架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

日本における色の歴史



●男色の起源

男色は、東洋、西洋を問わず、古くから世界中に見られる現象である。
『本朝男色考』という書物によれば、男色は、たとえば、僧院、戦場、囚獄、航海船中、飯場等といった男ばかりの集団社会において発生した、と考えられている。
また、最近では、遺伝子が原因とされる説、妊娠時の母体の精神不安定または栄養状態により胎児の脳が影響を受けた為だという説、性同一性障害、などといった、先天的な原因も、男色発生の原因として考察されている。

このように、原因はいろいろ考えられる男色だが、日本では、非常に古くから存在している現象なのである。社会の表舞台には登場していないが、世の中の人人の間では、暗黙のうちに了解されている事柄であったのだ。

本稿の目的は、日本における男色の歴史を、文献にある男色に関する記述を通して、明らかにしていくというものである。本稿を書くにあたって、『本朝男色孝』(岩田準一著. -- 岩田貞雄, 1973.)を参考にさせていただいた。



●文献に登場する平安時代以前の男色

日本において、文献に登場する最古の男色に関する記事は、『日本書紀』内にある。『日本書紀』の、神功皇后紀摂政元年にみえる阿豆那比之罪が、それである。『本朝男色孝』の著者によれば、これが、日本での男色の正史に現れる始めとされている。
「(現代語訳)
皇后は紀伊国においでになって、(中略)更に小竹宮(和歌山県御坊市小竹)に移られた。このときちょうど夜のような暗さとなって何日も経った。時の人は「常夜(とこや)行く」といったそうだ。皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、「この変事は何のせいだろう」と。一人の翁がいうのに、「聞くところでは、このような変事を阿豆那比の罪というそうです」と。「どういうわけか」と問われると答えて、「二の社の祝者(はふり)を一緒に葬ってあるからでしょうか」という。それで村人に問わせると、ある人がいうのに、「小竹の祝と、天野の祝は、仲の良い友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、天野の祝が激しく泣いて『私は彼が生きているとき、良い友達であった。どうして死後穴を同じくすることが避けられようか』といい、屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか」と。墓を開いてみると本当だった。ひつぎを改めてそれぞれ別のところへ埋めた。すると日の光が輝いて、昼と夜の区別ができた。」

(講談社学術文庫『日本書紀』上 p.196)
これを見ると、男色はよくないことだったのだろうか。

また、『万葉集』にも、男子間で読まれた恋歌と思われる和歌が見える。大伴家持と舎人金明軍のそれである。金明軍は、秘かに家持に思いを寄せていたようなのである。
俗説として、男色の起源として、平城帝の大同元年、空海が唐から帰朝した際に持ち帰ったという説もあるらしい。だが、これは、俗説であり、実際には、これ以前にも男色は行われていたようである。



●平安時代以降の男色

【僧侶の男色】

 僧侶の男色として最初に登場する記述は、『往生要集』である。この中では、「男の男に於いて邪行をなせる者」の地獄で苦しんでいる様が描かれている。ちなみに、『本朝男色孝』によれば、男色が盛んだった宗派は、天台宗、真言宗だという。
ところで、『往生要集』では、男色を行った者は、邪行を行った者として地獄に落とされている点が興味深い。恐らくは、僧院などでは、男色は珍しくない現象だったであろうが、やはり、あまり容認できないことであったのだろうか。それとも、女と同じでたとえ男であろうとも、欲に溺れるという点で、否定的に描かれたのだろうか。

このように、『往生要集』では否定的に描かれていた男色だが、時代を下ると、僧侶の間に広く普及していく。そのため、男色は、歌集・物語などに多く登場してくる。そのため、時代を下った鎌倉時代の『宇治拾遺物語』の「かはつるみ」などにも、男色の記事が見える。「かはつるみ」とは、この物語の中では、男色行為そのものを指す言葉として使用されている。

僧侶の男色の対象となったのは、寺院で雑用などを行っていた12〜20歳くらいの少年たちである。彼らは、後世になると、紅など差して美しく装うようになる。つまり、少年たちは、はっきりと男色の対象と認識されているのだろう。
平安以後より、僧侶の間での男色は、暗黙の了解事項となり、長く栄えるのである。

【貴族の男色】

平安以前は、男色が肉体交渉を伴ったかどうかは、はっきりとは文献には現れていない。だが、『本朝男色孝』によれば、平安時代になると、数は多くはないが、その様子をうかがえる記述が見られるようになるようだ。
源氏物語の光源氏と小君についての描写などは、深読みすればそのように見えるのではないだろうか。また、文学的な読み物だけでなく、貴族たちの書いた日記などにも、そのような記述が見えるものもあるようだ。

僧侶の男色の場合、多くは、女の不在によって起こる代償のようなケースと考えられるが、貴族の男色には、そのようなケースはあまり考えられない。にもかかわらず、平安貴族の間では、男色はかなり多く見られたようである。貴族たちの男色の対象となったのは、、側に仕える少年たちである。このような少年たちは、主人のそのような身の周りの世話もするのが一般的なことだったのであろうか。あるいは、当時のダンディな貴族にとって、女も少年もたしなむのが一般的なことだったのだろうか。



●鎌倉・室町時代の男色 ――武家の男色

鎌倉・室町時代における将軍の美少年寵愛は、平安時代の貴族の風俗の名残だろう。
応仁の乱以後、戦乱の世となり、その軍陣に女を伴わなかったことから、武家の衆道が盛んになったようである。この頃の、男色カップルとして有名なのは、織田信長と彼の小姓、森蘭丸であろう。小姓というのは、やはり、主人の身の周りすべての世話をするようである。



●江戸時代の男色 ――商売としての男色

江戸時代に入ると、男色は、商売として盛んになる。こうした男娼のことを「かげま」と呼んだ。「かげま」とは、漢字では書くと「蔭間」である。このような男色を商売とする人人は、別名、「ぶたい子」「色子」「飛子」などと呼ばれた。ここで、「ぶたい子」とは、その字のごとく、歌舞伎の舞台の後で観客に買われて行く少年たちのことである。また、そういう少年たちを売っていた場所を「蔭間茶屋」という。
こうした男色商売は、江戸時代にもっとも盛んだったので、この頃発生したもののように思われるかもしれないが、実は、宇治左大臣藤原頼長の日記『台記』によれば、平安時代の頃からあったもののようである。
『本朝男色孝』によれば、蔭間茶屋は、大体遅くとも17世紀中頃にはあったようだ。その全盛期は、元禄から享保にかけて(17世紀末=18世紀後半)である。主な客は、僧侶である。

蔭間の盛りは、15、6歳で、20歳を過ぎるものは遊女のように年増と呼ばれた。年増でも、男娼として商売できたということは、江戸期には、20歳を超えたものでも、男色の対象となったということである。しかし、江戸以前には、おそらく、男色の対象となったのは、12〜20歳までの少年たちであろう。なぜなら、江戸以前の僧侶や貴族、武将の主な男色の対象となったのは、彼らの身の周りの世話をする子どもたちだったからだと推測される。
しかし、男色が商売となってからは、子どもだけでなく、20歳を過ぎた年増の男娼でも、男色の対象となったのである。

このように、江戸以前の男色は、12〜20歳の少年たちに限定されていたため、彼らは「筍」と呼ばれることもあった。この「筍」とは、生長すれば食べられないという意味を持っている。

また、江戸期の蔭間たちと以前の稚児たちの違いについて、もうひとつ興味深い点がある。それは、蔭間の中には、女装したり、立ち居振舞いも女らしく躾られた者もいたという。しかし、武家や貴族の男色の対象となった小姓たちは、少年といえど、あくまで男の格好をしていたことである。僧侶の男色対象となる稚児の中には、紅を差したりした者もあったようだ。これは、彼らが、男色の対象であったというよりも、僧侶にとっての女の代用だったことを表しているのではないだろうか。しかし、貴族や武家たちは、男色対象としての少年は、決して女性の代用などではなく、あくまで男色の相手だったのではないか。だから、少年姿にこだわっていたのではないかと考える。



●まとめ

このように、日本においては、文献の上でかなり古くから男色の痕跡があった。男色は、表舞台には現れないけれど、ずっと受け継がれてきたことなのであろう。
また、日本での男色には、おおざっぱに言って、3種類の男色があったようだ。女色ができない人人の代用としての男色、あくまで少年姿を寵愛した男色、そして商売としての男色である。

しかし、これらの男色は、なんとなく権力者の男色という感じがする。つまり、受身の少年たちはあくまでその気がないのである。勿論、ある程度恋愛感情に似た気持ちが発生していたケースもあっただろうが、多くのケースは主従関係の犠牲者、という感じが強かったのではないか。

つまり、近代以前の男色は、けして、フリーな恋愛の結果としての男色とわけではなく、自分の仕える主人の命令で、というケースが多かったのではないだろうか。

ただ、万葉集に見られた、男同士の恋歌というのもあり、やはり、男同士の恋愛感情中心の男色というものは、古代から日本に存在していたのだ。それは、商売男色、武家・貴族男色の中からも生まれていただろう。確かに、「武士道」という男性の世界の中で、尊敬に似た恋愛感情が男同士の間で発生しても不思議ではない。また、僧侶の中でも、女性の代用だけではなく、本当にその少年そのものを愛していた僧侶だっていただろう。

恋愛感情中心男色は、数は少ないながらも、古代から存在していたのに違いない。

現代の男色の多くは、自由意志の恋愛感情男色であると思う。現代は、民衆の欲望が解き放たれている時代なので、その現代においても男色がなくならないということは、人間の欲望の一種に男色欲というものが備わっているのではないだろうか。

参考文献: 『本朝男色孝』(岩田準一著. -- 岩田貞雄, 1973.)

[1999.10.09 Yoshimoto]
 
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