ANTIQUE花小筐 花がたみ
上 陽子

連載その8 がんじす河の真砂より……

 今から78年前のこと、仏さまの前で一度だけ泣いたことがあった。京都の教王護国寺、その講堂にいらっしゃる大日如来が私を泣かせた。
 北陸という浄土真宗の信仰篤い土地に生まれた。朝夕、月命日など仏壇の前でお経をあげる祖母に倣ってかたわらに座ったり、お仏飯さんやお花をお供えしたり、あまりに普段の生活の中にそれらが自然に溶けこんでいたので、改めて宗教とか信仰などと特別意識するわけでもなくいた。そのため夜なか急に目が覚めてトイレに行く時なぞに、暗くて長い廊下が恐ろしくて、おまじない代わりに南無阿弥陀と唱える、まあ何とも都合のいいえせ信心者。
 さらに長じても、宗教は興味の対象であっても信仰に結びつくことはなかった。そして私にとっての仏像は、あくまで美の対象であった。それは短大の頃に学んだ才田健治氏(故人)の講義する日本美術史の影響が大きい。先生の講義は日本美術史といいながら、殆ど奈良や京都におわす仏像の美に終始していた。おそらく何年来同じ講義をされてきたのであろう、手にされていたノートの紙片は黄ばみ傷んでいた。教室はざわめいていることが多く、そんな中でも小柄な先生が訥々と、けれども熱く語られる仏像の講義に、私は深く惹きつけられていた。
 やがて社会人となり多少の余裕ができると、先生の語った美しい仏像たちに逢うために私の足は奈良へと向かっていた。室生寺の十一面観音、秋篠寺の伎芸天、円成寺の大日如来……。好きな仏像をあげたらキリがない。
 そんなふうに信仰とはほど遠いところにいた私が仏さまの前で涙してしまったのは、知人が残りわずかな命と知らされ、そのお見舞いにいく道すがらのことである。当時私は結婚して浜松に住んでいた。連れが京都で仕事をひとつ済ませてから病院のある金沢へ行くこととなり、その間、二時間あまりを教王護国寺で過ごしていたのであった。
 静かな秋の初めであった。踏みしめる小石の音を聞きながら、彼女のこれまでを思っていた。その人は一度離婚をし、その後再び縁あってまた家庭を持ったのだが、ご主人の仕事の都合で離ればなれで暮らすことを余儀なくされた。一人で子供たちを育てながら留守宅を長く守っていた。それがようやく家族一緒に暮らすことができると喜ばれていた矢先、癌に侵されていたのであった。
 講堂に出た。21体の密教像が立体曼荼羅となって居並び、空海の密教思想を凝縮させた堂内はほの暗い。そのなかで大日如来だけが金色に輝きを放ち暗がりに浮かんでいた。その光に引き寄せられ見上げているうちに、彼女の人生に与えられた理不尽さにどうしようもなく腹が立ってきた。
 どうしてあの人がこんな目に遭わなくていけないのですか、どうしてこれからという時にこんな目に遭わせるのですか、どうして彼女を助けてくれないの……。そう心の中で詰り続けた時、仏像の半眼と私の視線はひたと合わさった。そして仏像は静かにこう言った。「好きなだけ責めるがいい。すべて受けとめよう」と。
 気がつくと涙があふれ、ただただ泣いている自分があった。私はこの時初めて仏の意味を知り、また私の中で仏像は初めて仏さまとなったのであった。
 しかし、である。私の仏像好きは直らなかった。
 月日は流れ骨董を扱う今、手元には一木造のかわいい小さな仏像が一体。おそらく仏を護る天部に属するもので、本当は仏像とはいえない。鎧を身につけ頭に戌の兜を戴いているところから、薬師如来の眷(ケン)族十二神将かと思われる。まなじりは強く、ふっくらとした頬、固く結ばれた唇は凛々しく力強い。鎧の上の衣は胡粉の上から朱で彩色され、さらに金泥で渦紋が描かれている。剥落が著しいがかえってこの像に古格を与えている。惜しむらくは台座が失われ、かわいそうに左足は甲から先がすっぽりと失われている。どなたかの念持仏だったようであるが、しばし、わが四阿にて、誰の声にも耳傾けることなく、静かにお休みになって頂いている。
 がんじす河の真砂よりたくさんいらっしゃるという仏さま。そのうちお一人くらいこのような仏像好きの信心もありとお許し下さるであろう。若葉光る奈良では、東大寺大仏開眼1250年を記念して、奈良国立博物館で「東大寺のすべて」展が開かれている。また仏達に逢いに奈良へ向かおうと思う。


上 陽子(かみ ようこ)さんは、アンティークのお店「花小筐」(はなこばこ)のあるじ。古いものたちの持つおもむきの微妙をさとる確かな目を持った女性です。 連載その7へ