歌姫「ホトトギスたちは歌います、血を吐きながら、泣きながら」
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1999.10.18 こんばんは。みなさんお元気ですか。それは妬ましい。私がこんなに疲れているというのに。ていうか病んでいるというのに。それなのにあなたがたは安穏きわまる日常をてらてらと過ごしておられるのですね。嫉みます。やっかみます。まあどうでもいいです。ってそんな訳あるかあっ!! 俺ァ幸福になりたいんや。他人を押しのけてでも幸せを掴みたいんや。嘘ですよ。ははは。そんなにがめつくありません。でも他人の不幸は無条件に面白いですがね。ははははははははははははははははははははははははははははははははははは。飽きた。 ま、どうでも。 1999.10.19 日記とは名ばかりのたわごとうわごとひとりごとの世界にようこそカムヒヤ。しかし本来日記とは戯言囈言独り言のような気もしますがね。ときに皆さんの好きな漢字はなんですか。ボクはなんといっても「鏖」かな。「みなごろし」って読むんですけどね。イカスでしょ? 「鏖殺」とかけば読みは「おうさつ」意味はやっぱり皆殺しですけどね。断るまでもありませんが漢字が好きだからといってボクは「皆殺し」というコトバ、概念自体を好いているわけじゃありません。そこんとこよろピク。ピクピク。それにしても、これ書いてる最中に死んだらやだな。絶筆がコレかよ。でもある意味妥当のような。 1999.10.20 三日目にして早くも嫌気がさしてきました。まったく三日坊主とはこのことです昔の人は巧いことを言うものですそうは言ってもしかしいいこともあります日付を確認できますああ今日は10月20日ねなるほどね。とそんなぐあいに。他に効能ですか。特に思いつきませんね。でもまあ、自分の気持ちや考え方を文章にあらわす練習にはなっていますね。ってめいっぱいまっとうな意見ですね。いかんなあこんなことでは。もっとこう、ハジケた、自分の殻を破るようなことを書かないと。そうだよここはボクがボクから解放されるための場所なんだまだ見ぬ自分を見るためのまだ聞いたことのない歌を聞くためのまだ味わったことのない快楽を得るための場所なんだよ。などと独り遊びに耽ることが出来るのも長所ですかね。微笑。 1999.10.21 踊りはいいです、いいですね。皆さん踊りはお好きでしょうか。ぼくは好きです、大好きです。何しろこの文、踊りながら書いてるほどです。ああそれほどに、それほどまでに、踊りが何より好きなのです。ほら何となく、文章からもリズム感が。ないですか。あそ。ところで世間では音楽に合わせて踊る人が多いですがそんなのはぼくから言わせれば邪道です。没義道です。モギドウと読みます。義が没った道です。「この没義道野郎!」と誰彼かまわず言ってみましょう。お茶目な奴め、と一目置かれること請け合いです。無保証。えと何の話でしたっけ。ああ踊り踊り。踊りとは言ってみれば肉体の精神への反抗です。ふだん精神に操られて唯々諾々と従っている肉体が、その支配から逃れるべく、無意味な行動に出るのです。ゆえに踊るときにはものを考えてはいけません。肢体のおもむくまま、躍動する熱情に突き動かされてこそ踊りなのです。もっとも、この反乱はしょせん一時的なものに過ぎず、やがて肉はふたたび霊に屈します。悲しい肉体の終わりなき抵抗、それが踊りの本質なのです。お分かり頂けましたか。あとは踊ってください、力尽きるまで。ぼくは眠ります。ゴボゴボ。 1999.10.22 夕焼けがなぜあれほどに切ないのか考えてみましょう。そもそも夕焼けとは夕方にしか見られないものです。その夕方というのがまた、昼でもなく夜でもなくましてや朝でもない、宙ぶらりんな時期です。朝昼晩の三大時間帯いずれにも属さない、いわば独立不羈(ふき)の勢力です。その姿は健気でさえあります。さてその夕方という小勢力の唯一といっていい売りが夕焼けです。もし夕焼けがなければ夕方などという概念は成立せず、「遅い昼」「早い晩」ですまされていたにちがいありません。いってみれば夕焼けは夕方軍団の大黒柱です。しかし、そもそもそんな重荷を押し付けられるほどにたくましい存在ではありません、夕焼けは。ご覧なさいあのはかなさ。あのたおやかさ。それでも義理堅い夕焼けは不平もいわず、黙々と夕方の旗を守り続けているのです。あたかも細腕一本で家族の食い扶持を稼がねばならぬ寡婦のごとき悲壮感と、困難に立ち向かおうというその心意気、それらが我々をして夕焼けに涙させる主要な理由ではありますまいか。ああ、泣けますね。しみじみとね。え。朝焼け? あれは朝でしょう。「朝」焼けなんだから。ねえ。 1999.10.23 笑いには大きく分けてふたつありますね。発作的、反射的な笑いと、じわりとこみ上げてくるある種穏やかな笑い。前者がガハハギャハハの笑いだとすれば後者はクスクスウフフの笑いと申しましょうか。ちょっと違うか。前者が脊髄で笑うのだとすれば後者は脳髄で笑うみたいなって余計に分かりにくくなりましたすみません。自省っ。つまりその、笑いに至るまでのプロセスの問題で。地口オチと考えオチ。何の話ですか。ああそう、構造的な違いがあるわけで。あれですよ。速効性と遅効性のちがい。「まわる」まで時間がかかる、みたいな。毒に喩えれば。ってもっといい喩えないんでしょうか。まあいいです。例えばあなたが誰かを暗殺しようとするとしましょう。毒殺だよ☆ 別に刺殺でも撲殺でもいいじゃんってここではそんな話してないでしょうが読解しろ読解っ。すみませんつい熱くなりました。抑制っ。でまあ、速効性の毒を用いれば手っ取り早いですが、失敗した場合やっかいなことになります。首尾よく仕留めても、足がつく可能性も高いですね。いっぽう、遅効性の毒を少しずつ少しずつ標的に与えてゆけば、そもそも「殺し」であることすら気づかれずに目的を達成できるわけで。そういう意味では、やはり遅効性がやや有利かも! 優勢っ。まあ状況しだいですがね。さてここでやっと笑いの話に戻ります。速効性の笑いとは明らかに「笑いを取りに行く」わけですが、遅効性の笑いの場合、「一見笑いを取りに行ってるように見えない」ようにすることも可能なわけです。つまり断片的、局部的にはごくまともなのに、全体を通してみると笑える。とそんな感じが、最近いいなアと。思っているのですがどうか。申請っ。 1999.10.24 オレは犬が苦手だ。嫌いでもある。「苦手」と「嫌い」は必ずしも二つながら並び立つ概念ではないがこの場合きっちり両方とも当てはまる。最悪。苦手なのは小さいみぎりに人が犬に噛まれるようすを見たからである。自分が噛まれたわけでない、というあたりが深いと思うんですがどうであろうか。さて嫌いな理由はいくつかあり、まず人が通りかかると訳もなく吠えかかってくる。たとえばこちらが手に金属製の棒や木製の刀のような得物を持ち目を血走らせフウフウと息を荒げ全身から気まずい汗を垂れ流しながらやってきたというなら吠えられても仕方ない、というか吠えられてこそ本望、みたいなところもあるがただ通りがかっただけでガーガー(ふつう犬の吠え声は別な擬音を用いるのだろうがそれを使うことさえ嫌)と吠えかかってくる。○○入りの肉でも投げてあげようかな☆ と思う一瞬である。あと散歩の最中、道端に「残留物」を残す。せめて道の脇の草むらにでもしていればともかく天下の公道に堂々と。呪いあれ。とここまで書いて、あることに気づく。これらの理由は一部の飼い犬にしか当てはまらないそう実はオレが嫌っていたのは犬自体ではなくしつけのなっていない飼い主更により厳密にはそういった飼い主どもをのさばらせている現行の社会そのものであるということに。そうか社会が悪いのか。じゃ仕方ないね! 1999.10.25 さて周知のように言語とは霊長類の裔に寄生した一種の生命体であり、つねに自分たちの勢力を広げる機会を虎視耽々と狙っています。現に歴史上の紛争の大部分は言語を異にする勢力同士のあいだで起こってきました。このことは、「言語種」の自己膨張本能のなせるわざであることは言うまでもないでしょう。しかしあらゆる集団がそうであるように、各言語も一枚岩ではありません。おのずと内部対立があり、日々激しい権力闘争が展開されているのです。といっても彼らは賢明なので適度な「住み分け」を行なっています。たとえばそれは地域的な差異(方言)、使用者の状況による違い(謙譲語、尊敬語など)にあらわれます。このあたりは、言ってみれば休戦地帯です。しからば、そういった妥協の許されない「最前線」はどこかと言えば、これはもちろんふだんもっとも用いられる「ふつうの言葉」にほかなりません。さよう、何気なく書き、何気なく口にする言葉、それらひとつひとつが言語種の存亡をかけた熾烈なる興亡劇の一局面なのです。もちろんこの文も私に寄生している言語種のさしがねです。私は彼(彼女? 彼ら?)の尖兵としてこうして文をつらつら書き連ね、その勢力増大に加担しているのです。でも実は。ここだけの話ですが私は別の言語種とも。関連が。アアッコトバが。ボクのボキャブラリイがどんどんリュウシュツして。アー。(フェードアウト)1999.10.26 傷ついているのですね病んでいるのですね冒されているのですね癒しを求めているのですねひとのぬくもりを感じたいのですね「ふっ。」と息をついたときに隣で誰かにほほ笑んでいてほしいのですね共有したいのですね共有されたいのですね助けられたいのですね助けを請われたいのですね夢を実現させたいのですねありもしない夢を抱いているように錯覚したいのですね自分を美化したいのですねいつでも自分以外に興味はないのですねそういった自分自身を改革したいのですね実は現在の自分に充足しているのですね「自分」というコトバの指す範囲も把握していないのですね何一つわかっちゃいないんですねわかってないことさえわかっていないのですねわかってないことさえわかっていないことにすら気づいていないのですね。幸せに。ただ幸せになりたいだけなのですね。「甘えるなボケ。」 1999.10.27
ああ、あなたですか。おいでくださると思っていましたよ。なぜって、ぼくたちはずっと深いところで、知覚の暗がりの底のほうで、意識の光も届かない魂の深淵で、つながっているのだから。
1999.10.28 あらゆる眠りのなかでもっとも心地よい眠りは、覚醒と睡眠のはざまを行き来するまどろみでありましょう。うつつと夢、意識と無意識の境界上でたわむれるひとときはなにものにも代え難い愉悦といえます。なにごとにつけ、快楽はあいまいなところ、不明瞭なところに潜んでいるようです。古今の決闘者たちは生と死が交わる一場の舞台に、至高の悦楽を見いだしたにちがいありません。物語の快感、「お話」の滋味も、そうした虚と実、整合性と不整合性、秩序と混沌、光と翳、緩と急、そうした対立事項のあいだに遊ぶ心性から生まれるように思えます。この世に白と黒はなく、あると見えてもそれは限りなく白に近い灰色と限りなく黒に近い灰色にすぎない、ということを心得てこそ、玄妙にして奥深きなる世界を紡ぎ出せるのでしょう。願わくば、少しでも多くの世界に触れ、少しでも多くの世界を生み出すことができますように。
1999.10.29 ひたすらにゆるゆると流れゆく心の軌跡を眺めながら、わたしはわたしを追い続ける わたしはつねに揺れている。「わたし」とは魂の器にたゆたう寄るべない浮き島にも似ている。つねにわたしは追いやられ、新たなわたしと入れ替わり続けている。小さな革命が日ごと夜ごとに繰り返され、わたしは席を暖めるいとまも与えれらない。足元を見やれば打ち捨てられたわたし自身の骸が山をなしている。わたしはその上に立ち、新たなわたしが降り立つのを待ち受ける。新わたしの振り下ろした斧が旧わたしの首を打ち落としたとき、ひとつの周期が終わりゆく。だがそれはしょせん悲しいほどにささやかな区切りでしかないのだ。屍の塔が天に達し、わたしがわたしの根源に至るのは、いつの日か。そのときこそ、わたしはわたしの脳天に斧ではなく、やさしい接吻を与えることができるだろうに。
1999.10.30 人生を変える出逢いというものはじっさいあるもので、その対象は人であったりモノであったり形而上の概念であったりするわけですが、必ずしも『大層なもの』であるとは限りませんな。
1999.10.31 「外は雨だね」
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