架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

 〜脳のプロセス〜

ヒトというのは、モノである。モノは、目に見える。

また、人間は、自分にはココロがあると考える。ココロは目には見えない。

しかし、このモノであるヒトを認識するのも、人間にはココロがあると認識するのも、実は脳の仕事なのである。

では、ここで、あなたが「ある」とはどういうことだろう、と考えてみてください。「ここにある」ということについて考えて見てください。あるとはどういうことでしょう?
という風に、考えていくと、「ある」と考えているその状態、その「意識」があるということを感じないでしょうか。

わたしは、この「意識」が、脳の仕事、脳のはたらきであると考える。この意識は、脳の機能なので、目には見えないものだ。
で、この意識というものがどういうものなのだろう、ということを少し考えてみようと思ったのがこの文章である。



現状、わたしが認識している定義としては、意識とは、脳内に発生する微量の電気と物質によって、作り出される現象である。

意識は、普通、目には見えない。脳そのものは、目に見える。生きている人間の脳は、普段は皮膚に覆われていて肉眼で見ることはできないけれど、死体を解剖したり手術をしたりすれば、脳は、目に見えるモノとして登場する。
でも、意識は目に見えない。それは、脳によって作り出されているのだけれど、モノではないのだろう。いい言葉が見つからないけれど、無理に言うとすれば、現象とでもいうのが一番いいのじゃないだろうか。

意識が電気信号により生み出される現象だ、というのは、わたしには、とても良く理解できる。
でも、理解はできるけれど、この意識というものは、やっぱり不思議だ。
どうして、わたしの意識には、わたしだけなのか。それは、やはり、他の人間とは、肉体がくっついていないからだろうか。信号とは、脳内でしか動作しないものなのか。脳からはみ出して隣の脳に飛んだりしないのか。

それにしても、この意識を生み出す脳の仕組みっていうのは、すごいと思う。
脳の電気信号の走る部分て、コンピュータの回路みたいなものだろう。コンピュータと人間の脳って、とても似ているのだ。しかし、それは、当然の結果だと言われるかもしれない。なぜなら、人間の脳に似せてコンピュータを作ったのだから。
それはそうなのだけど、でも、コンピュータについて考えていくと、人間の脳のことについて考えているのと同じことになる気がする。それは、コンピュータが人間の脳の真似をしているからとかそういう単純なことじゃなくって、コンピュータで実現しようとしている、人間の脳で実現されていることが、いまだに人間にとっては、謎だからではないだろうか。だから、コンピュータについて、考えていくと、人間について謎な部分を無視できなくなるのだ。

コンピュータと人間が似ているところ。
それは、プロセス。プロセスとは、ものすごい簡単にいうと、プログラムによって生み出されるひとつの現象。その現象は目には見えない。だから、コンピュータ上のプロセスというのは、脳上の意識ととても似ているのではないか、と思うのだ。

コンピュータ上で、プログラムが実行される。このプログラム自身は、目に見える形になっている。プログラム言語という言葉によって、紙やテキストファイルに目に見える記号で表されているからだ。けれど、そのプログラムを実行すると、コンピュータ上で実行されているプロセス自身は目には見えない。
もちろん、実行結果は、目に見えるものである。ディスプレイに表示したり、印刷して出したり。プロセスそのものは、目に見えないものだから、ちゃんと動いているかを確認するためには、実行結果を確認しないといけないのである。だから、あらかじめ、結果を定期的に吐き出す仕組みを埋め込んでおかないといけないのだ。一定間隔おきに情報を取り出して、表示したり。そうしないと、ちゃんと動いているのか解らないのだ。
目に見えないから。



これまでは、人間とコンピュータが似ている、と書いてきた。
でも、人間には、感情ってものがあるではないか、という意見もあるかもしれない。

では、コンピュータには、感情がないのだろうか?
コンピュータだって、調子悪い時がある。よく解らない理由で起動しなくなったり、ちょっとしたタイミングのずれでストールしたりする。
こういう状況って、コンピュータを使ってる側から見れば、コンピュータが機嫌悪いみたい、と受け取れないだろうか?

感情というのは、人間にとっても、バグみたいなものではないだろうか。普段の安定したバランス状態から、一気にアドレナリンが暴発したり、ホルモンのバランスが崩れたり、血圧が上がったり。心臓がむやみにどきどきしたり。涙腺から水分が流れたり。こういうのって、明らかに通常運行ではなくて、異常信号なのではないか。
つまり、感情は、人間のバグである。
バグは、普通、発見されると、とりのぞかれる。感情の暴発は、ずっとは続かないだろう。怒った人はそのうち、機嫌がなおる。いつまでも怒っていては、普通にシステムが運用できないからではないか。そうすると、いつも怒っている人はそういう仕様のハードウェアなのかもしれない。

しかし、そういう風に感情が暴発しなくても、「あの人機嫌が悪い」と他人に思われたら、その人の意識とは関係なく感情が相手に感じられている。それは、観察者によって被観察者の感情が読み取られているわけである。感情とはそういうものかもしれないではないか。
犬や猫に感情を感じる人間がいるが、それは、犬や猫自身の感情とは別に、それを観察している人間が勝手に感情を読みとっているわけで、でも、それで感情豊かな猫に見られたりした場合、その猫に感情があるとかないとかは関係なくても、その猫には感情があると思われているわけだ。そういうとき、猫の感情の有無というのは、その猫本人にもよくわからないことであるのに、他人にも勝手に感じられてしまっていて、もう誰にもよくわからない状態になっている。感情とはそういう本当は誰にもよくわからないものなのだ。
とすれば、コンピュータに感情を感じる人間がいれば、コンピュータに感情があるかないかはどうでもよいことではないか。その人間は、コンピュータに感情を読みとっているのだから、その人にとっては、その時、コンピュータに感情があったのかもしれない。コンピュータには確認できないが。

結局何がいいたいのかというと、感情というのは、人間が勝手に感じるものである。だから、何に感情を感じようとその人間の勝手である、ということだ。そして、感情の有無というのは、本当は誰にもよくわからないものだ、ということだ。感情というのは、謎の存在なのだ。

屁理屈言ってるんじゃないよ、って声が聞こえてきそうですが。

そうなってくると、コンピュータと人間の違いって、思考とか意志とかそういうものの存在にしかないんじゃないだろうか。



そういうわけで、「意識」である。
人間を人間たらしめているものが思考であるとすれば、人間とは、脳上で実行されている「思考する意識」であるということになるのではないだろうか。

しかし、わたしの今の思考とか意志が、果してどれだけわたしのものであろうか?ということになると、すごく疑問でもある。

コンピュータが、使う人の意志のままに計算機として使われているならば、人間だって、目に見えざる意志によって、使われているのかも知れない、という可能性もある。とかいう妄想もできる。

それに、人間は、思考していると、インスピレーションが降ってくる。コンピュータには、思考することにより、ある連続していない領域へ飛べる瞬間ということは、ないのではないかと思うわけである。しかし、これもコンピュータに確認とってるわけではないので、わからないけど。
ただ、コンピュータは、その作った人間の計算領域からは、出ないのではないだろうか。だから、コンピュータに飛べる領域は、その人間の既知領域にしかないのかもしれない。

ところで、人間が死んだらそれで意識は途切れる。(と思っている)
今の時点では、それが死なのだろうけど、もしかしたら、電気信号を受け継いだりすれば、意識だけを持続することはできるのかもしれない。または、時間というものを超えれば、永遠に意識は持続するのかもしれない。

でも、そういう個人の記憶、意識なんてものは、結局個人に閉じた話で、一生誰とも共有できない話ではないか。だって、肉体が一つなんだから。

[1999.11.27 Yoshimoto]
 
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