架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

ルについて

「リアル」について、書く。

まず、初めに、わたしが、「リアル」という言葉で表現していることが何かを書いておく。わたしにとっての「リアル」とは、「そこにあるものそのまま」を、個人の意識が認識するその瞬間のことである
その一瞬の瞬間の「リアル」というのは、それは人によってそれぞれなんじゃないかと思う。リアルは、相対的なものなのだ。((c)Tiotさん)そして、それはそれで、それぞれその人のリアルだ。

画家の絵の中には「リアル」がある。それは画家自身のリアルなのである。
そのそれぞれのリアルを表現する手段として、写真や絵画やそういうものがあるのではないだろうか。別に、すべてのリアルが表現されなければならないことはないだろうけど。でも、そのリアルを表現したくなる人人は多分どうしようもなく存在するのである。

その人それぞれのリアルが、出会う瞬間というのは、とても甘美な瞬間なのだと思う。
わたしは、東山魁夷の絵がとても好きなのだが、東山魁夷の絵は、彼にとってのリアルである。わたしが、東山魁夷の絵を見ることで、彼のリアルは、わたしの中のリアルと出会う。そして、わたしは、自然そのままの姿のわたしのリアルを、彼のリアルを通して認識する。他人のリアルは認識できないのである。わたしには、わたしのリアルしか認識できない。ただ、他者のリアル、自分のリアルとは異なっているリアルに触れる時、わたしのリアルが揺らいでいくのだ。そして、その瞬間をわたしはとても好きで、求めているのだと思う。

わたしにとっての「リアル」ってそういうものだ。
人がそのそれぞれのリアルを表現するアプローチは、色色存在していると思う。たとえば、絵画とか、音楽とか、写真とか、本当に様様。でも、どれも、リアルを表現しつつあるという点では同じ立場だと思うのだ。絵より写真のほうがリアルなんていうのは、妄想みたいなものだ。写真に写っているものは、写真家が撮りたいように撮ったものであり、その存在するそのもの、とは、やはり違う。そういう点では、絵と同じ。

というところで、まとまっていないけど、これでおしまい。
うちの夫は、多分最もうるさいこの日記の読者だと思うのだが、彼の言うには、わたしの日記には、起承転結の結がない、というのである。起承転結、ではなく、起承転起。
それは、単に、文章力が欠如しているせいなんだけど、でも意図的にやっている部分も、実はある。意図的に、結ばないようにしているのだ。何故なら、わたしのリアルは、まだまだ結んでいないから。どんどん、転、転、転、起、起、起となっているから。

「リアル」を表現した作品が、結果として、リアルと違うものになってしまうのは、「リアル」とは一瞬のことなので、決して、固定したものではないので、その「リアル」を固定表現にした瞬間に、それはリアルではなくなってしまうからじゃないだろうか。
ちょうど、自分の考えを言葉にした瞬間に、言いたかったことと違っていってしまうみたいに。

[1999.07.09 Yoshimoto]
 
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