「勇士ブリヲラ、その祝福されざる探索」


 深閑たる森の語り部、齡幾百を数える柳の老木さえ、もはやその名は記憶に留めぬ、かの忘れ去られし荒野に、足跡を刻む旅装一人。
 ラシャの外套、細身を覆い、銀狐の襟巻き、風に戯れ。
 手にする杖は樫の枝、先刻切り落とされたかと見える程にみずみずしく。
 旅人の、その耳元で、囁く声は風の精。
『地を這う定めのものよ、稀なる客人よ! 人外の異境、これなる最果ての地に何を求める』 
 されば、と旅行者、応じて。
「光明を求めて!」
『さ。奇妙な物言い、ここな草木も育たぬ荒れ野に、如何なる光明があると言う?』
「そは地上にあってもっとも慈悲深きもの、しかして比類なき酷薄の魂の性。わが望み、即ちその解放にこそあり」
 風勢、いや増した。
 大気が不可視の壁となり、旅人の歩を阻む。
『そうと聞いては、先へは行かせぬ。むろん、戻ることもあたわぬと知れ』
「自由なる流れの神よ、そこもとに害を及ぼすつもりはない。退かれよ」
『《災禍》の落とし子が、痴れ言をっ!』
 虚空そのものが唸りをあげ、旅行者へ迫る。
 見えざる爪を、すんでに躱して、旅人は樫の杖を大地に打ちつけた。
「……是非もない!」
 踊るように身を揺らがして、叫ぶ。
 と、見るや、轟然たる突風が、杖めがけ殺到。
 その震動、あたかも風神の無念の断末魔。
 寸暇の後、天地はしじまに閉ざされ、寂寞。
 裏腹に、足元に横たわる原野は、打って変わって潤沢な生気を漲らせていた。
「わが行く手遮ろうとは無為な所作」
 独りごちた旅人の赤い髪が、頭巾からこぼれて頬を撫でる。
「もはや後悔もなるまいがな」
 《暗がり》の申し子、《戦慄の赤》ブリヲラの微笑が、静寂を青白く染めていった。

 音もなく宵が降り注ぎ、地上に太陽の死を告げた頃。
 赤毛の魔女は歩を止め、小手をかざして前方をうかがった。
「……あれか」
 視線の先には、石造りの尖塔がある。
 もとよりかような姿だったのか、はたまた人知を絶する力の業か、百人力の大道芸人が折り曲げた鉄棒さながらの異形を晒している。
 入口がない。驚くにはあたらない。敵襲に備えて二階の窓から出入りする構造の塔は、むしろ一般的とさえ言える。
 常時は梯子が掛けてあり、入ることはたやすいはずだが、案の定というべきか、そんなものは見当たらぬ。
  ブリヲラは少し考えてから、小声で何事か呟いた。
 すると、左耳からオパアル色の鱗を持つ蛇が頭を覗かせ、ちろりと舌を出した。
「何だってんだ、こちとら安眠中だぜ」
「あれに窓がある」
 そう二階の壁を指さす。
「巻きつけ」
「ちえっ、面倒ばかり押し付けやがる!」
「文句があるなら、出て行くが良い」
「そいつあ勘弁だ。あんたらの《想い》はヒトとは比べもんにならないくらい美味なんでね」
 見る間に蛇は身をくねらせ壁を這い登り、窓に到達、格子に巻きついた。
 その身体をロープ代わりに、ブリヲラも二階によじ登る。
「おお重てえ。そんな甲胄なんぞ着込んでるからだぜ」
「御託はいい……さっさと戻れ」
「け、愛想のねえこった」
 おしゃべりな宝石蛇がずるずるにゅぽっ、と耳に潜り込んでしまうと、ブリヲラはランタンに火を灯して塔内へ侵入した。
『……不便なものだな』
 魔法が存分に使えれば、二階へ飛び上がるのも明かりを点けるのも簡単だが、この荒野に入ってからというもの彼女の力は大幅に制限されていた。
 《暗がり》の加護を阻むもの、それは陽光の力、神聖なる力。
 塔は吹き抜けになってい、頭上にはぽっかりと空洞が穿たれている。
 壁沿いに階段を登りながら、彼女は奇妙なことに気付く。
 外から見たときはねじ曲がっていたはずなのに、実際には塔はまっすぐ伸びているのだ。
『空間が歪んでいると言うことか?』
 実際、悪寒が膚を這いずっている。
 異界との接触の際に感じる、あの気配だ。
 いっそう用心しつつ登っていくと、十階あたりで階段が終わっており、鉄の扉が行く手を阻んでいた。
 鍵穴はない。
 軽く押した。
 開く。
 薄暗い室内が見渡せる。
 床一面に、古代の神聖文字が刻まれている。
 見ているだけで……《暗がり》の加護を受けている彼女にとっては……吐き気を催す代物だ。
 部屋の中央には椅子があり、白銀の甲胄を身に付けた武者の白骨が座している。
 足を踏み入れた。
 その瞬間、床の文字から音が発された。
 歌声にも似た、それは神への祈り。
 二歩、三歩、踏み出すごと文字は言の葉となって具現する。
 目まいが彼女を襲う。
 幻覚が見える……死体が立ち上がった……否、幻覚ではない!
 力ある神を称える言葉が、死せる戦士の肉体を甦らせたのだ。
 今や筋骨隆々の巨漢と化した鎧武者は、抜剣するや侵入者へ一撃お見舞いしようと襲いかかってきた。
『邪悪ナ者……滅セヨ!』
「ちっ」
 ブリヲラ、よろけながらも樫の杖で受け止める。
 が支えきれずに床を転がった。
 そのつど神聖文字が発現して彼女を打ちのめす。
 蘇生戦士はいよいよ勢いづく。
「アドパンテス!」
 身をよじって剣の応酬を躱しながら、宝石蛇の名を叫ぶブリヲラ。
『ったく人使いが荒ェよ。今度は何だ』
 頭の中で、応答がある。
「よく聞け……!」
 いつしかブリヲラは壁際に追いつめられていた。
 戦士の足摺りに合わせて清らかな調べが鳴り渡る。
 あたかも哀れな罪人の最期を悼む、鎮魂歌さながらに。
『神ノ裁キヲ受ケヨ!……』
 怒濤の撃ち込みが、ブリヲラへ降り注いだ。
 彼女を血まみれの肉塊に変えるに十分な攻撃……だがそれは届くことなく途切れた。
 魔女の放った強烈な足払いが、その態勢を崩していたのだ。
 どう、とうつぶせに倒れたところへ。
 すかさず馬乗りになったブリヲラ、あらん限りの力をこめて鎧の隙間に樫の杖を突き立てた。
「解放せよ!……」
 彼女が咒文を叫ぶと、樫の杖は瞬く間に枝を伸ばし、葉を広げ、幹を膨らませた。
 同時に、戦士の肉体は根から精気を奪われて干からび、もの言わぬ屍へと戻ってゆく。
 その際、彼は血も凍る悲鳴をあげたが、ブリヲラには達しなかった……宝石蛇の毒で、聴覚を麻痺させていたために。
 さもなくば、あれほど激しい立ち回りは出来なかったであろう。
「たとえ神であろうと」
 やや足元をふらつかせながらも、ブリヲラは不敵にうそぶいた。
「われらを裁くことはかなわぬ!」
 部屋一杯に枝葉を満たし、ご丁寧に宿り木まで纏った樫の大木を後に残して、《戦慄の赤》は部屋の奥の扉を開いた。

 膚を刺す冷気が立ちこめている。
 殺風景な玄室にはそこにもっともふさわしいものが保管されていた。
 即ち、棺が。
 赤毛の魔女ブリヲラはその棺へと歩みより、膝を折って覗き込んだ。
 葬られているのは、あどけない面立ちの、うら若い娘。
 しなやかな両の掌でその冷たい頬を撫で、ブリヲラはククッと忍び笑いを漏らした。
「さあ目覚めよ、我らが忌まわしき末妹! 人間どもはあまりに脆い。おまえが居なくては、張り合いがないのさ。……」
 《暗がりの子》の熱おびた唇が、眠れる少女の凍えきった吐息を溶かす。

  そしてゆっくりと《希望》が目を覚ました。




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