河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第二十回 「読書感想文(読書お世辞文)らしきもの」

電話のやりとり。私「勝井出たか」、彼「まだです」。数日後。私「もう出たか」、彼「もう少しで出る」。さらに数日後、彼「出ました。全部じゃないけど」、私「そうか。やっと出たか」。
龜鳴屋3冊目(実際は4冊目)『幻の猫』がようやく日の目を見た。年間ほぼ1冊のペース、しかも5百部程度限定、第一作目が藤澤清造の『貧困小説集』、貧乏作家のくらい話。第二作目がエタイの知れない(本人の写真もない)人物で、谷崎のにせものでマスコミを騒がせた作家倉田啓明の『稚兒殺し』(旧かなづかい)。「どうせ本をつくるなら、もっと大衆受けする様な表題にすれば」という周囲の忠告を聞くような男(出版主 勝井隆則)ではない。

ただ今回の「幻の猫」は、本人が私に向かって「あんたにも読める本ができた」(どういう意味だろう)と言ったように、前二冊よりは確かに「私にも読める」本であった。でも前二冊と同様「もうすぐ出る」といいながら、お金もないのに作者から送られてきた本人の写真が気に入らないと言って、カメラマン(小幡英典さん)とわざわざ作者の所(埼玉)まで出かけて行くやら、いい猫の写真を手に入れるため武田花の版権を買ったり(かなり安くしてもらったとの事)、製本を今時めったにお目にかからないフランス装本にしたりで、できあがった本をなめ回している所などは私に言わせれば「ほとんど病気」である(ただし彼は便秘ではない)。それ故、病気の人はみんなで助け合わなければいけない(私の周囲には、この適応障害(高貴な人しかかからない)の人が沢山いる)。

そう思って前二冊は買ったものの、実はほとんど読まなかった(読めなかった)。「今日こそは読もう」と夜床について、確か二、三ページ読んだつもりなのに次の日の夜読もうとページを開いてもどこまで読んだのかハッキリしない。そのうち読もうとする気力が眠たいという無気力に負けてしまい、結局「堅いマクラ」となってしまった。若い頃はそうでなかった。夜中まで起きて官能小説(通称エロ本)を読んでいると「明日があるから」と思っていてもだんだん目が冴えてきたものだったのに。それに比べ、確かに彼(勝井君)が言うように今回は読みやすかった。

さっそく彼に会って、「今回はさらっと読めた」と自慢げに言うと、彼は待ってましたと「そうか。じゃ、感想文を書いてくれ」ときた。「しまった。言わなければよかった」と思ったがもう遅い。私も屈折した文章(他人がそう言っている)を書いている手前、やはり「アンタの文章を読んだ」という人には(おもしろい、おもしろくないのどちらでもいい)感想を言ってもらうのはうれしいから、「いや」とは言えなかった。
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ところで私には読書感想文というものがどう書いていいのかわからない。もう古い話で中学生だったか、高校生だったのか定かでないが、川端康成の小説『雪国』の感想文(だったと思う)を授業中に書く事になり、「長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった」という有名な出だしの一節をまず「こんな文章は雪国に住んでいる人間にはおもしろくもなんともない」というような事を書いたら、教師(たぶん雪国のファンか川端康成のファン)に烈火のごとく「お前は何様のつもりだ(有名な作家に対して失礼)」としかられた記憶があるぐらいである。今にして思えば読書感想文とは読んで「おもしろい」と言っても「おもしろくない」とは言わないものらしい。丁度、テレビの料理番組で「この料理はうまい」と言っても「この料理はまずい」とは、まず言わない(言ってはいけない)のと同じようなものらしい。

そういう風に考えると、学生時代に読書感想文は書いただろうけれど、自分の意識に残っていないのは、それはたぶん、本心を書かなかった=お世辞文だったからだと思う。この際だから、自分(私)の国語力(?)のなさを棚に上げて、学生の頃授業で読書感想文を書きたくなかったもの=私にとっておもしろいと思わなかった作品を今思い出すと、まず宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず…」である。この詩のくだりは、小学校へ入るなりから、この詩を読む前から、そして大学へ入ってからも、教室のどこかに研究室のどこかに学生の目につく所にしっかりと鎮座ましていた。それは、私のような勉強ぎらいな学生に「もっと努力しろ」(賢治の意図とはちがうかも)として、いつも学生達(自分)の上に覆い被さっていた。そのせいか、私にはいつの頃からか「ガンバル人はガンバッテください。私にだって負けたくない事(奴)は沢山ある(いる)けど、雨や風ぐらいには負けてもいいだろうが」と開き直って教室に掲げられていた「雨にも負けず、風にも負けず」を無視していた。

それから次にきらいだったのは、当時(私の学生時代)若者に人気があった太宰治、作品はまったく読んでいなかったが、作品を読む前に「太宰治は何度も若い女性と心中を図るが、いつも自分だけが生き残った」というのを知って、若かった私は「ケシカラン(今ならうらやましい)。死ぬなら、テメエ一人で死ね。こんな作家の文章なんか読みたくない(実は今も読んでいない)」と大見得を切って、授業での感想文は書かなかった様に思う。

それでも学校では試験は付き物で、特に大学受験(一浪)では、読みたくないものは読まないなどというカッコのイイ事は言っていられなかった。1960年〜1970年その当時は有名な作家が、戦争と言う状況の中で「何をしてきたか。何を言ってきたか」が自然と私達若者の耳に入ってきた。戦争中にあやしげな事を言っていた人間の文章を「押えて、押えて」と自分に言い聞かせて(冷静になって)読んで、人並みの受験のための読書感想文(お世辞文)を書いていたはず。ただし、その後(大学入学後)は本も読みたくなくなり現在に到っている。
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私の読書ぎらいを、いつもの様に他人(国語、教育制度)のせいにしてこの文章を書いているけれど、勝井君(龜鳴屋)のホームページに読書感想文を私に書いてくれというのは、「私にとって読書感想文とは何ぞや」などというのはどうでもいい事で、勝井君の奥さんが言う様に、「少しは将来のことを考えてよ(私も言われている)。こんなに家中、本だらけでどうするの」に答えるために(本が売れる様に)書く事だ、と気が付いた。十万部、百万部も売れる本なら、又少々悪口を書いてもこたえない大きな出版社なら、よろこんで悪口を書けるが、ただでさえ売れない本に追い討ちをかける様な事はしてはいけない。ましてや、ほとんど病気の彼は自業自得で仕方がないが、自分の仕事を持ちながら彼の仕事を手伝っている奥さんに「私の感想文のために、さらに本が売れなくなった」では申し訳ない。
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そこで、本題の『幻の猫』(伊藤人誉著)を読んでの感想文。
私の様な年代(親が戦争体験者。そして大学紛争時代に多感な青春を送った)の者にとって、当時は本を読むという事は、単におもしろい(文章がうまい)だけでなく、その中に書かれている事に自分(私)の将来(現在も含め)の生き方のヒントを得ようとし、その事が同時に人間社会のあるべき姿を暗示するものと思って読んでいた。司馬遼太郎の若者の血を湧き立たせる様な文章を必死に読んだし、かたや戦争体験者の「こんな事(戦争)は二度とあってはいけない」という必死の訴えの文章も読んだ。ただ前記した様に、ここ二十年、いや三十年ほどかもしれないが、感動するような本を読んでいない。年を取った。時代の変化についていけない。それはその通りで、黙って一人で魚でも釣っていればいいのかもしれない。そして若い人達が「これからは、自分達の輝く未来を語ればいい」。だが、現実は明るい未来を語る人はほとんどいない。聞こえてくるのは、相変わらず戦争の不安、環境破壊への不安、経済の不況等々、暗い話ばかりである。「もう面倒なことから目をそむけ、自分の好きな事だけやっていたい(他人の事などどうでもいい)。日本(世界)の将来などどうでもいい」という考えもある。ただ極くわずかであるが、頭の片隅に自分の子供達の将来を含めて、今の社会(日本、世界)は、この先「どうなるだろうか」という危惧がついて回る。司馬遼太郎の小説などに見られる「外国から遅れた日本を改革するため立ち上がった維新の若者の情熱、諸外国のすぐれた所を必死に取り入れようとした情熱、そんな日本の手本となるべきもの(制度)は、今やどこにもない。あれだけ戦争の悲劇が語られてきたのに、一向になくならない戦争の恐怖、あるいは環境破壊、不況による貧富の拡大…。これらは私に言わせれば人類がまだ「進化の途上=不完全」であるという事だと思う。ただこの様に定義しても何の意味もない。完全(?)になれるものでもないし、不完全なものを抹殺せよ、となれば当然、私もその一員に該当するだろう。それでも、今現在の人間が進化の過程で、どういうものであるのかを分析する必要があり、その上で何ができるのか考える事は大切であると思う。人間を観察し、(人間の不完全さ)それを問い続けてきたのが作家であると私は思う。スーパーマンを登場させて悪を退治する。あるいは魔法を使って人をよろこばす。アニメ、パソコンゲームで架空の世界で子供達を虜にする。どれも私はきらいだ(お前には夢がないと他人(ヒト)に言われる)。人間以外で人間と同じくらいの歴史があり、又長い付き合いの多くの生物には、まだまだ知らない(あるいは生きていくヒントとなる)事が沢山ある。今人間共、あるいは、人間以外の自然の生き物ともしっかり向き合う、そんな作家が私は好きである。

今回の『幻の猫』は人間の不完全さ、あるいは人間と最も関わりのある猫の不思議さ等々は、私の今人間は何をなすべきか、に合致していて興味深く読ませてもらいました。私のように大上段に振りかぶって(大風呂敷を広げて)「人類の危機」を訴えるより何十年も前からその事を悟り、又売れても売れなくても(勝井君の奥さん=それでは困る)、人間とは何ぞや、を追求する二人の方がはるかに説得力があるように思えてきた。
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後記
『幻の猫』の本が「売れますように」のつもりで書き出したが、他人をケナス文章は少々自信があったのだが、どうもほめる文章はうまく書けない。これでは(この感想文)、逆効果の様で、「勝井スマナイ!」。


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