架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

現代術とリアル

現代美術といえば、わたしは、カンディンスキーなどを思い出してしまう。恐らく、現代美術=抽象画だと思っているのであろう。これは、短絡的すぎるだろう。多分、そんな単純に言いきれるものではない。それに、カンディンスキーは、はっきりいうと、もう現代美術とは言えないかもしれない。ということは、とりあえず、おいといておく。要するに、わたしにとっては、現代美術というものは、抽象画を筆頭に、よくわからない、というのが正直な感想である。

わたしは、美しい絵が好きである。美しい造形の影から、神秘がふと顔をのぞかせるような絵が、好きである。イメージに富んだ絵とでもいうか。

そういうわけで、わたしにとって、現代美術=抽象画はよくわからない、というのが正直な感想であった。
抽象画家たちは、一般のレベルを遠く離れすぎていて、所詮、同時代の一般ピープルには縁遠いものだよな、なんて思ってたんである。もしかしたら、何世代か後の人々には、もはや常識レベルになっていることかもしれないけど、今のわたしには、さっぱりわからない。

けれど、さっぱり分からなかった現代美術について考えているうちに、そこに、形の分離、解放、というキィワードが見えるのに、気がついたのだ。

今までの絵画は、ぱっと見て理解可能で、ちゃんと絵に意味がある。これこれこういうものの絵、というのが、ほぼ理解できるものであった。勿論、聖書のモチーフは、聖書を知らないと詳細には分からないところもあるけど、乙女の表情とか、人人の嘆きの表情とかは、細かい話を知らなくても、なんとなく分かるように人人に感じさせる力がある。それは、ちょうど、ちゃんとストーリィのある(と人人に思わせる)小説のようだ。
そういう絵画は、ぱっと見て、あああれね、と一般の人にも分かる(気にさせる)。少なくとも、人人がその絵を見て、消化不良を起こすことはない。これ、何が描いてあるのかしら、と煩悶せずに済む。ぱっと見て、裸の女性が横たわっていたなら、それは、「裸の女の絵だ」という理解ができる。それ以上、考える必要もない。

しかし、絵は、あるものの姿をそのまま写し取っているものだけど、実は、どこにもないものの姿なのである。その人の心の中にしかなくて、本当はどこにもないもの、これが絵なのである。その画家のイデアとでもいうのか。
絵は、誰もがこれこれこういうもの、という意味で一般的に理解できるものが描かれているように思われるかもしれない。けれど、実は、そのまま、見たままを写生したとしても、必ず、その画家の意識や感覚を通った後の姿なのだ。自然そのままの姿のはずがないのである。

画家たちは、多分そういうことをちゃんとわかっている。彼らは、目の前のものをそのまま写し取っても、自分の感じたままそのままを絵にできないことは、ちゃんと気がついているのだ。だから、すごくもどかしくなってきたんじゃないかと、はたから勝手に考えちゃったりするわけである。

そこで、画家たちは、その絵を構成している、色だけ、形だけ、に注目するようになったのではないだろうか。絵画から、「形」そのものを解放したわけである。誰もが分かることのできる意味を持つ絵画から、形だけを分離して、形だけの追求を始めたのではないだろうか。

そのまま、リアルに書いても、それは、絶対にリアルじゃない、けれど、その形だけは、ある意味でリアルなんじゃないか、と。その色だけは、リアルなんじゃないか、と。
意識を一回通しても、形や、色そのものをそのままに描けば、意味で汚されずに、絵にできるのではないか。そういうわけで、画家たちは、その形だけで、リアルを絵にしようとしたんじゃないかな、と。具体的な意味を持たない絵を描いて、形の姿、形に宿る何か、を描くこと。これが、現代美術の流れのひとつなのではないか、と。
そこでは、円は、ただ円であり、それは、みかんの抽象の姿とか太陽の姿を模したものではなくて、純粋に「円」なのだ。意味に汚されないただの円を描くことで、円を媒介として、リアルを描いているのではないか、と。

ここでいうリアル、というのは、実物そのものに似ていることではなく、画家自身そのもの、であるのかもしれないし、画家の存在そのものから、分離して、純粋な存在そのものとかであるかもしれない。
リアルは、個人の執着とは無縁のところに、静かにあるのだ。

そこで、そういうことを音楽でやると、テクノとかそういうことになるんじゃないか、と上の論理を拡張してみる。
たとえば、クラシックとか、歌謡曲には、クライマックスにかけての盛り上がりというものがある。ストーリィ展開がある。意味の展開だ。
徐々に音が重厚になり、大きくなり、音の波はやがて、聞いている本人の気持ちを高揚させる。ワグナーとかなら、まさに、英雄が敵を倒して威風堂々と帰還するところなんかが具体的なイメージとして聞いている人のなかにわいてくるだろう。クラシックじゃないとしても、現代の音楽などでも、歌詞がドラマ仕立てになっており、聴くものがじーんと来るようなのがよくある。
で、そういうクライマックスへの盛り上がりとかドラマチックな展開などを排した音楽がテクノだ。そこには、音だけがある。音楽から、音だけを抽出して、並べる。その音には、盛り上がりもなく、メリハリがない。ただひたすら、音のパタンを何パタンか、繰り返す。繰り返すのには意味がある。あるひとつの音をずっと繰り返し続けると、その言葉に意味が感じられなくなる。おはようおはようおはようと繰り返し続けると、「おはよう」という言葉は解体されて、ただの音の連続体となる。

たとえば、これの絵での例をあげると、アンディ・ウォーホルの絵とかがそれにあたるように思われる。アンディ・ウォーホルの絵の中に、ありふれたスープの缶詰をいくつも並んでいる絵がある。あそこには、アメリカの一般家庭で日常的に存在しているような缶詰を、いくつもいくつも連続させることで、日常からかけ離れた空間が発生しているのだ。ただの缶詰の絵のはずなのに、不気味な感じさえするのである。

テクノでは、これをやってるのではないかと思うのである。
同じ音を何度も何度も繰り返すことで、電子音はもちろん、楽器の音や人間の声のサンプル音までも、その意味をふるいおとされて、ただの音となり、それを聴いている意識のほうも、何度も繰り返す音を聴いているうちに、日常の意味を求める感覚が麻痺してゆき、ただの音を聴いているだけの意識となる。
こうした意味を振るい落としたただの音と、執着を忘れた意識の出会い。これを増幅させるリピータの役割をしているのがテクノなのではないだろうか。

参考文献: 『現代美術と私』(@モリナオ氏のサイト

[1999.10.10 Yoshimoto]
 
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