月の議論は、実は全て、完璧に全て、「枠内」での議論に尽きる。
私や岡田直樹氏が本会議や委員会において何度も声を大にして述べてきたことが浸透してきたこともあるのか、多くの議員も「枠内」での議論にのってきてくれた。
特に、目の前の税金や水道料が500円高いとか安いとかの議論ではなく、私たちの子供や孫たちにとって、このまちはどうなっていくのかという観点での議論を、という主張は少なくとも金沢市議会ではようやく市民権を得てきているようだ。私以外の議員も議会や委員会で発言してくれるようになってきた。
さて、本論に戻る。
ここにきて、急に「枠内」からはみ出す議論が出てきた。いうまでもなく、白山5村の扱いだ。
私は合併を議論するにおいては、あくまでも、生活圏と行政圏との一致が錦の御旗であるべきだ思っている。そういう観点から2市4町が出てきたのであり、「金沢都市圏交通円滑化総合計画」がまとめられたのであったはずだ。もっとも、白山5村も鶴来生活圏であって、広義での鶴来町であるという解釈も成り立つという考えも理解できないものでもない。
実は、この問題は、何人かの政治関係者から、強く声があがったということもかなり影響している。そして、もう一つ大きいことは、公にはされていないが、1町5村のうちいくつかの首長さんが、金沢市に対して、合併の声をあげて欲しいという申し入れがあったという事実も大きな推進力になったことは否めない。
間違いのなく言えることは、極めて政治的なテーマとして、1町5村との合併論議が澎湃として出てきたということである。
実は、市執行部とも相当話をしたが、この部分に関して議会で質問されても、市長としてはなかなか本当のところを答えにくい。あまりにも政治的にデリケートな部分だからだ。しかし、部課長にはもっと答えることはできない。やはり、市長が説明しなければいけない。
特にこれまで真正面から議論を積み重ねてきた私が詰問することに関して、市執行部だけでなく私自身も少々、気にはしたところではあるが、逆に私だからこそストレートで取り上げることができるともいえる。
私は、決して1町5村との合併論議を否定するものではない。しかしながら、生活圏として内灘町や津幡町との議論、5村の取り扱い等々、「リージョン」や「羽ばたけ!」の「枠内」にこだわるわけではないとしながらも、やはり議論を整理するためにも、今議会で私は取り上げなければいけないと思っている。
2002年04月29日 (月) 祝日のあり方
今日は祝日、みどりの日。しかし、私たちの年代は、昭和天皇誕生日といったほうが分りやすい。
確かに昭和天皇はお亡くなりになられたが、だからといって、亡くなられた方の生年月日が変るわけでもない。祝日にしないのならともかく、祝日にするのであるならば、やはり、昭和天皇誕生日とするのが素直で、正しい歴史認識ではないだろうか。
早朝に、日の丸を出した。
以前、ある国会議員の方が、他党のことを攻め立てる際、「あの党は、国旗国歌法案の採決において、党内が真っ二つに割れた。そういう集まりを政党といえるのか。」と声を荒げていた。
しかし、このテーマは、政争の具とするに相応しいものではない。
私はそういう喧騒とは別に、素直な気持ちで掲揚している。妻も、「あなたは公職に就いているのだから」と、祝日の朝に目がさめると、真っ先に玄関に向かう。
十一月三日は、文化の日とされているが、本来は、明治天皇誕生日ということで祝日となっている。十一月二十三日は新嘗祭(大嘗祭)であるが、なぜか、勤労感謝の日なる名称になっている。
体育の日、成人の日といった祝日を、その該当月の第二だか第三だかの月曜日に移動させるという法改正が行われた。土日と連なる三連休にし、観光等消費活動を活発化させようというものらしい。私は、このいわゆるハッピーマンディ法なるものは、天下の悪法だと思っている。
これまで、十月十日は東京オリンピックの開会日ということで体育の日とされてきた。体育の日が、十月の第三月曜日とされてしまうことによって、なぜ、体育の日というものが作られたのか分らなくなってしまう。現在の若い親たちでさえ、分らないものがいるのに、その子供たちの代になったらなおさらだ。
昨今、荒れる成人式といわれることが多い。私は、その原因の一端も、ハッピーマンディ法的な考え方が根底にあると思っている。
古来、日本には、今の一月十五日を小正月といい、いわゆる左義長なども行なわれてきた。いくつかの日本の農村には、男性は「若者組」、女性が「娘組」という若い衆の集まりがあったところが多く(現在も、青年団的なものとして名残があるところもある)、元旦で一つ年を数えて、ある一定の年齢に達したら、その小正月の日に、新たに若者組、娘組に入るという儀式が行なわれているところも多くあったという。
そのことを由来として、成人の日というものが、小正月でもある一月十五日に設定されたともいう。真偽のほどはよく分らないが、さもありなんという気もする。
ハッピーマンディ法は、そういう日本の伝統や文化、風習、言い伝えよりも、三連休による経済効果を優先したものといえる。つまり、わずかなものであったかもしれないが、日本の伝統、文化よりも、カネを優先したものともとらえられる。
これまでも、一月十五日をもって、成人の日としていることによって、前述のようなことを意識していた新成人はほとんど全くいなかったとは思われる。しかし、ハッピーマンディ法なるものによって、かろうじて、本当に微かにかろうじて繋がっていた、「成人の日」という縁(えにし)が完全に途切れてしまったような気がする。
色々な意味での為政者が、そういう選択肢を選びながら、若者たちに過度な期待をできるものであろうか。
私の思い入れの強い話ではあるが、これまでも様々な講演等でこの話をすると、老若男女問わず、多くの方に共感を持ってもらえる。
実は、それだけ、多くの人たちにとって、身につまされる切実なテーマなのだと思っている。
百万石祭りのメインイベントでもある、パレードが、これまでの利家入城の日とされてきた、六月十四日から、六月の第二土曜日に変えられた。
これまでも、利家入城の日は、六月十四日ではないという説も根強くあったということ(どうやらこちらの説のほうが有力なようだ)や、パレードはお祭り事という点からも、私はこの変更は、理解しているつもりだ。
一方では、これまで長年にわたって、六月十四日を利家入城の日としてきた、金沢市における、「史実」も尊重していかなければならないとも感じている。
金沢市が関係機関と協力しながら、決して派手である必要はないが、厳粛な取り扱いをしていく必要もあると思う。
2002年04月10日 (水) お墓参り
今日は、家族で早朝お墓参り。
数年前から、毎月第一土曜日もしくは日曜日には、家族でお墓参りに行くようにしている。
私の尊敬する方が、毎月一日にお墓参りをしているということ聞き、それを見習ってのことだ。ただ、毎月一日だと、その日が平日の場合、出かける時間が少し遅くなると、交通渋滞に巻き込まれかねない。そこで、毎月第一土曜日もしくは日曜日を家族でのお墓参りとしている。
天候が悪い日などは、とりあえず、お墓の近くまで自動車で行き、そこから、私が一人でお墓のところまで行ってお参りしてくる。その間、自動車の中で妻が小さな子供たちと一緒に手を合わせて待っている。そういう役割分担が、いつの間にかできてしまった。
六時前から準備をして出かけた。母のお墓、山野家本家のお墓、妻の実家のお墓。
お盆やお彼岸には、私の母方の祖父母が眠っている羽咋市と、妻の父方の祖父母が休まれているお墓がある内浦町にまでお墓参りに行くようにしている。私と妻との祖父母に繋がる代までのお墓参りはきちんとしておきたい。
子供たちの代になれば、羽咋市や内浦町にまで行くこともないだろう。その代わり、それぞれの配偶者に繋がるお墓はきちんとお参りしてほしい。そういうことが、普通のことと感じるように育ってほしい。そのためにも、私たち親がその気持ちを忘れないようにしなくてはいけない。
2002年02月26日 (火) リージョン2020
一昨日の木曜日に、「金沢都市圏交通円滑化総合計画」なるものが発表されました。「リージョン2020」中で規定されている2市4町で、交通対策を考えていこうというものです。
金沢青年会議所が「リージョン2020」を策定した1998年の年末に、「金沢都市圏関係都市会議」がやはり2市4町の都市計画課同士で組織され、今後の都市計画マスタープラン等、長期的なまちづくり計画の整合性を図っていくことが決められました。これは、「リージョン2020」を受けてのことだと当時の部長からも課長からも面倒くさそうにはっきり言われたことを私は覚えています。
今回の、「金沢都市圏交通円滑化総合計画」はその、「金沢都市圏関係都市会議」をきっかけの一つとしての議論の延長上にあるということです。残念ながら、98年当時の担当部課長は都市計画課にも交通政策課にもいませんので、「リージョン2020」→「金沢都市圏関係都市会議」→「金沢都市圏交通円滑化総合計画」とつながるストーリーをご存知の方はいません。
しかし、少なくとも、市長と私は知っています(もっとも市長は、「リージョン2020」なんかにはあまり関心ないと思うけど・・・)。
「金沢都市圏交通円滑化総合計画」は今後、縦覧期間を置いた後、国土交通省に提出され、計画が認可されると様々な予算が下りてきて、2市4町による本格的な交通体系が、議論の段階から実地の施策へとなってきます。
私はかねがね申し上げておりますように、まちづくりというものは突き詰めていけば、交通政策と土地利用に尽きると思っています(もちろん、その大前提に生活者のコミュニティの充実があげられます)。
この交通総合計画に携わった、ほとんどの県市職員はもちろん、国土交通省のどなたも知らないであろうが、当時の中田室長、西山委員長が死ぬような思いをしてつくった、「リージョン2020」が、今につながっています。
使命感を持って取り組んでいきます。
2002年01月29日 (火) ある小学校のホームページを見て
ある小学校のホームページの掲示板を読んでいると、気になる書き込みがあった。
学校の授業で、「昔の生活を知ろう、子供たちの学校生活や遊びを知ろう」という学習の中で、先生が子供たちに対して、家に昔の遊び道具があれば持ってきて欲しいと話したようだ。
そのことに対して、ある保護者が、その学校のホームページの掲示板に、先生のその指導に対して批判をし、その理由として次のように述べている。
「私が心配する点は、持っていけなかった子が、持っていけた子の、これ見よがしの態度を見て、どう感じるかということです。もう少し考えていただけませんか、先生。」
全ての子供が全く同じでないといけないという、いびつな平等主義の典型といえるのではないか。その、「どう感じるか」は、子供たちにとって、成長のためのいいチャンスだと考えられないだろうか。そういうふうに仕向ける、感じさせることも教育ではないだろうか。当然、指摘されているような、子供たちにとって良くない影響がありうる場合の、先生や親の対応こそが教育といえるのではないだろうか。もちろん、全てに「違い」を前提にすべきとは思わないが、この場合は明らかに、学校教育という観点からは、許容範囲であると思う。
このようなメールに対して、先生方が萎縮してしまうことのほうがよっぽど、教育的な危機といえる。
親としての私自身への戒めともしたい。
2001年12月29日 (土) 忙しい
夕方に、ある会社の社長のご子息にお会いした。年齢からいっても、ちょうどいいと思い金沢青年会議所への入会を勧めた。「忙しい」という理由で断ってきた。それはそれでいい。
忙しいという漢字は、いうまでもなく、「心を亡くす」と書く。
「忙しい」と自らのことをいう人間は自分のことを、「心を亡くした人間」と宣言している輩(やから)だから信用できない、という話を以前聞いたことがある。俳優の森繁久弥だったかと思う。ソフトバンクに務めていた頃のことだ。
その言葉を耳にしてからは、なんとはなしに気をつけて、色々な人を観察していると、確かに、自分で忙しいと言っている人で仕事のできる人間は一人もいなかった。しかも、往々にして本人は、自分は仕事をものすごくしていると勘違いしているという傾向がある。少なくとも、私がソフトバンク在職中に接した中では、ただ一人の例外もなかったような気がする。
社内や同じ部署内もしくは、よっぽど気心の知れた友人同士での会話ならともかく、なかには、社外の人やお客さんと話している時に、そういうことを得意気に話している人もいる。
そういう実体験があるので、私は自分でどんなに忙しく感じたとしても、決してそうは言わなかった。ソフトバンク時代に、そのようなことを意識するようになりはじめた頃は、忙しいそうですねと、先方から言われたら、「いえ、ぶらぶらしているだけです」と答えていた。しかし、中には冗談の通じない人もいて、本当にぶらぶらしているだけと思われるのもうまくないと思い、そのうちに、「すいません、時間の使い方がへたなんです」というようになった。
「いえ暇です。ですから仕事下さい」と言っていたこともあったが、あまりに露骨なのですぐにやめたような気がする。
議員になってからも、ずっと、時間の使い方がへたなんです、といってきたが、最近は、また、「ぶらぶらしています」と言うこともでてきた。これは、自分自身でしかるべき仕事をしてきているという自負があるので、本気にする人もいないだろうとの軽い気持ちからでもある。しかし、改めて考えてみると、やっぱり良くないな。やめよう。やめた。
どのようなことでも、何かをお断りする際には、「忙しい」というのは理由にはならない。自分だけが忙しいわけでは決してない。
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