架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

「ファンタジー」と「実」についての考察

わたしにとって、最も身近なファンタジーといったら、やはり、コンピュータゲームのRPGものである。ドラゴンクエストシリーズや、ファイナルファンタジーシリーズなどがそうだ。
わたしは、夜な夜な、このようなゲームをしては、ファンタジー世界を冒険しているのである。

しかし、わたしに限らず、今や世の中では、「ファンタジー」ものは非常に人気がある。小説や、アニメや、マンガや、ゲーム、どのジャンルにおいても「ファンタジー」ものがあふれている。多分、それらの人気に火をつけたのは、コンピュータゲームのRPGものなのではないか?とわたしなどは思っているのだ。その場合の「ファンタジー」とは、生っ粋の翻訳ファンタジーではなくて、ファンタジー風三国志とでも言っていいような、そんな気がする。

とにかく、今や、「ファンタジー」は、多くの人人に消費されているのである。しかし、一体何故、このように多くの人が「ファンタジー」を必要としているのだろうか?
小説だけでなく、アニメやマンガでもファンタジーものが流行しているということは、かなりの層の人間に「ファンタジー」を必要としてることを表しているような気がするのだ。

ということで、この文章では、何故人人は「ファンタジー」を必要としているのか、ということについて考察してみたい。
そこで、まず、コンピュータゲームのファンタジー系RPGにおいて、最も王道と思われるドラゴンクエストシリーズから、その考察をはじめてみる。


ドラゴンクエストシリーズ(以下ドラクエと省略する)の第一作目は、任天堂のファミコンのソフトとして発売された。現在の最新作は、スーパーファミコンソフトとして発売されたドラゴンクエストVIである。
もうひとつ、メジャーなファンタジー系RPGとしては、ファイナルファンタジーシリーズがあるわけだが、そのファイナルファンタジーシリーズとドラクエシリーズとを比べた場合、わたしとして違うと思うのは、主人公の人格にあると思うのだ。
つまり、主人公が自分と同じ視点であり、主人公の分身ともいうべき人格であるか、それとも物語世界においての登場人物として、プレイヤとは独立した人格を与えられているか、の違いだ。この辺の違いは、恐らく、ファイナルファンタジーIV以降に、生じてきた違いであると思う。

ドラクエシリーズのゲーム世界では、ゲームの主人公は、プレイヤと同じ視点になるのだ。だから、ゲームをやってる本人の考え=ゲームの主人公の考えになるわけである。だから、ゲームの主人公の感情なんてものは、プレイヤには示されない。わたしが決めた主人公の行動に対して、他の登場人物が何らかの感情を表すというだけである。
ドラクエ世界では、主人公はわたしなんです。わたし、という現実認識を持ったまま、ドラクエ世界を旅するわけである。
そういうわけで、ドラクエというゲームは、あくまでも、ゲームという感じがするわけである。主人公の葛藤とか色色な伏線とかはあるんだけど、主人公の感情は、ゲーム世界では直接表現されない。そうすると、わたしは、どうも、主人公に感情が入れ込めないのである。なぜだろう。

それは、多分、主人公に、わたしを投影できないからだ。自分に自分を投影するよーなそんなやつはいない。投影とは、自分に近しい部分を持った別の人間に、自分の思いを重ねることである。ドラクエの主人公は。わたしなのだから、投影も何もない。だから、ドラクエの中ではいつでも、わたしは醒めた状態で、謎をとく。いくら主人公がわたしの名前だとしても、その主人公をわたしだとは思えないので、ある程度、主人公と距離をおきつつ、ゲームをする。だから、ゲームをしている、という視点をいつまでも捨てられないのである。
だから、ドラクエは、わたしにとっては、あくまでもゲームなのだ。

そこいくと、ファイナルファンタジーシリーズは違う。
たとえば、最近プレイしたファイナルファンタジーVIIIを例にとると、このゲーム世界の主人公はあくまでもスコールという少年である。スコールが何を考えてるかは、スコールの独白を読めば分かる。そこには、明らかにわたしでない考えが広がっている。彼の考えは彼のものであり、彼には立派な人格があるわけである。わたしがそう認めているから、彼は別の人間なのだ。
だから、ファイナルファンタジー世界では、わたしは、スコールの様子をはたから見守るという、そういう役割を与えられているわけである。この役割というのは、映画とか小説とかのスタイルと同じになると思うのだ。
だから、ファイナルファンタジーは厳密に言うとゲームではないのだ。ゲームではなくて、映画よりやや能動的なエンターテインメントであると考えればいいのではないかと思う。

で、そう考えると、ファイナルファンタジーというのは、ゲームを趣味とする人にとっての「ファンタジー」なのではないか、と思うのである。

ここでようやく、タイトルにも出てくる「ファンタジー」の登場である。

わたしがここでいう「ファンタジー」とは何かというと、たとえば、わたしの友人の何人かは、テレビドラマを見るのが大好きなのだが、こういったテレビドラマは、特に恋愛ドラマとかって、彼女たちにとっては、一種の「ファンタジー」となるのではないかと思うのである。わたしにとっての「ファイナルファンタジー」のように、だ。

恋愛ドラマでは、現実にはありえないような素敵な男女が出てきて、普通にはありえないような恋をする。こういうのは、ある意味でファンタジーといえませんか。
普通の一般でいう「ファンタジー」には、魔法とか妖精とかは、そういったテレビドラマを見る人人にとって「ありえない」ことだと思っていることが普通に出てくるから、彼らにとっては、受け入れにくいものなのだ。
そんなドラマが出てきたら、彼らはひくでしょう。誰も魔法なんか使わないし、妖精も出てこない、普通にありえそうな会社に勤めている人間が登場するようなドラマ、そういうものが彼らのファンタジーとなるのである。たまに「サイコメトラーEIJI」みたいに、日常であり得ない設定のドラマもあるけど、テレビドラマになってるくらいだから、あれはぎりぎり許容範囲なんだと思う。

で、そういった、テレビドラマというのは、テレビドラマを見るのが趣味の人人にとっては、「ファンタジー」になってるのではないかと思うのである。
でも、実は、テレビドラマは、一見ありそうな設定のように見えるけど、実際には女優のように美しい女はそうそういないし、いたら女優になったりしているはずなのだ。だから、恋愛ドラマに登場する恋愛が、一般的に普通にありえるかというと、わたしにとっては、魔法や妖精と同じくらいにあり得ないことだと思えるのだ。でも、設定としては、一見ありそうだ、という風に認識されているのである。ここら辺の認識は、人それぞれのスタンダードがあるんじゃないかと思う。

こういった、恋愛ドラマだとか映画だとか小説だとかRPGだとかをひっくるめて、現代の日本人たちが消費しているものは、みんな「ファンタジー」といえるのではないか。
この場合の「ファンタジー」とは、一言で言えば、現実逃避だ。日常を忘れるための媒介なのだ。(さて、ここでわたしはそれいっちゃいかんでしょ的なことを言います。)
日本で消費されてる「ファンタジー」は、ファイナルファンタジーとかよくある恋愛ドラマとか量産されるファンタジー小説をも全部含めて、「癒し」なのではないかと思うのである。癒し、現実逃避。

そういうわけで、ゲーム中も現実認識をひきずっているドラクエは癒しにならないけど、ファイナルファンタジーは癒しになるのだ。

ところで、世の中には癒しになるのを拒んでいるものだって、ちゃんとある。書物でいうなら、それを読んでいる最中でも、読者に甘えを許さなくて、読んでいる自分てものを常に認識させるような作品だ。そこでは、癒し=現実逃避とはならない。読む方だって、思考しなければならないのである。

「存在」とは、原子レベルに至ってさえ、証明されないことだ。つまり、観察者の存在そのものが、存在に影響を及ぼすというやつだ。観察者が観察するから「ある」のだ。そういう意味でいうなら、観察者が観察することで「存在」になるのである。
で、癒しのファンタジーというのは、やはり、その存在をあるかないかの不安定なものとしては描いていなくて、癒すくらいなのだから、存在をいうものを温かく受け入れてくれているようなものなのじゃないだろうか。

そうすると、SFというのは、そういうことにならないと思うのだ。SFって、存在を存在として容認していなくて、けれど、存在というものはどうしようもなく確信してしまうことなんだってことを書いているようなそんな気がしたりする。存在前の存在の確信ていうんですか。で、そういう不安定なもので、安心など得られるはずもないという。
消費されるファンタジーでは、要するに「安心」こそが求められていることである、と思うんである。

そういう意味でいくと、少女マンガも「ファンタジー」だと思うのだ。最近のやおいも、ファンタジー。男女の恋愛というイメージだけでは満足できない人のためのファンタジー。けれど、ここで言いたいのは、一部の少女マンガにはファンタジーでないものもあるということ。
たとえば、少年愛というか最近だとボーイズラブというのかもしれないけども、そういうボーイズラブの物語世界が発展する前に、少年愛というジャンルを確立させた作品は、萩尾望都の作品だと思うのだけど、この人の作品は決して「ファンタジー」ではありません。
ただこの「少年愛」のモチーフから、ただ美少年同士ないし美少年と美青年の恋愛関係というイメージを抜き取ったものがやおいではないかと思う。このイメージは、男女の恋愛よりもさらに日常性とか現実性とかをはぎとって「ファンタジー」度合いを強めていると思うのだ。

でも、このような少年愛というジャンルだけじゃなくて、一般的に、少女マンガは、ファンタジー要素が強い。どういうファンタジーかというと、魔法や龍ではなくって、「ありのままの自分をそのまま受け止めてもらえる」というファンタジーがあるのだ。これも、あり得ないという点では、ファンタジーと同じでしょ?

また、最近のトレンディ系の少女マンガには、テレビドラマと同じ類の恋愛ファンタジーがある。オシャレな男女のオシャレな恋愛というファンタジーだ。これも、魔法や妖精と同じくらい、あり得ないものだとわたしは思っているわけです。
そういうわけで、少女マンガも、ある意味ファンタジーだと思うのだけど、どうでしょう。

けれどね、那州雪絵のマンガは、ファンタジーじゃないんですよ。そこには、「ありのままのそのままの少女を受け入れてくれる」ファンタジーは存在しない。やっぱり、そのままの存在を受け入れてくれる少年など、現実にはいるはずがないのである。そこには、対等な人間関係が、一生埋まるかわからない、暗い溝があるのである。

いままで、無造作に「あり得ない」という言葉を使ってた。ちょっと説明を入れてみる。この文章内で使われている「あり得ない」という表現は、自分の中に受け入れがたいという意味で使っている。日常生活、自分の現実の中で、現実に起こりそうじゃない、という意味だ。

しかし、自分の「現実」(の認識)は、そんなにしっかりしているものなのか?
「現実」とは一体何なのか?
そう考えていくと、自分の現実は、そこから逃げられるほど、確固たるものではないという風に、思えてきたりしませんか?
実は現実こそが、逃避先でないとどうして言えますか?
そこは、確実なところですか?

そう考えられる人ならば、現実のイメージとファンタジーのイメージが実は等価なのだというわたしの主張は、理解してもらえそうな気がする。のだけど、どうでしょう。

[1999.11.12 Yoshimoto]
 
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