河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第二十三回 「ほめられてはみたけれど」

誰れ(作家)かが、どこ(雑誌)かで、散文などを書く人間は性格が悪くないと文章はおもしろくない、と言っている。
私は若い頃から「ヒネクレ者」と言われていたし、さらに今は低所得、加えて社会的地位が低い、と来たら三拍子そろっている(後の二つは私が勝手に決めた)。そうなると誰かに私の文章が読まれようが読まれまいが、そんな事はどうでもよく、自分では「おもしろいはず」と思って気晴らしに書いている。そうは言うものの(期待していないものの)、前回のように突然誰かに「お前の文章を読んだ」と言われれば、それだけで何となくうれしい気分になれる。ところで、こういう「ヒネクレ」た性格の人間にとっての最大の欠点は「ほめられる事に慣れていない」という点である。「読んで、さらにおもしろかった」などと言われた事が今まで何度あっただろうか。

その一
小学生の3、4年生の頃だっただろうか。大学時代も含めて何度か学校ぎらいになったが、その「はしり」の頃だったと思う。丁度「学校は遊びに来る所ではない。勉強する所だ。」といわれる様な学年だったと思う。そんな時期、作文の宿題があり題があったかどうか覚えていないが、「自分の一日の生活を有りのままに書く」という設定だったと思う。私の文章は「朝起きて、顔を洗って、食事して、学校へ…」と淡々とした流れで、有りのままを書いたつもりだった。学校へ提出した後、それぞれの作文が教室のどこかに張り出され、授業でその作文の評価がされる段階で私の作文が取り上げられた。その時、取り上げられた=内容が良かった、と勘違いした私は一瞬「ヤッタ」と思ったが、実は悪い例だった。教師が私に向かって「そこで(淡々とした一日で)何か感じたものがあるだろう。それは何か」と問うた。一斉にみんなの視線が自分に集まり、思わぬ展開(褒められると思っていたのに)一瞬立ちすくみ、何も言えず沈黙が続き、もう泣きたくなった寸前、思わず叫んでしまった。「こんな生活いやや」。と、教室中大爆笑となり、教師も私に向かって「それでいい、その一言を入れればそれでよし」と妙に自分(教師)が納得していたのを覚えている。私には何が何だかわからなかったが、その日一日、気分がよかった。

その二
大学へ入って二、三年の頃だっただろうか。長年、密かに思いを寄せていた女性に勇気を出して手紙を出した。そうしたら返事が来て「あなたの文章は大変おもしろく、また為になります」と。すっかり調子に乗った私は、「ヨッシャ、次はラブレターだ」と、さっそく徹夜で文章を書き上げ彼女に送った。ただそのついでに、私の釣りの師匠(鮎釣り)で東北の開業医(故人)に出す手紙もいっしょに書いて出した。その医者というのは剣道の師範で、自分の道場を持ち、学生時代は御前試合に出たという人で、釣りの師であると同時に、私に対してはいつも「男子たる者は…」と説教する(してくれる)人でもあった。手紙を出してしばらくして彼女から電話があり「あなたから変な手紙が来たけれど、出す相手を間違えたのでは」と。一瞬にして頭の中が真白になった。という事は、あの質実剛健を旨とする医者に軟弱なラブレターを送ってしまった事にもなったのである。その後の事は一切記憶にない。まあ、人間(私)は恥ずかしい事は忘れられるから生きていけるのかもしれない。

その三
全国中、大学紛争がはげしかった当時、私の指導教官(金沢大学理学部)が行方不明になり、当然私も連日捜索に加わった。結局「自殺」という結果になってしまった。その教官から直接指導を受けていた学生はたぶん私一人だったので、その後の通夜、葬儀とすべてにかり出された。葬儀は微妙な時期(紛争時)でもあり大学葬という事になり、私も弔辞を読まされるはめになった。葬儀までの時間もなく、大学の事務の人から弔辞の見本を渡され、同時に「勝手な事を書かないように」とクギをさされた。それを読んですぐゴミ箱に捨ててしまった。捨てた以上自分で書かなければならない。夜おそく自宅に帰って、「今夜も徹夜(前日も通夜で徹夜)」と覚悟を決めて、自分で文章を考え、出来上がったのは翌日の三、四時頃だったと思う。そのまま机に伏して寝てしまった。朝、目が覚めたら、そこにあったはずの弔辞がない。咄嗟に母親に「知らないか」と聞くと「字がきたないから書き直した」と。だが、それを読むと字だけでない。「なんで内容まで直した」、母親いわく「失礼にあたる箇所も直した」と。どうも私が弔辞を自分で書いていた時から不安に思っていて、私の寝たスキに勝手に直して清書したらしい。もう母親とケンカしている時間もない。その「失礼にあたる」所などに赤線を引き、自分の言葉に直して「余計な事をするな」と捨て台詞を残して葬儀場へ向かった。弔辞を読むのは学長、学部長、学生代表(私)の順で、最前列に三人並んで座った。エライ人達(学長、学部長)はその番が来ると、懐から大きな封筒を取り出し、巻紙風の弔辞を場慣れした風で、時々涙ももらして読んでいた。私といえば緊張はするし、安物の封筒の中に確か便箋だったと思う。しかも自分で直前に直した所には赤線が引いてあり、よく内容を確かめるヒマがなかった弔辞である。さらに悪い事に、弔辞を読む位置は葬儀参列者から丸見えであった。私の番になり、立ち上がって霊前に立つと、後ろの人のヒソヒソ話しが聞こえるくらい近かった。後ろの人間に赤線の入ったグチャグチャな弔辞文だけは見られたくない、まるで弁慶の勧進帳であった。自分の番が終わるとすぐポケットにしまい込み、人目のない所で捨てるつもりでいた。多くの参列者と一緒に式場を出ようと出口のところまで来ると、そこに遺族の方(奥さんと娘さん)がいて、「あなたの弔辞が一番よかった。ぜひ私共にください」と言われ、「とても他人に見せられるものでない」としどろもどろになりながら断ったが、「どうしても」と言われ、「それでは明日までに清書してお宅に持っていきます」と言って、その場を逃げるようにして学校へ戻った。夜、誰れもいない研究室でその弔辞を清書し終えたのは、もう翌日になっていた。捜索も含め、もう何日もまともに寝ていなかったので、書き終えると体が限界に達していたのか、突然気分が悪くなり、トイレに駆け込んだ。何度ももどし、立ち上がるとまたもどしそうになる。トイレでじっとかがみ込んでいると、そのうち、なんだか無性に腹が立ってきた。「なんで自分のやる事がこうもうまくいかないのだろう」と。そこでポケットにあったペンかエンピツで、目の前の白いキャンバス(カベ)にその思いをぶちまけて落書した。
翌日になって、私の寝ている所(家ではよく親とケンカしていたので、大学の実験室=動物飼育室に寝泊りしていた)に同級生だったかが入ってきて、「今、部屋を出ないほうがいい」「何があった(この時落書の事はもう忘れていたし、それが騒ぎになるとは思っていなかった)」「トイレの前に多くの学生、教官が集まっている」と。「食中毒でも出たか」「落書したのはお前やろ。学部中で大騒ぎになって教授達がお前を捜しとる」「別に隠れることもないやろう。どうせこんな大学、もうやめようと思っている。それよりみんなの読んだ感想は?」「名文やという評判。ただ大学生にしては字がきたない、漢字が少ない」と。先日、私も投稿している同人誌に私のいた大学(金沢大学理学部生物学科)闘争の始まりが、私のこのトイレの落書であったという文章があり、しかも三〇年ほど前の私の落書を写しとって記録に残してあった。その文章を読んでみたが、そんなに過激でもないし、名文というほどのものでもなかった。ただこれ(落書)をいかなるスタイルでトイレで書いていたのかと思うと、当時の私の足腰がバツグンに強かった様だ。

さて、かように私の文章は「おもしろい」といわれても、どことなく素直によろこべない事が多かった。それでも今回ですぺら(絶望−名称がイカン)のご主人が読んでくれたのを感謝して、次はホープ(希望)などという女性からコンピュータの操作ミスかなんかで「読んでしまいました」と来るのを期待しようか。

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