架空の庭 [2003.01.19]  
日記 セレクション

わたし、何を隠そう、「科学」ってどうも好きじゃなかったんである。
なんとなく、いんちきくさくて、受け入れられなかったのだ。
モロテをあげて、「科学万歳!」「科学はわれわれを明るい未来に導いてくれる」という科学礼賛嗜好にはなれなかったんである。

でも、だからと言って、科学の進歩は、人類のためにはならない、とも思ってないのだ。科学は、悪。だから、自然へ帰ろう!という自然礼賛嗜好にもなれないのであった。
っていうか、人人がアウトドアだの自然志向!だのと言ってるのを見たら、どうしてもうさんくさく感じるし。
彼らの言う「自然」がどれだけ本当の自然であることか。

「科学」がいかにしてようやく今の地位を築いてきたかを考えたら、いきなり手ぶらの自分が自然をそのまま受け入れられると思うほうこそ、傲慢じゃないですか。

えーと、話を戻すと、要するに、わたしの思う「科学」は、世界を認識する方法にしかすぎない、ということである。
方法や手段にすぎない「科学」が、人間を悪い方向に導くんじゃないのである。科学が悪いんじゃないんです。人間が悪い。ていうか、考えてない。
だから、結局、「科学」のもたらした世界認識を悪く用いれば、人類は悪い方向にいく、という、「バカとハサミは使いよう」ということわざで昔から言われてるような当たり前のことになるわけで。
もし、科学の進歩の結果、人類が悪い方向へ進んでいるとしても、それは科学のせいではないのである。人類のせいです。

そういうわけで、多分、この日記とか他の文章でも、何度も何度も書いてると思うんだけど、わたしは、「科学」というのは、世界を認識するアプローチのひとつだと思っているのである。

世界は、というか、わたしという匣の外の世界は、わたしには一生かけても決して認識できるものではないと思うのである。でも、それでは満足できないから、なんとかその「わたしでないもの」を認識しようとしているのだ。できれば、そのままの世界をそのまま認識したい。

わたしは「科学」って、そういう方法のひとつだと思っている。

でも、わたし自身は、「科学」じゃなくて、「考え」でそれをやろうとしているんだ。「考え」と「科学」はどう違うのかと言われると、うーん、それはよくわかんないや。

そういうわけで、わたしは、今まで「科学」はうさんくさいものだと思ってた。狂信的信者と同じくらい、いんちきくさく感じてたんである。

ところが、FKSさん(とかお名前出していいですか?)の文章を読んでいたら、「科学」を信じる、信じないと、「科学」を好き、嫌いは別の問題である、ということが書かれてて、あっなるほど〜〜〜と思ったのである。

そう、わたしは科学を信じていない。正確に言えば、何にも信じていないから、科学も同じ、というだけだけど。信じていないけど、方法としての「科学」は認める。(←ってむちゃくちゃえらそうやんけ)
多分科学マニア(そんな人がいるかしらんが)の人ほど好きじゃないんだけど、「科学」は今とりあえず納得のいく仮説の集合体だとしたなら、わたしは「科学」を受け入れます。いや、もう、憧れちゃう。かっこいいもんね。

でも、それと信じる信じないは、別の話だったのである。
つまり、わたしが嫌いだったのは、科学を信じ切っている人人のことだったんである。それじゃあ、確かに、狂信的信者と同じ。自分で考えるのをやめている姿なのだから。
科学を信じてないけど(つまり、科学が現在最も人人を納得させる仮説の集合体であることを知っているけど)、科学が好きな人人。
これこそがわたしの憧れる科学者の姿なのである。

ところで、森博嗣氏の作品の中では、この「仮説の集合体」を作っている過程を表しているものが多いような気がするのである。
そいでもって、わたしはそれがとても好き。
何故かといえば、わたしは、森先生の謎に対するニュートラルさが好きだからだ。

世界のほうにもわたしのほうにも組み込まれず、謎に対してニュートラルに対峙する。こういう形式のものがわたしはとても好きなんですね。

[1999.05.17 Yoshimoto]
 
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