河崎 徹
第四回 「五感がイカン」

「大物が釣れた」「なにノー天気な事言ってるの」「テレビを見なさいよ」いつもはロクにテレビを見ない我妻と娘がテレビを喰い入る様に見ている。きれいに晴れわたった空で飛行機が高層ビルに突っ込み炎上しているシーンである。「なんじゃこりゃ」と私、丁度映画の一シーンを見ている思いである、爆発の瞬間、何人もの人が命を落とし、そこはさながら地獄の様相を呈していただろう。だが正直言って、私にはテレビの画面からその実際の悲惨さは伝わってこなかった。実は、この様な経験は以前にもあった。それは湾岸戦争の時である。くらやみの中で飛行機からのピンポイント攻撃と呼ばれた空爆が、何か花火に似た様な感覚でしか見れていなかった。そこにある地獄図が想像できず、しかも恐怖もなく。これは私の様な想像力に乏しい人間だけの事なのだろうかと、周囲の人々に聞いてみたけれど、同じ様な感想であった。(ただし戦争を体験した人は違うであろうと思う)。私の様に戦争体験のない者が毎日のテレビの中で映画のシーンと実際のシーンとが同じ画面から映し出された時、実際のシーンまでも映画のようだと思ってしまうのだろうか。これはかなり恐ろしい事ではないのかと思ってしまった。テレビがそれを意図していない(国や軍はそれを利用するだろう。ただし、マスメディアと国等の関係はまたの機会に譲りたい)とはいえ、現代社会(日本)の人間が視覚だけにたより過ぎる生活をして、実際に起こっている事を五感でもって感じ取り、それを自分の判断の材料とし、自分の見を守ってきたという能力をどこかへ押しやってしまうのではなかろうか。もし、あのシーンでものすごい爆発音、人の悲鳴、焼けただれた臭い、爆風、それらを感じられたなら、小心者の私などはふるえが止まらなかっただろう。
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人間が生活の場で起こり得るさまざまな事を五感で体験できなくなっているというのは、今の社会のシステムと大きな関係があり、やがては身の回りに起きた事に鈍感になり、自分の身を危険にさらす事になりかねない。
今年の夏、兵庫県で花火を見ていた客が歩道橋の上に集まり過ぎて多数の犠牲者が出た。監視する立場の人間が、現代の経費と労力を節約するテレビカメラでその状況をチェックしていたというが、カメラから(視覚で)事の重大さに気づかず、事の重大さに気づいた時には手が付けられなかったという。もちろん、この監視体制の甘さから発生した事件だが、集まった人達も、もっと早く自分の五感を働かせて事態の重大さを感じ取れなかっただろうか。
この事件のような花火大会という特別な場合に限らず、私に言わせれば五感をマヒさせるような日常の危険はいくらでもあると思う。
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もうかなり以前になるが、私達夫婦は仕事の関係で都会(東京と神奈川の境)と田舎(金沢の山手)に別れて住み、月に2度ほど私が都会へ行っていた。夜行に乗り上野に着き、早朝のラッシュ時、新宿駅で電車に乗り換えるのだが、田舎では朝というのがいかにも昨日(前日)が終わり、新しい一日が始まるという感じだが、都会では、昨日の単なる延長、昨日の夜のゴタゴタ、臭いがそのまま駅の中に残り、人々がそれをものともせずその中(広い駅の構内)をいっぱいに広がり一方向に人がまさしく流れていくのである。一度その流れを横切ろうとした(無謀と言われた)途端、あっという間にその流れに巻き込まれ、自分がどこを歩いているのか分からなくなり恐怖を感じた。回り四方の顔と顔がくっつきそうで、集団から出れた時にはホッとした。私は、人間には一人ひとりが必要な空間が必要だと思っていた。それ故に特に真後ろにピッタリと他人が立っているとコワイ。というと「お前はマンガ(ゴルゴ13)の読み過ぎ。お前の場合は単なる田舎者で、そんな奴は都会に住めない」と。
都会に住めない私の住んでいる田舎の今頃、初秋(秋来ぬと目にはさやかに見えねども…)の季節が好きだ。だが今は、道路も良くなりほとんどの車がスピードを出して通り過ぎるだけである。たまに若者の集団(オリエンテーリング)が覇気のない顔をして歩いている。私が「あんまりやる気がないなら、生徒の自由にさせたら」と言うと、教師は「宿舎でテレビを見るか、家から持ってきたゲーム(視覚の楽しみ)しかやらない」とボヤク。たぶん勉強勉強で頭がいっぱいで視覚しか働かないのだろう。
現代社会は見た目で判断し、それが不可能な場合は、機械が示したデータを人間の目で見て判断する(安全かどうかも)。
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先日、ここ金沢で一年間に三度の給食の牛乳による食中毒(?)が問題になった。いずれも大きな食品会社であり、責任者は機械化された製造ラインで問題が起こる事はあり得ないと言っていた。しかし、現実にはそれを飲んだ子供達が異状を訴えて事件が発生している。ここでは機械が示したデータが安全を保障したかどうか問題ではない。口にした子供達が異状を訴えたという事が問題なのである。異状を感じ飲まなかった。異状を感じ「もどした」。これが、自分(子供達)の身を守る最善の策であった訳である。ならば、工場で出荷する時に工場の人間がまず飲んでみる。次に給食センターで飲んでみる。そして学校の給食の係員が飲んでみる。最後にクラス担当の教師が飲んでみる。実に簡単な作業であるが、何度改善を叫んでも直らない今回の事件で、最終的に人間が持っている五感でもって安全を確かめるという事が欠落しているように思う。
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はずかしい話だが、我家でもよく牛乳を長期間冷蔵庫に入れて、くさらせる事がある。賞味期限という安全(数値)はあまり信用しないし、またその通りにすれば、食べられる(飲める)ものを捨てるという事にもなりかねない。「怪しいな」と思う時には、家で一番役立たずの私が飲んでみる。時には「もうヨーグルトになっている」と吐き出す事もある。それでも今まで牛乳で中毒を起こした経験はない。人間はそれぞれ(個人)にあった危険を回避する能力を長い歴史の中で身につけ、それ故今日まで生き延びれた訳である。その危険性を察知する能力をマヒさせるようなもの(人類がいままで経験しなかったもの)、例えば、食品なら添加物、遺伝子組換、乗物なら飛行機、新幹線,建物なら新建材、高層ビル、例をあげたらきりがない。逆にこれこそが現代繁栄の証明であろう(私もそんな社会の一員でしかないが)。そしてそれらの安全性はと問われれば、個人ではまったく判断しかねる数値が機械で測定されて納得させられている。今日爆破された百階建てのビル、このビルには何千人、いや万の人がいたという。その人たちはこの高いビルから下を見た時、その高さに「こわい」と思わなかったのだろうか、又もしビルの下の階で何かあったら「こわい」と思わなかったのだろうか。私などはその中で仕事をするなどこわくて考えられない。
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人間は、その先祖が断崖絶壁に生活していたという歴史を聞いた事がない。私の仕事場の近くの畑でニホンカモシカが出没して被害が出て農家の人が困る事態がここ数年起こってきた。私の学生時代、ニホンカモシカは天然記念物で、その数も少なくわざわざ高い山に登り双眼鏡で崖を歩くカモシカを見て感動した。と同時になぜあんな牛の仲間が崖の所に住むのだろうか不思議に思った。ところが、今では保護されて平地でも見られるようになった。畑の中を歩くカモシカを見た時、これ(カモシカ)は、やはり平地に住むのが本来の姿ではなかろうかと思った。高層ビルに住む人間は私の考える人間本来、平地に住み、余裕のある生活をして五感を働かせて生活すべし、とは逆に、樹上生活しているサルの様になりたくて、先祖返りをしているのだろうか、そんな心配よりも、現代繁栄から取り残されつつある私の場合、町からこの地(里山)まで追いやられ、さらにこの先、カモシカの様に行きたくはなくても、山の崖っぷちまで追いやられてしまうのだろうか。

      蝶なれど 休むしぐさや 秋の風
      子供(こ)らおらぬ 林間で鳴くセミ 元気なり
      亡き人を、野菊のごとしと 思う頃

追伸
ヘタな俳句はやめとけ、という意見がありますが、小泉純一郎が写真集を出す御時世。これくらいがなんだ。


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