ナムジナとロロイの歌


ただこの一日だけを、
楽しく、なごやかに。
いつまた悲しみが
押し寄せるやら、さだかでない。
踊ろうよ手をとって。
君の白い手は
ぼくの胸を、赤く満たすから。

I

いずことも明らかでない森のなか、梢と幹の連なりあう奥深くに、ひとりの娘が棲んでいた。
名はナムジナ、古い種族のことばで『昼と夜のはざま』という意味である。
森に隠れ棲む娘の多くがそうであるように、彼女もまた魔法の心得があった。
そのわざは母や祖母、そのまた母たちから受け継がれてきた、強力で侵しがたいものだった。ゆえに彼女の領域には、〈力ある名〉をもつ妖魔や亜神さえ、立ち入ることはなかった。

ナムジナがもっとも得意とした魔法は、自分の影を切り離し、使役するわざだった。
その〈影〉はロロイと呼ばれた。古いことばで、『同胞』を意味する名である。
ロロイは昼となく夜となくナムジナに仕え、彼女の命令に従わないことはなかった。
それゆえナムジナも彼を愛し、とくに用事がないときは自由に行動させていた。
「ただし」
と、彼女は彼につねづね云っていた。
「森のずっと奥、『柳の門』を越えてはいけないよ。そこから先はわたしの力もおよばない。そうなれば悪しきものや、古き名をもつ輩がお前をつけねらうことだろうから」
「御方さま、けっしてお言葉にたがうことはいたしません」
注意されるたび、彼はそう誓ったものだった。

ロロイはよく歌をうたい、ナムジナの無聊をなぐさめた。
それはかつて、彼女が祖母や母から聞かされた歌だった。けれど、それらを彼女はもうあらかた忘れ去っていた。ゆえにロロイに歌わせたのである。
あるいは夢うつつに、遥かな地の底から自分の名を呼ぶ声を聞いたとき、
あるいはまた、黄昏どきに覗いた鏡に己以外の姿をかいま見たとき、
あるいは、ふと開いた書物の項にまがまがしい予兆のことばを見つけたとき、
彼女はロロイを呼び寄せ、その歌を聞くのだった。

II

その朝も、鎧戸をカツカツと不吉に叩く風の音で目覚めたナムジナは、勃然とロロイの歌を聞きたくなった。
「ロロイ」
一呼吸置いて、ロロイが参じた。
「お呼びでしょうか、御方さま」
「おまえの歌が聞きたくなったのだよ」
「は」
「聞かせてくれるかい」
「否やがありましょうか」
そこでロロイは歌いはじめた。

わたしは、手をのばす
あなたに、とどくように。
はるかに遠い、あなたの背
いつになれば、とどくのだろ?
この胸が、ちいさな胸が
こわれてしまうまえに
ふれてちょうだい、わたしの
緑なす、この髪に。

ナムジナは目をつむってじっと耳を傾けていた。やがて歌が終わった。
「ロロイや」
「はい」
「聞いたことのない歌だね」
ロロイはくちごもり、何も答えなかった。
「お前が作ったのかい」
「は、……いえ……」
「誰かに教わったのだね」
「はい。……」
ナムジナは嘆息した。
「ロロイ」
「はい」
「〈木霊〉と、逢ったのだね」
静かな口調のなかに、苦衷がにじんでいた。ロロイは顔を逸らし、無言で肯定に代えた。
「あれほど、」
ナムジナの声はうわずっていた。「あれほど、『柳の門』を越えてはならぬと、云いつけてあったろう」
「はい。……」
しばしの沈黙。
「歌を、聞きました」
ふいに、ロロイが云った。
「さきほどの、歌です。とても哀切で、澄んだ、歌声でした。私は、これまで、あのような歌を聞いたことがありませんでした」
ナムジナは黙っていた。
「云いつけを、失念したわけではございません。なれど、あの歌を聞いたとき、私の身体は私のものではなくなってしまったのです」
知らず、ナムジナは空を仰いでいた。
「申し訳ございません」
「詮ないことだ」
自分の声が震えているのが、はっきりとナムジナにはわかった。
「だが。……知っておろうが、木霊に魅入られた者のさだめは、決まっている」
「は……」
「行け。もう、二度とまみえることはなかろう。わたしのロロイ、お前はもう……同胞では、わたしの分身では、なくなった」
ロロイはのろのろと立ち上がり、なにごとか云いかけた。が、しかしついに何も口にできぬまま、戸口を抜けて、去っていった。
ナムジナは、その場に立ち尽くしていた。
その耳朶に、暗がりからささやきかける、しゃがれた声が響きはじめた。
それを、ナムジナは、心地よいとさえ思った。

III

どれほど眠っていたのだろう。
彼女は、ゆっくりと目を開けた。
遠く、〈森のつわもの〉たちの鯨波の声が聞こえる。
『朽ちたな、卿の王国も』
柱の影にたたずむ人影が、からかうような口調で玉座へと呼びかけた。
『つまらぬ郷土愛など、残しているからこうなる。あやつらを放置しておかなければ……』
「いつかはこうなったさ。どのみち、ね」
『じき、討手がくる』
「わかっているよ」
『〈果て〉に戻るなら、いまのうちだぞ』
「あいにくだが、……そうするつもりはない」
『そうか。……まあ好きにするがいいさ』
「ああ」
『では、な、〈常夜の魔女〉よ。いつか永遠の底、混沌の門でふたたびまみえることもあろうよ』
〈領域〉の貴顕が姿を消すのとほぼ時を同じくして、扉が蹴り破られ、得物を手にした男女が突入してきた。
「われこそは〈木陰の騎士〉が末孫、樫槍のロミテースなり!」
先頭に立つ若武者が、手にした樫の槍を突きつけて叫んだ。
「〈常夜の魔女〉よ! うぬの命運も、これまでと知るが良い!」
それを合図に、背後に従うつわものたちがいっせいに弓に矢をつがえる。
その情景を見やって、〈魔女〉は目を細めた。
「若者よ」
魔女は、穏やかな口調で云った。「われを討たんものと、さぞ心を砕いてきたろうな?」
「むろんだ」
緑の髪の若者は怒鳴った。「うぬを討ち、この悪しき王国をくつがえすことだけを念じて、私は生きてきた。そして、いま、その念願を果たす!」
「そうか」
魔女は、ほほ笑んだ。その表情に、ロミテースは動揺したのか、しばしことばを失ったが、それを打ち消すように叫んだ。
「射よ!」
無数の矢が、魔女に突き立った。
だが、倒れたのは二人だった。
若き騎士の影から、大量の血が吹き出したのである。樫槍のロミテースは声もなく血だまりの中に沈み、二度とは動かなかった。
その変事に驚いた戦士たちは、魔女の最後のことばを聞きとることはなかった。

『ロロイや』

『歌っておくれ』

ただこの日だけを、
楽しく、なごやかに。
いつまた悲しみが
押し寄せるやら、さだかでない。
踊ろうよ手をとって。
君の白い手は
ぼくの胸を、赤く満たすから。




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