河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第二十七回 「賢者と愚者」

“賢者は歴史に学び、愚者は自分の経験にたよる”、昔歴史の時間に自分が賢者と思っている教師から聞いた覚えがある言葉である。これによると、自分のわずかな経験でエラソウな事を言っている今の私などは、愚者の類いであろう。だが、今の世の中で起っていること(戦争等)をつらつらながめるにつけ、本当の所は、人間も人間以外の動物と同様、「己の経験」が物を言う、その程度の存在に思えてくる。それとも、私と同程度の愚者が世界を動かしているのだろうか。

さて、その歴史だが、今まさに問題となっている「高校の歴史の未履修問題」を聞くにつけ、歴史なんか不要と教育者も学生も思っているらしい(もっとも歴史の授業がそれほど何かの役に立つとは思われないが)。それにつけても、「歴史が不要」と言われて、歴史学者から「けしからん」という声もなければ、授業する気もないのに教科書を買わされた(立派な詐欺罪)学生からも何の文句も出ない。すべては受験という大事の前の小事なのだろうか。
日本は六〇年ほど前、とんでもない戦争で大きな犠牲を払った。それはあまりにも世界(他国)の事(歴史、地理)を知らなかったからだという反省はないのだろうか。又、現在の国連関係者(女性)が、若者の「今、英語の勉強をして将来国連で働きたい。そのために何が必要か」との問いに、こう答えている。「英語力はそれほど重要ではない。今の日本の若者に欠けているのは世界の事(歴史等)を知り、そこから自分の考えをしっかり持つ事である」、と。

結局、今回の件は、単につじつま合わせのため(受験用)に毎日六限の所を七限まで延ばして解決するそうな。やってもやらなくてもいいという気持で遅くまで勉強させられて、身に付くものはあるまい。人生で最も多感な時期に受験だけに時を費やして文句が出ないのだろうか。どうせなら将来私の様な出世しない人間にはあまり必要のない英語や数学の時間を減らして、その時間を歴史にあてればいいと思う。
今回の件で、私は受験用の歴史の授業が必要か、必要でないかと言っているのではない。「歴史の授業が必要」、「いや役に立たない」、「遊ぶ時間がなくなるのはいやだ」、「デートする時間がなくなる」等の当事者の百人いれば百人の考え方があるはずなのに、すべて「受験のため」という話ししか聞こえてこないのがおかしいと思う。又その受験(大学入試)とは何なのか、という話しも出て来ない。そんなに受験(学歴とは人生において絶対的なものなのか。

三十数年前、全国に吹き荒れた大学紛争(大学改革、大学解体等)、あの当時の事を私の投稿している同人誌に「お前も何か書け」と言われ、「大学・社会、今現在あの当時と何も変っていない。それなのにあの当時の事をウンヌンする事にどれだけの意味があるのか」と書いたら、「簡単に済まさず、ちゃんと書け」と言われ、少しはその気になって、あくまでも私の見解として「あの当時の大学紛争、それは引かれたレール(出世)に乗っていた(乗っていると思っていた)多くの学生が、何かの拍子(一時の知識)でレールからはずれ、その重大さに気が付き、またもとのレールに戻った。
私といえば(その当時もうレールからはずれていた)、彼らと一時的にせよ、いい思い(私の意見も取り上げられた)、だが、当時からの私の予想(子供の頃から身についているエリート意識が簡単になくなるものなのか)通り長続きしなかった。結局、大学、世の中何も変らず現在に到った。そしてレールに戻れぬままの私がいた」。私のあの当時の総括は、たったの数行で終わってしまって、あとの筆が続かなかった。もっとちゃんとした総括が必要なのかもしれない。ただ、佐高信が「あの紛争は理想が現実に負けた」と言っているが、そんなカッコのいいものではなかっただろう。理想(知識)が意識(子供の頃からのエリート意識)に負けたという事だろう。

私がここ(里山)で仕事を始めて、今までに何人かの問題児(大学生も)とかかわった事がある。彼らのつまづき(転機)の背後には、必ずといっていいほど受験があった。いや、彼らというより、やはり若い時受験を経験してきたその親達の「学歴がなければダメだ」という執拗な価値観があった。もう、受験(学歴)のレールから降りるより仕方がない、という状態にまで追い込まれていても、親は頭でそれがわかっていても(もっと他の人生があるとわかっていても)なかなか納得できないでいた。
「己の経験」外の事に踏み出せないのは、むしろ親の方で、しかも親の学歴が高いほどやっかいだった。数十年も前から、高学歴こそが幸福に通ずるという考えが、子供の頃から頭に叩き込まれている。それが、今の子供達のいじめ、ニートなどの背後にひそんでいると私は思っている。どうも人間は、「己の経験」でやはり生きようとする生き物のようである。そして、私のような年令になると、そこから逆算して、都合のよい過去をつくっていく。誰れもが自分の一生はムダではなかったと思いたいから。歴史に学ぶ、己の経験に頼る、賢者か愚者か、そんな事はどちらでもいい。経験も歴史の一部である。歴史を鵜呑み(誰れが国を統一したかなどは大した問題ではない。そんなのは今のフセインと大差はない)にし、又、受験に勝ち残る(競争社会に勝ち残る)事が幸福に通じると、子供の頃から身につけた大人の支配する今の日本社会、大切なのは歴史に自分は何を学ぶのか(学ばないのか)、この社会で身につけた経験がそれでよかったのか(悪かったのか)をいつも自問自答する事だと思う。

エラソウな事を言っている私だが、やはり競争社会のレールに乗る事が第一だと思っていた。それが、自分の子供がいじめに会ったり、ニートの様な生活をしているのを見た時、子供というのは本当は社会の中でどうあるべきなのか考えさせられたし、又自分自身、少々のやさしさも身につけられた。さらに、今の社会で人が働く、という事の意味も考えさせられた。そういう意味では、自分自身を見つめ直すヒントが多少ある時代でもある。
現代は、誰れもが「どこかがおかしい」と思っている日本社会、そこで育った大人(私)、そして子供達、「それに無関係で、私は立派に生きています」という人間はいないだろう。この日本を改革して、美しい日本、愛国心を持った子供を教育する(教育基本法を改正)とか、優秀な学生や先生の学校にするとか、やる気のある人が報われる社会とか、心地よいだけで、何の意味もない言葉が支配者の口から飛び交っている。それでも現実は、私の家庭と同じで、「何とかしなければいけない」状態であろう。

これから以後の日本の歴史をつくり上げていくのに、又、個人(私)の歴史を考える上でも「人間とは何か(古くて新しい課題)―進化してきた生物として」を考え、子供とは、老人とは…人間の体とはを考える事が必要なのだろう。その事を無視してはどこかに無理が生じてくる、人間はロボットではないのだから。

追記
さっさと書き上げるつもりが、余分な考えがまとまらなくなり(年のせい)、結局まとまりのない文章になってしまった。その事はどうでもいいが、おかげで私の一番大切な仕事(唯一、我が家での存在価値)、夕食をつくる時間に遅れてしまった。こんな事をしていていいのだろうか(自問自答)。
前回、私の俳句造りはそんな簡単な事ではない、とカッコ付けてみたけれど、やってみると案外簡単だったので、できたものを載せてみました。

 齢食えば 見馴れた秋も又よしと
 刈った田に バアチャン一人と赤トンボ
 野菊折り 名知らぬ 墓に添えてみる
 千年も 同じかと思う 秋の暮れ
 見上げれば 耳鳴りだけ 秋の空
 秋だけは 孤独もよしと 一人ごと
 何時からか 秋の花が 好きになり

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