河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第十一回 「ちょっとした話しで大風呂敷」

どこか(外国)の学者が「きたない(非衛生)場所で育った子供にアトピー(アレルギー)は少ない」と、そう言えば私の子供の頃には簡単に言ってしまえば周囲(環境)も人間(私)もきたなかった。学生服は一週間着っぱなしで、ソデはドロや鼻水で光っていた。それでいて、私も周囲の子供もアトピー(アレルギー)は今ほどではなかったように思う。それに比べ、日本のこの頃のガキ(子供)は小ぎれいである。さらに洗剤メーカーが「食事の前に必ず消毒液で手を洗うのは今や常識、子供の手はバイキンでいっぱい」とコマーシャルを流すテレビの前で「このメーカーは何を考えているんじゃ」と、文句を言っても聞こえるはずのない相手に向ってブツブツ言っている。(少しアブナイかも)
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コマーシャルといえば、美容、整形に関するもののなんと多い事か。それも外見(顔とスタイル)だけである。つやつやの肌(顔)、そしていかにして痩せられるか、である。しかし、その美しい(?)顔もよく見れば(顕微鏡で)、ダニの巣であり、そのダニがゴミやホコリを食ってくれている(ダニと共存)。無理に痩せた体は、内臓がどうなっているかあまり関心はない。人間というものは、長い歴史の中でこのきたない(非衛生)、そして危険な環境と戦い、あるいは共存してきた結果が現在の肉体である(適応)。だから少々の「きたない」は問題ではない(私の店のきたない弁明をしている訳ではない)。人体に害があるといわれている回虫でさえ、回虫を持っている(体内にいる)人は花粉症にならないと言われている。こういう事が前記したように人間が歴史の中で獲得した「適応」であり、これはたかだか五十年や百年(数世代)でそう簡単に変わるものではなかろう(遺伝)。
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痩せたければ適当な運動をすればいい、それも生活のための、それでも痩せなければ仕方のない事である。人類は食べ物を求めて歩き(運動)、より多くの食べ物を求める場合は、さらに歩き(運動する)、(故に私は毎日のように釣りに行く ― 少々理論にムリがあるか)、食べ物が手に入らなければガマンせざるを得なかっただろう。それ故歩く(運動する)という事と食べるという事はつながっており、また少々の空腹こそが日常であったであろう。現代、人は一日数万歩を歩くべし、食事のカロリーを減らすべし等々は、みな「それが人間なのだ」という事に基くからである。
現代の日本では自動車に乗り(私もそうだが)歩くこと(運動)の少ない生活、さらにあり余る食料、そこからの弊害を医療、薬で調節しようとする。こういう人間を無視して成り立っている環境、社会の仕組にも人間はやはり適応できるのでは、とやってきたが、もはやここに来て、個々の人間の限界に近付き、やがて社会そのものが崩壊してしまいそうに思える。(せめて私の子供達の世代まで持ちこたえて欲しいものである)。
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最後にさらに大風呂敷を広げて言うならば二十一世紀は数百万年かけて環境に「適応」してきた人間とは肉体的にも精神的にもいかなる生き物なのか(五十年や百年 ― 数世代では変らない)、それを基準にした生き方、そしてそれに合った環境、社会を変える時ではないだろうか。

追記
(言うが易し、行うは難し)、人間の弱点、一度楽をしたらそれを手放したくない。私のようにほとんど失うもののない人間ならいいが、必死になって現在の地位(財産)を手に入れた人には現状を変えたくないだろう。
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