河崎 徹
第二回 「蜃気楼のような人生」

ゴールデンウィーク(黄金週間)。何の事かはよくわからないが、私の所(山菜川魚料理。ただしひまな時だけ。)にとっては、冬が過ぎ、陽気にさそわれて里山に出かけてきた人から、黄金(現金)がいただけるありがたい時期である。
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道路わきの水槽の中の魚(イワナ・ヤマメ)を見て、
客 「この魚、おいしいですか」
私 「魚を売っているのに、マズイとは言わないでしょう」
客 「ヤマメとイワナのどちらがおいしいですか」
私 「食べ物はそれぞれ人によって好みがあり、どちらとも言えない」
と、こんな主人の対応(いやな性格でいつも直さなければと思っているが)にもめげず、この時期のかわべ(私の店)は結構いそがしいのである。
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休みの前半(四〜五日まで)は、それなりの覚悟があり、次第にふくらんでいくサイフの存在感に満足し(いつもはポケットのどこに入っているのかもわからない)、ゴールデンウィークが終ったらゆっくり遊べるという期待感とで、余計な事を考えずにガンバル事ができる。お金がもうかる、それだけでいいのだ。客が帰った後に、「さて、家のどこに隠しておこうか」とお金の隠し場所を考えるのもわずらわしいが(私は余分なお金を銀行には預けない。しかし、時々隠した場所を忘れる事がある。)まず、家のどこかに当座のお金がある、という安心感が持てる。
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ところが、連休もあと残り一日か二日ぐらいになると、毎年決まって、「働く意欲」が急激に衰えていくのが自分でもわかるようになる。その揚句が、「自分にはこの仕事が向いていない」と思えてくる。「お前の忙しいという程度は、普通の飲食店なら毎日の事」という的確な指摘には、私自身も十分わかっているつもりである。ならば、「世の中の人は働き過ぎなのか。私が働かなさすぎるのか。」
ここ(仕事場)に来て、もう三十年近くになるが、来た当初から延々と続いているテーマなのである。
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もう十年近く前になると思うが、やはり、ゴールデンウィークの最後の日に働く意欲がなく、前々から行ってみたいと思っていた富山の魚津へ、蜃気楼を見に行ってしまった。
結局、その時は蜃気楼は見る事ができなかった(翌日の新聞には、私が帰った後に蜃気楼が出た、という記事が載っていた)。
それでも一日のんびりできたという思いで帰ってきた。蜃気楼とはそういうものだろう。ただ、周囲からは「そんなものは別の日に行けばいい。だいたいお前の人生そのものが蜃気楼のようなもの。」と言われ、我妻からは「もう働かなくてもいいほど収入があったの」と皮肉を言われ、散々な目に合った。どうも私には、一週間(七日間)、丸々働くというバイオリズムが未完成のまま、今日まで来てしまったようだ。
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遠くない将来に、私の遺伝子がすべて解読されたら「あなたの勤労意欲は四〜五日が限界」とはっきりわかり、大手を振って休めるかもしれない。いや、世の中そんなに甘くない。そうわかったら、今の競争社会に不適格(役立たず)と抹殺されるかもしれない。今の私は社会で勤勉でないと言われつづけて、それでも今日までやって(生きて)来れたし、これからだって、あまり変わりないように思う。ただ我家の子供を含め、今の子供たちの忙しさが、はたして長い歴史を重ねて現在にいたっている人間の本当の姿であるのだろうか。
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現在の環境、生活パターンなるものは、たかだか百年前ぐらいにできたものである。人類誕生の数百万年前から、今より百年前までの長い歴史の中でつくられてきた環境、生活パターンこそ、現代人間のもって生まれたものである(もちろん人間は少々の変化に対応できる)。それが、たかだか百年間では、急に変われないであろう。
知人から聞いた話だが、私と同年輩で大学時代に優秀(?)で、五十才そこそこでめでたく会社の重役となり、今までの通勤電車に代わって、会社の車が送迎してくれるようになり、時間的にムダがなくなったという。その代わり仕事も多くなり、夜の接待とかで帰宅も遅く、外食、美食が重なり、そのうち高血圧で倒れ、長期入院しているという事である。
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私にとっては、うらやましい(倒れるまでは)気もするが、考えてみれば、そうなるべくしてなったように思う。彼は、金もうけの事はよく知っていたが、人間というものをよく知らなかったようだ。まず第一に、人間は百年前までは毎日せっせと歩いていた。第二に、人間は百年前には明るいうちに働き、暗くなったら寝る暮らしだった。どちらも当たり前だ。今でもそういう体の造りになっている。(私はそれを無視して、毎日のように夜釣りをする。それ故に、次の日の午前中は働く意欲がない)。
遊びならまだしも(百年前でも夜遊びはしただろう)、働くとはもっての他である。一日8時間、週に5日間労働というのは、この辺のことを踏まえてできたもので、これを越えないという事だろう。さらに、彼にとって悪いのは、歩かない(運動しない)上に、飽食、美食の毎日である。
百年前まで人間は何を食っていたか考えれば、今の飽食、美食がいかに人間本来の姿からかけ離れているかわかる。百年前までの人間はいつも飢えと戦ってきた。だから、少々の飢えには耐えられる体の造りになってはいるが、逆に、人類の歴史の中で飽食など経験していないから、飽食すればどこかおかしくなるだろう。
この様に、歩かず(運動せず)、8時間以上も働き、その代わり飽食、美食をする。これは、本来の人間の体に合ったものとは言えない。さらに言えば、健康な肉体には、健全な精神が宿る、と考えれば、お金は宿るかもしれないが、健全な精神はむつかしい。
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大人の社会がこのようであるから、当然子供の環境あるいは生活パターンも、本来の姿(数百万年から百年前までに築かれた姿)とは、かけ離れたものでしかない。歩かない(運動不足の)子供。子供として適当と決められた学習時間を無視して勉強させる親、教師。そして精神的には小さい頃から競争々々により、勉強の成績さえよければ親、教師の評価が上がり、それがやがて社会(経済優先)に勝ち残れると親も子供も思っている。
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とかくいじめのある度に、「協調性を持ち、感性豊かな子供達を育てなければいけない」と、エライ人達は言うが、本来子供は子供同志で一緒に遊ぶものであり、協調性や感性も持っているはずである。私の仕事場も里山にあるせいで、子供達(たぶん中高生)がよく訪れる。(オリエンテーリング)。私が見る限り、「やれと言われるからやっている」としか思われない。「子供達に自然の興味を持たせて、豊かな感性を育てる」という事だろうが、子供達は本来、自然に興味を持っているものであり、「今頃の子供は外で子供同志で遊ばない」というけれど、子供は本来、みんなと遊びたいものである。その本来持っているものを逆に出さないようにしているのが今の環境、今の生活パターンなのである。子供達が外出する時「車に気をつけて」(私も言ってきたが)、こんな一言だって、周囲の草花などに目を向けずに、ひたすら自動車に気をつけろ、という事である。ゆったりとした気分で、自分の目で見た新しい出会いに感動するより、親が教師が喜ぶような答えのわかっている(クイズのような早い者が勝ち)という知識にこそ価値を置く。自動車にも注意をし、周囲の自然にも興味を持ち、みんなと協調性を持ち、競争(テスト)にも勝つ。そんな芸当は大人だってできやしない。
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いつもヒマそうにしている私だって、仕事の忙しい時には周囲の自然など目に入らない。得意(?)の俳句も浮かばない。あの大戦が終った後によく言われた「国破れて山河あり」という言葉がある。戦争中には誰れもが周囲の風景など見る余裕がなかったという事だろう。受験戦争に勝ち抜き、企業戦士として昼夜を問わず社会の最前線で戦っていく。私の青春時代の働く人の標語のような文句が、三十年経った今も生きている(近頃では不景気だから、余計そのように言われるのかも)。数百万年という長い歴史をかけて現在に至ったこの人類というものが、どうゆうものか考えてみる時期に来ていると思うが。
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今年のゴールデンウィークがやっと終ったと思ったら、我妻が「一緒に蜃気楼を見に行きたい」と言い出した。現実離れした人生は、我家では私一人で十分なのに、この先心配な事である。

      釣れてよし 釣れずともよし 春の海
      落つるとも 今美しきかな やぶ椿
      誰(た)がために 可憐さ競うのか 野の花は
                                             

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