架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

本当の

先日のワイドショーで、洗脳されてる人に「帰ってきて〜っ」とか言ってる人がいたんだけど、その帰ってきて〜、と言った人は、自分のいる場所が確かなものだ、と確信してるからそう言えるのだろうか?
わたしは、洗脳されてると考えられてる人に、「帰ってきて〜」とか「正気を取り戻して」とか言えないかもしれない。
だって、こちらが確たるものだと思えないから、あっちに行ってしまった人が間違ってるのかどうかなんてわからないからだ。
あっちもこっちも確かじゃないし、だから、行ってしまった人をこっちに戻そう、なんて思わないのである。
でも、勿論、娘が新興宗教に走ったらやっぱり止めるだろう。全く知らない人物ならいざ知らず、やっぱり「行ってしまう」こと自体には、嫌悪を覚えるから。どこに居ても、自分の足で大地に立って欲しいから。

あっちとかこっとに行ってしまわないで、自分をニュートラルな位置に置き続けるほうが難しい。結局、洗脳されてしまうほうが楽なのだ。それをみんなわかってるから、無意識のうちに洗脳が怖いのではないだろうか。

わたしは、「本当の自分」なんて嘘だ、と思う。
今のわたしの意識なんて、オリジナルなものなんてないのだ。この肉体にだってオリジナルなとこなんてない。みんな、両親からの遺伝子情報の寄せ集め。中味だって、相対的なものだ。

わたしのオリジナルなんてものはないのだ。
でも、この意識は、他の人と共有はしてないことだけは、わかっているつもりなのだけど。

では、「本当の自分」なんていうものはないはずなのに、何故、人は「本当の自分」なんてことを思いつくのか。
誰かが「本当の自分」ということを思い付く時って、多分、「今の自分て不本意だ」と思ってる時のような気がする。
そして、何に対して、今の自分は不本意だ、今の自分は本当の自分ではない、と思うかというと、それは、多分、「理想の自分」
理想の自分というものがなければ、多分人は悩まない。大体、悩む人っていうのは、「理想の自分」が先ず在って、それと「今の自分」とのギャップを痛感するから、悩むのだ。理想の自分なんてなければ、悩みはなくなる。

しかし、この「理想の自分」とは、「本当の自分」ではない。「理想の自分」は、色色な情報を元に、自分が勝手に作り上げたイメージであって、今の自分とは関係ないのではないかと思われる。
「理想の自分」としてよくあるケースは、身近にいる自分が羨ましいなあ、ああなりたいなあ、という人を元にしたイメージではなかろうか。それは、自分とは違うものだ。でも、違うからこそ憧れるというのも無理はないとこなんだけど。で、その「理想」の姿と、今の認識できる限りの自分とのギャップが大きい場合、これは、本当の自分じゃない、本当の自分は別に在ると思ったりしてしまうのではないか?つまり、この場合の「本当の自分」とは、「今の自分」からの逃避の対象である。

で、これは、「本当の自分」が別にある、と考えるケースで(つまり幸せは、自分の外部にあると考えているケースとほぼ同義)、今、まさに「本当の自分」になった、と思っているケースはまたちょっと違う。それについてはまだ考えがまとまってないのでここには書かない。

でも、今まさに「本当の自分」を取り戻したと思ってる人に言いたいんだけど、そういう言い方で言うのなら、いつの瞬間だって、「本当の自分」なのである。洗脳されてようとされてなかろうとね。記憶がいんちきだとしても、今わたしだと意識していることまでいんちきではない。あるのはあるのだから。

結局、今の自分しか、本当の自分ではないのだ。本当の自分である瞬間は、一瞬だけで、それはすぐに過去になる。記憶になってしまった自分は、補助的なもので、本当ではないといえば、本当のものではない。刻々と自分は変っているのだ。そして、その時に一番よいと自分で思う選択をするしかない。

わたしだ、と認識している「意識」自体が謎の存在であったとしても、今、まさにわたしの意識は、「わたし」を作っている。それだけがリアルなことだ。死に向かって進んでいく物質としての自分。これしかリアルじゃないのだ。このリアルを感じていないのならば、何を本当の自分と思おうが、本当のことをわかったことにはならないと、わたしは思う。

[1999.09.28 Yoshimoto]
 
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