架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

コミュニケーション

こんなサイトを作って、毎日(ほぼ毎日?)日記(という名の実はただの雑文)を書いて、多分わたしはどうしようもなくコミュニケーションに飢えてるのだ、と自分で思う。
コミュニケーションというと、誤解を生みそうなので、言い換えると、「他人と理解しあいたい」「他人との一方通行でない相互理解」ということである。他人との理解、他人との一瞬の共有、これがわたしの目指すものなのである。

わたしは、自分のことを他人に理解して欲しいし、他人のこともすごくわかりたいのである。そうでなければ、きっとこんな日記を書いてはいない。自分の思ったこと考えたことをちまちまと文章にしているのはそれを一瞬でも誰かと共有できたら、と思ってるのである。(勿論、普段あった出来事をただ書いてるだけの時もあるんだけど)

これは、単に一緒に時間を過ごすだけではできないことなのだ。そんなんじゃ全然だめである。。何時間一緒に過ごそうと、何年間だろうと、お互いの相互理解ができるわけではないのである。
何年間も一緒に過ごした夫婦は、お互いのこと理解し合ってると誤解してるかもしれないけれど、それは行動パターンを見切ってるだけのことで、お互いのことを理解をしているわけではないのである。こういう時、この人ならこうするだろう、こう言うだろう、というのが読めるだけなんである。それと相互理解とは、全く関係ないことである。

たとえば、ツーカーの夫婦がいたとして、夫の考えをすべて見抜いて、立派に夫の世話ができる奥さんがいるとして、それは、お客様のリサーチをしっかりとしている一流ホテルのサービスとどこが違うだろうか? 適温のお茶とか? 気が利くというのは、想像力があることの別名かもしれないのだ。それは、他人の理解とは違うと思う。

それでは、わたしが言うところの、相互理解とはどういうことなのか?

まず、相互理解をできる土壌として、理解し合うお互いの存在が「個」でなければならないのである。他から切り離された存在、それをちゃんと自分で認識している存在である「個」。

「相互理解」とは、一瞬だけ、その瞬間だけのことなのだ。ずっと理解を共有していられるわけはないのである。瞬間の断続、これがわたしの考える相互理解なのである。他人と理解し合えるはずがないのである。だって、他人なんだから。でも、それでも、一瞬だけでも幻想だとしても理解の瞬間があるはずなのだ。それは、日日の努力から生み出されるもので、ふとした油断でもうなくなってしまうものである。一緒に過ごしているだけで生まれるものではない。

わたしのいう「相互理解の共有」とは、夫婦の馴れ合いとか、一緒にトイレにいく連れション仲間とかとは全く違うので注意してください。くっついていればいいというものではないんである。

そのような理解は、「対話」によって成されることが望ましいことではある。ただ、いつもそんな対話をしていられることもないので、わたしは、文章にする。書かれた言葉は、書いた人の意図だけ伝えることはできない。新たな個の存在を待って、その個によって再構成されて、また新たな意味に生まれ変わるかもしれない。

でも、それでも、わたしは、書くのをやめられないだろう。再構成された意味は、理解のひとつのかたちだから。みんなの理解が、わたしに見せてもらえたらもっといいのだ。他人の脳を一度通ってきた理解をわたしの脳をもう一回通すことで、誤差をどんどんなくして、理解の近似値を得るというのが、わたしのめざす相互理解なのだけど。

わたしは、ただ、自分の「個」ということを持って、他人との相互理解の近似値を得て、そしてどんどん自分への執着が失せていって、ただニュートラルな位置にあるようになることが、ほしいのだ。

[1999.03.15 Yoshimoto]
 
[BACK]