河崎 徹
第三回 「根拠なき期待と自信」

この仕事(養殖業)を始めてもう三〇年近くにもなる。他人に言われるまでもなく「よくもまあ、もうけの少ないその日暮らしを長い間やってきたものだ」と自分でも感心する。そしてこの先、どうなる事やら。
ただこの「その日暮らし」の生活の中で、この先、少々の事があっても自分の事ぐらいはなんとかなるだろうという根拠なき(いい加減とも言う)期待と自信は持っている。
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ところで、この根拠なき期待と自信は私の「専売特許」と思っていたが、今や日本中に満ちあふれている様だ。折りしも、参議院選挙の真最中、政党(主に自民党)は、「日本を改革します。期待してください。」と自信気にのたもう。
五〇才を過ぎて、このスタイルで将来もやっていくしかないだろう(人間は五〇を過ぎたらなかなか変わるものではない)と思っている私には、どこかへ片足を突っ込んだようなじい様達が、改革云々と叫んでいるのは異様な光景に見える。古今東西、改革とか革命なる言葉は若者の口から発せられるものと思い込んでいた。
私に言わせれば、今言われているのは、改革なんていうカッコのいいものではなかろう。自分達、主に政治家の失敗(バブル等)で、しかもその後の処理をまちがえて今日の状況をつくってしまったのだから、「その罪ほろぼしに残りの人生をかけて責任を取らせてもらいます」ぐらいは言ってほしいものである。
ただ、今回言っておきたい事は、今後の身のふり方に関する私の根拠なき期待と自信というのは、甘い汁を吸っていい生活をしてきた政治家等が、又以前のように右肩上がりと言われる経済(私はこの先、もう世界中でそんな時は来ないと思っている)を考える期待や自信ではない。私を含め、長い過酷な歴史を経て生き残った人間とは、そんなにヤワな生き物ではないだろうという事である。この日本において、今より生活レベルが落ちたところで大した事ではない。特に日頃からいい生活をしていない私にとっては(ただし我家の実権を握っている我妻がこの考えに同意するか、保障の限りではない)、逆に日頃いい生活をしている人にとっては大変だろうけれど、それは仕方のない事である。
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前記したように、長い過酷な歴史を経て生き残ってきた人間の、もう一つ大切なもの。それは(なんとなく危ないぞ)という危険を察知する能力である(人間以外の動物もみんな持っていて、それ故に現在を生き延びている)。
バブルの時代、銀行と地上げ屋がケッタクして、ある年よりの住宅を取り壊しているシーンがテレビのニュースで放映されていた。その時、その住人(オバアサン)が、「こんな事をしていたら、今に(将来)日本はダメになる」といっていた言葉を、今も覚えている。これこそ(この人こそ)、危険を察知する能力を持った人達だったのである。金銭欲や権力欲に目がくらんだ人間は、危険を察知する能力を失ってしまっていた。ただそれは過去の事で、その当時の人達が表舞台から退いてしまったというなら、少々期待もできようが、仕組だけを変え(構造改革)意識を変えなければ、また以前と同じ失敗をくり返しそうだ。
私の大学時代の恩師が、戦争中(当時中学生)に、軍国主義をとなえていた人達が終戦と同時に民主主義をとなえだしたが、そんな人間は信用できなかったと言っておられた。私にも、同じような経験がある。大学紛争の頃の事。当時も今と同じで、大学へ入る事だけ(それだけに価値を置いて)貴重な青春を犠牲にしてきた(私も同じ用なもの)のに、大学生になるや「大学解体」「大学改革」と、「本気かいな」と思いきや、案の定、数年後には大部分がもとのさやに収まってしまった。
その当時(三〇年ほど前)の学生が、今の日本の指導的立場にいて、今また「日本の改革」と言い出した。ただ三〇年経って少々お互い利口になり、「日本解体」とは言わない(そんな事を言ったら、自分達の今の生活が危うくなるから)。
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人間も他の動物も、危険を察知する能力は、危険な目に遭って研ぎ澄まされていくものである。私の仕事場(養魚場)の魚を見ていればそれがよくわかる。日頃、何の疑いもなくエサを蒔いた所に集まる魚に、ある日、そこに網を入れれば一網打尽となる。ただ中に、その集団から少し遅れて(距離を置いて)いる魚が生き残れる。気をつけよう、甘い言葉と根拠なき期待と自信。

      夏が来た と言うがごとくに セミしぐれ
      セミしぐれ 咎めてみたし 過疎の村
      手のヒラで 光りしホタルに しばし動けず


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