河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第二十八回 「無常と自殺」

今年はあまりイイ年ではなかった。仕事は相変わらずだったし(まあそれは仕方がない)、知り合いの不幸もあった。一番よくなかったのは釣りだ(釣果)。
特に、夏が終り、いよいよという時期にさっぱりだった。今日(十一月二十九日)で釣り納めとしよう。釣り納めの時は釣れなくてもいい。最後に魚にエサを与えて今日は早めに帰るとしよう。

ところが、釣れたのである。大きさ(七〇cm)もさる事ながら、産卵期で丸々肥った立派なススキだった。同時に五〇センチのカレイが二匹釣れた。
釣れない時は、ああでもない、こうでもない、一生このまま釣れないのではと思ったものだ。なのに、実際どうって事はない、釣れる時は釣れるのである。人の(私の)人生と同じで悪い事もあれば、いい事もある――無常。
さて、これだけの文章で終れば、私の単なる釣り自慢で、勝井君から「しょうもない事を書くな」と言われそうなので、いつもの様に大風呂敷を広げてみたい。

無常(常にアラズ)、地球上にあるものすべては、この原理原則に立っている。私は宗教を信じていないから、「無常だからむなしい、はかない」とは思わないし、又、学者でもないから、この言葉の意味を深く考える気もない。ただ、この無常の中で人類はずっと行き続けて、それ故に(無常なるが故に)、現世の人(私)も、時には喜び、時には悲しみながらやはり生きてきた(今も生きている)。

この事を、人(私)は、子供の頃から経験したはずである。簡単に言えば、世の中いい事ばかりでもないし、悪い事ばかりでもない。大切なのは、その事を自分自身で実感してきたかどうかである。無常とは、頭で考えるものでなく、感ずるもの(無常感)である。
無常(常ナラズ)、周囲のあらゆるものは変化する。又、そこで生きている個人も当然変っていく。さらにそこから生まれる価値観も無常であるはず(いろんな価値観が存在する)。

「人の命は大切なもの」と自殺がある度にエラソウな人が言うけれど、自殺する人はそんな言葉を知らない訳はない。自分の将来に夢(いい事)を期待できない。このまま(悪い事)がずっと続くという観念からだと思う。自分も変われない。周囲も変わらない。そんな事はあり得ない。今の価値観に合わない自分を否定する事はない。人生は一本道ではない。右へ逸れる道も、左へ逸れる脇道もある。子供の頃から、何となくでいいから「今は脇道の方へ逸れたりできないけれど、そこに行ったらいい事がありそうだ」ぐらいに思うことができれば、死に急ぐ事もないように思う。今現在が最高と思っている成功者にとっては“無常”という言葉は恐いと思うが、最悪と思っている人には決して悪い言葉とは思われない。

人間は他の動物と同じく、何とかして生きようと進化してきた動物で、自殺しないようになっているはずである。
自分という存在は、地球誕生以来一度も絶えた事のない(絶えていたら今の自分はない――途方もなく長く続く)貴重な存在であると私は思っている(その割には大した事はないけど)。たやすく死んで(絶えて)はご先祖様に申し訳ない。

「たかがススキ一匹釣っただけで、よくもまあエラソウな事が言えるな」と言われそうだが、どうせまた釣れなくなったら、また「私ほど不幸な人間はいない」と思うかもしれない。そして更に「何でこんなエラソウな文章を書いたのか」と後悔するかもしれない。そうならない内に、すぐ原稿を勝井君の所へ持って行こう。それにしても、ススキの引きは強烈だった。


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