丸銭肇さんは庭師です。サギ師、ペテン師、庭師の庭師です。家族のヒンシュクをいくら買っても、いつに変わらぬ酒とバカの日々。さあ、路地のやくざもん達とのあきれ果てた、でも無性にいとしい日常と非日常(その境目のないのが問題ですが)をご味読ください。
※ゴタムキとは…
金沢の方言で、理屈を言ったり、文句を言ったり、うそをつくこと。またはそうする人のことをいう。
なお、ここに使用したイケテル写真は十数年前のものであり、現在は見る影も無くしょぼくれております(為念)。

二〇〇二年
二〇〇一年

八月二七日

東京の人は「バカ」と言い、大阪の人は「アホ」と言う。ではどこからどこまでが「バカ」の地域で、どこからどこまでが「アホ」なのか、正確に知る人は、かつて誰れひとりとしていなかった。――というまえがきで始まるのは、「全国アホ・バカ分布考」松本修著である。
我が路地は「アホ、バカ」ではなく「ダラ」である。
 「今日の君は最高や、Hさせて」
などと言われて、愛くるしい乙女は、
 「いやん、ダラ。なに言っとるがいネ、ダラ」
 「ダメ?」
 「ダラ、ダメヤテネ」
 「ダメ?」
 「アーン、ダラ、ダラ、ダラ」
 「アレーゴメン」
 「ほとんど.ダラヤワ ……?!」
てな調子の「ダラ」なのです。書いている私も相当な「ダラ」である。スミマセン。
――私は我が路地の「ダラキ」なる親睦会に入会している。「ダラキ」は、「陀羅貴」という漢字の名称である。ダラに「貴」を付けるとこなんかは、ほんと「ダラ」である。「陀羅」なる漢字を当てるとは、さすが真宗王国だなと思う。ひょっとしたら、西本願寺の下部組織かと一瞬不安にもなるが、入会費は清酒「万歳楽」一升一本である。脱会は自由であり、その折は酒は戻らない。夫婦同伴でないと入会ができない点を除けばいごこちのよい「陀羅貴」会である。
拙家の父、勝治の葬儀の日。祭壇に手を合わす順番の「トリ」は……。
 「ダラキ殿御一同様」
司会者の声に、しめやかな葬儀がとんでもない笑いに!
ダラな息子とアホな仲間は、バカな明日しかない。

七月二〇日

私は植木職人である。決してヤクザではない。私は石川県植木職人連合会の舎弟として草鞋を脱ぐ!ではなく、地下足袋をはいている。石川県植木職人連合会という大層な名称であるが、石川県に認知された覚えもないし、しようと思ったこともない組織である。
通称「植職連」の歴史は発足13年、会員13名と意外に浅く、各位庭師達の知識ははるか彼方に深い。会員は、すべからく粋で男前である。男前で粋であるという自負心に満ちあふれ、粋で男前でなければ入会できない、という会則があるがごとくである。庭に対しての美意識、お客と軽々しく妥協しないぞ、という職人魂はメラメラ燃え、酒宴の時などは危険すら感じるのである。
しかし、自分の嫁さんの容姿の美意識なぞ、その限りでない、のは自明の理であり、ナヨナヨと安心感すら漂うのである。早い話、家族から相手にされないのである。
毎年四月、「植職連」の総会には、揃いのはっぴ姿で出席する。加賀百万石の「梅鉢の紋」を背中に。会長、黒田。事務局、金村、仁左ェ門。粋な男連中である。私も二年間、会長職を務めさせてもらったのですが、はっぴ姿で片町界隈を歩いたら、某宗教団体テンリ教の勧誘員と間違われたことが原因で、その任を解かれた。よりによって、庭屋風情が宗教屋に見間違われてどんなんや! 暴力性の乏しい庭屋はその限りではない。一件落着。「ヘェヘェー」。
「植職連」の年行事、六月のボランティア剪定(養護施設、老人ホーム)を終え、七月の研修旅行、奈良は大和路を歩いている。明日香村(石舞台古墳)を拝観し、宿をとる。カワイイ寝顔して、会長がイビキをかいている。

明日香村にて
  

七月一五日(続)

昨夜、酒を呑んで愛車(軽四輪トラック)を馴じみの店の駐車場に放置してきた。末娘に車を取りに行きたいので送ってほしい、とおそるおそる哀願したら、意外にも「ついでがあるからどうぞ」と優しい返事が返ってきたが、鼻であしらうような軽い調子と、語尾にさげすんだいつもの寒さがある。ついでというのは、家族でお墓参りに行くついでのことらしい。家長の私抜きでの墓参りらしい、らしいのではなくそうなのである。我家の墓参りの回数は少ない方で、従兄弟の浅田夫婦にいたっては、毎月お花、ローソク、線香を上げてくれる。ローソク立ての穴が埋まっているから、庭屋の道具できれいにしておけ、と会うたびごとにおこられる。従兄弟の智美チャンは、墓のスキ間が大きいので雨が入ってくるから、とわざわざ電話をくれたので、手っ取り早い補修工事をした。建築材のコーキングで埋めたが、スタッフが言うには、あれは石の接着剤だと。その部分は、納骨する際に取り外し開放する箇所なので、弱ったことしたなァーと思った。その時はバリかタガネでむりやりこじ開けなければならんな。納骨にバリを持参というのもなァー。どおりで我が母堂、80余歳がピンピンしているわけである。
その日、内灘町霊園の草刈り業務委託を請けた。その日、西に落ちる陽は、凪いだ波とほどよい風を仰いでくれた。
小さな墓が線香の煙に満ちていた。我家の墓だった。若い女がいた。従兄弟の智美さんだった。彼女に向かって手を合わす。ありがとう。合掌。

七月一五日

昨日、「花村萬月」の講演を拝聴した。芥川賞作家の萬月さんである。内灘町主催「内灘文芸スクール」開講記念講師としての講演である。ぼくは、なんの弾みか知らんが千円支払って「文芸スクール生」として入校した。萬月さんの小説は買ったことはあるが、読んだことはない。エッセーみたいものは読んだ記憶がある。「ナマイキ」なヤツだなァーという印象があった。実物の萬月さんは頭の前頭葉に萬月を乗せていた。イイカゲンなペンネームはここから生まれたのだと納得した。ナマイキな萬月さんはハズカシイーそうに語った。ぼくも「ハズカシイーなあー」と聞いていた。ハズカシイーのでそろそろ席を立とうと思っていた。講演の終りに一般質問があった。「日誌を毎日書いている。他人に覗かれるのを意識しながら、わたくし、作家になれるでしょうか?」ハズカシイーという回路の欠落した人の質問は、ホント、グロテスクにハズカシイー。萬月さんは「作家になれますよ。でも作家という仕事は奨めませんけど」と言ったように思う。一流の作家はハズカシそうに語っているが、どこかで「人間」を喰って生きることを糧としていると思った。いやな職業だと思う。
朝、日本共産党の町会議員が選挙の看板を仕事場の庭石置場に立てさせてくれ、と言ってきた。なんの弾みか知らんが「イイヨ」と答えた。ビール券でもくれるのかなァーと思っていたが、そんな様子は微塵もない。日本共産党ってケチだなァー。自民党と一緒なくらいお金持っているのに、ホント、ケチだと思った。ビール券を二、三枚期待するこの気持ちには「ハズカシイー」さは微塵もない。
末娘「お父さん、誰れがあの看板を許可したの?ハズカシイー」と言った。
父 「ビール券もらったから」
末娘「なおハズカシイーわ!!」

龜鳴屋より

六月二四日分ページアップ後、丸銭さんのご長女から重大な事実誤認の指摘と、父親の素行不良を嘆くメールをいただきました。ご本人の許可を得て、そのまま掲載させていただきます。

   ご機嫌いかがでしょうか?のんだくれのムスメでございます。
   [注:これは娘さんがのんだくれということではなく、のんだくれ親父の娘の意]
   前評判通り、いいのになってますね〜![注:当ホームページのことです。エッヘン]
   さすがです。
   しかし、やっぱり1ヶ所だけなんだか目にしたくないとこもアリ。
   [注:ページ冒頭を飾る父の背面写真]
   書いてる本人がうるさく、ひっっじょーおにうるさく自慢するのでもう大変です。
   そして情けないことに、父親の命日も間違えていたこと発覚![注:五月一九日分参照]
   決定権も記憶力もないという・・・。[注:六月一七日分参照]
   父親の自覚もなく、金もない。ないないづくしでトホホです。
   ムスメでいるのも結構大変よ〜(-_-)

六月二四日

日曜日八時です。拙宅の掃除機の喧騒から逃げ、仕事場へ行く。10帖1LKである。ミニコンポでクラシックを十時半頃までウトウトしながら鑑賞する。そろそろお腹がすいたので、近所のコンビニへ行く。買う物はいつもの通り、サッポロビール缶。ミニ弁当。そして、決して欠かせない一品は「江戸っ子煮」の缶詰である。
アー、「江戸っ子煮」の缶詰さん。あれは小学六年生頃だったろうか? 給食制度のさだかでない昼飯の弁当のおかずに、「江戸っ子煮」を持っている級友たちが、あれほど恵まれていると思ったことはなかった。
弁当のおかずが「江戸っ子煮」の缶詰であることがステータスだった。初恋の大丸葉子さんの前で「江戸っ子煮」をあけて食べたかった。「江戸っ子煮」を持っていかないと大丸葉子さんに相手にされないと思った。「江戸っ子煮」をさりげなく食べている者でないと大丸葉子さんに惚れてはならないと思った。
その頃、ぼくの弁当のおかずは決まって魚の煮付けだった。ご飯は半分麦が入った米だった。大丸葉子さんが、村役場へ就職した時、ぼくは意を決してラブレターを書いた。その手紙が役場職員多数の中に晒された。その原因は、あの日あの時「江戸っ子煮」を弁当のおかずに持っていかなかったことだと今でも思っている。
アー、大丸葉子さん。日曜日のコンビニの買い物は必ず「江戸っ子煮」を3缶買うのです。「江戸っ子煮」は180円です。中身は、大豆が18ヶ、牛肉が2切れ(牛肉かな?)、白滝が37すじ、竹の子が4ヶ、コンブ巻1ヶの愛媛食品興業(株)の缶詰です。いつも食べているのでデータは正確です。
アー、大丸葉子さん。できることなら、一緒に「江戸っ子煮」を、一緒に日曜日に食べませんか? ねー、そうしましょう。
突然―、末娘、事務所に現れる。
娘 「父、酔っとらんと、鶴ヶ丘の原さんから請求書出してくれ、っていうTELあったよ。」
父 「はーい。」

六月一七日

日曜日である。庭屋稼業も休みにしなければならない。休みにしなければならない訳は、実働スタッフ2名が「明日は日曜日で休みです。」「毎月20日は給料日です。」という決定権を持っているからです。決定すべき判断は、実力があるからです。実力のある人には従わなければならないのです。我が家の日曜日に至っては、早朝から家中の掃除が始まる。便所からガスレンジの五徳、換気扇の扇まで…etc. 日曜日ぐらいは静かにしてくれと言いたいが実力がないので、決定権のある人に服従するしかない日曜日です。
突然ですが、元来、庭屋稼業はカレンダーで生活する者ではなく、暦で生きる。日月火水木金土という労働ではなく、春夏秋冬での仕事だということです。カレンダー労働者は「明日は土曜日、その次は振替休日」などとのたまう。暦労働者は「今朝は雨が強いから休み。」「34度の真夏日じゃ仕事にならん、休み。」「二日酔いでする仕事ではないナー。お客様に失礼というもんだ。休み。」などなど、御天道様に遠慮がちな小声で呟いても、我が家族はめざとくキャッチし、ヤル気がない、横着だとか、ナマクラ者だの、それはそれは、だいそれた犯罪を犯した肉親が、親戚や社会に対して申し訳ございません、てなツラで罵るのでございます。
カレンダー労働者にしろ、暦労働者にしろ、貧乏人に変わりないのに、貧乏な日曜日しかできないのに。ビンボーという胞子は、日曜日に発芽するらしい。その胞子をたくさん身に付けている人の判断力は、必ずといって「正しい」とか「まちがい」という言論をのたまう。政治家、学者、先生なるたぐいである。ぼくらは、おもろかった、うけた、すべった、まあまあ深く考えないで、いい日曜日にするまかい。それが至上の日曜日である。

五月一九日

午前11時より親父の13回忌法要を務める。平成元年の5月20日が命日である。命日は20日であることは覚えていた。20日は給料の支払日である。だが、法名はしっかり忘れていた。仏壇を覗き見たら「釈善慶」と命打ってあった。弁慶の兄貴さんみたいな名であると思った。ご坊さんは檀家の人々をよく眺めている。ご坊さんは法名を付ける時が楽しく真剣で、ここ一番勃起するのだと思った。庭屋が自分の仕事を眺めて自分一人で褒めているのとよく似ている。素敵な法名であると思った。この日の路地はアカシアの花が満開である。易い線香で咽せて、アカシアの花粉で鼻を拭きながらバチが当たりそうな酒宴が始まる。73才で逝った父の日である。

五月九日

総持寺門前町商店街を歩く。静かな商店街である。5分も歩けば通り抜けられるこの商店街に、どういう訳か衣料品店が6店舗もある。どの店も同じような商品陳列である。モンペからスーツまで、革靴からゴム長靴まで、素っ裸で店に入っても、その人の職業に最適の服装がコージネート出来るのである。楽しくなる商店街である。とくに店のネーミングが素敵である。「幸福さん」という衣料品店。「しやわせさん」の前を通るとき、「ありがとさん」と答えたくなる。「ビュー・サンセット」とかいう町の第3セクターなるリゾートホテルよりはるかに「幸福」にさせてくれる。「幸福さん」になった所で、尊厳灼な総持寺より駅前食堂の蕎麦、霊水「古和秀水」よりビールを呷る。「じんのび」である。

四月三〇日 

能登は門前町黒島に一泊する。門前町黒島は友人角田君の実家が宿である。この町は天領の地「北前船・角海家」が県指定文化財として遠い日の栄華を残している。黒島の路地は静かである。裏山からホトトギスがさえずり、おとなりの茶わんを洗う音が聞こえる。癖のある足音がゆったりしたリズムで路地の奥に消えた。老練な職人の無駄のない音のように。静かに夕日が海に入る。今夜は高島家のお婆ちゃんの通夜であるらしい。

四月某日

路地の若衆で発足した「はばたけ会」がある。年に一度温泉でドンチャン騒ぎすることのみを目的とする。会員の職業は、二人のサラリーマンをのぞくと、大工、タイル屋、土建屋、庭屋、で構成する。その「はばたけ会」が町の草野球連盟に参加した。ネーミングは「はばたけず」である。何にも足さない、何にも引かない、というウィスキーの宣伝コピーにピッタリな野球チーム名である。「はばたけず」ひらがなで書くとこなんか、なかなかにくいのである。
ライト「松井君」は、若気のいたりで小指が少し無く、35度もある真夏の試合でもアンダーシャツを着用。腕(カイナ)のワッペンが見えるからである。各自の個性がアダ花乱れたチームである。
三番ショート「隆司君」はチーム一番の美男子である。大工という職業がら肉体の美しさは男前をよりいっそう、そそるのである。姿形ちが最高で、一つ一つのしぐさが美しいのである。エラーをして、三回までエースの私しに、「ゴメン」と言ってボールを返すとこなんか、ほんと美しく、「ゆるす」「ゆるすわ」「ゆるして」と思わず声がうわずるくらい美男子である。
その日の朝五番サード大工の「洋二」君から電話で「隆司」が自殺した。……。
通夜ではじめて家族をみた。高校三年の長女を頭に年子の次女三女、小学五年生の長男がいた。「隆司」ゆるさんぞーー!ー!
ゆるさんぞ、「隆司」!!

三月某日  

晴。春眠暁を覚えずである。快晴の凪である。早い昼飯を馴じみの「来来(ライライ)食堂」で食う。鯖の味噌煮にビールが最高である。食堂の親父が出前から帰って、いわく、「××の野郎が朝から呑んで神社の階段枕に高イビキ」との報告である。我が路地の春眠は猫はネズミを獲るのを忘れ、人間は借金を忘れる程度の春眠ではない。神様からバチがあたっても気がつかないくらいの春眠である。