4seasons 

版画で金沢の古い街並みを描き、12年前から金沢市主計町の茶屋跡にアトリエを構えた米国出身の木版画家クリフトン・カーフさんが3月24日、亡くなった。79歳だった。和服を好み、地元住民らから親しまれたカーフさん。金沢を愛し、京都市内の病院で亡くなる前まで「ぼくにとって金沢はふるさと。金沢に帰りたい」と訴え続けていたという。

創作活動に励むカーフさん=2005年1月、金沢市主計町

カーフさんは1927(昭和2)年、米国・ミネソタ州に生まれたフィンランド系アメリカ人。終戦後の46(同21)年、占領下の日本に軍人として訪れ、故郷とは違う山川の風景が目に焼き付き、55(同30)年に再来日した。京都、広島などに住み、95(平成7)年から金沢に移り住んだ。

カーフさんは窓から見える浅野川の景色が特にお気に入りで、金沢の海の幸、変わりやすい天気までも好んだ。晩年は金沢の風情を描くことに心血を注ぎ、空き缶ポイ捨て防止を呼び掛ける版画の短冊を制作したり、地元神社の絵馬をデザインしたりと、まちづくりにも積極的に参加した。

カーフさんを知る三宅みち子さん(58)によると、肝細胞がんが分かったのは昨年1月。もう一つのアトリエがある京都市内の病院で受けた検査で余命4カ月と宣告された。「生きたい」という本人の希望で入退院を繰り返しながら抗がん剤治療を続けた。3月12日に京都市内の病院に再入院、24日、三宅さんにみとられ静かに息を引き取った。

三宅さんは「日本人より日本人らしく生きていた。大好きな金沢にもう一度帰してあげたかった」と話し、親交のあった主計町の松村光雄町会長は「金沢を気に入ってくれていたのが印象に残っている」と話した。

7日に京都市内で身内での密葬を済ませた。5月6日午後3時から金沢市主計町の自宅兼ギャラリーで「さよなら会」が営まれる。香典などは辞退している。

(北國 070416)▲PageEnd

Clifton Karhu & 東山 懐華樓

木版画家「佳風」  「おとこ川 おんな川」:時鐘舎

浅野川界隈に広がる伝統的な街並み。金沢市主計町の木版画家、クリフトン・カーフさん(77)は、こうした空間に目に見えない力を感じる。

「お茶屋や町家の格子の直線が緊張感を生む。背筋が自然と伸びる感覚。日本の木造建築の美しさは、この点に尽きます」。この独特の受け止め方は、カーフさんが線を駆使する木版画の作家だからというだけではない。そこには日本の文化への深い造詣がある。

純和風の生活 カーフさんは米国ミネソタ州生まれ。終戦後の1946(昭和21)年、占領下の日本に軍人として訪れ、長崎県佐世保で兵役生活を送った後、いったん帰国した。

平原が広がる故郷と違う日本の風景をみて「山と川の国」と思った。その光景が忘れられず、55(昭和30)年に再来日。京都、広島、岐阜などに住み、96(平成8)年から金沢に居を構えた。かつて茶屋だった三階建ての建物を住居兼アトリエにする。名刺には「繪師佳風(えしカーフ)」。30年前から和服で通し、生活スタイルから言葉遣いまでが純和風だ。

「目方は二十貫、背丈は五尺八寸五分。飲むお茶は玉露、下着はふんどしを締めています」。銭湯に行けば子供から「オシメしている」と言われるふんどしだが、カーフさんは「絶滅危惧下着 ふんどしの旅」という全国紙の特集で紹介されたほどの愛好者である。     080201.fri

高光一也

生誕100年 高光一也の画業−モダンの煌めき−
石川県立美術館  会期:070422.sun-0520.sun、講演会:070422.13:30-15:30

金沢市名誉市民。明治40年(1907)1月4日に、金沢市北間町に生まれた高光は、終生郷里にあって、優れた資質と飽くなき研鑽、類い希な探求心とにより、戦後日本の洋画壇を代表する画家の一人として活躍した。

追い求めたものは、健康美あふれる女性像であり、昭和61年に亡くなるまで、具象と抽象との相克による変転極まりない戦後の美術界にあって、生涯進取の気風を持って大胆に画業を展開し、見事な足跡を残した。

本展は高光氏の生誕100年に際し、高光氏の代表作を中心に、氏の芸術形成に深く関わった師・中村研一、暁烏敏、父・高光大船らの作品と資料、戦後草創期に金沢美術工芸専門学校でともに後進を指導した風景画の小絲源太郎、そして同世代の人物画家で、戦中戦後に相関した歩みをうかがわせる小磯良平、宮本三郎らの作品を交え、高光氏の60年にわたる創作の軌跡である。

講演会:「師 高光一也の思い出」 高光の薫陶を受けた日展評議員の洋画家藤森兼明氏(砺波市出身)が同美術館ホールで講演した。藤森氏は、こん身の力を注いで描いた作品を一瞥(いちべつ)し「だめや、初めから描いてこい」「下手な絵を見ていたらこっちまで下手になる」と口数少なく厳しい言葉で、自らの制作姿勢を問い直させられた思い出を振り返り、「絵の実力だけでなく、懐の深さと温かさで多くの人材を育てた尊い指導者だった」と師の人物像について語った。

今もアトリエに張ってある高光の写真に向かい“声”を聞いてから制作に臨むことなど多くのエピソードを交え、師から受けた教えについて話し、「上手、うまい、いい絵は違うと言っていた先生の言葉が(71歳の)今、何となく分かりかけてきた。まだ遠い道のりだが、人の心を打つ絵を描いていきたい」と高光イズムを披露した。     070422.sun

長谷川等伯像、本法寺開山堂 & 七尾駅前

美の戦国合戦 〜 長谷川等伯 vs. 狩野永徳 絵師たちの夢と野望 〜
歴史秘話ヒストリア NHK総合  100310.wed 22:00-22:43

等伯の絵が天下を変える? 能登の国・七尾に生まれ(1539〜1610)、地元の人気絵師として仏様の絵を描いていた30代の等伯に、隣国・越前の朝倉氏からの依頼が来る。等伯が描いたのは高野山・成慶院に伝来する「武田信玄像」。山形大学の宮島新一教授の説に基づいてこの絵を見ると、そこには、戦国時代を揺るがしかねない秘密のメッセージが込められていた。そして、等伯はこの肖像画を通じて、天下の権力者に仕えて御用絵師になるという、野心を抱くようになったのだ。

戦国絵師の仁義なき戦い 後ろ盾もなく京都へやって来た等伯は、苦節10年、千利休という権力者とのパイプを得ることに成功し、大徳寺金毛閣の天井に巨大な霊鳥をあらわした「迦陵頻伽図」(かりょうびんがず)を制作する。しかしこの絵こそ、天下人や朝廷の仕事を独占していた絵師集団・狩野派との確執を生み、等伯はライバル狩野永徳と、美をめぐる泥沼の天下争奪戦を繰り広げる。

2つの国宝 等伯に何が? 等伯には、代表作とされる国宝が2点ある。金地に巨大な楓を描いた絢爛豪華な「楓図壁貼付」と、それとは対照的に、墨一色で描かれた幽玄な「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)だ。天下人・豊臣秀吉から注文を受けた等伯は、秀吉の好みを探るため、ライバル・永徳の絵を研究する。等伯の描いた、国宝「楓図壁貼付」に現れた研究の成果とは?そして天下争奪戦の結果、等伯が夢見たものは何だったのか?     

2010年は、ちょうど等伯没後400年にあたります。この記念すべき年に、国宝3件、重要文化財30件をふくむ等伯の代表作のほぼすべてを公開する、史上最大規模の大回顧展 400th Memorial Retorospective が開催される。

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ポスターと中川忠順

「国宝」誕生110周年記念特別企画  石川県立美術館  会期:060901.fri-060924.sun

今日の文化財保護制度の原形であり、「国宝」という言葉が最初に用いられたのは明治30(1897)年に公布された古社寺保存法です。
この法律を受けて内務省に移管された古社寺保存会で技師として終生、国宝及び特別保護建造物の調査、指定、保護に尽力したのが金沢生まれの中川忠順(1873-1928)でした。岡倉天心も強い信頼を寄せた中川は56歳で病没するまで古社寺保存会に奉職する傍ら、第1回から第7回まで文展の日本画審査員を務めるなど美術史界の碩学として活躍した。

今回はこの古社寺保存法の公布110周年を機に、中川の故郷・金沢で「国宝」中の国宝とされる「信貴山縁起絵巻」を一挙公開することになりました。この絵巻はこれまで、一巻ごとに、しかもその一部が公開されたことはありましたが、三巻同時に、全画面で展示されるのは史上初となります。

信貴山縁起絵巻 「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「鳥獣戯画」とともに四大絵巻の一つ。平安時代中期に信貴山(現奈良県)の朝護孫子寺を中興した僧・命蓮にまつわる説話が描かれている。@山崎長者(やまざきちょうじゃ)の巻、A延喜加持(えんぎかじ)の巻、B尼公(あまぎみ)の巻の三巻からなる。     060912.tue

「橋姫」と2000年発行の二千円札裏「鈴虫二」

よみがえる源氏物語絵巻展 〜 平成復元絵巻のすべて 〜
香林坊大和8階ホール  会期:060330.thu-060411.tue

徳川美術館(詞書28面・絵15面)・五島美術館(詞書9面・絵4面)が所蔵する国宝「源氏物語絵巻」は、12世紀前半(約900年前・平安時代後期)に制作されたとみられる現存最古の物語絵巻である。所蔵館が中心となり、この絵巻が制作当時にはどのような姿であったか、先端の科学技術による分析と学術的調査によって、描かれた当初の姿に復元模写する事業を進めてきた。

この復元模写事業の様子はNHKの特集番組「よみがえる源氏物語絵巻」で幾度にもわたり放送され、大きな反響をよんだ。本展では5人の日本画家によって進められ、平成17年10月に完成した国宝「源氏物語絵巻」全19図の復元模写を、過去の模写作品や復元模写の作画過程、平安時代の装束や建造物の模型、絵巻に描かれた物語の背景などを収めたハイビジョン映像などとともに展示する。

平安時代の11世紀、関白藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房紫式部(生没年未詳)は、『源氏物語』を著し、主人公光源氏の生涯を軸に平安時代の貴族の世界を描いた。「源氏物語絵巻」は、この『源氏物語』を絵画化した絵巻で、物語が成立してから約150年後の12世紀に誕生した。『源氏物語』54帖の各帖より1-3場面を選び絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式の、当初は10巻程度の絵巻であった。現在は54帖全体の約4分の1、巻数にすると4巻分が現存する。両方とも昭和7年(1932)、保存上の配慮から詞書と絵を切り離し、巻物の状態から桐箱製の額装に改めた。

 平安の“ぬり絵”と揶揄される絵は、墨書きの下図に、微妙な修正を加えながら彩色を施す、「作り絵」という手法で描かれています。最大の特徴は「引目鈎鼻(ひきめかきはな)」という面貌表現と、屋内の様子を斜め上の視点から覗き込んだ「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」という描法です。     060330.thu アトリオ8F

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