水のほとりの頌歌(つわものうた)

 

蒼穹いまだ若く、山野幼きいにしえに、この地を治めし領主がいた。

民は彼をば《暁星公》と呼び、その豪放さを慕い、その強欲さを憎んだ。

さる春の一日、遠乗りへ出掛けた公は、森の中の湖にて、ひとりの娘と出逢った。

名を問うと、彼女は《睡蓮》と名乗った。

その透きとおるような青い髪、また物憂げな碧の瞳に、公はたちまち心奪われ、おのが城へ連れ帰り妻とした。

やがて子どもが生まれた。母譲りの深緑の瞳と、父から受け継いだ黒髪を持つ男の子だった。ひとびとは彼を《碧瑠璃(へきるり)の公子》と称した。

それより数年後、夫人は体調を崩し、公の尽力も甲斐なくやがて命旦夕に迫った。

「末期の願いをお聞きとどけ下さいますか」

暁星公は妻の手を握りしめ、うなずいた。

「私の屍は、かの湖に沈めてほしいのです」

公が承諾すると、彼女はほどなく息を引きとった。公は悲しみに暮れつつも、湖面に漕ぎ出し、妻の骸の納まった棺を沈めた。

すると、面妖にも、湖底から無数の手が伸びてきて、棺を引きずりこんでいった。

「さては水の精であったのか」

公は怪しんだ。

妖精はときおり肉体をまとい、魂を創り、たわむれに人と交わるといわれている。

『すべては、ざれごとだったのか?』

水面に、公は問いかけた。答えはなかった。

 

歳月は過ぎ、《碧瑠璃》は母の面影を残す美貌の少年となり、やがて騎士位の叙勲を受けた。人々はその若き英雄ぶりをたたえた。

年老いた魔女が、彼を訪ねたのはその夜のことである。

「若君に御慶賀申しあげる! ところで御身に贈り物をしたいと思うが、欲しいものがおありかね」

「知れたこと。私には父母から授かった壮健な体躯があり、また勇敢で信義に篤い友人たちがいる。ただ、宇宙の理、運命の行方だけはわからぬ。それを示してくれるものが欲しい」

「さればこの宝石を受け取りなされ、これこそ森羅万象の知識を蔵したる『問答石』なり。これに問えば、どんな答えも得られよう」

「それはかたじけない。ありがたく頂戴しよう」

公子は宝石を受け取った。すると、老婆はわずかに相好をくずし、

「……では、武勲を挙げなされ!」

と、言い残すや、見る間に溶け崩れ、床いちめん水浸しとなった。

驚いた碧瑠璃の君がこの件を父に報告すると、公は天を仰ぎ、嗟嘆した。

「いかがなされました、父上?」

「倅よ、その魔女とはお前の母に相違ない」

「え、しかし、母上は……」

彼も、母が水の精であったらしいことは耳にしていた。

「肉体が滅べば、魂も溶け失せると聞いている。なのに、奥は、《睡蓮》はやってきたのだ。お前の成人をことほぐために……」

それは、公子がはじめて見る父の涙であった。

 

当時、各地で戦火が絶えず、人々は塗炭の苦しみを味わっていた。

が、ただ暁星公の領民のみは、安穏を謳歌することができた。というのもかの《碧瑠璃》の公子が、絶倫の武勇をもって国防を担ったからである。

いくさとなれば屈強な騎士たちを率いて出陣し、『問答石』で相手の弱点を看破していかな大軍とてやすやすと撃退してしまうのだ。

その武名を恐れた近隣諸国は決してこの地に兵をむけようとはしなかった。

公子は、ふだんは母の棲む湖のほとりで暮らし、質素を好み、民百姓をいたわった。

嬉しいことがあると仲間や家臣を集めて水辺で宴会を催し、自ら琴をとって歌った。その歌声は耳のみならず身体ぜんたいをとろかすようにあでやかで、彼が歌い終わるまでは水面の波紋さえ静まるのだった。

誰もが、彼がよき君主となることを疑わなかった。

 

にわかに公子の運命に暗雲がさしはじめたのは、彼が成人してより数年ののち。

公の後妻が、自分の生んだ子を後継ぎにすべく、さかんに運動をはじめたのだった。彼女はあることないこと《碧瑠璃》をそしり、公の変心をもくろんだ。

駿馬も老いれば駑馬にも劣る、とか。猜疑に駆られた暁星公は、公子を叱責、謹慎させた。

「こんな理不尽があろうか!」

「若君の功績は、天が下に響いているというのに……」

「兵を起こし、君側の姦を除くべし!」

家臣や戦友たちは声高に叫んだが、当の公子はただ首を振るばかり。

「私とてこの仕打ちは無念である。……だが、かつて父上が母上のために流した涙を思うと、とうてい叛くことなどできないのだ」

これを聞いては、皆、黙るほかはなかった。

 

碧瑠璃の公子失脚の報を喜んだのは、ほかでもない四方の列国だった。

旧来この地は交通の要所で、戦略的に重要な地点である。かくて早いもの勝ちとばかりに、周辺の諸侯や異民族が次々と国境を侵しはじめた。

暁星公は狼狽した。

十年前なら、自ら甲胄を身につけ戦地に赴いたであろう。が、いまや体力衰え、ひとりでは馬にも乗れぬありさま。この国難を乗り切るにはいかにも頼りがなかった。

家臣一同、そろって主君に懇願した。

「どうか、水辺の君をお召し下さい」

「しかし」と公は渋った。「やつはこのたびの仕打ちを恨んで、応じないのではあるまいか。いやそれどころか、この機会に独立し、わが国を奪うのではないだろうか」

「公子は、ただ赤心わが君を慕っておいでです。どうして命にたがい、二心を抱くことがありましょうや」

やむなく公は使者を出す。が、なかなか公子は姿を見せぬ。憤る君主、気を揉む家来衆。

そこにようやく公子到着の報。

「もったいつけおって!」公が吐き捨てた。

《碧瑠璃》の公子は颯爽、騎馬にて入城するや、一同の前に生首を放り投げた。

「招待されて手ぶらは無粋、これなるは手土産にございます」

見ればそれは西の国境を侵していた隣国の王の首級であった。

群臣は歓喜して、こぞって公子の武勇を褒めたたえた。

が、ひとり暁星公だけは「やはり恐ろしいやつ!」と怖気をふるったのである。

 

かくて復帰した碧瑠璃の公子は選りすぐりの勇士らとともに各地を転戦、次々と勝利を得て行った。

とはいえ相次ぐ戦いによって戦士たちも傷つき、また物資も尽きたため、公子は援軍と補給を公に要請した。が、暁星公はこれに応じなかった。

そればかりか、南方に進出している魔法王国軍の討伐を命じたのである。

いまや侵略者はおおかた一掃されていたが、彼らだけはなお公の領土をうかがっていたのだ。

悪名高い妖術師に率いられた大軍団であり、とても手負いの部隊で討てる相手ではない。

問答石に公子は問うた、「魔法の石よ、智の源よ! 私はどうすればいい?」

しかし石は何も答えない。公子は自嘲の笑みをうかべた。

「もはや天も私を見放したということか!」

そして戦友たちにむかって、静かにいった。

「わが武運はここに尽きるようだ。諸君らは征くもよし退くもよし、好きにされよ」

すると戦士たちはいった。

「われら、最後までわが君に従いましょう」

「……そうか。されば剣をとれ、雄叫びをあげよ! 勇者の武威、ここに示そうぞ!」

山野をどよもしわき上がる喊声のなか、両軍はまっこうから衝突した。

乱戦のなか、公子は妖術師を見いだした。目の下に鱗が生えた、世の常ならぬ風貌で、公子を認めるや、牙を剥き出し罵っていわく

「そこにおったか、こわっぱめが! このわしに……」

皆までいわせず、公子は手槍をそやつの口に投げつけた。もんどりうって落馬する妖術師。それを目の当たりにした寄せ手は、恐慌をきたして四分五裂して逃げ散った。

戦場は寂寥として音もない。味方はすべて屍となり、無言で野に伏している。

公子はひとり立ち尽くし、ああ! とただ痛哭するばかりであった。

そのときである。

妖術師の死体が黒い焔に覆われた、と見るや、驚愕する公子の前でその身は巨大化して竜となり、ばさりと翼を広げた。

竜が人に化けていたのか、或いは人が竜に変じたのか。黒竜はその短剣のような牙でバリバリ槍を噛み砕き、公子に毒液を吹きつけた。

疲れ切っていた公子は躱しきれず、右半身を毒に冒される。それでも闘志は失わず、抜剣して斬りつけた。が、竜の硬い鱗には傷ひとつつかない。

邪竜は勝ち誇って、公子を薙ぎはらった。《碧瑠璃》、虫の息ながら身を躱すや、

「暁星公の息子は、決して諦めはせぬ!」

と大喝一声、竜の口腔に何か放り投げた。

いともた易く、巨竜はそれを噛み砕き、人の子の卑小さをあざ笑った。

……と、次の瞬間。

太い両の腕で頭を抱えたと見るや、その眼球は眼窩を飛び出し、口からは毒々しい色の泡が噴き出した。

ドウと倒れ伏した竜は、そのまま悶絶しながらあえなく果てた。

それもそのはず、きゃつが噛み砕いたのは他ならぬかの問答石であった。石が砕けたとき、詰まっていた万古の知識が溢れ出し、竜の脳みそを瞬時に沸騰させたのである。

かくて今度こそ、平穏が天地に戻った。

領主の息、水辺の妖精の裔は、ただ一騎にて、父の城へその瀕死の身体を運んでいった。

 

城まであとわずかのところで、一団の騎士に行き会った。彼らは丁重に礼をして、いった。

「若君、殿の命でお迎えにあがりました」

思わぬ歓迎に、公子は

「ああ、私の気持ちが通じたのだ!」と傷の痛みも忘れて喜んだ。

「これは殿からの賜り物です」

そういって手渡されたのは上等の絹のマント。公子は喜々として身にまとう。

「こんなに嬉しい日は二度とあるまい!」

だがその笑顔はたちまちかき消えた。騎士たちがいっせいに突き出した槍が、彼の身体

を刺し貫いたからである。

呆然としたまま、碧瑠璃の公子は馬から滑り落ちた。みるみる赤く染まってゆく、純白のマント。

騎士たちは下馬し、剣の鞘を払った。首を持ち帰れとの命令を受けていたゆえに。

突如、ひとりがアッと指さした。公子の血だまりのなかから、生白い手がぬっと突き出たのだ。

それは瞬く間に上半身まで姿をあらわした。深緑の瞳を濡らした、青い髪の、女。

「かわいそうな子! 思えばそなたの一生は、血塗られたものであったこと」

そのまま彼女は《碧瑠璃》の身体を抱え、呆気にとられている騎士たちには目もくれず、ふたたび血だまりのなかへと沈んでいった。

 

かくて、水のほとりの公子の物語は終わる。

ある人はいう。人としての生を終えた公子は、不死なる妖精へと生まれ変わったのだと。

そしてまた、悠久の歳月を経た今日でさえ、ときに一陣の爽風をはらんでこの地をさまよい、

喪われた想い出をなぞるがごとく、群青の髪をなびかせているのだ、と。



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